第五章


 ナナは廊下の端で目を覚ました。少し肌寒く、纏っていた二枚の布を中から引っ張って体を締め付けるように密着させた。ザックから与えられた毛布は基本的に下に敷いて眠っていたが、これからは毛布にくるまって眠らなければならないと思った。やがて体を起こし、そこで丁度ザックがドアを開けて現れ、ナナを見た。

「あ……」

 ナナは何を言えば良いかわからず、口から言葉が何も出なかった。しかしザックに何か言葉を求めているのは確かだった。

「……」

 しかしザックは足を止めることも無くナナを一瞥しただけで、そのまま何も気にする必要が無いというかのようにナナから視線を外して通り過ぎ階段を降りていった。

 一人残されたナナは俯き、腕を抱いた。ザックの態度は、出会った頃と比べてかなり変化していた。礼を言われることは殆ど無くなったし、命令以外で話しかけられることも殆ど無くなった。食事もザックは自分の部屋で取るようになって、ここ最近で共に食事をした記憶は殆ど無かった。そしてそれが続くたび、自分はもっとザックの為に努力しなければならないと思うようになった。

 金貨を二枚盗んで来いと言われれば三枚盗って来たし、四枚盗って来いと言われれば五枚盗って来た。とにかく、ザックが求めた以上の成果を上げようとした。しかしナナに掛けられる労いや感謝の言葉は何も変わらず、むしろナナへの態度がより淡白になっていくようだった。

 自分が従順だから。ザックの態度を理由づけるそんな言葉が、何処からか浮き出て来た。しかしそうでは無いと信じるしか無かった。ナナがザックに対して何が出来る事といえばこれしか無かった。これ以外の方法を何も知らなかった。

 そんなナナの感情とは裏腹に、ザックの要求も最初は金貨一枚だったのが二枚に増え、そして店に入る時には四枚を要求し、その後も段々と膨れ上がっていった。

 気付かなければ誰も不幸にならない。もはやザックが最初に言った言い訳は薄れていき、ただ記憶の端に存在しているだけだった。それに考えを馳せることも殆ど無い。全てはザックに見てもらう為だった。役に立てばそれだけ自分を見てくれると思った。

ザックの為に多くを盗み、踏み入れてはならない場所へ踏み入れるたびに、抜け出すことの出来ない暗闇が深まっていくような感覚に陥った。

「ナナ、こっち来い」

 ザックがナナを呼び、それに答えてザックの元へ向かった。

「次はちょっとデカめの屋敷に行ってもらう」

「……」

 ザックが話し始めたのは次に盗みに入る場所の話で、それが分かりきっていたナナは何の動揺も無く話を聞いた。前までは名前の呼び方からザックが盗みに関する話をするのだとわかったが、今はもう盗みの話をする時にしかナナの名前を呼ばなくなった。

 もはやナナが盗みに入ることに対して、ザックは当たり前のように感じているのだろう。それは見え透いていたし、頼むという感覚さえ無くただ淡々と指示しているような感覚なのかもしれなかった。

 そんなザックに対してどういった感情を抱こうと、ナナはそれを拒否できなかった。あの店に盗みに入り、そしてもうザックの元で生きるしかないのだと決めてから、もう選択肢など無かった。例えザックがもうナナに対して何の感情も無かったとしても、拒否した瞬間去って行くであろう今の平穏を手放すことなど出来なかった。

「最近商売が上手く行ってるらしくてな。それでちょっと調べてみたら、他のデカい屋敷と違って外しやすそうな錠してやがった。盗みに入るにはもってこいの家だ」

 机を指でトントンと叩きながらそう話していく。ナナはそれをただ聞くだけだった。

「けどその家はそこの主人とその家族、それに使用人も数人住み込みで住んでやがる。普通の民家よりも目が多くて見つかる可能性が高い」

 ザックはそこで、ようやくナナを見た。ザックの瞳がナナを写す。

「やってくれるな?」

 最初からたった一つの答えが返ってくる事しか考えていないようにそう問いかけた。聞かなくともやれと言えばナナは盗みに入る。ただザックにとってはやるかどうかの質問をし、ナナが自分で了承するという事が大切だった。最初から選択肢が無かろうとも、曲がりなりにも自分で選択したという事実が従順さを生み、もっとこの男に従順でならなければという心理をナナの中に形成する筈だった。

