第九章


 ザックの後ろを歩き、大通りを離れて路地裏の深くへと歩いて行く。初めてザックに会った日を思い出したが、あの日とは別の不安があった。

 やがてあの家へ辿り着く。特に感慨は無かったが、何度も目にした外観に自然と歩調は緩慢になった。ザックが扉を開け、ナナを招くように振り返った。

家に入ろうとしないナナをザックが見る。ここまでついて来たものの、本当に良いのだろうかと未だ悩んでしまっていた。

「どうした?」

痺れを切らしたようにザックが言って、ナナは反射的に家に入った。この家を見ているとザックとの日々が思い出され、逆らってはならないと自然に思ってしまった。

 ナナが入るとその背後で扉が閉められ、鍵も閉まる。家の内装も前と殆ど変わっていなかった。ただ床が少し汚れており、ナナが居た頃よりも掃除は行き届いていないように感じた。

 窓に打ち付けられた木の板を見る。この家以外では見ないそれが、帰って来たのだとナナに強く思わせた。

「じゃあ、とりあえず掃除を頼む。俺は上に居る」

 そう言うとザックは二階へ上がっていき、ナナも前と同じように掃除を始めた。

 桶に水を溜め、雑巾で床を端から拭いていく。前と同じように掃除していたが、やはり前よりも汚れが酷かった。前に居た頃はナナが殆ど毎日床を拭いていたが、今はそうでは無いようだった。

 やがて一階の床を拭き終わり、階段を拭いてから二階の床を拭いていく。そこも拭き終わり一階の床をもう一度拭こうとした所で、ザックが部屋から出て来た。

「なんだ、もう終わってたのか?」

 そう聞かれ、小さく頷いた。ザックは床を見て二、三回床を鳴らした後、ナナに「ありがとな」と声をかけた。

「じゃあ、今はもう頼むことねえからとりあえずそこで座っててくれ」

 ザックが廊下の隅を指さしてそう言った。そこは以前ナナが眠っていた場所だった。ナナが頷きそこに座り込もうとした時、ふと思い出した。自分がこの家に来る前まで纏っていた布。いつも畳んで置いていたし、あの屋敷に盗みに入る前もそうだった筈だった。

 ザックに貰ったものよりもかなり古かったが、路地裏の世界での長い生活の中、ナナが自分のものとして持っていた唯一のものだった。

「どうかしたのか?」

 ナナの様子を見てザックがそう問いかけた。自分から聞くのは少し荷が重かったが、ザックに聞かれてそれにこたえる形になったことで、多少質問がしやすくなった。

「……私が着てた布……ある?」

 ザックの事を見ることが出来ないまま、そう問いかけた。ザックは一瞬何のことを言っているのかわからないようだったが、やがて思い出したように口を開いた。

「ああ……確か掃除した時にどっかに置いといたんだが、何処行っちまったんだろうな……まあまた今度探しとく」

 ザックはそれに続けて「じゃあ、俺は部屋に戻るから」と言って部屋に戻っていった。誤魔化すような反応をしたザックに、疑念は強まった。先程再会した時に言っていた、ナナを心配していたというような言葉。その言葉が本当なら、ナナの持っていたものを簡単に捨てることなどあるのだろうか。本当に何処かに仕舞ったが忘れてしまった可能性や、心配はしていたものの古かったし捨ててしまった可能性もあった。しかしザックがそうだとは何故か思えなかった。そんな疑念はありながらも、ナナはそれ以上何も言わなかった。

家の中の掃除をして、ザックに何かを頼まれればそれを行い、二階の廊下の隅で時間が過ぎるのを待つ。ザックから与えられる一日二度の食事を取り、空腹になる事も無く過ごす。前にザックの元に居た頃と同じ生活。例えザックがナナを助け出す気など無かったとしても、もう戻って来ないだろうとナナの物を既に処分してしまっていても、何も言わないようにした。ただ、失ってもう戻らないと思ったものが戻って来た。それが大切だった。

