第3話 無防備なご馳走は食い荒らされる。
駅近くの広めの居酒屋は、ガヤガヤとしていた。
よくあるドアのない半個室だが、賑やかで誰も人の話を気にもしない。
四人掛けの席に、奥に先輩が一人、向かいに二人で座る。
頼んだ料理が届くまでに、先輩に起こったことと話しあったことを簡単に伝えた。
「なるほど。そういうことですね」
先輩は険しい顔をしたまま、来た日本酒に手も付けずに考えている。
上田と自分は体の影響がどうなるかわからないのでソフトドリンクを頼んでおり、料理を食べているのは自分だけだった。
(みんな腹減ってないのかな)
成人男性が食べないのは良くない。肉を食べたほうがいい。
なんこつのから揚げを食べながら考える。
「そうだ。上田さんはどうして泣いていたんですか?」
先輩の問いに、上田は、ウーロン茶を両手で持ったまま、言いにくそうに口を真一文字にした。
確かに気になるが、言いにくいことなのかもしれない。
「……ました」
聞こえないほど、小さな声。
「ごめん、聞こえなかった」
改めて僕の方から聞いてみると、上田は目に涙を浮かべてこちらを見た。
「彼氏に浮気されてたのがわかったんです」
ええ? この体って彼氏ありなの?
事実より、自分が入っている体の現状に驚いてしまう。
今の自分の体を見ながら考えるが、山田は辛そうな顔をしているので言えなかった。
「風俗で働いたことがある女なんて信用できない。托卵されそうだし。付き合うのはいいけど、愛夏と結婚は無理……って」
ええ? この体って風俗経験もありなの?
言われた言葉より、そっちにも驚いてしまう。
托卵は、結婚してるのに他の男の子供を妊娠して、それをだまして育てるって奴だけど、上田はそんなことしなさそうな気がする。
「うちお金がなくて! 親の入院費払えないし、弟もいるからお金が必要で……短期間だけ、嫌だったけど」
ボロボロと顔を隠しながら顔を隠して泣き始める。
上田の親はシングルマザーだと言っていた。親が病気ならそういうこともあるんだろうな。
気の毒に思えて、何も言えなくなってしまった。
姿は自分なので、少しだけ複雑な気持ちになってしまうが、他人の人生に言えることはなにもない。
「でも、浮気なんて一度もしたことないです。今の彼はお客で来たんですけど……風俗店で働く私を助けたいと言ってくれて。キャバクラのような戦場では、私のような弱気な性格では合わないと言ったら、私にも合う穏やかな職場を探してきてくれたんです」
「全部理解してくれてると思ってました。やっと幸せになれるって」
「でも、全部うそでした。忘れ物をして彼氏の家に戻ったら、電話の声が聞こえたんです。相手は私の友達で口説いてるみたいでした」
「わからないんです。数分前に愛を語ったその口で、どうして私を蔑むことができるのか。どうして信用できない女に食事を作らせ、泊まらせてセックスできるのか。子供ができても、飽きたおもちゃのように捨てればいいと思っているのか」
「だから、よくわかんなくなって、でも仕事に行かなきゃって思って走ってたら……階段から落ちました」
ちゃんと話したいのか、涙声にならないように所々言葉を切りながら上田は話す。
そのような人生経験があまりない自分は、どう慰めていいのか分からなかった。
よくある話だ。すべて自己責任。そんな相手だと気づかない方が悪いのだと言うのは簡単だ。
だけどそんな人間ほど自分が同じ目に遭うと、同じように被害を叫ぶことがよくある。
結局、赤の他人だからそう思うのだ。当人ならそんなことはけして言えない。
個人の傷は他人にはわからないのに、訳知り顔でなにが言えるだろうか。
「底辺の男だと、手遅れになる前に気付いてよかったじゃないですか」
ぽつりと先輩がつぶやく。
「上田さん。心を尽くせば、相手も返してくれる。漫画みたいに心から愛されたいと思っていませんか? 」
「え、あ……だめなんですか?」
「ダメではありませんが、あなたの見た目と性格で、それは難しいですよ」
「いいですか。祐樹くん……いや、ユーキ君か……もちゃんと覚えておいてくださいね」
