第四章
あれから数度、ザックに言われてまた盗みに入った。成果はまちまちだった。最初と同じように少しであれ成功した時もあれば、何も見つけられずに帰ってくる日もあった。逆に多くの成果を持ち帰ってこられた日もあった。盗ってきたものがナナの手に入ることは一度も無かった。持って来たものは全てザックに渡し、ナナに与えられるのはザックからの言葉だけだった。
最初の盗みを行ってすぐは食事が喉を通らない程の罪悪感に襲われたが、時間の経過によって少しずつ和らいでいき、また次の盗みを頼まれた。盗みに入った家のその後についてナナに知る方法は無かったし、考えないようにすることで何とか平穏を保っていた。しかし夜に目を瞑ると、盗みに入った家の顔も知らぬ家主の恐怖する姿が夢に浮かんだ。
何度やってもその後の罪悪感は完全には消えなかったが躊躇いは薄まり、自分が物を盗むという行為に慣れ、長けていくのがわかった。その度に自分が何か取り返しのつかない場所へ足を踏み入れているように思えて仕方が無かったが、ザックの感謝の言葉を聞くとそれら全てから守られた気がした。そう思うしか無いとも思っていた。
ザックに頼まれれば絶対に盗みに入ったし、ナナはただひたすらに従順だった。従順であることでザックが自分の存在を証明してくれると思った。そしてやがてあの老人の死体のように打ち捨てられた時、自分を思って悲しんでくれるとも。
「ナナ」
ザックがそう名前を呼んだ。いつもと違う名前の呼び方。こういった時、ザックはいつも名前を呼ぶ時よりも、何処か鬱憤を晴らすようにナナを呼んだ。少し、気付かれないくらいのほんの少しの逡巡を挟んで、ナナは振り返った。いつも通りに振舞いながら。
「……何?」
「また、行ってくれるか?」
そしてザックは、ナナの望んだ通りでは無い言葉を予想通りに発した。ナナはまたいつも通りに承諾した。従順であればあるほど良いと思っていた。例え従順さを演じることが難しくても、不安や疑問を押し潰すことで可能にしていた。
そんな生活の中で不意に、何故自分は物を盗むのかと問いたくなる時があった。もう既に、ザックが悩んでいた原因の問題など解決していた筈だった。しかし実際に聞く勇気は無かった。それにそれを聞かれることをザックが望んでいるとは思えなかったし、ナナはザックが望まない事をしたくなかった。
何故物を盗ませるのか。自分が七人目なら、今までの六人は何処に居るのか。何故自分を閉じ込めるのか。それら全て、自分の手の届く所に答えがあるとは思えなかったが、同時に自分は知らなくても良いのではないかと思うようになっていた。そしてザックに従っていれば上手くいくとも、例え上手くいかなくてもザックが守ってくれるとも。ザックにとって自分が大きな存在であるという事など考える間もなく否定できたが、確かに自分を見てくれているとは思えていた。誰かに見つかって牢に入れられても、手を回して出してくれると言っていた。きっとザックが守ってくれる。
「次は、何処へ行くの?」
平静を装いながらそう言った。その装った平静が見破られるのではないかという不安がザックへ向ける視線を少し逸らさせた。信頼が深まって行っても、未だザックの目を直視することは出来なかった。ナナにとって、ザックは自分を助けてくれる優しい善人では無かった。
「パン屋だ」
「……パン屋?」
「ああ。ヘリアンサスっていう名前の……って言ってもわかんねよな」
聞いたことの無い名前だった。そもそもナナは文字が読めないし、何処かに書いてあったとしてもそれを知ることは出来ない。その為店の名前を告げられても特に何も思わなかった。それよりも、次に盗みに入るのが店だという事に思考は割かれた。ナナが今まで盗みに入ったのは全て人の住む家で、店というものには入ったことさえ無かった。普通の家とそもそも何が違うのかさえ分からなかったし、ナナの心では既に不安が膨らんでいた。
「……いや、そういえばお前が居た五番街の辺りだな」
そんな不安が心を蝕んでいく中で、ザックの言葉が鮮明に耳に入った。ナナが元々いた場所の近くにあるパン屋。そう言われてナナが連想したのは、裏口に売れ残ったパンを置いていたあの店一つだけだった。