 しかしそうやって過ごす中でも、やはりナナの中には常に不安が付きまとっていた。屋敷に盗みに入る前の、ザックのあの疎ましく思うような眼差し。発端となった出来事があったわけでも無く、淡々とナナはザックにとって必要が無い物になっていっていた。

 今回もそうなるのではないか。そして、その先に待つものがまた同じなのでは無いか。そんな不安が付いて離れなかった。


「おい、もうすぐ客が来るから片付けて上行ってろ」

 床を拭いていると、階段から降りて来たザックにそう言われて頷いた。言われた通り桶や雑巾を片付け、二階の廊下の隅で座り込んだ。前にもあった事だった。

 しばらくすると扉が開く音がして、客人とザックの会話が聞こえて来る。それを聞こえないようにしながら時間が過ぎるのを待った。

「そういえば、また前みたいに誰か飼ってるっぽいって聞いたんですけど、そうなんですか?」

「ああ……前に居た女をな」

「え、捕まったんじゃなかったんですか?」

「俺もそうだと思ったが……まあ抜け出してきたんじゃねえか」

「へえ……。まあ、大方第四収容所にでも入れられたんでしょうね」

「そうだろうな」

 ふとそんな会話が聞こえ、駄目だと思いつつも思わず聞き耳を立てる。

「もう盗み行かせたんですか?」

「いや」

「え、盗みにも行かせないで置いとくの無駄じゃないですか?」

「どうだろうな……」

 この話題になった途端、ザックが気の無いような返事を繰り返しており、何を思っているのかはわからなかった。

「ま、行けって言ったら行くでしょうし、いつでも良いでしょうけど」

「……そういえば帰って来たんだから賭けの金返せよ」

「え、まさかそれが目的だったですか?」

 その会話はナナの耳を通り抜け、殆ど聞けていなかった。ナナの意識の全ては、その前の会話に向かっていた。

 ザックの明確な意思自体はわからなかったが、客人の男の言葉を聞いてナナの中の恐れが再び現実味を帯びていくように感じられた。ザックと共に時間を過ごすと、盗みを頼む時や盗み終わった時にしか名前を呼ばず、褒めないようになっていった。それはつまりナナの存在意義は盗みを働くことにしかないという事でもあり、今この掃除や家事を手伝っているだけの状況は、何の意味も無いのではと思い始めた。


「ナナ、ちょっと良いか」

 ザックの会話を聞いてから数日。掃除をしていると、名前を呼ばれた。それ自体は喜ばしい事に思えたが、言い様の無い不安がナナを包む。何故自分が不安になっているのかわからなかった。

 ザックの言葉に頷くと、ザックは椅子に座ってナナを見た。

「実は、俺の知り合いがちょっと女手が要るって言っててな」

 それを聞き、自分が不安を抱いている理由がわかった。ナナの名前を呼ぶ際の呼び方が、盗みを頼む時の呼び方だったからだった。

「とりあえず、明日の夜……そこから明後日の朝ぐらいまでか。ちょっと知り合いに手貸してやってくれないか、ナナ?」

 名前を呼びながら、そう頼んで来る。今までなら失望されるのが怖くて受けていたかもしれないが、今はもうその先にあるものを知っている。形は違えど、また同じような目に合う。そんな予感が強く感じられていた。

「……」

 ナナは何も言えないまま、首を小さく横に振った。今のナナに出来る精一杯の抵抗だった。

「……嫌か?」

 ザックがそう言った。それがナナを慮った言葉では無く、ただ自分の願いを推敲させるためだけのものなのはわかっていた。しかし実際に言われると、それに逆らってはいけない気がしてしまう。

 ナナが小さく頷く。逆らってはいけない気はしたが、それ以上にもうあのような場所へ行きたくないという思いが強かった。盗みをしろと言われたわけでも、捕まってしまうかもしれないと決まったわけでも無かったが、ザックのこういった頼みを聞くことは出来ないという思いが強くあった。