「……大丈夫」

 いつもと同じように、ナナはそう答えた。ナナは選択した。全てはザックの為でもあったし、自分の為でもあった。


 いつも通りザックの家を出て、言われた場所へ向かった。何度もザックの家を出て他の場所へ向かった為、ザックの家の周りがどういった構造になっているかは殆ど記憶していた。最初と比べれば足取りも早く、そして淡々としていた。

 初めて人の家へ入る時、そして初めて店に盗みに入った時。その両方で、ナナはザックから盗みに入る際に気を付けることを教えられた。他にも細かい注意点などを説かれることもあった。しかし今回屋敷に盗みに入れと言われたが、ザックはナナに対して殆ど何も教えてくれなかった。ナナもザックと時間を共に過ごしたかったし、何か教えることは無いのだろうかと思っていた。しかしそれを問いかける勇気は無かったし、ナナへの態度が淡白になっていったザックに対して話しかけること自体、出来そうに無かった。

 目的の場所へ向かい、やがて一つの大きな建物の扉の前にフードを被った人物が立っているのが見えた。ナナを見つけると歩き出し、すれ違うようにしてナナが扉の前に立った。立ち去った後、その人物はナナを監視するのだろう。しかしナナはもう頼まれればその盗みをしっかりとこなしたし、気にする必要は無かった。

 建物を見上げた。その建物は予想よりもかなり大きく、近寄って見上げるとさらに大きく見えた。これほど大きな建物に盗みに入るのは初めてだったし、失敗するかもしれないという想像が頭を過ぎった。

 扉の取っ手を掴み、ゆっくりと開いた。不安から心臓の鼓動が早くなったが、一歩引いたところに意識があるような感覚がナナの中にあった。何処か無関心で、無理矢理何も感じないようにしているような感覚。

 扉の蝶番が音を立てると手を止め、取っ手を持って扉を少し浮かせた。そして再び開いていくと音は立たなくなり、そのまま自分が通れる隙間を開けた。そのままその隙間をするりと抜け、中に入ってからその扉が音を立てないようにゆっくりと閉じていく。しかし完全に閉めることはせず、少しだけ透かしておいた。もしも見つかった時、すぐに逃げられるようにするための備えだった。

 ナナが入った場所は暗かったが、広いという事は感覚で分かった。ナナの目はすぐその暗闇に慣れ、周りを認識出来た。ナナが今居る場所は厨房のようだったが、民家ではそうそう見られない広さで、そこが厨房だと理解するのが少し遅れた。それに加え生活感があまり感じられない程に整頓や掃除が行き渡っており、ザックの使用人が住み込みで働いているという言葉を思い出した。この厨房はその使用人が清掃や整頓を行っているのだろう。ナナは使用人という存在について殆ど知らないも同義だったが、見つかってはならない人間が多いという所には注意しなければならなかった。

 足音を消しながらゆっくり厨房を見て行くと、厨房から出る出口が裏口を除いて二つあることに気付いた。片方には扉があり、もう一つには扉が無くその先は別の部屋に繋がっているようだった。厨房に硬貨があることは少ない。硬貨を盗むためには先へ進まなければならなかった。二つの出口どちらを進むか一瞬の逡巡を挟んだが、扉を開けその先に進むよりも扉の無くその先に部屋が見える方へ進んだ方が安全であると思い、扉の無い方へ向かった。

 警戒しながらその先にある部屋を覗き込むとそこは奥行きのある広めの部屋で、中心に長い机が一つ置かれていた。その左右には十脚を超える椅子が備えられており、それら以外にも壁には棚や調度品が並んでいた。

 厨房から直接繋がっている事や部屋の内装を見て、その部屋が食事をする部屋なのだと理解した。それと同時に椅子の数を見て、これほどの人数が共に食事を取るのかと驚きと共に警戒を強いられた。しかしそもそも食事を取るのにそれらの椅子を全て使うわけでは無く、また使用人は屋敷に住む人間と一緒に食事は取らない。ナナはそんなことなど知る由も無かった。

