第八章


「そこの女、出ろ」

 いつも通り、衛兵の男が食事と桶を持って現れたが、その日はそれだけでは終わらなかった。何の脈絡も無くそう言った男は、何が何だかわからないといった表情のナナに対して、詳しい説明をすることも無く近づいた。

 その様子を見て自分を襲おうとする際のイグメイを思い起こし体が強張った。纏っている布を掴まれ、ナナは布がはだけてしまわないように手で押さえながら無理やり牢の入口へ連れていかれた。何が何だかわからず、抵抗することも出来なかった。

「ちょ、ちょっと!」

 そのまま牢から出ようといった所で女の一人が立ち上がり、信じられないと言った様子でそう言った。

「私じゃないの!?」

「あ?」

 女がそう問いかけ、衛兵がそう返した。ただ聞き返したような口調では明らかに無かった。

「なんでそいつが出るの!? 私でしょ!?」

 女がそう叫ぶ。衛兵の纏う雰囲気が強張っていく。ナナが衛兵に助けを求めようとした時の事が頭に浮かんだ。そして、その後の衛兵の行動も。

 衛兵がナナの纏う布を離し、女に詰め寄った。必死に訴えかけていた女が怯えた様子で後ずさる。衛兵はそのまま女の元へ歩き、そのまま女の前に辿り着くと頭部を殴った。女がその衝撃で倒れる。衛兵が振るった拳には手加減などはまるで感じられず、ただなんの躊躇も無しに殴ったのだとすぐにわかった。女は倒れ、地面に伏したまま動けないようだった。その女の腹部を衛兵が思い切り蹴り、その痛みで女の呻くような声が漏れる。

 殴られて青いアザが出来た顔で衛兵を見上げる。その顔は怯えて切っており、それを見下ろした衛兵がふと振り返ってナナを見た。視線を向けられただけで体が強張った。衛兵がナナに詰め寄り、再びナナの纏う布を掴んでそのまま牢の外へ連れて行った。

 そして階段を上がり、その先にあった扉を開いた。そのまま建物の外へ出る。陽の光がナナを照らす。柵の付いた小窓から差し込むだけだった光がナナを照らし、思わず目を瞑った。

形はどうあれあの場所を出られたのだと感じたが、感傷に浸る間もなく衛兵が乱雑にナナを解放した。振り回されるように解放されたナナはその勢いのまま地面へ倒れ、思わず左手を付いてしまい腕に痛みが響いた。

「おい、こいつじゃねえよ」

 痛みに顔を歪めているとそんな声が聞こえ、左腕を抑えたままその声の方を見上げた。そこには一人の男が立っており、ナナを見下ろしていた。

「は?」

「こいつじゃねえって言ってんだよ。特徴伝えただろうが」

「知るかよんなの」

 そんな会話をして、今度は衛兵がナナを見た。そこであの女の発言を思い出し、何が起こったのかをすぐに理解した。牢を出されるべきは自分では無かった。自分とあの女はそれほど似ているわけでも無かったが、毎朝来る衛兵の仕事の杜撰さを見て来たナナにとっては、そんな間違いがあってもおかしくはないのだろうと思った。

「ったく……」

 衛兵がナナに手を伸ばす。そこで反射的に衛兵の手を避けた。そして未だ左腕に感じる痛みに意識を向ける間もないまま立ち上がり、そのまま後ずさった。伸ばした手そのまま、衛兵が固まってこっちを見た。纏っている雰囲気が、先程女に詰め寄った時と同じものになっていくのを感じた。

 自分は間違って牢を出された。ならば、あの衛兵はこれからどうするのか。それは明白で、ナナは牢に連れ戻され、いつ出られるかもわからないままあの男たちに蹂躙される日々がまた始まってしまう。そう思うと、他に何を考えるでもなく衛兵の手を避けてしまった。