「頼む、お前しか頼れないんだよ」

 ザックが立ち上がり、ナナの腕を掴む。牢で拘束されたことを思い出してしまい、思わず抵抗した。そして、ナナの長い前髪が揺れる。

「……ん?」

 その様子を見たザックが、ナナの顔を見ながら怪訝そうな顔をした。予想と違う反応に、ナナは抵抗を緩めてザックを見た。

「おい、ちょっと見せてみろ」

 ザックがナナの前髪をかき上げた。思わず目を瞑る。何か言われると思ったが何も言われず、何の反応も無かった。何かおかしいと思い目を開け、ザックを見た。

「なん……だ、そりゃ……」

 そんな声と共にザックは驚いたような表情でナナの額を見ており、何が起こっているのかわからないナナは何も言えずに様子を伺うことしか出来ない。

「……誰とだ?」

 やがて言われたが、その言葉の意味がわからず、何も答えられない。状況がわからないまま固まっていると、やがてザックがナナの頬を強く打った。ザックから暴力を受けたのは初めてで、ザックはそういった事はしないと思っていたナナは突然殴られた意味がわからず怯えた表情でザックを見つめる。

「なんで黙ってやがった!」

 ザックは激昂し、そうナナに問い詰めた。しかし未だ言っている事の意味がわからず、ただ呆然とすることしか出来ない。今まで向けられたことのない苛烈なまでの敵意が向けられているのが分かった。

 そしてザックはもう一度ナナを殴った。痛みと衝撃で足がふらついた。訳もわからないまま、ただ危険だという事だけが理解できた。やがてザックは怒りを露わにしながらナナの腕を乱雑に離し、家を出て行った。

 何が起こったのかわからず、ザックが出て行った扉を見た。あれほど苛烈に怒りを露わにしている所を初めて見たし、それが自分に向けられていると恐ろしさで何も考えられなくなった。そしてそれは、ナナの額を見た瞬間に襲い来た。

 恐る恐る自分の額に触れた。すると注意深く触れてみなければわからない小さな凹凸のようなものがあり、ザックはこれを見て先程のような反応をしたのだと思った。それが取れるかと、爪でその凹凸を少し引っ掻いた。しかし簡単に取れるような感触では無い。

 今回のザックの対応は、屋敷に盗みに行く前とは比べ物にならなかった。その時はナナを怪訝に見つめるだけだったが、今回は二度も殴られた。牢に食事を持ってきていた衛兵の事を思い出す。

 どうすれば良いのかわからず、床に座り込んだ。ザックに謝罪しようにも、ナナは額のものが何かわかっていない。

 そこでふと、掃除の途中で床に置いたままだった桶を見た。桶の元へ行き、そこに溜まった水の水面に自分の顔を写しだした。そこに写る自分の額には、小さな湿疹のようなものが出来ていた。見ても未だに何かわからず、再びその湿疹に触れた。ザックはこれが何なのかを恐らく知っていたのだろう。

 その湿疹を再び弱く引っ掻いた。これが手で取れてしまうものなら、全て解決したのにと思わざるを得なかった。


 それからしばらくしてザックが帰ってきたが、ナナを見る怒りの籠った視線に何も言う事が出来なかった。視線を逸らすとザックが近寄って来て、再びナナを二、三度殴った。強い痛みと、何故こんなことをするのかという思いに虚しさがあった。

 その日から、ザックはよく家を開けるようになった。必然的に一人の時間が増え、再び孤独がナナの元へ訪れるようになった。一人で居る際は誰からも殴られることが無い為、落ち着きもした。

 また、ナナに現れた変化はそれだけでは無かった。掃除中や、座っている時でも、唐突に吐き気がするようになった。酷い時は耐えられずその場で吐いてしまう程だった。それに加え体が熱く感じ、強い眠気に襲われる事もあった。ザックの事やそれらの変化でナナの中の不安も助長されていくようで、自分の体に何が起こっているのか全くわからなかった。