 人が食事をよく取る場所————もしくはそこが食事だけの為に設けられた部屋なら、ここに金銭が保管されている可能性は低い。幾度も繰り返してきた盗みの経験からそう推測したナナは、その部屋にあるものには触れずにそのままその部屋を出る扉へ向かおうとしたが、そこで足の裏に感じた硬質な感覚に思わず床を見た。床は何か固いものが真四角に切り取られ、埋められているようだった。石畳や木材などとは明らかに違う質感で、ナナにはそれが何なのかわからなかった。振り向いて厨房を見ると、厨房はその部屋の床とは違うもののようで、床の素材を変える必要性が理解出来なかった。やがてそれらについて考えるのは止め、再び部屋を出る扉の元へ向かって、ゆっくりと扉を開けてその先を覗き込んだ。

その先は他の部屋とは違ってランプによって最低限の明かりが点いているようで、それを見てナナは警戒を強めた。人が朝まで通らない場所をわざわざ明るくする必要は無い。誰かはわからないしまだ可能性の段階ではあるが、夜の間にそこを通る人間が居るかもしれないという事だった。屋敷内をナナが歩いている瞬間をその人間に発見されればナナを襲う結末は安易に予想できたし、想像したくも無かった。そこからさらにゆっくりと扉を開いていき、扉の先の景色が詳らかにされていく。

そこは広間のようで、まずその広さに思わず圧倒された。今まで見た事の無い広さ。様々な建物に盗みに入る中、ザックと過ごしている家の一階もそれなりの広さなのだとわかっていったが、今目の前にあるそれはそれらとは比べ物にならなかった。

ナナの視線の先にある壁には扉が二つ見え、少し扉から顔を出して周りを見ると、その他にもう二つの扉が見えた。その内の一つは位置的に先程ナナが通ってきたキッチンに続く扉だとわかる。もう一つは大きく両開きで、この屋敷に外から入ってくるための扉なのだろうと予想できた。

それにその広間には大きな階段が付いており、そこからそのまま二階に行けるようだった。幅の広い階段は中腹で左右に分かれ、この屋敷の二階程の高さで剥き出しになった通路に繋がっているようで、その二階の通路にもさらに扉があるのが見えた。ナナが今居る扉の上にも通路があるようだったが、恐らくそちらにも同じ数の扉があるのだろう。

 二階の通路を見てふと天井を見上げると大きなシャンデリアが吊り下げられているのが視界に入った。しかしシャンデリアを初めて見たナナはその天井に吊り下げられたガラスの装飾品の存在価値がわからず、それが部屋を照らすものであるという事がわからないまますぐにそれを視界から外した。

 階段の横には太めの柱が二本あり、そこに一つずつランプが付いていた。広間を照らす光源はそれら二つだけのようで、それ以外に広間を照らすものは見えなかった。

 見える範囲で一階に二つ、二階に三つ。ナナの頭上にあるもう一つの通路にも恐らく扉があり、二階へ上る事は考えていないとはいえ、ナナが硬貨などを持って帰るために探さなければならない部屋はかなり多いように思えた。

 今居る部屋にも、ナナに金銭的な価値はあまりわからなかったがそれでも調度品がそれなりにあった。今から硬貨を探す危険を鑑みると、それらを一つか二つ持って帰れば良い気がした。

 硬貨を持って帰るのが一番良いというのはわかっていたが、それを遂行しようとするとナナの身に危険が及ぶ確率は決して低くない。ザックもそれを望んでいない筈だった。もしもナナが捕まって価値のあるものが手に入らなければザックにとっても損害である筈だったし、捕まれば手を回して助けてくれると言っていた。それが簡単に出来る事のなのかはわからなかったが、その分の手間はかかる筈だった。

 そう思う一方、本当にザックが自分を助けてくれるのかという考えが頭を過ぎった。最近のナナへの態度。あんな態度を取る男が、わざわざ捕まった自分を助けてくれるのだろうかと。自分が危険な状況に陥り、ザックが救ってくれる場面を思い浮かべようとした。そこで、ナナの思考に亀裂が走る。いくら想像しても、ザックが本気でナナを心配して救い出してくれる情景が思い浮かばなかった。ナナを助けようとするザックの表情が霞がかかっているように出てこない。

そんな筈が無い。ザックは自分を助けてくれると言った。きっとやってくれる。ザックが助けてくれるから、大丈夫。そう思い込ませ、無理矢理恐怖心を押し潰すような感覚だった。誤魔化しているような、わざと麻痺させているような。何処か冷静なままでいる自分の思考が、やめた方が良いと警鐘を鳴らしていた。それに従った方が良いという事はわかっていた。しかしどうしてもザックがナナを心配する様子が浮かんで来ない。そんな筈が無いと否定しようとすると、ナナの足は自然と広間へと進んでいった。