 先程衛兵に食い下がった女は、意識を失ってしまうほど苛烈な暴力を受けた。抵抗すれば、ああなってしまう。先程の女の時と同じような暴力が、これから自分を襲うのだとすぐに理解出来た。

「……おい」

 兜をかぶったまま顔も見えない衛兵が、心の強張る低い声色でナナにそう言った。その声を聞き、また後ずさった。それを見て、衛兵がナナに一歩近づいた。その瞬間、自分は逃げなければならないと思った。気付けばナナは振り返って走り出していた。

「チッ、待て!」

 そんな声がナナの背中に浴びせられた。しかしナナは足を止めず走り続けた。捕まってしまえば、あの女を襲ったような暴力が自分を襲い、あの男たちからのおぞましい行為をまた享受することになる。それが何よりも恐ろしかった。

 少し開けていた場所にあったその建物から離れ、入り組んだ路地裏に入り込んだ。出来るだけ多くの曲がり角を曲がり、出来るだけ自分を見失うように走った。

 盗みに入って見つかり、使用人や衛兵に追われた時の事を思い出した。しかしナナの後ろを追ってくる足音は何故か聞こえず、そのまま自分の体力が尽きるまで走った。

 体力が底をつき、足が上がらない。それでもただ走った。もうあの場所には戻りたくないと思った。何故自分が逃げているのかもわからなくなるほど逃げて、やがて上がらなくなった脚が荒い石畳に躓いた。咄嗟に左腕を庇い、右腕の肘を強く打った。その痛みに気が行くことも無く上半身を起こし、後ろを見た。視線の先には誰も居らず、自分を追って来ている人間が誰も居ないのだとそこでようやく実感した。

 息は荒く、鼓動が早い。緊張感が解けたことで、気にする余裕の無かった体の痛みが強く意識された。転んだ際に肘を強く打ち、膝も擦りむいているようだった。左腕は変わらず強く痛み、それらの痛みが途端に浮かび始めたナナの心細さを加速させていった。一方で、それでもあの男から、あの牢の中から逃げられたという事実が、ナナに膨大な安心感を与えた。

もう襲われることも無い。そう思うと、ふと初めてイグメイに襲われた時の眼差しを思い出した。顔を真っすぐに見て、ナナを求めているようなあの眼差し。あの行為は確かに苦痛だったし、もう襲われないと考えただけで目から涙が溢れそうになった。しかし心の何処かに、自分はもうあの眼差しを向けられることは————どういった形であれ誰かに求められることは無いのだろうかと、そんな寂しさが芽生えるのを感じていた。

 再び周りを見た。ナナを追いかけてくる人間は誰も居らず、またナナの存在を知る人間も誰も居ない。今居る場所が何処かもわからない。牢から出られはしたもののザックの元へ帰る訳にもいかず、帰る場所など何処にも無かった。

 どうすれば良いかと考える中でふと、大通りの光景が浮かんだ。ザックに出会うずっと前から、ナナが目に焼き付けていたあの大通りの光を。ザックの元へ行ってからはもう一度も目に出来ていない。

 ナナは歩き出した。ただ大通りの景色を見たかった。大通りの光を目に入れたかった。

 それから、ナナは大通りがどちらにあるかもわからないまま歩いた。真っ直ぐ歩き、不安になって道を曲がり、しばらく歩いてまた曲がった。街の殆どを覆う広大な路地裏の世界で、自分が何処に向かっているのかもわからなかった。

 たった一人で唐突に放り出された心細さが浮かぶ。誰かが自分を見てくれている。そんな幻想に縋ってはいたが、ナナは元々一人だった。路地裏の世界に来てから、ずっと。しかし今では、前までは感じなかった心細さを感じていた。

昔から一人だった筈が、気がつけば一人になると不安になるようになっていた。それが望んでいたものを得た代償なのだろうかと想像する。

 今のナナには歩くこと以外何も出来なかった。大通りを求めて歩くという行為自体が自分を慰めてくれる気がした。

歩き続け、やがて自分が最初向いていた方角さえ分からなくなった頃、ナナの腹が音で空腹を知らせた。まともに食事を摂れなかった事も相まって、気付けば今まで経験したことの無いほどの空腹がナナを襲っていた。何かを口に入れようと思っても、ナナが漁っていたような廃棄物の山はまるで見えなかった。

ナナが漁っていたような廃棄物の山は、大通りに近付く程増えていった。それは周りの住人と特に示し合わせることも無く一つの場所に廃棄物を集めるような人間が大通りを離れていく程徐々に少なくなっていくからで、廃棄物の山を見つけるという事は大通りに近付いているという事の証でもあった。

何も食事が取れない中、ただ歩いていく。大通りを求めて歩くその足取りは段々と重くなり、空腹から再び腹が鳴った。空腹が心細さをより加速させていく。涙がこぼれそうになり、それを必死に抑えた。

 路地裏の世界で暮らす中で、ナナを空腹から救い出していたのはあのパン屋だった。そしてその店のことを思い出すと、自分が盗みに入ったことも思い出す。あの店の善意を裏切り、日常を壊してしまったかもしれないという事を。

あの店はどうなっただろうか。牢の中でも考え続けていた疑問が再び強まって頭を叩いた。自分が盗みに入ったあと、ザックも何も言っていなかったしその動向を知る術は無かった。あの店の店主は金貨を盗まれたことに気付き、どう思ったのだろうか。

歩いている間に時間は過ぎ、牢を出た時は朝だった筈がいつの間にか陽が沈みかけていた。路地裏には暗闇が射し、足元も見えにくくなっていった。

やがて、足の裏に鋭い痛みが生じた。足元をよく見ると、細かいガラスの欠片が落ちていたようで、それを踏んでしまったようだった。ガラス片を避け、そのまま歩いた。しかし少ししたところで膝が崩れた。

牢を出て逃げるために走り、その後休む間もなく歩き続けていた疲労で足が震えていた。今日はもうこれ以上歩くのは不可能だと思い、壁に背を預けて座った。

座った途端、ナナを激しい眠気が襲った。強制力さえ感じる瞼の重みに抵抗しながら、周りを見た。眠っている所を誰かに襲われるかもしれないと思うと、簡単には眠れそうになかった。しかし少しして今自分が居る場所があの牢の中で無いと思い出し、張っていた糸が解けるような感覚を覚えた。路地裏の世界で長く生きてきた中で、寝込みを襲われたことなど一度も無かった。そもそも牢の中で寝込みを襲われたのも一度だけだったが、その一度とあの牢の中という閉鎖的な空間に、ナナは追い詰められていた。

 思えば、ザックの家に身を寄せてからは、眠る時は常に近くにザックが居た。そして牢に入れられてからは、多くの人間と同じ空間で眠っていた。牢の中に信頼出来る人間など誰一人として居なかったが、少なくとも一人では無かった。

 たった一人、孤独に包まれて眠るのはかなり久しかった。抱えた膝を腕で引き寄せ、孤独を誤魔化すようにしながら目を瞑った。


やがて目が覚め、周りを見渡した。しかしもう牢を出たのだと思い出し、警戒を解いた。それと共に、今自分が状況かという事も思い出した。大通りを目にしたいという思いに変わりは無かったがそれ以上に、空腹や痛み、不安、自分を襲う全てがナナの意思を脆くしていった。これから歩いたとして、いつ大通りに辿り着けるのか。そもそも自分は大通りの方向へ歩けていたのか。強い不安がナナの心に渦巻く。

 そんな中、子供のような甲高い小さな声が耳に入った。思わず顔を上げる。ナナは立ち上がり、その声の聞こえた方へ歩き始めた。歩き続ける中、やがて道に座り込む一人の男が見えた。知らない男だったが、その男が前の自分と同じであるという事はわかった。誰にも知られずそこに居て、路地裏の世界で廃棄物を漁って生きている。つまり、廃棄物の山が————大通りが近い。