ザックがナナを見た。その視線に気付いてすぐ、俯いて目を見られないようにした。自分は動じていない。自分が元居た場所の近くにあったパン屋など知らない。ザックに今ある動揺を悟られてはいけない気がした。
しかし考えてみれば、そもそもそのパン屋がナナの知っている店であると確定しているわけでは無かった。きっと違うに決まっている。ザックはあの店に盗みに入れと言ってくるような人間では無い。自分でも滅茶苦茶だとわからなくなってしまった理論を、心の中で念じていく。
「なんか売れ残ったパンを店の裏に置いてやがってよ。恵んでるつもりなのかね。正直あんまり気に入らねえ」
しかしザックのその言葉を聞いたところで、あの店だ、と確信した。
「だからそこに盗みに入って驚かせてやってくれよ。それなりのもん取ってきてくれりゃそれで良い」
ザックはそのまま話を進めていく。しかしナナはその言葉を冷静に聞くことが出来ず、動じていないと取り繕う余裕も無かった。
「そ、こは……」
「なんだ?」
思わずそんな言葉が口を衝き、それを聞いたザックがそう問い返した。
「……えっと……」
「なんだ、出来ないのか?」
口に出してしまった自分の意思を取り繕おうとした瞬間、ザックの言葉と眼差しがナナを襲った。身体が強張る。思わず出来ると言ってしまいそうになったのがわかった。出来ると言ってしまった方が男との生活は楽だと理解できたし、そう言ってしまった方が良い気がした。しかし一方で、ここで何も言わずに了承してはいけない気もしていたし、実際にしたくなかった。
「お、お店……入ったこと無いし……」
「大丈夫だ、最初の時みたいに教えるから」
咄嗟にそう口にしたが、ザックは言い聞かせるようにそう返す。他にどういった理由を並べられるかと考えていたが、そんなナナの態度がザックへ伝わったようで、思い出したような反応をしてから面倒そうに頭をかいた。
「あ—……まあ金貨四枚くらい取ってきてくれよ。それぐらいやってくれりゃ良いからさ。そうすりゃまあ気付かねえだろ?」
盗みに入られたことに気付かなければ誰も不幸にならない。そう言っていた筈の男が、その店をお前の手で傷つけて来いと言うようにナナへ命令している。自分の抱いていた疑念がより色濃くなったという事実や、もし本当にその通りだったらという不安が膨れ上がっていく。
ザックに失望されるのは怖かった。従順だからこそ、ザックはナナを見てくれている。従順でなくなれば、見捨てられてしまうかもしれない。盗みに入りたくない。あの店を不幸にしたくない。しかし、ナナが一番恐れるのはザックに捨てられることだった。
結局ナナは了承した。了承しながらも、内心ではザックへの疑念が強まりつつあった。その店がパンを配っていると何か困ることがあるのかとそう聞きたかったし、何故自分は盗みに入るのかと問いただしたかった。しかしそれを言葉には出来ず、ザックは店に盗みに入る際の注意点、そもそも民家と店がどう違うのかという事をナナに教えていった。ナナはそれらを覚えるのに身が入らなかったし、あの店に盗みに入らなければならないと思いながら過ごす時間は苦痛でしかなかった。
三日ほどが過ぎ、いつも通りザックの家を出てその店の元へ向かった。何度か家から盗みに入る家へ歩いた為、通る道の景色はある程度見た事のある景色であることが多くなってきた。しかし道を進んでいくと、今度は完全に見慣れた道に変貌していった。
元居た場所から逃げるように歩いた道。そして、自分が毎日歩いていた道に入った。それらを懐かしむように、ナナの歩みは自然と遅くなっていった。しかしやがて、視界にある物が入ってきた。地面に敷かれたまま何処かへ捨てられることも無く、かといって誰かのために敷かれているわけでも無い。ただそこに残されていった、あの老人が寝ていた茣蓙。それがナナの視界に入った。
いつもそこには老人が居た。だから、このまま進んでいけば視界に入ると。無意識の内に視界の中を流れていく景色を懐かしんでしまい、忘れてはいけない事を忘れてしまっていた。老人が居なくなったという事を。老人の存在自体を。
