第19話 飲み込みの良い妻

「一樹、食べないの?」


 生ハムをバゲットスライスに乗せながら綾乃は一樹の目を覗き込む。


 テーブルに並んで座るのは一樹夫妻ではなく、綾乃と亮介だ。下座に一人座る一樹が、訪ねてきた友人カップルをゲストに迎えているような配置。ビールというよりはワインに合うような前菜がいろいろテーブルに並んでいて、特に食が進んでいるのは綾乃だった。


「うん、腹は減っているはずなんだけど……どうも、ね」


 憔悴しょうすいというほどではないが、くたびれた様子の一樹であった。


「さて、ボスの指示を忠実にミッションコンプリートした俺に労いねぎらいの言葉は?」


 大袈裟におどけて亮介が言う。


「……よく……やってくれた」


 グダグダな口調の一樹に残り二人が吹き出す。


「一樹ちゃん、だいじょうぶ? もしかして、楽しくなかった……とか?」

 

 綾乃が眉毛をハの字にしながら声をかける。1歳差とはいえ年下の一樹がいじけ気味だったり、元気が無い時はちゃん付けしてしまうのは綾乃の癖だ。


「いや……楽しかったっていうか――ていうか」


「ていうか?」


 亮介と綾乃は、顔だけ乗り出して一樹に相槌を打つ。


「死ぬほど興奮した――」


 無言で何度も、深く頷く亮介。鼻から大きく息を吸い込む綾乃。トイレに向い席を立った一樹を見送ったあと、目を合わせる二人。



 ◆



 一樹は洗面所のドアを閉めてダイニングの方を見やると、綾乃が亮介に膝枕してもらっているのが見えた。――膝枕ではなかった。


 唖然あぜんとしたのも束の間つかのま、綾乃の口元がよく見える位置まで一樹は歩み寄り、跪いたひざまずいた


「綾乃……うそだろ……」


 綾乃の真っ赤な顔はアルコールのせいなのか、あるいは興奮しているからなのか。そんなことはどうでもいいとでも言うかのように、一樹と目を合わせてきた綾乃。泣いているのか微笑んでいるのかどちらともつかないその表情は、一樹に今日最後の止めとどめを刺したのだった。



 綾乃、キレイだよ――。



「あ……綾乃さん、俺……」


「え? え? え、うそ? ちょっと待って、マジで?」


一樹は慌てふためく。その刹那せつな――。


 

 綾乃はスローモーションのようにまぶたを上げて一樹を真っ直ぐに見る。

 だんだんと頬を緩めながら聖母のような笑みを浮かべたのち、喉を鳴らすのだった。

 へたり込む一樹に綾乃が言う。


「あたし、お風呂入ってくるね」

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