第8話 詫びイチャイチャ
次の日の朝。
朝起きた時、謝ろうとシンプルにそう思った。
よく考えたら、上田は突然男になって、男性ホルモンに翻弄されているのだ。
その上、生きているうえで男の我慢なども学んでこなかったのだから長い目で見るべきだった。
反省しながらリビングに行ったが、予想外に上田はいつもと変わらない様子だった。
なんなら出社の準備中にアイメイクまでやってくれる。
だけど、やっぱりいつもより落ちついていた。
謝るタイミングを逃して、ついには駅に向かう道を歩いている時まで何も言えなかった。
「昨日のさ。なんかキツイ感じになってごめん。こっちもホルモンバランス変わってるみたいだ」
意を決して謝る。
「いや。ユーキが怒ってくれたから、目が覚めた。だから気にしないでいいよ~」
困った顔をして笑う上田に罪悪感を覚える。
性欲は高いのに自慰行為はしにくい状況だし、新しい仕事も覚えなければならず、ストレスマッハだろう。
(あ、そうだ)
「ハグするとストレス軽減すると聞いたが、試してみる?」
「?!」
よく考えたら、上田は女の頃に肉体接触を良くしていた人間だし、寂しいのかもしれない。
ハグなんて挨拶でもすることだ。ここは自分でよければ一役かおう。
上田も自分の体なのに好意的だし、キモがられはしないだろう。
「い、いいの……?」
「? 別に自分で良ければ」
上田は顔を赤くして、無意味に色んな場所を見ると、こちらを見る。
「遅刻するから、電車の中でもいい??」
「? まぁ、場所はどこでもいいけど」
浮足立ちながら歩いていく後ろを、そんなに喜ぶことか? と思いながらついて歩いていく。
その行動の意味に気付いて後悔したのは、20分後のことだった。
満員電車、手で顔の空間は死守していたが、電車に乗ってから10分間、ずっと抱きつかれていた。
心臓の音が聞こえてもおかしくない距離感で目の前にある熱い身体に、こちらもおかしくなりそうだった。
これは、ハグではない気がする。
次の駅で乗り換えだが、人に見られたらどうするんだ。
「そろそろ放してほしいんだけど」
熱くなる息を抑えて抗議する。
ハグというものは、安心感とか愛情とかそういう話に聞いていたホルモンを感じるというよりドキドキする。
汗もでてくるし、力も強いし、もぞもぞした気持ちになって逃げたくなっていた。
女ってやだ! 力が弱いから変な気持ちになる! と腹が立って身をよじった。
「熱いって。化粧がつくし!」
「あ、ごめん」
やっと我に返ったのか、少しだけ体の間にスペースができて正直ホッとした。
上田はただただ真っ赤な顔のまま、必要以上に何も話さない。
こっちはというと、抱きつかれていただけのはずなのに、異常に疲れていた。
(あっつ。心臓もなんか早いし、くらくらする。体に悪そうだ)
電車が乗り換えの駅に到着し、名残惜しがる上田に怒って別れる。
一緒に出社したと思われてもだるい。少し時差が必要だった。
駅にある自販機で水を買い息をつく。
(マジで本当に疲れた。顔が熱いし、言うんじゃなかった)
上田は嬉しそうだったが、こっちはそれどころじゃない。
挨拶であんなに抱きつく奴はいない。あれはハグじゃない。
腹を立てながら自販機で水を買うと、その場でへたりこむ。
通路だったが、人が多いので一人ぐらい腰を下ろしていても大丈夫だろ。
本当に喉がカラカラだったから、水がちょうど良かった。
「あれ? ユーキ?」
聞きなれた声に顔をあげる。
目の前に先輩がいた。
「どうしたんですか? そんな真っ赤な顔をして」
「え、ああ、大したことじゃないんですよ。大丈夫す」
なんとなく言いにくくて、言葉を濁す。
「そんなことより、昨日は場を乱してしまってすみませんでした。こっちも女性ホルモンで変わってるかもです」
「謝ることでもないですけど」
僕の言葉に、本当に無問題という顔をして先輩はハンカチをこちらに渡す。
「ありがたいんですけど、顔に化粧してるんで……」
「別に会社に二枚あるんで気にしないでください」
できる男はハンカチのストックが会社にあるのか。
ありがたく受け取って、軽く首元の汗を拭く。