思わず足を止め、視線をそのまま茣蓙へ向け続けて老人の事を思い出していった。そしてそれをする内に、自分が老人の事を忘れていたのだと思い知った。ザックの家で共に住み始めてから、ナナはあの時の老人の目では無く、ザックに捨てられることを恐れるようになった。ザックに捨てられればその先に待つのはあの老人のような結末かもしれないといった恐怖はあったものの、少なくともナナはここ最近で一度も老人のことなど思い出していなかった。
自分だけは老人の事を覚えていると思っていた。ただ一度話しただけの老人を、自分だけは忘れていないと。そう思う事で、そうすることで自分を見てくれる人間が居ると思いたがった。しかしナナは、老人を忘れていた。老人の茣蓙があるその場所から、あの廃棄物の山へ向かう為の道へ視線をやった。何度も通った道。そこへ行こうと思えば簡単に行けた。
その道をしばらく見つめて、やがてナナはそこから逃げるように立ち去った。あの廃棄物の山を見てしまうと、老人の辿った結末が今より鮮明に思い出されてしまう気がした。そしてそこへ行ってしまうと、もう戻れなくなる気がした。恐怖がより鮮明になって、ザックの言葉に何も逆らえなくなる。今から盗みに入る店から金銭を奪って逃げても、それに対して罪悪感を抱けなくなるかもしれなかった。それは今の少女にとってあまりにも恐ろしい事だった。
見慣れた道を歩いていく。自分が限界を迎えた時に通った道。そこを進んでいくと、これから自分はあの店に盗みに入るのだという事実が実感として輪郭を帯び始めた。やがて見慣れた店の裏口が見え、同時にそこに立っているフードを被った人物が見えた。その人物はいつも通り、ナナを見ると去って行った。その人物は盗みに入る際はいつも居て、ナナを見つけると去って行く。閉じられた鍵を開け、そしてナナが迷わないように目印のように立っている。その人物がいつも目的地に立っている理由をそう考えていたが、今回はナナはその店の事を知っていた。ザックも、ナナがその店について全く知らないわけでは無いというのはわかっている筈だった。しかしその人物は今回もそこに立っていた。
疑問には思ったが、それは今から自分が行う行為の事を考えるとそんなことはどうでも良くなった。あの人物はいつも立っていたし、今回もその流れで立っていただけだろうと、適当な理由付けをしてそのことについて考えるのは止めた。
いつもパンを取っていたその裏口にナナは立った。今から自分は、この店に盗みに入る。自分を幾度も救ってくれたこの店に。ふといつもパンが置かれていた場所を見た。時間帯的にトレイに乗ったパンが置いてある筈なのにも関わらず、そこには何も無かった。毎日置いていたのかはわからないが、少なくともナナが訪れた時にはいつもトレイは置いてあったし、パンが全て取られている所は見たことがあったが、今くらいの時間にトレイごと置かれていない所を見るのはこれが初めてだった。それに、その代わりというかのように布の袋が置かれており、その袋からは少し悪臭が放たれていた。そんなものが置いてあるところを見たことが無かった為、何故こんなものがあるのかと思った。
何故トレイが置かれていないのか、この袋は何なのかと思わず思考を巡らせる。既に片付けられたのか、トレイごと誰かが奪っていったのか。頭の中で理由づけをしようとしたが、それでもいつも置いてあったトレイが無くなっている説明は出来なかった。ザックもパンを裏口に置いていると言っていたし、考えれば考えるほど疑問は膨らんでいった。しかしそれを深く考えるほど今から自分が盗みに入るのが余計に辛くなるだけな気がして、その場所から目を背けて裏口の扉を見た。
鍵は既に開けられているのだろう。あとはドアノブに手をかけ、開くだけの筈だった。ドアノブにかける手が震える。今までとは違った震えだった。今ナナが入ろうとしている店には、人が一人も居ない。ザックによって、住み込んで経営しているのではなく自宅から通って店をしているのはわかっていた。その為ナナがどれだけ音を立てようと、眠りから目覚めてナナを捕まえるために声を上げる人間は居ない。ナナが恐れているのは別の事だった。
