第5話 その細い手は、弱者などではなく。
朝起きた時の先輩の様子は本当に酷かった。
ほとんど眠れなかったらしく、ヨロヨロしながら出社していった。
僕たちはといえば、出社もできないので上田の家に向かっていた。
お金がなくてキャバをやっていた子に今すぐ一人暮らしをしろなんて言えない。
そのため、一緒の家に住むということになり、同棲という形で親御さんに報告することにした。
「本当にユーキの家に住んでいいの?」
「だってさすがに上田の実家に住めないし。金もなくて荷物もとってこないといけないなら、そうするのが一番楽だ」
電車に揺られながら二人で話す。
「お母さんあんまり具合よくないから、あんまり心配させたくないし、助かるよ」
会社と違って、親に正直に話しても愛情のぶんだけ心配させるだけだろう。
できるか分からないが、全力で上田の真似をするしかない。
「夜の仕事はどうするの?」
「もうやめる。弟の学校の費用も一応たまったし、金額も安かったから」
「そっか」
「もうお店に連絡も入れたし、お客に連絡もしなくていいからやることがないよ」
へへと笑う上田に、口だけ微笑んで見せる。
上田の家は都内から少し離れた埼玉県にあった。
老人が敷地内を手入れをしている、寂れた古い団地。
迎え入れてくれた女性は、四十半ばにしては生気のない顔をしていた。
ゆったりした服をきているので気づきにくいが、身体は不自然に細い。
(……これは)
「いらっしゃい! 愛夏が彼氏を連れてくるなんて」
リビングに通されると、盆にのせた麦茶をテーブルに置かれる。
ふざけて柔らかに笑う顔は、元気そうにも見えた。
「初めまして。竹田祐樹です。愛夏さんには良くしていただいてます」
僕のふりをした上田は、手土産に母親の好物だというかりんとう饅頭を渡す。
「あら、私ここのお店大好きよ。ありがとう。座って」
にこやかな声に、二人で席に着く。
目の前にあるテーブルは、簡素で足を曲げて収納するようなもので、鉄製の足は少し錆付いていた。
こじんまりとした家に、不健康そうだが明るい母親。
ここは絶対、安心させないとならないだろうと思う。
「お母さん。私ね」
心臓を落ち着かせるように深呼吸する。
「今日から祐樹くんと結婚を前提に同棲することになった!」
「~ッ??!!」
僕のフリした上田が驚いて固まる。
驚くな。仕方ないだろ。安心させるためだ。
「き、今日から? 急ね……」
「こういうのは早い方がいいでしょ? 今日は当面の荷物をとりにきたの」
驚く母親に明るく言う。上田はこのくらい明るいから合ってるだろ。
「竹田さんは、本当にいいの? 愛夏ちょっと間が抜けてるけど」
「そんなことないです! 愛夏さん、弟さんの大学の費用も稼いだらしくて、ちゃんとしてますよ。今日は愛夏さんが転職するというので、区切りということで一緒に住もうかって」
上田は自分が考えたらしい言い訳も一緒に伝える。
いいぞ。うまくいきそうだ。
「そう、転職するの。今まで弟のぶんまで苦労かけてごめんなさい」
上田が小さく首を横に振る。
それを慌てて制止した。
「そんなこと、ない」
本人のかわりに答える。
「愛夏、本当にありがとう」
母親の言葉に、上田は少し下をむいて満足そうに笑った。
本当にこの子は感謝ひとつでここまでしてしまう子なんだと思う。
人から見たら愚かにも見えるだろう。だけど、本当にただただ優しいのだ。
「で、二人の出会いはどこなの?」
「駅の階段で落ちた時にぶつかってね……」
とりあえず話を合わせながら談笑する。
話しているうちに、何が正しいのかわからなくなってきた。
上手く笑えてるか、うまく嘘がつけているか。
母親を見ていると、気になることがいくつも浮上してくる。
そしてそれは、無視できないほど大きくなっていった。
「お母さんごめんね。そろそろ荷物まとめさせて!」
「ああ、そうね。ごめんなさい。楽しくなっちゃって」
明るく言うと、同じように母親は明るく返してくれる。
抱いた罪悪感も仕方ないと胸の奥に押し込んだ。
「祐樹君。私の部屋にいこう!」
「うん。そうだね」
軽く手を引くと、上田は分からないように部屋に誘導してくれる。
部屋に着くと、上田を部屋に押し入れた。
「ここで荷物の整理してて。ちょっとトイレに行きたいから」
「ああ、左のつきあたりだよ」
何も疑わない上田を部屋に置いて、母親の元に走る。
すべて何も言わないことが優しさであるなら、言わないでおきたかった。
だけど、自分の脳が、心が、それは優しさではないと言っていた。
先程いたリビングに、母親はいた。
「あれ。どうしたの?」
どう言葉を紡げばいいのか分からず、隣に立つ。
どうすればいい。どうしたら、上手くいく?