汗のべショッとした感触が濡れすぎたハンカチ越しに分かって、正直自分で引いた。
「そんなことより上田さんがなにかしましたか?」
的確に当ててきた言葉に、ハッと顔をあげる。
(あ、やべ。あまりに分かりやすく反応しちゃった)
思った時にはもう遅く、先輩の目が座っていた。
これは、なんか、ケンカしたとか、痴漢したとか勘違いしている。
いや、痴漢みたいなモンな気がするけど。自分からハグって言ったわけだし。
「いや、違うんです。ストレスが高いんだと思ったので、ハグを提案したんですよ」
焦りながら説明をする。
でも、我ながらそれだけじゃ汗だくにはならないと思った。
「そしたら10分くらいハグされたってだけで。はは」
観念して話すと、先輩は固まる。
「10分? それはハグではないのでは?!」
「ですよね……なんか疲れました」
信じられないという感じの先輩の言葉に笑いながら立ち上がる。
早くしないと遅刻してしまう。
「なんか、大丈夫かな。この恰好」
乗り換えの駅ホームにまで歩いたが、改めて汗だくなことに気付いて苦笑する。
化粧くらい直したほうがいい気がする。汗まみれで会社に行くにはちょっと恥ずかしい感じだ。
「いや、少しなら遅刻してもいいですよ。言っておきますから」
先輩はそう言いながら、駅ホームに設置された椅子に案内してくれる。
通勤時間なので、椅子に座る人も少なく、ちらほら席が空いていた。
「すみません。昨日先輩にも迷惑かけたのに、今日もだなんて」
「ああ、じゃあ私にもハグしてください」
「え? ああ、まぁ10分とかじゃなければ」
フリーハグという言葉があるくらいだ。上田が変なだけで、普通はこうはならない。
一人したのに、それ以上の時間仲良くしてる人にしないのはおかしいだろう。
「ユーキ君は、もっと物事を深く考えた方がいいと思いますよ」
「どういう意味ですか」
「世の中は、悪い人間もいるということです」
先輩に前髪を掻きあげられる。
なんだろうと思っていると、端正な顔が近づいて、おでこにキスをした。
(???!!!)
意味がわからないが、驚いて体勢が崩れる。
おでこから口を離してこちらを間近で見る先輩の表情は、恥ずかしそうに赤らんでいた。
「ユーキ君に負担はかけたくないし、あまり他人と同じことはしたくないので、今はこれだけ」
「え、あのっ、これって、どういう」
汗が噴き出る。ハグはしていいとは言ったが、これはハグじゃない。
これは、ストレス軽減になるのか? ならない気がするというか、なんだこれは。
「めちゃくちゃ顔が赤いですよ? こういうことは初めてですか」
「はじめてに決まってるじゃないですか」
「親が子供にすることもあるので、大したことじゃないですよ」
でも、先輩は親じゃないじゃないか。
混乱している上に顔が近すぎて言えなかったが、頭の中で抗議する。
「ユーキ君には言ってなかったんですけど、私、もう不特定多数と関係を持つのは卒業したんです」
耳元で囁くと、得意げな顔して先輩は少しだけ離れる。
顔が赤く見えるのは気のせいではないだろう。
「じゃあ、遅刻するので行きますね」
軽く手を上げると、先輩は軽やかに去っていく。
「な、なんなんだ……」
悪い大人ってことなんだろうか。
朝から色々おきすぎて、汗がとんでもない。
身体が熱すぎてパンツまでべしゃべしゃな気がしていた。
先輩が自分を好きな気がする。
確定じゃないが、そうじゃないとこんなことはしない気がする。
上田は一過性の病みたいなもんだと思っていたが、先輩はそうじゃないだろう。
(体が女になったから、先輩が自分に惚れたってことか?)
大変なことになってしまった。
身体は元に戻っても問題ないけど、元に戻ったとして、ちゃんと今まで通り接していけるのか?
問題は、そんなに嫌悪感もないってあたりでもあり。
(これも女性ホルモンのなせる業か?)
人生一年生どころか、人生赤ちゃん状態だ。
分からないけれど、分からないなりに生きていくしかない。
力が抜けてしまった火照った体を冷ますために水を飲む。
数分後、なんとか持ちなおして、仕事に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます