第六章
固い石の床の上。ナナは目を覚ました。頭部に痛みが走り、頭を押さえる。体を起こし、周りを見渡した。ナナが居たのは大きな牢だった。広く殺風景な空間。石の壁と石の床。十人と少しほどの人間。部屋の隅にバケツが置かれ、それ以外には部屋の中心に中身が空らしい鍋と、一つの袋が乱雑に置かれているのみ。それ以外は何も無かった。
人が来るのであろう通路に面した壁はその一面が鉄格子になっており、その通路からランプの光が漏れ出してきていた。その他の光源は、鉄格子の壁とは反対側にある鉄格子のはめられた小窓があり、そこから月の光が差し込むだけだった。
部屋の中は薄暗く、空気も淀んでいる。部屋の匂いも醜悪で、今まで自分たちが居た空間がいかに恵まれていたかと、そう教え込まれるようだった。
牢の中の人間は皆壁際でそれぞれが干渉しないようにと離れて座っており、意識が無い内に放り込まれて鉄格子のすぐそばに居たナナは酷く浮いているようだった。立ち上がると、脚に痛みが走った。見てみると脚の広い範囲に擦り傷のようなものが出来ており、意識を失っている間に引きずられたのだろうかという推測が出来た。しかし歩けないほどではなく、ナナは周りの人間に埋もれるように、空いている壁際へと身を寄せて座り込んだ。そして周りを見ていると気取られないように俯きながら、周りに居る人間を見た。
虚ろで何処を見ているのかわからない目をして何かを呟く男。壁に開いた小窓に向かって常に祈り続けている男。明らかに普通ではない様子で壁を掻きむしる男。その男が壁を掻きむしる手の指には血が滲み、爪が無い指もあるように見えた。また、牢の中は男が多かったが、ナナ以外にも二人の女が居た。目の下に隈を作り、膝を抱えて牢に居る人間を憎むかのように睨む強気そうな女と、胸を押さえて息の荒いまま倒れている顔に湿疹のある女だった。
この空間に居る全員、とてもまともには思えなかった。そんな人間たちが集められている一方で、それらを見張る人間の姿は誰一人として見えない。通路の方からはランプの弱い光が垂れてくるのみでそれ以外の揺らめきが一切感じられず、恐らく見えない場所に見張っている人間が居るという事も無いのだろう。
そこでふと、この中の誰かに突如襲われた場合、一体どうやって抵抗が出来るのだろうという想像が頭を過ぎった。しかしその想像自体が自分の心の平穏を奪っていくのだと感じ、きっと誰も止めに入ってきてはくれないのだろうという予想と共に、頭から追い出した。
明らかに異常な場所だった。こんな場所に長く居るわけにはいかないと強く思った。大丈夫だ、と心の中で何度も唱えた。不安が滲み、蝕まれていくのが感覚された。大丈夫。再びそう言い聞かせる。ザックが言っていた言葉を思い出しながら。
ザックは必ず自分をここから出してくれる。ナナが盗みを働いたのはザックに言われたからだったし、盗みを働くだけがナナの価値では無い筈だった。ザックはナナに名前を与え、呼んでくれた。もうどうでもいいとナナを捨てることは無い筈だった。
恐らく今自分に出来ることは、何一つない。この状況下で何も行動を起こせないという不安がナナの心を支配していく。しかしきっとザックが助けてくれる。そう信じ、ナナは息を殺して待つことにした。誰の目にも触れないよう、誰の琴線にも触れないよう、ただ無事にあの家へ帰るために。ザックが待ってくれていると信じながら、盗みに家を出る前にザックから浴びせられていた視線と表情を思い出さないようにしながら。
一日に一度、パンが入った袋と具の殆ど無い冷め切ったスープの入った鍋、それに新しいバケツを持った衛兵が現れてそれらを置き、代わりに牢屋の中にあったバケツと袋、鍋を回収していった。衛兵は剣を腰に携えてはいたが、十人を超える人間の居る牢に入って来るにしてはあまりにも無警戒であるように思えた。いざとなれば衛兵がバケツを取りに行く間に後ろから襲い掛かり牢を自分で出られるように思えたが、周りを見ると同じような事を考えている人間は居ないようで、それに流されるように行動に起こせなかった。
衛兵が去った後、数人の男が袋からパンを取り出して元の位置に戻り、それを食べ始める。それを見た強気そうな女がパンを取る。ナナがそれに遅れてパンを取り、その後もう一人の女や他の男たちがパンを取っていった。
袋の中に入ったパンの量はいつもまちまちで、牢に居る人間全員が食べられる量のパンが入っていた日は殆ど無かった。さらにそのパンの中でも腐っており不快な臭いを放つものやカビが生えているように見えるパンなどを除けば、袋の中のパンはさらに少なくなった。それで牢の中に居る全員の一日分の食料を補える筈もなく、いつもパンを一つ食べているナナ自身もいつも空腹だった。
鍋に入ったスープは元から冷え切っている為か、望む人間が望む時間に鍋の中に入っている木のおたまで掬って飲む程度だった。その味はけして良くはなく、日によっては飲み込むのには不快な味がする時もあった。しかし牢の中に水を飲める場所は無い為、生きるためにそれを飲まなくてはならなかった。
その食事を終えると、もう後は何も無かった。なんの変化も無い一日を、呪詛のように言葉をつぶやき続ける声や手を合わせて言葉を紡ぐ声、空腹で腹が鳴る音や壁をかきむしる不快な音を耳に入れながら過ごした。
そうやって牢に来てから十度ほど、時の経過とともに移り行く陽と月の光を見た。ザックの言葉を信じて待っていたが、未だナナは牢から出されてはいなかった。
初めの一日や二日は、不安を押し殺してザックを待つことが出来た。しかし段々と、ザックは最初から自分を見捨てるつもりだったのではないかという不安が込み上げ、十日経った今では、もしもこの空間から一生出られなかったらという考えが頭の中をずっと巡っていた。
あの屋敷へ盗みに行く前、ザックは確かにナナを少し怪訝に扱っていた。しかしザックは自分の事を覚えている筈だったし、自分の名前を呼んでくれるのはザックだけだった。確かに自分の事を見てくれてはいた筈だった。しかしザックの言葉は未だ現実にならず、やがて自分を見てくれる人は居なくなったのではないかと、堂々巡りをするような不安がナナを支配するようになっていった。
ナナの望んでいた、自分を見てくれる人間。それがようやく訪れた。なのに、こうも簡単に居なくなってしまうものなのかと思いたくは無かった。自分の今まで望んできたものや努力が、無駄だったと瓦解してしまう感覚がした。そしてそれは、さらなる時間の経過と十度ほどの光の移り変わりを見てさらに強くなった。
牢で過ごす日々は、あの路地裏の世界で生きていた頃の時間と似ていた。すべき事も、する気力も無い。ただ毎日を生きるために過ごし、本当に存在するかもわからない希望に縋っている。
ふと、牢に面する通路の方を見た。ランプの灯りが通路の方へ漏れ出ている。その淡い明るさが、ナナの踏み入ったあの屋敷の広間を思い出させた。
自分が捕まっても、ザックが助けてくれる。あの時、そう思いながら広間に足を踏み入れた。キッチンを抜けた先にあった調度品を持って帰るだけでもある程度の収穫にはなる筈だった。しかし何故か他の部屋を探そうとしてしまった。自分は確かにそこで帰るべきだと思ったが、ザックの事を思い浮かべると不思議とそうしてしまった。
ナナは、自分はただただ不安だったのだと思った。危険だとわかっていながらも足を踏み入れ、誰かに見つかって今のような状況になって、そこからザックに救い出して欲しかった。しかしナナは長い時間待っていても未だ牢の中に居る。
ザックは、自分の為に盗みを働くナナを見てくれていると思っていた。しかし、もはやその希望は潰えかけていた。ザックはナナを助けない。そんな現実が重くのしかかった。
×
そして朝、いつも通り衛兵がパンとスープを牢の中へ置き、バケツの交換をして帰っていった。数人の男が袋からパンを取ったあと、強気そうな女が続く。ナナも立ち上がって袋を覗いた。いつも通りパンを一つ取って元の場所へ戻る筈だったが、適当なパンに手を伸ばそうとしたその手が止まった。
袋の中に残ったパンは八つほど。ナナの視線はその中の一つのパンに吸い込まれていた。あの店に盗みに入った時に食べた、質素なロールパン。それがその袋の中に一つだけ残っていた。
そのパンへ思わず手を伸ばし、そしてその手が触れる直前で止めた。自分のような人間がそれを食べて良いのかと思った。しかしそれは恐らくあの店のものでは無い。止まっていた手はそんな言い訳と共にそのパンに触れ、手に取った。そしてパンを取る時にいつも一口飲んでいたスープには目もくれず、そのまま元の場所へ戻った。
袋に入れられたまま乱雑に扱われていたからかそのパンは少し潰れてしまっており、いつも見ていたものや捨てられていたものよりも見た目はかなり劣っていた。しかし確かに種類は同じもので、複雑な気分ではあったがそれを口に入れられる機会が来たことには嬉しさを隠しきれなかった。