突然名前を呼ばれて、背筋を正す。
「自分に寄って来る者は、自分に何を求めているかを吟味してください。愛の定義は人それぞれです。それと大体、最初は自分のことしか考えていません」
「上田さんと性行為がしたいとします。で、上田さんが性行為は付き合ってないとしないと言うのなら、相手は付き合います。付き合えば性行為ができる切符が手に入りますし、別にすぐに別れても損失はありませんから。上田さんは性行為=結婚に続くと思っているかもしれませんが、そんな男はあまりいないことをご理解ください」
(ええ、そんなことはないと思うけどなぁ。)
「でも、子どもができるかもしれないのに」
「わかりますよ。この状態でひとりで子どもを抱えたら、あなたのお母さんと同じ状態になるのに、ということですよね」
図星をさされたのか、眉をひそめて上田は顎を引いた。
「関係がないんですよ。自分に降りかかる問題ではないので。失敗したらおろせばいいと思っている男性もたくさんいます」
「それに女性だってそうでしょう。金が目的だったらそうなりますし、愛が目的でも無限に我儘になったり自分のことしか考えていない、加害をしても被害者ぶった人もたくさんいます」
「先輩。上田は今日辛い目に遭ったんだから、もういいじゃないですか」
本人だって色々思うところがあるだろうに、当日に言うことでもないと思い、口をはさむ。
悪い奴もいるだろうけど、被害者には落ち着いた頃に言うのが優しさだとも思った。
「それに、世の中の半分はそんなに利己的な人じゃないと思いますよ」
「……ああ、そうですね」
先輩は僕の方を見ながら、小さく息をついた。
「では上田さん。とりあえず性行為はお付き合いしてから数か月後になりますとか言っておけばいいんじゃないですか? その間に、相手が自分の欲を満たせなくても自分と一緒にいたいから会うのか吟味してもらって。でも上田さんは色々気付かなそうなので、第三者に聞いてください。ユーキ君は無駄ですけど」
「なんでだよ」
なんで突然僕の名前を出す。
突然意味もなく馬鹿にされた気がして、少しだけ睨む。
「ユーキ君は無意識にいろいろ判別してるし、童貞なので役に立ちません。今は女の子ですし」
「童貞、なんですか」
先輩の言葉に、上田がハッとして己の体を見る。
やめろ。そんな目で見るな。
「え、なんでとつぜん辱められてんの?」
「上田さん。その体、大事にしてくださいね」
「はい! お任せください」
「大事にされないのも嫌だけど、その言葉もなんか嫌だなぁ」
「ユーキ君は大学の頃から、こんなふうに愛とかどうでもいいとポヤポヤ生きてるんですよ。心配で会社に呼びました」
「なるほど」
なるほどじゃないが。と思いつつ鉄板料理を食べる。
ずっと話していたから冷めてしまった。
少しため息をつきながら上田を見ると、もう泣いてはいなかった。
(バカにされた気もするけど、まぁでも、良しとするか。)
結局のところ、場が丸く収まれば大した問題ではないのだ。
先輩が説教おじさんと思われていなければいいなと思いながら、僕はからあげを食べた。
「あ、そういえば、こんなものがポケットの中にあったからお返しします」
軽く食事をして落ち着いたあたりで。上田がズボンのポケットから小さな紙の塊のようなものを取り出した。
表面に人型と文字が描かれているそれは、500円が入るような大きさと厚さの小さな六角形の紙。
「サンダルを買う時に、これがポケットに入ってることに気づいたの」
「ポケット? 知らないんだけど。ズボンはクリーニングしたヤツだから、何も入ってないはずだけどな」
もしかしてクリーニング屋でそういうサービスでもしているんだろうか。
「私に見せてください」
手を差し出す先輩に、上田が紙を渡す。
ひっくり返して裏を見ると、裏は糊付けされていて開かないようになっていた。
「お守りみたいですね」
「お守りだったら今こんなことにはなってない気がする」
お守りというよりは呪い。