 座り込む男の前を通り過ぎ、早まる歩調で進んでいく。段々とナナの鼓膜を小さな喧噪が叩くようになり、その方へ進むとその喧噪は大きくなっていく。そしてやがて喧噪の方へ角を曲がると、ナナの視界に目を焼かんばかりの光が飛び込んだ。

 その景色は、ナナが望んでいた全てだった。確かな光が照らす広い道、その中で数多くの人間が営みを享受している。ザックの元へ身を寄せてからずっと離れていた、久方ぶりの大通りの景色だった。

 その大通りの景色をしばらく見つめていると、空腹で腹が鳴った。空腹を自覚すると唐突に足がふらつき、自分が危険な状態だと理解できた。踵を返し、先程の場所へ戻れるように道を覚えながら周囲を見て回った。やがて視界に廃棄物の山が見え、その表面にパンが捨てられていた。そのパンを見て思わずそれにゆっくりと近づき、手に取った。

 牢を出されてから何も口に出来ておらず、殆ど限界だった。今ここを漁る人間が居るかもしれない。そんな暗黙の了解をわかっていながら、ナナはそれを口に運んだ。

 廃棄物の匂いが少し移っているし、そのパンは既に半分ほどが食べられ歯形もついていたが、ナナにとっては久方ぶりの食事だった。

 それにがっつくように食べ、そのパンはすぐにナナの手の中から消えていった。やがて腹が鳴り、腹を抑えた。腹を抑え、再び襲い来た空腹に耐えた。

 そのせいで、後ろから近づく人影に気付かなかった。

 ナナは唐突に、頭部を何かで殴られた。殴られたまま倒れて頭部が地面へ激突する。突然の衝撃に何が起きたのかわからず、混乱しながらも背後を見た。そこには息を荒くした中年の女が居た。きっと、いつもこの時間にこの場所を漁っていたのだろう。

 自分が廃棄物を漁っている所を見られることを嫌い、そして自分の時間であるにも関わらず、誰かもわからない人間が自分の分であったはずのパンを食していた。毎日空腹で、毎日が屈辱の日々で、毎日何かしらの鬱憤や不満を溜め込みながら生きている。

 そんな人間の前で、その人間の食事を奪ってしまった。そうだ、自分が幼い頃も、同じことをして殴られた。

 痛みと空腹と疲労で、意識も目も霞んでいく。そんな視界の中で今まで溜めていた怒りを発散する理由を見つけた女が、手に持った木材を振りかぶる。ナナはただ見ることしか出来ない。自分を守ってくれる存在は誰も居ない。

ああ、自分はここに戻ってきてしまったのだ、と。そう思い、やがて手に持った木材をナナの頭部へ振り下ろす女をただ見つめていた。



 その後、ナナが目覚めたのは日が沈み切った後だった。自分の意識が覚醒しているのかもわからない微睡の中、頭の痛みがナナを現実に引き戻した。体を起こそうとして腕を立て、左腕に痛みが走った。そこで朦朧としていた意識がようやく手元に戻って来た。

 周りを見ると既にそこは暗闇で、目の前にあった筈の廃棄物の山がなかった。自分がいる場所が先程とは違うのだろうというのはすぐに理解出来た。

 ナナがあそこで殴られ気絶した後、ナナを殴った女————もしくはその後に廃棄物の山を漁りに来た誰かが移動させたのだろう。いつ目覚めるかもわからない人間が倒れている隣で落ち着いて食事を行える人間は多くない筈だった。

 右腕で身体を支えながら、立ち上がった。立ち上がった瞬間足がふらつき、壁に身体を預けた。再び周りを見た。静かで、大通りがどっちにあるのかもわかりそうに無かった。

 そう長い距離を運ばれた訳ではきっと無いのだろう。時間が経てば夜が明け、大通りに喧噪が生まれる筈だった。その喧噪を頼りに動けば良い。ナナは座り込み、目を瞑るわけでも無く周りを警戒しながら時間が経つのを待った。