ザックは機嫌が悪い日にナナを殴るようになった。それに元々一日二度与えられていた食事は一日に一度与えられるかもわからないようになった。ザックが家に居ない日が増えるのと比例して与えられる食事も無くなり、路地裏に居た時と同じような空腹に苛まれるようになった。

しかし、ナナは何故か自分の腹部が少しだけ膨れたように感じられていた。気のせいで済ますことも出来たが、何故かそれをしてはいけない気がしていた。



「最近大変そうですね、ザックさん」

「ああ」

 家に再び客人が現れ、ナナは二階の廊下で息を潜めていた。前は自分からそうしていたが、今はただザックの機嫌を損ねたくない一心だった。

「ったく、気持ち悪いもん持って帰って来やがって」

「かかったのってやっぱり牢の中ですかね?」

「まあそうだろうな」

 そんな会話が聞こえる。確信は持てないが、ナナの事なのだろう。それに続き、ナナの額に出来た湿疹の事を揶揄するような言葉が聞こえて来る。屈辱や虚しさ、様々な感情が心を引き裂くように溢れ出て、会話を聞かないように耳を塞ごうとした。

「……って事はもしかしたら子供も居たりして。つわりとか見てないんですか?」

 そんな言葉が聞こえ、耳を塞ごうとした手が止まった。子供。確かに子供と聞こえた。

「あいつの事なんて見てねえから、吐いたりしててもわかんねえよ」

 ザックがそう言った。確かに心当たりがある。最近襲い来るようになった吐き気、それに腹部の膨らみ。自分の腹部を見た。ここに、自分の子供が居るかもしれない。

「でもどうするんですか? もう置いといても意味無いでしょ」

「まあ、かもな……」

 ナナの思いを他所に、二人が会話を続けていく。

「いっそあの爺さんみたいに、どっかに頼んで適当に処理して貰いますか?」

 やがて、耳を疑う言葉が聞こえて来た。

「ちょっと離れた場所に捨てといてもらえば、気味悪がって離れて来たやつ捕まえられて得するかもしれませんし」

『自分が居た場所の近くで、死体でも見つかったか?』

 男の言葉を聞き、ザックと初めて出会った時の言葉を思い出した。全て、ザックが関わっていた。老人が死体となった事も、それがナナの前に現れた事も、その後移動した先でザックに出会った事も。全ての元凶が、今ナナのすぐ近くに居た。

 それ以降の会話は聞くことが出来なかった。新しい光が現れたと思った瞬間、恐ろしい事実を知ってしまった。目まぐるしく思考と感情が回って、今何を思えば良いのかすらわからない。ただ、一つ。自分の身に危険が迫っている事は確かに理解できた。


 それから、ザックは三日ほど帰ってこなかった。ナナはその間、さらなる空腹と体調の悪さ、そして恐怖に苛まれることになった。

 強い空腹。水は掃除用に溜められていた水を飲んで凌いだ。しかし空腹からか元々あった吐き気や眠気、そして眩暈などが強く表れ、床を拭くこともままならなかった。そういった体調の悪化に加え、先日の二人の会話の内容が忘れられなかった。ナナを『処理』するという会話。

 今度ザックが帰ってきた時、それが自分が老人と同じ末路を辿る時かもしれない。そう思うと、あまりの恐ろしさに体が震えた。ザックから与えられる暴力や、イグメイから襲われた時の比では無かった。

 死してしまえば、何も残らない。誰かに見てもらう事、覚えてもらう事、その先の終わり。ナナはまだ何も得られていなかった。

 ザックは、きっと誰かを殺すことなどしない。そう希望的に思いたがる気持ちもあった。しかし、実際に目にした老人の眼差しが、未だ自分を見つめているように思えた。お前も同じ末路を辿る、と。そんな意思を乗せて。