生まれてから今まで、自分が紡いてきたものを、自分を救ってきたものを、たった一人の人間の為————いや、自分の為だけに踏みにじる。それがドアノブを握った瞬間、ナナの中で今までよりも強い現実味を帯びて襲ってきた。その怖さから、今すぐ逃げ出したかった。ここに入れば、もう自分は昔の自分には戻れない。ただの盗みではない。今までの自分を否定する盗みだった。ザックの顔が思い浮かぶ。出来ないのかと聞かれた時の、ナナに向けた眼差しと表情、そしてそれを向けられた時に生まれた恐怖も。ナナの中に、選択肢など最初から無かった。ザックの元に行った日から、ザックの望むもの以外の選択肢は全て取り上げられていた。
ナナは扉を開けた。心臓が強く鼓動する。店に盗みに入り過去の自分を踏みにじる恐怖は、未だに消えていない。ただザックに見捨てられる恐怖が、その恐怖を上回っていた。
自分が入れるだけの分扉を開き、中に入る。扉の先は短い通路で、その先は広い空間のようだった。そして左手には扉の無いまま別の部屋に繋がっているようで、右手には小さい扉があった。その小ささからして部屋では無く何か物を入れているだけの物置きであることが予測出来た。
ナナが一歩足を進めると、床のフローリングが軋んで音を立てた。思わずそれに怯えて足を止めたが、人が居ない為怯える必要は無いのだと思い出した。
廊下をゆっくりと進み、左手にあった部屋を見た。最初は何の部屋かわからなかったが、よく見てみるとそこが厨房であることが分かった。今まで入ってきた家やザックの家とは広さから明らかに違い、興味本位から思わず足を踏み入れそうになった。
しかしそこは厨房であり、ナナが今まで食べて来たパンもそこで作られたのだろう。そんな場所に自分が足を踏み入れても良いのか。そもそも足を踏み入れたくないと思い、踏みとどまった。そのまま厨房を通り過ぎ、そのまま廊下の先へ向かった。誰もいない筈の店の中を、ゆっくりと歩いていく。再びフローリングが軋んで音を立てた。そこでまた思わず動きを止めたが、またすぐに再び歩き出した。
やがて廊下を抜け、広い部屋に出た。そしてすぐ、そこがその店がいつもパンを売っている場所なのだと理解できた。ナナはそこでその店の内装を初めて知り、そして人生で初めて店に入った。
ナナの視線の先にある壁には大通りと繋がった扉と文字が描かれた壁一面のガラスがあり、パンが置かれていたのであろう棚が壁に備え付けられていた。文字が読めない為、なんと書いてあるのかがわからなかった。棚は今少女が来た道のある壁と入口以外の残りの三面全てにあり、部屋の中央にもさらに物が置けそうな場所があった。その棚と、中央の場所。それら全てを覆い尽くすほどパンが置かれていたのだろうかと、そんな妄想がナナの頭の中で広がっていく。その情景を思い浮かべて、ナナはその部屋に踏み入った。
店の中を巡るように歩き回った。温かみのある内装で、今まで店というものに入ったことの無いナナにさえ、一目で良い店であると理解できた。
大通りからしか見られない内装。そして、ガラス越しに大通りの景色も目に入る。ナナが元々居た路地裏以外から大通りの景色を見るのは初めてだった。
月の光に照らされ、大通りが輝いて見える。それは確かにナナが普段見ていたものだったが、実際に見ていた景色とはかなり違ったものだった 路地裏とは違い、規則正しく並ぶ家々。光に照らされ輝く清廉な石畳。かなりの幅がある道には、店を小さくしてそのまま何かを売れるようにしたようなものが並んでいる。
そしてその大通りから、扉を通って人がこの店へ入って来る。今その場所に立っている自分も、大通りを歩く人間の仲間に入ることが出来ている気がした。
しかしそうやって大通りや店の内装、そして大通りから入ってきた人間がどうやってこの店を歩くのかと考えているうちに、ナナの視線は店のカウンターに吸い込まれた。店に入ってパンを買う人間はここで支払いをするのだろうという事も理解出来てしまった。