上田は階段から落ちたせいでこんなことになっていると思っているが、これが関係している気もする。
それなら、この事態は自分のせいなのかもしれない。
「私は今の方がスッキリしてるよ」
上田が嬉しそうなので、何も言えなくなってしまった。
「これ、開けて中を見たらまずいでしょうか」
「それがこの事象の原因だったら、開けたらもっとやばいことにならない?」
封印されてるものは開かないほうがいい。これはホラーの常套句だ。
「でも家に置いといても危なそうな気がする」
上田の言葉に、うーん……と三人で考える。
先輩がスマホで小さな紙の写真を撮る。
「駅のコインロッカーに入れておきましょうか」
先輩の言葉に、ハッと自分の駅にあるコインロッカーを思い出す。
そこなら毎日出し入れできるし、適度に距離をおけるだろう。
「うちの最寄り駅に100円のところあるし丁度いい! 先輩ってやっぱかしこいすね!」
「いや、そんなこともないです」
グイっと近寄ると、先輩は少し照れたのか日本酒を飲む。
上田も食事をしていて、ウーロン茶もなくなっていた。
自分はというと、上田が好きだという桃のジュースを飲んでいる。
この体は甘党だなと思った。
夜8時。
そろそろ帰ろうかなと言う頃、あることを思い出した。
「あ、そうだ。今日上田を家に泊まらせるんで、先輩も来てくださいよ」
「え?!」
めちゃくちゃでかい声出して、先輩がこちらを見る。
「……声でか。なに?」
あまりに大きかったので、ビックリしてしまった。
「いやだって、男女が二人で泊まったら何も起きないはずはなく……いきます。いきますよ」
「男女って。僕ら元の体逆ですから、相手自分すよ。どうもなりませんよ」
何か別の心配をしている。
まぁ夕方ちょっと上田がおかしかったが、それは黙っておこう。
「具体的に話すと、もしかしたら今日元に戻るかもしれないじゃないですか。でも、魂が入れ替わるとしたら、元に戻る段階で体がどうなるか分からないですよね。だから先輩に様子見してもらおうかなって」
「どうなるか分からないって、死ぬかもしれないってことですか?」
「そこまでは……なにも体に異常はないので。でも一応、意識ってことは脳が関係してるかもしれないんで、救急車とか呼ぶために当事者以外がいたほうがいいかなって。先輩って眠り浅いって言ってたし」
「ああ、それもそうですね。共倒れになって誰もいないんじゃ手遅れになりそうですから」
そこまで言って、先輩は下を向いて押し黙る。
そして、少しだけ思案した後、目だけをこちらに向けた。
「条件がふたつあります」
「え?」
「一つ目はユーキ君の家には三人寝られる布団がありませんから、ホテルにしましょう」
確かにうちにはシングルベッドがひとつしかない。
床でいいかなと思ってたけど、やっぱりだめか。
「分かりました」
「二つ目は、ユーキ君は私と添い寝をしてください。これで異変があればすぐに起きられます」
添い寝?
添い寝って、あの赤ちゃんの横にお母さんが寝るようなやつ?
「……なんで」
「もし二人が亡くなったら、私は警察に連れていかれるかもしれないんですよ。添い寝なら気付きます」
なるほど。それは一理ある。
それに手伝ってくれた先輩が警察に連れていかれたら可哀想だ。
「ずるいです! 私も添い寝したい」
今まで黙ってた上田が、いきなり割り込んできた。
お前は自分と添い寝をしたいのか。それともまた性欲の話か?
あ、それとも。
「先輩。上田が一緒に寝たがってるので、僕の体でよかったら上田と添い寝してやってください」
僕の言葉に二人は目を丸くする。
当事者は二人。僕か上田のどっちかってことだ。
やはり女性はイケメンと添い寝したいってことだと察した。
(世の中はそうやってできてるんだ。僕は知っている。)
後ろで二人が何かを言っていたが、突然トイレに行きたくなったので、慌ててトイレに向かう。
この体は尿意が近い気がする。
大変なことになったな、と改めて思った。
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