「ッ、ゲホッ、ゴホッ」

 激しい咳がナナを襲った。喉が痛む。水を飲まなければならないと思った。

 重い体を無理矢理動かすようにして立ち上がった。そして階段の方へ向かい、足を踏み外さないように慎重に降りていく。やがて一階へ辿り着き、思うように動かない足で桶や雑巾が仕舞ってある場所へ向かおうとする。そこで、家の扉が開いた。最悪の予感と共にその方を見る。

 扉を開いたのはザックであり、ナナを見るや否や恐ろしささえ感じるような足取りで詰め寄った。何が起こるのはすぐに分かった。

 思わず逃げようとしたナナを、ザックが思い切り殴った。その衝撃で床へ倒れ込んだ。

「誰が降りて来て良いって言ったんだ?」

 ザックがナナを見下ろしながらそう言った。一階に降りてこなければ、ナナはとうに餓死していた。倒れ込んだナナの身体を、ザックが怒りをぶつけるように蹴った。胸の辺りに当たり、肺が痛むような衝撃に襲われた。再び咳き込んだ。それを見て、ザックが同じ場所に蹴りを入れる。

 また強く咳き込んだ。朦朧とする中でなんとか目を開け、ザックを見た。そしてやがてザックがもう一度蹴りを入れようとした所で、ナナは無意識の内に腹部を庇った。それを見て蹴りの脚が止まる。

「……チッ」

 ザックが小さく舌打ちをして、ナナを放置したまま家を出て行った。

 去って行ったのを確認して、ナナは息を吐いた。再び咳き込み、やがてさらに強い咳が来た。ザックが居る際は、胸を蹴られても不快にさせないよう咳を抑えるので必死だった。

 少し落ち着いて、先程の事を思い出した。ザックの苛烈な暴力、その言動。痛み。そのどれもが強く残るもので、これからもこれが続くかもしれないと思うと不安が強まった。しかし、ナナはそれらよりも自分が腹部を庇ったことに内心で驚いていた。

 あの状況で庇うべきは、ザックが二度蹴りつけて来た胸部の筈だった。しかし実際はそこを一切守らず、ただ腹部だけを守ろうとしていた。その理由を自分で理解しようと腹部を撫でると、やがてそれは子供が居るからだと気付いた。

 死への恐怖から、殆ど存在が霞んでしまっているように思えていた。しかし、あの時のナナは自分も気付かない内に腹部に居る子供を一番大事なもの、守らなければいけないものだと感じていた。

 もう一度腹部を撫でた。もしこのまま子供が生まれれば、一体どうなるのか。その子供は何を思うのか。そういった所へ想像を飛ばしていくと、やがて以前盗みに入った屋敷でのことを思い出した。盗みに入った部屋で見た、大きな絵。幸せそうに並ぶ両親と子供。その子供は、幼い頃から両親に見られながら育ったのだろう。そしてきっと、子供もその両親を見て育つ。

 そこで、視界が広がるような感覚を覚えた。

 自分には、この子供が居る。やがて成長し、自分の事を母と慕うのだろう。そう思った瞬間、今自分を襲っている暴力が、いずれ子供にも及ぶかもしれないと思った。むしろ、ナナを殺そうとしているのなら、自然と赤子も共に死ぬ事になる。

 それは駄目だと、強く思った。壁に身体を預け、なんとか立ち上がった。そして一歩ずつ、外へ出る扉へ進んでいく。そしてその扉の前に立った。

 今までも行動に起こそうと思えた簡単に出来たのに、何故か考えもしなかった。しかし今、子供を守るためにこの家から一人で逃げ出そうとしていた。

 扉の取っ手を取り、鍵の部分をひねった。カチャリと音が鳴り、鍵が開く。あとは扉を引くだけだった。ここに来て、ナナの身体に緊張がまとわりつく。逃げた事がもしザックに知られたらどうなるのか。扉の外は見張られているかもしれない。そんな不安が、押しつぶすようにナナを覆っていく。しかしそれでも、子供の事を思い浮かべると何も問題が無い気がした。