パンを両手で持ち、ゆっくりと口に運んで一口かぶりついた。その後、またもう一口食べた。見た目だけでは無く、味もあの時のパンよりも劣っていた。前に食べたものと同じ種類ではあっても明らかに違うものなのだと強く認識した。もう一口、いつものように口へ運んだ。そのパンを食べたいからでは無く、食べなければならないからだった。食べていく内に無くなっていき、やがて小さな欠片のようになったパンを口に放り込んだ。そして何の感慨も無く咀嚼して、飲み込んだ。
先程までナナの手にあったものに対して、ある程度の期待はあった。あのパンに少しでも近いものを食べられるのではないかと。しかしその期待は裏切られ、口に入れる目的は変わってしまった。
期待を与えられ、そして奪われる。それは認めたくない現実がより強くのしかかってくるようで、ナナの心を深く落としていく。お前はザックに助けられることは無くここから出られないし、あのパンを食べることは二度と出来ない。そう誰かに言われているようだった。
期待をわずかでもしてしまった自分に対して、自責の念が湧いて出た。あの店に盗みに入った自分が、そんな期待をして良い筈が無かった、と。
あの屋敷に盗みに入り見つかった時の、あの親子の表情を思い出した。あの店の人間も、金貨が盗まれたとわかった時にはあのような怯え方をしていたのだろうか。自分の知らない間に店へ忍び込んでいた盗人の存在を浮かべながら。
誰かに見てもらいたかった。誰かに存在を覚えておいて欲しかった。その為に、ナナは今まで自分が多少不幸になってでも他人に小さな幸福を撒いていた筈だった。しかし今や自分の幸福のために他人を不幸にしてこんな場所に居る。そして残ったのは、今までナナが傷付けてきた人々のナナへの怯えや敵意だけ。こんな筈ではなかった。自分がしたかったのはこんなことでは無かった筈だった。
自分が今居る現状への失望。今頃自分の存在に怯えているであろう屋敷の親子や店の人間、今まで盗みに入って来た家々の住人の強い感情が深く自分の中に突き刺さっていく感覚がして、やがて涙が溢れた。こんな場所で泣くと何が起こるか分からないとも思ったが、今もあの屋敷の子供と両親や店の人間がナナに対し攻撃的な感情を覚えていると思うとまるで止まらなかった。膝に顔を埋め、泣いているのを悟られないようにと意味無く隠そうとした。しかし嗚咽で肩が跳ね、啜り泣く声は牢の中を響く。わかっていても止められなかった。悲しみと、何故あんなことをしたのだという後悔がナナの中で強く渦巻いていく。
そしてそうやって涙を流すナナの姿を、牢の中で祈っていた男が何かを見定めるように見つめていた。
それからさらに、時間の経過と共に陽と月の光が十度ほど入れ替わった。結局ザックがナナを助けに現れることは無く、ナナは段々と牢の中での生活に慣れていく事になった。衛兵が食事を置いていって、それを食べる。それ以外の時間は何をするでもなく、ただ座っているだけだった。
牢の中で過ごす時間が増えると、最初は雑音としてしか認識できなかった声が、段々と意味合いを帯びてナナの耳に入るようになっていった。呪詛のように言葉を呟く男の声は誰かへの恨みの言葉であり、祈る男の呟く言葉は神というものに対して向けられたものだという事が分かった。
路地裏で過ごしていた時と似たような状況でありながら、その時には無かった自分と同じ空間で過ごす人間たちの起こす音があった。それらが自分と同じ、罪を背負う人間たちが起こす音であると思った途端、その音はナナの耳にすんなりと闖入するようになった。ナナは段々と、自分の意識の届かない場所からこの牢の中という空間に染まりつつあった。
それらが耳に入る時間を長く過ごす内、祈る男の声がふとナナの鼓膜を叩いた。神よ、どうか私を見ていてくださいませ。と。男はそう呟いた。その言葉が耳に入り、その男を見た。男は小窓から漏れ出す月の光を浴びながら両手を合わせて言葉を呟いており、祈る人間を見たことが無かったナナにとってそれは目を引くものだった。
元々、路地裏では誰かに視線を向ける、または注目する事はあまり好ましい事では無かった。人同士の関わり合いを好まない人間が多い路地裏の世界において、誰かに見られるという事を嫌う人間も多かった。だからこそナナは自分が誰かに見て貰いたがっていても、人の事を覚えていても、具体的に足を止めて誰かを見つめるようなことはしないようにしていた。その為、その牢の中で祈っている男だけが異質であることに気がついていなかった。
この牢に居る人間はナナも含め、皆座ったまま時間が過ぎるのを待っている。そこには希望や光などというものは無かった。しかし男は違った。男は祈っていた。神と呼んだ存在が自分を見てくれていると信じているように。男は自分にしか見えない光を持っているように見えた。
男は、ナナが朝目覚め周りの人間を見てみると既に祈っていた。牢に唯一備え付けられた小窓から差し込む光を身体に受け、目を瞑って手を合わせて何かを呟く。祈るという言葉自体は知っていても実際に人が祈っている所を見たことが無かったが、男が手を合わせ何かを呟くのを見て、あれが祈る事なのだと理解出来た気がした。
衛兵が訪れ、いつも通りバケツの交換をしてパンとスープを置いていく。数人の男たちと女がパンを取り、戻っていく。それを見てナナもパンを取り、スープを一口飲んだ。それから少しして牢の人間がまばらにパンを取り始めた頃、男は祈るのをやめ、ようやく立ち上がってパンを取った。そして元の場所へ戻り、食べる前に何かを呟いてからパンを千切って口に入れ始めた。ナナにはそれが何なのかわからなかった。
パンを食べ終わると、男は再び祈り始めた。少し経つと祈りをやめ、夜になるとまた祈っていた。そして次の日ナナが目を覚ますと、また男は祈っていた。また衛兵が来るまで祈り、パンを食べ、少しだけ祈って夜にまた祈る。男は、牢の中では極めて異質な存在だった。
一体何故祈り続けるのか。祈る事には何の意味があるのか。祈りとは遠巻きな場所に居たナナには、男の行動がどのような意味を持つのかまるで分らなかった。
ある日ナナが、祈るのをやめて座り込む男を見ていると、視線を気取られたのか男がナナを見た。思わず肩が跳ねた。不快にさせてしまったかもしれないと思い恐ろしく思ったが、男は笑みを浮かべ、会釈をするだけだった。不快そうな反応をしなかった男を見て安堵すると共に、自分とは違う人間なのだと思った。今まで見られている事に気付いて不快そうな反応をしなかったのはザックだけだった。ザックが何をしていたのかなどは知らなかったが、少なくともナナとは全く違う生い立ちの人間であることはわかりきっていた。男も、そのザックと同じなのだろうかと思った。
この牢の中に居る人間は、皆自分と同じような生い立ちの人間なのだと思っていた。しかし男は違うようだった。男は何故ここに居るのか、そして何故祈るのか。そういった疑問が益々ナナの視線を男に引きつけた。
それから眠り、また目覚めた。顔を上げ、最初に視界に捉えるのは男だった。男は相変わらず祈っていた。気付けば、目が覚めてまず男の方を見るのが癖になっていた。特に理由があるわけではなかったが、自分に助けが来ないという孤独感が和らぐ気がした。
やがて衛兵が牢を訪れ、パンとスープを置いていった。数人がパンを取ってから、ナナも遅れて取った。その時、男を一瞥する。何故パンを取らないのだろうと思った。時間が経って残るのは状態の悪いパンだけで、早く取れば取る程得な筈だった。
男への疑問が増え、深まる度に、ザックが自分を救いに来ないという事実は段々と頭から離れていった。
眠り、目覚める。その日もいつも通りパンを取りに行こうと思ったが、ふと視線で男を捕えた。ナナは立ち上がろうとした体制を戻し、座り込んだ。
そしてしばらく待ってまた複数人がパンを取ってから、パンを取りに行った。そのパンはカビなどは生えていないものの土埃のようなものが付いており、手で払ってから口へ運ぶと小さな苦みを感じた。
次の日も同じように少し遅めにパンを取った。今度は少しカビの生えたパンで、それを食べると路地裏で暮らしていた頃を思い出した。他人の為に身を削り、善意を振りまいていたあの頃を。そこで、あの男も同じことをしているのだろうかと思い至った。自分が少し遅くパンを取ることで、他の人間が良いパンを取れるようにしている。そして今ナナも同じことをしており、男の善意を見つけた。
その日から、ナナも遅めにパンを取るようになった。手に入るのは前より状態の悪いパンだけだったが、それが何処か落ち着いた。実際に男が善意からそれを行っているのかはわからなかったが、少なくともナナ自身は望んでそうしていた。
また朝を迎え、衛兵が持って来たパンを他の人間が取っていった。やがてナナも立ち上がり、パンを取りに行った。そして袋の横にあった鍋のおたまを手に取り、スープを一口飲んだ。