 真っすぐと、一つの扉に向かって歩いていく。静謐なその空間の中、どれだけ小さくとも音を鳴らしてはいけないと思ったし、同時に時間をかけてゆっくりと歩くと誰かに見つかってしまうかもしれないとも思った。正反対の不安が足取りを覚束なくさせ、身体がフラつく。

 頭の中で何かが警鐘を鳴らしていた。これ以上は進まない方が良い、今日の自分は何処かがおかしいとそうナナへと教えようとしていた。しかしナナの意思はそれらに対して厚い壁を立てて、けしてそれを思考へと至らせようとしなかった。

 ランプの小さな炎が揺らめく。ふとした瞬間に誰かが起きて来て屋敷を回り始めるかもしれない。もしそうなれば、もうナナには何も出来ない。今の状況では、どの部屋を探すのかと思考する時間すらもナナを危険に晒すものだった。その為ナナは一部屋だけ選別し、その部屋の中を探しても何も無ければ先程の部屋の調度品を持って帰る事にした。探す部屋は一階にある残り二つの扉の先どちらでも良かったが、入口から遠い方の扉へ向かっていった。

 やがてその扉の元へ辿り着き、ドアノブへ手をかけた。鼓動が早くなったのを感じた。ドアノブから一度手を離し、扉に耳を当てて耳を澄ました。人の寝息が聞こえるとは思えなかったが、とにかく危険を減らすためにそれをしたかった。やはり何も聞こえず、それを確認するともう一度ドアノブを握った。鼓動がさらに早まって、思わず手が震えた。危険だと本能が告げていた。

ふと振り返って二階の通路を見た。今ナナが居る位置は向かいの壁にある二階の通路から人が出てくればすぐに見られる場所だった。広間に長く居るのは確実に危険だった。今すぐ帰るべきだと、誰かから告げられているようだった。しかしナナはドアノブをひねり、ゆっくりと開いて中を覗いた。隙間から見えた部屋の中には本棚と机が見えた。机の上には火のついたランプが乗っており、その光は強くは無かったが確かにその部屋を照らしていた。誰か居るのかと、鼓動がさらに高鳴った。

 先程よりももう少しだけ扉を開いて再び中を覗いた。中に人が居る様子は無く、誰も居ないなら問題が無いと思いナナはさらに扉を開いて自分が通れるだけの隙間を作って部屋に侵入した。そして後ろ手にドアノブを持って、閉じた時に音がしないように捻りながらゆっくりと扉を閉めた。

 大きな本棚が壁沿いに多く並び、さらにその中に本が隙間なく入っていた。ナナはそれが何かわからなかったが、その本棚に少し近付いて本をまじまじと見てから、ようやくそれが紙を束ねたものであると理解した。ナナが漁っていた廃棄物の山にも稀に捨てられており、名前は知らずともその存在は知っていた。開いてみても文字が読めない為何が書いてあるのかはわからなかったが、少なくとも自分には縁のないものという事だけはわかっていた。

 しかしそうであっても、ナナはその景色に圧倒されていた。何のために集めているのかも何故必要なのかもわからなかったが、少なくとも一つの物がそれだけ並ぶその景色は壮観だった。自分の生活の中では想像もつかなかった、大通りを歩く人間にだけ許されたものを見せつけられたようだった。

 そして並んだ本棚を目で追っていくと、やがて部屋の中にさらに奥へ進む扉があるのを見つけた。この部屋が何に使う部屋なのかわからなかったし、奥にある部屋がどういった部屋なのかなど予想もつかなかった。その為、とりあえず部屋にある机などを調べることにした。

 部屋の中央に置かれた机を調べると引き出しが付いており、そこを調べたが高価なものを閉まっているようには見えなかった。部屋にはそれ以外に何かを仕舞える場所は見受けられず、先程見つけた扉の先へ向かうしか無いのかと思った。

しかしその扉の先へ行くのは怖かった。進むことも戻ることも出来たが、ナナはその部屋で他に探すべき場所は無いかと、そんな現実逃避の為の時間を作った。そうしてその部屋の景観を眺めている中ふと振り返り、その視線の先の壁に飾られたものを見てナナの目は大きく見開かれた。