意を決して扉を引いた。するとそれは簡単に開いた。浴びなくなって久しい光がナナを照らし、一歩を踏み出す。足裏から伝わる感覚が木の板から硬い石のものに変わり、そこからは段々と歩調が早まるようにして歩き出した。ふと振り返る。誰かが自分を見張っていたらと怖くなった。しかしその不安を振り切るようにしてその家を後にした。

 家の周りの地形は、盗みに向かった時に幾度も通ったため殆ど把握していた。大通りが何処方向にあるかもわかっており、しばらく歩くと簡単に辿り着いた。

 大通りを見つめ、やがてその大通りに沿うようにして路地裏の道を歩き始めた。ザックの元から逃げて来て、もしも再びザックと出会うような事があってはならなかったため、出来るだけ離れたかった。

 しばらく歩き、もうそろそろといった所で見つけた大通りの見える道に座り込んだ。大通りの喧噪が耳に入り、自分の孤独が浮き彫りになったような感覚を覚える。

 ふと腹部を撫でた。実感はあまり無かったが、今自分の中に子供が居る。話す事も姿を見る事も出来ないが、一人では無いと思うと心が楽になる気がした。


 それから時間が過ぎて行くたび、ナナの腹部は徐々に大きくなっていった。最初は子供が居るという実感も湧かない程だったが、少し膨らみができ、それが大きくなってやがて確かに子供が居ると認識し始めるほどのものになった。完全に信じきることの出来なかったものが、確かな実感を持ってナナの元に訪れていた。

 そういった変化が見られる頃には、今まであった吐き気なども収まり始め、代わりに空腹感が強くなっていった。身体を動かすのにも少し苦労し始めるようになったし、自分はこの子供の親となるのだと実感も出て来た。

 腹部を優しく撫でた。もはや自分を救ってくれるのはこの腹の中の子供しか居ないと思っていた。誰にも見られることなく死ぬ恐怖を、この子供が救ってくれると思った。

 父親が誰かなどどうでも良かった。ただ自分が産み、そして育てるこの子供が自分の事を見て、そして自分が死んだあとで自分を覚えていてくれれば良い。子供は希望であり、光だった。


 それから、街は猛烈な寒さに見舞われた。建物の隙間に寒気が通り、ナナは拾った毛布を身にまとって寒さに震えた。湿疹は額から目の周り、喉にまで広まった。

 湿疹は収まる気配を見せなかったが、どうでも良かった。ナナの意識はその殆どが赤子に向けられ、赤子が健康に生まれる事だけが重要だった。

 その為、とにかく物を食べた。自分一人が生きるためには必要の無い量を。今まで他人の為に残してきた量を。全ては赤子の為だった。今まで行ってきたこと全てをかなぐり捨て、赤子の為に費やした。もはや生きる意味は赤子にしか無かった。

 時間が経つにつれ腹は大きくなり、やがて見ればすぐに妊婦だとわかる程になった。徐々にナナを陣痛が襲うようになった。ナナは陣痛を知らなかったが、じきに赤子が生まれるのだと何故か理解できた。優しく腹を撫でる。もうすぐ、もうすぐ自分を救ってくれる赤子と会える。


 その日は太陽が雲に覆われ、光が遮られてその残滓が大通りや路地裏に降り注いでいた。太陽が頭上から少し傾き始め、もう少しでナナの食事の時間だった。

 もう少ししたら行こうと思った所で、ナナの元へ一つの足音が向かってきていた。それが自分の元を訊ねに来ているとは思わず、毛布を掴んでただ寒さにじっと耐えた。しかしやがてその足音はナナの近くへと迫り、やがて闇と共に影でナナを覆った。