「————パン、もっと早く取った方が良いですよ」
おたまを鍋に戻した所で突然そう声をかけられ、肩が跳ねた。
「状態の悪いものしか残りませんから」
周りに聞こえない程小さな声。ナナにだけ聞こえるように、続けてそう言った。声の方へ振り返るとそれはいつも祈っていた男で、目が合うと少しだけ微笑んだ。男はパンを袋から取ったが、そのパンはその半分ほどが踏まれたように潰れてしまっており、状態が良いとはとても言えないものだった。
「……なんで……早く取らないの?」
緊張で拙くなる言葉でそう問いかけた。ザックに対しては何か聞こうとするたびに逆らえないという気持ちから緊張を強いられたが、男の善良そうな雰囲気が自然とそれを少しだけ解いていた。
「……私は、他の方に良いパンを取って欲しいので」
そう言って、男は元居た場所へ戻っていった。その男の後ろ姿を見た後、袋の中に残ったパンを見た。その中には二つのパンが残っており、その内の一つを手に取った。それは男が取っていったものよりは明らかに状態の良いパンで、それは残ったもう一つもそうだった。
男の行動は、ナナが路地裏で行っていた行動を思い出させた。誰が見ているのかもわからないのにそれを続けていく。
元の場所に戻り、パンを口に運んだ。今まで路地裏で行ってきた、意味があるのか未だにわからないままの施し。それをこの牢の中で行う男の行動により生まれた感情が、確かに今までの自分の行動が無駄では無かったと裏付けたように感じた。
パンを食べ終わり、男の方を見た。男は食事の前の祈りがあったからか未だに食べ終わっていないようで、潰れたパンの欠片を口に運んでいた。そしてやがて食べ終わり、目を瞑って手を合わせ、何かを呟き始めた。
男の呟いていること、行っている事。色々な事が気になり始めて、気付けばナナは立ち上がり、ゆっくりと男の元へ歩いていっていた。その間に、やはりやめておこうかという考えが何度も頭の中を反芻した。しかし結局足を止めることはせず、そのまま男の背後で立ち止まった。男はナナの存在に気付いていないのか、ただひたすらに祈りの言葉を呟いていた。
「……祈ってるの?」
ナナはそもそも祈るという行為をしたことが無かったし、言葉の意味合いについても曖昧だった。その為、祈っている理由について問いかけることは出来なかった。牢にナナの声が響き渡る。数人の男がナナの方を見るが、やがて視線を外した。それにナナは気付かなかった。
祈っていた男はナナの方を見ないまま、呟く声を途切れさせた。話しかけてきた人間よりも、祈る方が大事であるというかのように。そしてそのまま、「そうです、神様に祈っているんです」と言った。
「神様……?」
「ええ。……神の存在は信じていませんか?」
そこで男が振り向き、ナナを見ながらそう言った。男は柔和そうな顔立ちで、優し気な話し方の印象がそのまま顔に現れているようだった。男の言葉に、どう返せば良いのかわからなかった。そもそも、神というものがどういうものなのかわからなかった。
「……知らない」
ナナがそう言うと、男は納得したような反応をして口を開いた。
「神様は私たち人間とは別の場所に居る存在で、私たちをいつも見守ってくれている……と言われています」
「見守って……?」
「はい。そして私たちの良き行い、悪しき行い。それら全てを見通し、恵みや罰をお与えになるのです」
「それって……どんなの?」
「目に見えて直接何かが下されることは殆どありません。生きる上での幸福や不幸、そして試練。そういったものだと私は考えています」
生きる上での幸福や不幸、そして試練。その言葉に、ナナは今までの事を思い起こした。廃棄物の山を漁り、誰にも見られることなく生きて来た路地裏の世界での日常。その後ザックに拾われ、ザックの役に立とうとするうちに盗みに入り、沢山の物を傷つけて来た事も。それらが男の言う不幸なのだとしたら、自分は何をしてきたのだろうか。
路地裏の世界で過ごしてきた長い時間。その時間は、ナナから余りにも多くの物を奪っていった。憧れ、望んで、その為に自分を傷つけて来た。しかし何も訪れず、その後訪れたのは一人の男と、望んだものを手に入れるために他の物を傷つけなければならない状況だった。それらが全て、自分が行った悪しき行いから来るものなのだろうか。
「……本当に居るの?」