 その後夜が明け、聞こえて来た喧噪に安堵を覚えながらナナはその喧噪の聞こえる方へ向かい、その後その場所から少し離れた、大通りの見える道を見つけてそこで過ごし始めた。自分を殴ったあの女の近くに居るべきでは無いと思った。

 ただ座って時間が過ぎるのを待ち、自分の時間になれば廃棄物の山を漁りに行く。ザックに出会う前の生活と同じだった。

廃棄物を漁って食べ物を見つけて食事を摂り、終われば、また眠り、自分の時間まで待って、時間になればまた食事を摂る。確かに同じ生活だったが、その中にナナを助けてくれていたあの店は無かった。

 その為空腹でもただ耐えるしか無かったし、実際に前よりも深い空腹に苛まれる事になった。

 食事が終わり、元の場所に座り込んだ。食事といっても、何も食べることは出来なかった。廃棄物を漁っても何も無かった。昨日も同じく何も無かった為、ナナの空腹は酷くなっていった。元々この場所で過ごすようになった際既にかなりの空腹だったため、二日何も食べられないだけでかなりの辛さだった。

 栄養不足によって頭が上手く働かず、身体が震える。二日食べないだけでこれだけの症状が出たことはあまり無かった。そのせいか、それらが空腹よりも強いもの————襲い来る死によるものなのでは無いかと錯覚する。

 眠気によって瞼が重くなる。空腹の際はとにかく眠ることにしていたが、今眠るともう目が覚めないような気がして、心細さが生まれ始める。ザックの元で過ごしていた時にはもう薄まっていた感覚だった。その感覚が、より鋭くなってナナを襲うようになっていた。

 今ここで自分が死ねば、ザックは覚えていてくれるのだろうか。そう思った。ザックはナナを助けには来なかったが、自分の事を覚えてはいるのだろうか。自分の事をふと思い出すことはあるのだろか。ナナにとってザックは自分を騙し盗みをさせた張本人だったが、心細さがそれを薄れさせた。

 やがてナナの瞼は閉じ、深い眠りに落ちた。そしてその眠りの中で、ナナはイグメイに襲われた際の夢を見た。目を覚ますと既に取り押さえられていて、襲い来ていた痛みや微小の快楽に後で気付いた。自分が知らない間に襲われていたという気味の悪さが抵抗を強めさせ、それを見たイグメイがナナの顔を打った。

 そこで目が覚め、夢の中で行われていたことの続きが行われているような感覚がして、周りを見た。しかしナナの周りには誰も居らず、それが杞憂だったとわかって安堵した。もう既にあの空間からは脱出をしていて、イグメイともう会う事も無い筈だった。それでもイグメイから受けた数々の行為は今でもナナの中に深く突き刺さっており、それを忘れる日は無いのだろうと思った。

 結局それから眠ることは出来ず、空腹に苛まれながら自分の時間が来るのを待った。そして立ち上がり、食事を摂るためその場を離れた。

 イグメイの事を思い出すと、何故かザックの事も思い出した。ザックは結局、ナナを牢から救う事はしなかった。ナナはザックが自分を見てくれていて、覚えていてくれていると思っていた。しかし実際はナナは牢から救われることは無く、それがナナがザックに残せた存在価値の証であるように思えた。捕まっても助け出さなくて良い。その程度だったのだろうと思えてしまった。

 また一人で過ごせばいい。ザックに出会う前はそうだった。ザックの家に身を寄せ、盗みに行き、罪悪感に苛まれる。そして捕まり牢へ入れられ、イグメイに襲われる。一人で過ごしていた時は幸福とは言い難かったが、それでもその二人と関わり始めてからほど不幸では無かった。