「腹が大きくなれば、そりゃ目につきやすくなるよな」

 今最も恐れていた声が、路地裏に響いた。ナナは思わず顔を上げ、その声の主を視界に捉えた。そして、目を見開く。

 その声の主は、ナナが赤子を守るために逃げた男だった。

「久しぶりだな、ナナ」

 ナナは思わず後ずさり、逃げようとする。しかしザックは距離を詰め、ナナのすぐ前でしゃがみこんだ。視点の高さが近くなり、男が強大な存在となって心を覆っていく。

「妊娠八か九か月って所か? 危ねえ危ねえ。危うくお前を見失う所だった。腹がデカい方が探しやすいからな」

 そこで、腹の中の赤子が逆にザックがナナを探す目印となってしまっていた事を知った。

「逃げ切れると思ってんのか? お前が」

 ザックはナナの髪を掴み、そう言った。乱雑な手つきに痛みが走るが、今はそんなことはどうでもよかった。子供のため、とにかく逃げなければならないと思った。足に力を籠める。ザックが髪を掴む力を弱めた瞬間、脚に力を込める。しかしその足元を見て、ナナの頬を打った。

「お前、今逃げようとしてただろ」

 頬に痛みが走る。多少混乱はしたが、まだこの場所から逃げる方法を考えられるほどには冷静だった。

「お前があそこから逃げた事にも驚いた————というか、いつの間にか俺から逃げられるようになったんだな」

 そうさせたのは、ナナの腹部に居る赤子だった。一人であれば、きっと今もザックの元から逃げられない日々を過ごしていたのだろう。

 逃げるタイミングをうかがっていると、またザックがナナの顔を殴った。そしてナナの腕を掴む。ザックは確かにナナが逃げることを警戒していて、逃げることは不可能かもしれないという考えが頭を過ぎる。

 そこから、ザックはナナを執拗に殴った。鈍い音と共に、徐々に血が滴る。どれだけ殴られても、ナナは何も言わなかった。逃げられないのなら、ザックがナナの元から去るようにする必要があった。殴られても何の反応もしなければ、いずれ飽きてくれると思った。

その一方で、ザックはナナへのイラつきを強めていった。ナナは今までザックに逆らわなかった。それが今は必死に抵抗しようとしている。今まで自分のものだと確信していたものが、唐突に自分の手から離れようとしている。さらにナナを殴った。何度も。路地裏に乾いた音が響き渡る。やがてザックは掴んでいた髪を離し、ナナは解放された。もうナナを拘束している物は何も無かったものの、何度も殴られた痛みで逃げられそうになかった。

 ザックは息を切らすほど殴ったあと、ふとナナを見た。何の反応も無かったナナが、腹部を抑えてうずくまっている。そして、理解した。ナナは、今その腹部にあるものを守りたがっている、と。ザックの口角が、醜く歪む。

「……なあ、ナナ」

 再び声をかけられ、反応してしまわないように耳を傾ける。

「俺はな……前から、やってみたいことがあったんだ」

 ナナが、何かの予感を感じ取りザックの顔を視界に入れる。

「今まで、死体を見たことは何度かあった。でも、まだ人を殺したことってのが無いんだよ。人を殺したことが無いからって、ナメられることもあったりしてな。だからよ————」

 何を言いたいのかがわからず、訳のわからないままその予感が膨れていく。

「————一回で良いから、人を殺してみたかったんだ」

 ザックが放った言葉の意味が、未だ分からなかった。しかしここで自分を殺すことは無いと、何故かそうわかった。そしてそのザックの言葉をようやく理解し、それが一体誰のことを指すのかが、ザックの視線でわかった。

 ザックは、自分の希望を奪うつもりでいた。

 痛みで動かなかった身体を無理矢理に動かし、ナナは走り出そうとした。腹部を抱え、守るようにして。しかしザックはナナの髪を掴み、乱雑に地面へとナナを叩きつけた。

「やめてッ! お願い、それだけは!?」

「おい逃げるなよ、やりにくいだろうが」

 倒れたナナの顔をザックが打った。しかしナナは抵抗を止めず、やがてザックがナナの顔を強く蹴った。衝撃で意識が朦朧とし、身体が動かなくなる。ザックの下卑た表情が視界に入る。