男の言った言葉に関して考えていた際中、ナナは思わずそう問いかけた。そんな訳が無いと、そう思った。
路地裏の世界に来たのは、まだナナが子供の頃だった。来る前の事を覚えてはいないが、少なくともその後の人生を空腹や寂しさに苛まれながら生きるほどの事などしていないと思いたかった。悪い行いに対して不幸を、良い行いに対して幸福を与えてくれる存在が居るなら、何故自分はこの路地裏の世界に飲み込まれたのか。そう問いかけたかった。
「存在の証明は、難しいことかもしれません」
想像もしなかった返答に、確かに居るという答えを予想していたナナは肩透かしを食らったような気分になった。
「しかし少なくとも、神が居ても居なくても、私たちを見ていても、見ていなくても。私たちには教えがあり、そして祈ることが出来ます」
男がナナの目を見ながらそう話す。
「祈ることで、教えを守ることで救われる存在が居ます。私がそうであるように」
男の飲み込まれそうな眼差しに、思わず目を奪われる。
祈ることで救われる人間。祈り、何かに縋って、自分が見て貰えていると思う事で救われる。それはナナが求めていたものと酷似しているような気がした。何より、男もそうなのだろうか、と。そんな想像がナナの中に現れた。自分と同じ、男も誰かに見て貰いたがっているのだろうかと。
「……私でも、祈ることは出来る?」
ナナの言葉に、男が歓迎するように微笑んだ。
「祈ることに、資格も何もいりません。ただ祈る心があれば」
男は自分が居た場所から少しずれて座り直し、自分が座っていた場所に招くようにナナを見た。ナナはそれに従い、男が座っていた場所に座った。視線を上げると、小窓から陽の光がナナに差し込んだ。
「……私はイグメイと言います。貴女のお名前は?」
男————イグメイが名乗り、ナナにそう問いかけた。
自分の名前。少しの逡巡。
今の自分の名前は、ザックに付けてもらったものだった。七人目だからナナ。そんな単純な理由で。名前を付けて貰った時は内心で喜んでいたが、今この状況になっても使い続ける理由は無い筈だった。
「……ナナ」
しかし少しの逡巡の末、やがてそう答えた。ザックから貰った名前を捨てようと思った瞬間、様々な言い訳が湧いて出た。名前が無いのは不便、名前が無いと言えば困らせてしまうかもしれない、そもそも名前を捨てる理由も無い。そんな言い訳が湧いてくるのも、たった一つ、最初に出て来た思いの強さからだった。ただ、一度得た名前を失う事は怖かった。
「ナナさんですか、良い名前ですね」
「……」
ただ数字から付けられただけだという理由もあったし、ザックに付けられた名前を褒められるのは変な気分だった。
「……どうやって、祈れば良いの?」
褒められた空気を断ち切るためそう問いかけた。
「特別な作法は必要ありません。祈る気持ちさえあれば、それで。ですが、最初は私の真似をしてみましょうか」
どうすれば良いのかわからず困った様子だったナナを見て、イグメイがそう言った。
「まあ、真似をとも言いましたが、座る体制も私と同じである必要はありません。私の座り方を貴女がすると、膝が痛むでしょうから」
その言葉を聞き、足を横に流すようにして崩した。その際イグメイがナナの纏っている布の間から見えた脚を見ていたが、ナナは気付かなかった。
イグメイがナナの両手を握り、手を合わせさせた。少し過剰に触れて来た事に驚いたが、善良そうな男が何か悪意を持ってしているという事は無いだろうと思った。
「手を合わせて、神様へ伝えたいことを思い浮かべるんです」
「伝えたいこと?」
「日頃の感謝や願い事……例えばこうなって欲しいだとか」
そう言われたが、実際に何を考えながら祈れば良いのかは明確に浮かべられないまま目を瞑った。本当に神が見てくれているとは特に思っていなかったし、祈ることで伝わるというのも良くわからなかった。
目を瞑ったまましばらく経って、ナナはふと目を開いた。いつ終われば良いのかわからなかったし、隣に人が居る中で長く目を瞑っていると危機感から少しだけ胸がざわついた。
合わせていた手を解き横を見ると、イグメイはまだ祈っているようだった。その横顔を見て、再びナナは手を合わせて目を閉じた。その後は隣で祈っているイグメイの事ばかりを考えていて、結局神というものことを純粋に考えることは出来なかった。
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