店には、大抵客と硬貨を取引するカウンターなどがある。支払いをすれば当然つり銭が発生し、それをいちいち取るようなことはせず大抵はカウンターに硬貨を仕舞ってある場合が多い。ザックの説明を思い出した。
そのカウンターに回り、しゃがんでその中を見た。するとそこは棚になっており、鍵の付いた小箱が置いてあった。その小箱を手に取って一度カウンターの上に出そうと思ったが、立ち上がると壁一面のガラスが目に入った。もしも誰が歩いていれば、きっと人を呼んでナナを捕えようとするのだろう。先程まで見つめていたそのガラスの向こうの景色は、今度はナナにとって害を成すかもしれない危険なものに変わり果てていた。
先程大通りを見て抱いた感情と今の感情の違いに悲しみが襲い来た。しかしザックに言われてしまった限りは、自分は確かにこの店から金貨を盗まなければならなかった。手に持ったままの小箱を、カウンターで身を隠すようにしてしゃがんで床へ置いた。そしてその小箱の蓋に手をかけ、躊躇しながらも開こうとした。しかし鍵がかかっているようで蓋は開かず、内心安堵しながら小箱を元の場所へ戻した。鍵がかかっていたことは予想の範疇だった。釣り銭用の硬貨を仕舞ってあるだけの為そこまで価値のある金銭が入っているわけでは無いが、それでも金銭を仕舞ってある箱の為鍵がかかっている場合が多い。ザックにそう言われていたため、鍵が掛かっているだろうと多少安心出来た。
しかしそこでザックが冗談交じりではあったが小箱ごと持って帰ってきても良いと言っていたことを思い出した。小箱を持った時に感じた重さなどを鑑みてもやろうとすれば可能だったが、流石にそれをしようとは思えなかった。
立ち上がって部屋の中を見た。その部屋はパンを飾り、売るための部屋と思われるため、そこからさらに他の部屋へ繋がっているという事は無さそうだった。自分が歩いてきた廊下を見た。残っているナナが探す場所は厨房と、恐らく物置であろう小さい扉。それら以外には部屋や物を入れられる場所は見受けられなかったし、ナナが物置だと判断した場所が実際にそうであれば、ナナは厨房へ足を踏み入れなければならなかった。
廊下を戻っていき、小さな扉の前に立った。そして自分の予想が当たっているようにと願いながら扉を開けた。扉の中はナナの予想通り物置————それも掃除用具などを仕舞っているだけの小さなもので、ここに硬貨を隠してあるとは考え辛かった。
残るは厨房だけ。ザックに言われたことを忠実に遂行しようとすれば、そこに足を踏み入れなければならなかった。しかしそういった場所に硬貨を隠してある可能性は低いと教えられたし、この店の中に他に硬貨を置いている場所は無いのではないかという内心それを望むような予測が頭に浮かんだ。
厨房を見て逡巡した後、そこには足を踏み入れずに裏口の扉へ向かった。ナナが何も成果を持って帰られなかった時、ザックは口には出さないが期待外れといったような反応を見せた。その度にナナはザックに見捨てられるのでは無いかという恐怖に襲われた。ナナはザックという自分を見てくれる存在を見つけた。何も見つけられなかったという言い訳はあれど、そう言った態度を見せられるのは怖かった。しかし実際にこの店を訪れて中へ入ると、今まで自分を救ってくれた店の人間を傷つけたくない、傷つけるようなことは出来ないというような思いが強まっていった。
裏口の扉を開けた。周りの警戒のために自分が来た方向の道を見て、その反対方向の道を見た。そして、ナナの視界にフードを被った人間が一瞬写り込んだ。その人物はナナの視界に入るとすぐに身を隠し、視界から消えた。しかしナナは、その一瞬で視界に入ったのがナナが来る前に鍵を開けた人間であると理解し出来てまった。
何故まだ居るのか。そんな疑問が頭を埋め尽くした。あのフードを被った人物はザックに頼まれて鍵を開ける。ただそれだけの筈だった。しかし、それだけであればわざわざまだそこに居る理由の説明が付かない。そもそもそれは今回だけなのか。自分が気付いていなかっただけで、実は毎回あの人物はナナの近くに居たのではないか。