 壁際に並び立つ大きな本棚に気を取られ気付かなかった、本棚のある壁の向かいの壁にあったそれは、一枚の大きな絵だった。母親に抱かれた子供と、その横で微笑む父親。子供を抱える母親も慈愛に満ちた表情で子供を見ており、一目見てその子供が愛されているのだとわかった。

 幼い頃に捨てられ、自分を見てくれる人間など誰も居なかった自分と、生まれた時から大切にされ、親が自分の成長を見続けてくれる子供。普通の人間が生まれながらにして持つ存在。それを、自分は持っていない。

それを得るため、今も人の家に盗みに入り誰かを不幸にしている。この子供は共に絵に描かれた両親という存在を、誰かを不幸にして手に入れたのだろうか。そんなことがある筈が無かった。

「……おねえさん、だれ?」

 心臓が跳ねあがり、思わずその声の先を見た。ナナの視線の先では、眠そうに目をこする子供が、ナナを訝しげに見ていた。

「おねえさん、どうしてここにいるの?」

 思わず後ずさる。

「ここは、ぼくとママとパパの家だよ……?」

逃げなければと、危機感が思考をひたすらに叩いた。しかし足は動かない。脚の震えが止まらず、動悸が激しくなった。動揺が体を満たして、固まっている以外何も出来なかった。

「なんで……ここにいるの……?」

「ラン? トイレに行ったんじゃ……」

 そしていつの間にか開いていた奥へ進む扉から、ランプを持って一人の女が現れた。ナナが見た絵で子供を抱いていた女だった。子供を追って現れたのであろうその女は子供を見た後、その子供の視線の先を見た。その女と、ナナの目が合った。女の手からランプが落ち、音を立てて転がった。

「だっ、誰かッ! 誰かぁ!」

 女が子供を抱き、困惑と驚愕、そして敵意を露わにしてナナを睨む。子供もその母親の様子を感じ取り、ナナを見る目が疑問から怯えに変わった。二人がナナを見る。

そこで理解した。自分は、この子供の平穏を破壊したのだと。生まれ持って恵まれた子供。自分を見てくれる存在を持った少年の平和を、今自分が叩き壊したのだと。

『一回は考えたこと無いか? あいつら皆恵まれてるなって』

 ザックがナナに盗みを頼んだ時に言ったことを思い出す。

『生まれついて家があって、親が居て、暮らしていけるだけの金がある。そいつらはずっと恵まれてるんだ。そこから恵まれない俺たちが少し貰ったって、誰も文句言いはしねえさ、な?』

 違う、そうではない。自分がしたいのは、そんなことでは無かった。ただ自分の事を見てくれる人間が居ればそれで良かった。それだけで良かった。しかし、ザックはナナにその恵まれた人間たちの日常を破壊することを望んだ。だからやってしまった。

 ナナが後ずさった。先程まで動かなかった足が動く。それに気付いた瞬間、ナナは部屋から飛び出した。

「どうしましたか!?」

 そんな声が広間に響いた。その声の先を見ると、向かいの壁で剥き出しになっている二階の通路から、身を乗り出す勢いで女がナナの方を見ていた。部屋から出てきたのが見知らぬ薄汚れた女であると認識すると絶句したようだったが、やがてその状況を理解すると「皆起きろ! 盗人だ!」と叫び、自身も通路から階段の方へ向かった。ナナを捕まえるつもりなのだとすぐにわかった。

 ナナは裏口から逃げようと、キッチンへ直接繋がっているであろう扉の方へ向かった。その扉だけ鍵が閉まっており開かないかもしれないという想像が頭を過ぎったが、扉の前へ辿り着いて焦りながら扉を開くとそれは簡単に開き、そのまま裏口へ走った。

 透かしておいた裏口の扉を乱雑に開き、すぐにその屋敷を飛び出した。そのまま来た道を走ると、先ほど出て来た裏口の扉が開く音がした。思わず振り返ると、先程二階の通路からナナを見ていた女がナナの後ろ姿を見つめていた。そしてその女は周りを見て、やがて何かを見つけたような反応をすると、逃げるナナを指さした。

「その人を捕まえてください!」

 女の視線の先を見ると、鎧を着た二人組の衛兵が少し驚いたような反応でナナの方を見ていた。そしてその二人はナナを捕まえるべき対象と判断すると、ナナに向かって駆け寄って来た。ナナはそれを見て前を向いて走り出す。