話していて気付いた違和感。
体力がないのに隠すために動く時。動作や力の入れ方が違う。
普通の人間は気付かない。
知らない人間は、小さなサインをいくつも見落とす。
仕方がないことだ。だって知らないのだから。
だけど、僕は知っているから気づいた。
「お母さん。もう大丈夫だよ。だから、入院しよう」
考えて発した言葉は、シンプルだった。
「何度も話したけど、別にそういう病気じゃないよ」
「嘘だよ。私、知ってるんだよ。見たの」
「見たって」
自分は何も見てない。何も知らない。ただ鎌をかけてるだけだ。
だけどこの年齢で、これだけ痩せるのは病気の中でも限りがある。
「癌なんでしょう?」
僕の言葉に、母親は目を見開く。
間違っていたら否定してほしい、と心の中で願っていた。
「弟と私を大学に行かせたいから無理した。でも、倒れて」
そこまで話して言葉を切る。
はっきり口に出すことが、どうしてもできなかった。
「……お母さん、私が、あの仕事してたって知ってたよね」
濁して出た言葉で伝わったかは分からない。
母親は、自身の境遇から子供たちを大学に行かせたかった。
今は生活保護をもらっていても、世帯分離で大学にはいける。
でも上田の時には生活保護をもらいながら子供を大学に行かせられなかったのだ。
上田は学費と入院費が足りなくて風俗で働いていたと言っていた。
奨学金をもらっていても、弟の学費もあれば、生活費もある。そこに入院費もくれば費用は嵩む。
それを払える金額と、娘の様子で、母親は気付いてしまったのだろう。
だから、また入院しないよう、具合が悪くても我慢していたのだ。
「知らないで手遅れになるほど悪化するほうが……辛いよ」
はっきり言いきれないのは、自分が上田ではないから。
自分はこの人の子供ではない。だから想像することしかできない。
でもたぶん、上田であればそう思うだろう。
母親は、自分を見つめて、目をそらす。
「なんだか、愛夏が違う人間みたい」
ぽつりと落とした母親の言葉にドキリとした。
やはり、母親にはわかるのだろうか。
それより、病気が悪化しているのなら、心配云々の前に死が近い状態だ。
本当のことを知らないほうが後悔が残るかもしれない。
なにが正しいのかなんて分からない。正解なんて人の数ほどある。
(だけど、話してみないことには、なにも分からないじゃないか)
手をグッと握りしめる。
言うしかないと思った。
「本当は、祐樹君が愛夏だといったら、どう思います?」
口調を元に戻して、問いかけてみる。
母親は少しだけ困った顔をしてこちらを見た。
「そんな映画みたいな、バカな話……」
話しながら少しだけ考えるように、視線を外し床を見つめる。
「でも、そうね。そのほうがしっくりくるわ」
再度こちらを見た瞳は、何かを察しているようだった。
「愛夏って、本当に裏表がないのよ。賢くないっていうか」
話ながら、母親はジッと僕の顔を見る。
なにか言えるはずもなく、黙るしかない。
自分を見つめる母親の目が、徐々に見開かれていった。
「あ、ああ」
細く折れそうな手を口に当て、母親は小さく震える。
「そう。本当にそうなのね」
どの段階で確信したのかは分からないが、母親はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫ですか?」
「愛夏はね、自分を馬鹿にされていると思うと、自分が役に立つと主張するクセがあるの」
話しながら震えて握られる細い手を、ただ見つめる。
「さっき、愛夏が間が抜けていると言った時に祐樹君がフォローしたのは、そういうことだったの」
言われて思い返した。
昨日、さんざん僕を手伝うと言っていた奇妙な上田の行動。
あれは、性欲などではなく彼女なりの立ち回りのクセ。
役に立ちたいという思考の現れだったのではないだろうか。
細い手がすがるように自分の肩を掴む。
「ねぇ、あなたが祐樹君だというのなら、お願いがあるの」
絞り出すような声は、悲痛だった。
目は涙が浮かんでいる。
「私の病気のことは愛夏には言わないで。もう手遅れだから」
「……でも」
言わなければ言われなかった方は傷つく。
だけど、正しいと思うことが、なにも分からなくなっていた。
「あの子はもう十分に頑張ってくれた。もう頑張らなくていいの」
「別にお金がないから入院しないわけじゃない。でも、入院したらいくら鈍いあの子でも、できるかぎりお見舞いに来てしまう」
細い手が、肩からずるりと滑り降りる。
反射的に伸ばした手で母親の肩を支えるように掴むと、驚くほど骨ばっていることに気付いた。
「あの子の青春をこれ以上、食いつぶしたくない。介護なんかに費やしてほしくもない」
「私が、私のために、あの子たちの重荷になりたくないの」
母親の目に揺るがない意思を感じる。
本当は甘えても泣いてもいい状況なのに、彼女はそれを放棄した。
(ああ、この人が痩せた身体でも生活できているのは、覚悟なんだ。)
それなら、もう答えは決まっているじゃないか。
「分かりました。愛夏には話しません」
自分に言えるのは、それくらいしかなかった。
秘密を抱えるのはいい。相手の決意に比べたら軽いものだ。
「ありがとう、祐樹君」
流れた涙をティッシュで拭くと、母親は少しだけ笑う。
そして立ち上がると、上田の部屋に続く廊下に歩いて行った。
「愛夏~! 来なさい!! もう入れ替わったってバレてるわよ」
母親が大声で叫ぶ。
その声は明るくて元気に聞こえて、胸が熱くなってしまった。
「待って、なんでバレてるの?」
慌てて出てきた上田は、もうオネエみたいな話し方だった。
本当に裏表がない。
「愛夏、祐樹君っていい子ね」
「そうなんだよ! 私好きだよ!」
本当になにも考えていない言葉に思わず笑ってしまう。
今日、愛夏が出ていくことは、母親にとっても良いことだったのだろう。
胸中にある切なさを見ないことにして、胸の奥に押し込む。
未来がどうなるかは分からない。
自分が黙っていたことで上田が悲しむことになるかもしれない。
けれど母親の決意と行動を無駄にはしたくないと心から思った。
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