 空虚さや虚しさ、寂しさ、それらがありながらも、確かに望みや希望があったような気がした。叶いはしないものだったが、裏切られないものだった。

 そう言い聞かせようとするものの、心の奥には穴が開いたような感覚があった。

 ザックを失い、イグメイと離れ、また一人になった。最初は頼るものなど無かった筈なのに、いつの間にか誰かと共に居ることが当たり前になり、その当たり前を失った。それはザックに出会う前の時間とは確かな違いがあり、差があった。

 自然と、戻りたいと思うようになった。酷い仕打ちを受けたものの、それを覆い尽くすほどの感情があった。

 やがていつも漁っていた廃棄物の山に辿り着き、その中にあった食物を食べた。多少は空腹から脱し、まだ生きていけると思った。食事が終わって立ち上がり、その場を後にしようとした。

「ナナ……?」

 ふと声が聞こえ、足を止めた。その名前を知っている人間は一人しかいない筈だった。すぐには振り返る事が出来なかったが、やがて振り返り声の主の顔が視界に入る。それは間違いなくザックだった。

「なんでここに……」

ザックはそう言いながらナナの元へ近づくが、ナナはそれを拒否するように後ずさった。それを見たザックは一瞬固まった。

「……心配してたんだ。戻ってこなかったから」

やがて対応を変えるようにして口を開いた。ザックはそう言ったが、牢の中で起こったことを思い出すと何故出してくれなかったのかという思いが最初に前へ出た。それにそのザックの話し方や雰囲気は、一番最初に出会った頃に似ていた。ザックがナナを怪訝な目で見つめるようになるとは思わなかった頃の雰囲気に。

 それに、盗みに行く際はナナは見張られていた。その為、捕まった所までは見ていなかったとしてもある程度の推測は出来ている筈だった。

「後からお前が捕まったことを知ったんだが、ちょっと手続きが上手くいかなくてな。出してやれなくてすまなかった」

 ナナの反応を見てか、ザックがそう言った。その声色には申し訳なさがあまり感じられず、謝罪されているような気持ちにはなれなかった。

それにザックの言っている事が本当かどうかをナナに確かめる術は無かったが、少なくともザックは出してやると言っていたにも関わらず、結局その発言は守られなかった。その事実だけは明らかだった。

「本当に悪かったよ、な?」

 そう言いながら一歩歩み寄ってくる。それを見て一歩下がった。

 ザックは、牢の中でナナの身に何があったのか知らない。ナナがどれだけの目にあってきたのか。だからこそ、ザックの言葉に小さな不信感や苛立ちが湧き出るのが分かった。

 やがてナナはザックを無視し、歩き出した。これ以上同じ場所に居ると良くないと思った。

「ナナ、戻って来てくれ」

 名前を呼ばれ、思わず足を止める。ザックに付けてもらった名前。そして、ザックはまだ自分の名前を呼び、覚えてくれている。

 例え一度捨てられたとしても、やはりザックが自分の元へ来てくれて名前を呼んでくれれば、自分はそれに縋るしかないように思えてしまう。結局この男が自分を一番見てくれるのではないかと。

 ナナは振り返り、ザックと向かい合った。もう、盗みに入るのは嫌だった。しかしそれを言い出すことは出来なかった。自分の中では決まり切っているのに、いざそれを言おうとするとザックには逆らえないという思いが強く前へ出て来た。

「もう盗みなんてさせない。だから頼むよ」

 ザックの言葉に心が揺れた。実際にその言葉が本当かどうかはわからなかったが、ザックがそう言うならと思わされているのも確かだった。

 何も意思を返せず、ザックへ視線をやり続ける。盗みを頼まなければ、何故自分を再び招こうとするのか。それがわからなかった。

「お前が必要なんだ、ナナ」

 ナナの考えに答えるようにザックがそう言った。その言葉に、意識が強く惹きつけられる。牢を出てからあった孤独感に、深く刺さるようだった。

 ザックがナナの元へ歩み寄る。距離を取るべきだったが、何も出来ない。やがてザックがナナの肩へ手を置き、ナナもそれを受け入れた。

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