「おい! 待て!」

 静止を求める男たちの声を置き去りにして走った。ナナを追いかける足音が聞こえる。左に曲がり、右に曲がり、そしてまたすぐ左に曲がった。路地裏は入り組んでいて、逃げる人間を追いかけて捕まえるのは難しい筈だった。しかし今までとても健康的な生活とは言えない生活をしてきたナナの脚力はとても虚弱で、男たちは鎧を着ているにも関わらずナナとの差を段々と縮めていた。

 近付いてくる音に、思わず振り返った。そこには先ほどまでよりも明らかに距離を縮めて追いかけて来る男たちが見え、走って逃げきるのは不可能なのだと悟った。

 角に入り、そこでさらにもう一度曲がってそこに見えた大きな箱の後ろに隠れた。徐々に迫り来る男たちの足音を聞き、見つからぬようにと手で口を塞いで息を潜めた。やがて近くで男たちが立ち止まった足音が聞こえた。

「クソッ、何処行った?」

「わからん、でも近くに居るはずだ」

 そんな話し声と共に、男たちが近くを歩く足音が聞こえた。男たちはこの近辺を探すようだった。恐ろしさから見つかりたくないと思う反面、ナナは先程子供に見つかった瞬間の事を思い出していた。

 子供とその母親に見つかった時、足が動かなかった。しかし二人の敵意の乗った視線に晒されていると、やがて動かなかった足が動いた。日常を破壊したことへの謝罪や動揺の気持ちよりも、逃げなければならないという感情が強く働いた。

 結局、自分は自分の事しか考えていない。最初はあった罪悪感も、盗みを働くたびに薄らいでいった。全てはザックに見捨てられない為。そんな言い訳をしても、結局ナナが今まで壊してきたものは何も変わらない。今まで何度も気付くきっかけはあったのに、今回実際に目の当たりにしてようやく気付いた。

 耳を澄まし、自分を追いかけていた男たちの音を聞いた。あの二人の元に姿を現せば、ナナは捕まり何処かに連れて行かれるのだろう。ザックの話によれば牢で拘束されて出られなくなるらしかった。

 捕まると、罪を償うために投獄されるという感覚も知識も無かった。ナナはただザックから聞かされた話しか知らず、それは大抵ナナを追いかける男たちを恐ろしく思わせるためのものでしか無かった。

 今はとにかく逃げるしかない。盗みを行ったことに対する罪悪感はあれど、今はそう思う事しか出来なかった。やがて近くから去って行く足音が聞こえ、立ち上がりそこを去ろうとした。しかし足がふらついて上手く立てず、箱に寄りかかる形になってしまい箱が動き音が鳴った。先程の足音でそこから去ろうとしていたのは一人だけだったらしく、音でナナを見つけた衛兵が大きな声で叫んだ。

「いたぞ! こっちだ!」

 その声に自分が見つかったのだと悟り、再び走りだした。しかし元々近かった距離はすぐに詰められてしまい、やがて伸びていた髪を後ろから掴まれ動きを止められた。そのまま男たちに腕を掴まれ、地面に拘束された。

 腕を押さえつけられ、二人の男が馬乗りに乗って拘束した。足と腕に力を籠めるが、押さえつけられてまるで動けない。

「このっ、大人しくしろッ!」

 力を振り絞って逃げようとしたが、乗りかかっていた男はナナの頭を押さえつけ、そして腰に下げていた棒でナナの頭を殴打した。

「っ……」

 意識が遠のく。耳鳴りがして、殴打の衝撃とそれで地面に頭部がぶつかって痛みよりも先に意識が遠のく感覚が来た。肌を伝う感覚から、血が出ているのがなんとか理解出来た。

「ったく、めんどくせえ。こっから近いの何処だっけ」

「こっからだと……。……あー……第四収容所かもな」

「うげ、マジかよ……」

 朦朧とする意識の中、そんな会話が聞こえた。頭が回らず、何を話しているのか理解出来ない。

「というか他のとこってなると距離あるし、あそこしか無いかもな」

「まあ良いけどよ……。あそこの奴ら苦手なんだよな……」

 何も聞き取れず、もう何が聞こえているのかも分からない。意識がさらに遠くへと手放され、やがて完全に途切れた。


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