「や……め……!」

 言葉が出なかった。それでも訴えようとした。やめてくれと。しかしそんな叫びを聞くたびにザックは笑うばかりで、むしろナナの反応を見て楽しんでいるようだった。

 やがて、なんとか腹部を抱えるようにしていたナナの腕が蹴飛ばされて腹部を守るものが無くなった。身体が動かず、守ることが出来ない。感じた事の無いほどの恐怖がナナを襲う。今まで得て来たものの中でも比べようの無いほど大事なものを、今奪われようとしていた。

「いくぞ、一回で終わるように祈っとけよ」

「……嫌……」

 もはや抵抗することも出来ず、涙が溢れ出た。それを見てザックがまた表情を不気味にゆがめる。やがて、足を振り上げる。

「やめて……!」

 再び制止する。ザックの脚に力が籠ったのがわかった。

「やめてッッ!」

 その叫びにザックは笑い、ナナの腹部に蹴りを繰り出した。





 薄暗い路地裏。うめき声が響く。痛みに耐えるような、助けを求めるような声。そのうめき声の主を中心にして、石畳に染み込むように鮮血が広がっていく。そしてやがて、そのうめき声は何かが抜け出した音と共に響かなくなった。


 その日も、雨が降っていた。

 股から血を流した少女が、立ち上がって大通りを見つめた。その目は虚ろで、人なら当たり前に持つ微かな希望も、何も見当たらない。あるのはただ暗闇だけで、その目に映る大通りは、少女を傷つけるほどの明るい光と日常が広がっているように見えた。

 親と手を繋ぎ歩く子供の幻覚が、不意に少女の眼に現れた。手を繋いだ少年は少女の方を見て、やがて気にしていないかのように前を向いた。手を握り締める。少女の手には、何もない。ただ滴るだけの鮮血が、少女の拳の隙間から地面へと堕ちていくだけ。そしてその傍らには、まだ名も無い小さな肉塊が雨に打たれながら横たわる。

 今自分が死ねば、どうなるのだろうか。誰かが自分の死体を見つけてくれるだろうか。そんな想像が鎌首をもたげる。しかしそれは、きっと無意味な事だと考え至った。きっと自分の死体を誰かが見つけたとしても、何処かに捨てられ、生きた証も無く朽ち果てることになるのだろう。

 なら、自分は一体いつ死ぬことが出来るのだろうか。いつここから抜け出せるのか。答えはわからない。ただ、その質問に答える人間は誰も居ない。それこそが答えだと、そう言われている気がした。

 やがて少女はそこを立ち去り、再びゴミの山を漁り始めた。廃棄物の山の中にあった腐ったパンを一口かじった。

 捨てられていた血濡れた包帯を巻き、廃棄物の山を漁って命を繋ぎ、そしてまたザックが現れ、少女を殴っていった。置き去りにした名も無き肉塊はいつの間にか何処かへ姿を消し、再びその場所へ足を運んだ少女をただその事実で傷つけた。それでも少女は、廃棄物の山を漁ることを止めなかった。

 少女は生きることを選んだ。ただ誰にも気付かれること無く死を迎えることが、何よりも死ぬことが怖かった。漠然とした死の恐怖が少女を包んでいく。

この場所から抜け出せない恐怖よりも、死んで何もかもを感じられなくなるのが、孤独なまま何の残滓ともなれずに消えてしまうのが怖かった。

けれど少女は、そこから抜け出す術を何も持たなかった。ただ誰かに蹂躙され、それに逆らう事もせず、生き続けて受け入れる。もうそれしか残っていなかった。誰かに蹂躙されることで、その誰かが自分の事を覚えていてくれるかもしれないと思うようになった。それ以外、何も無かった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る