そしてそこまで思考が及んで、何故かいつもその人物がナナが来るまで扉の前に待機していた事を思い出した。何故急に思い出したのかと自分でも疑問に思ったが、その二つを照らし合わせると、一つの推測が確信めいたものを纏って浮かんで来た。あの人物は、ナナがザックの命令を聞いているかどうかを見張っているのではないかと。
いつも扉の前で待っているのは、ナナが家を出た後逃げずに目的地へ辿り着いているか、そして今さっき居たのはナナが言われた通りに何かを盗んでいるのかを確認するためなのではないだろうか。
ナナは急いでもう一度店に入り、扉を閉めた。ゆっくりと音を立てないようになど殆ど意識出来なかった。自分は見張られている。それはナナの予想でしか無かったが、何故かそれをそんな筈が無いと思うことが出来なかった。
そして先程まで店の人間を傷つけたくないという感情の後ろに隠れていた筈の失望するザックの視線や表情が、途端にナナの心に食い込んだ。疑われている、信用されていない。そうとしか思えなくなった。
敢えて盗もうとしなかった事もバレているだろうか、もしもバレていたとしたら、ザックの元へ帰っても扉を開けて貰えないかもしれない。自分の心が急速に飲まれていくのが分かった。
金貨を盗まなければならない。ナナは強くそう思った。廊下を進み、厨房の前に立った。入りたくはなかった。自分が入ると、その場所を汚してしまう事になりそうで。しかし、もうそうするしかなかった。
心を飲み込む恐怖のせいで殆ど朦朧とする頭で罪悪感を捻じ曲げ、厨房へ足を踏み入れた。足を一つ踏み入れてしまえば、その後はもう既に踏み入ってしまったという事実がナナの足を進めていった。
厨房は今まで入ってきた家々やザックの住む家のどれとも違った様相だった。広く、そして清潔だった。隅々まで掃除が施されているのか、汚れていると思える部分が殆ど無かった。
大きな木箱が一つあり、壁には調理の為の器具がいくつも釣られている。そして石造りで鉄製の扉が付いた窯のようなものが視界に写ったが、ナナにはそれが何なのかはわからなかった。それは今この瞬間に関係の無い事で、キッチンの中に硬貨を隠せそうな場所は無いかが今一番重要な事だった。
その中で一番ナナの目を引いたのは、厨房の中にある一つの扉だった。その先に部屋があり、そこに入るための扉に見えた。ナナはその扉の前に立ち、開いた。そこは厨房とはかなり風貌の違った部屋で、厨房の奥に何故こんな部屋があるのかと疑問に思った。
そこは小さな部屋で、壁には紙が貼ってあった。その紙には手書きの文字が書いてあったが、ナナには読めなかった。部屋の隅に机があり、そこに椅子が入っていた。机には三つの引き出しが付いており、その内の一つには鍵が付いているようだった。
探すべきはその引き出しだ、とすぐに思った。その机の元へ向かい、膝をついた。引き出しは三つで、鍵が付いているのは一番下の大きな引き出しだった。その三つある引き出しを、上から一つずつ開けていく。一つ開け、その中に特に価値のありそうなものが無いのを確認してからその一つ下の引き出しを開けた。しかし中にあるのは紙やペンなどの何処の家にでもありそうなものばかりで、何か文字の書いてある紙もあったが、持って帰っても特に意味は無さそうだった。
そして一番下の大きな引き出しを見た。探すべきはその場所だったが、そもそも鍵がかかっていない訳が無かった。店を傷つけず、かつ本当に何も盗むことが出来なかった事の言い訳になる。鍵がかかっていた方が、ナナにとって都合が良い筈だった。しかし心の何処かで、この鍵が開いていたら良いのにと思っていた。
引き出しの取っ手に手をかけ、ゆっくりと引いた。引くことも出来ずに固く閉ざされていると思われたその引き出しは簡単に開き、中にあった大きめの箱の姿を露わにさせた。
開いたことに驚くと共に、安堵する気持ちもあった。店の人間を傷つけたくないという思いも確かだったが、ザックに捨てられる恐怖がそこに確かに入り込んでいた。中にあった箱に手を伸ばした。そしてその蓋に手をかけ、箱を開いた。
箱の中は、隙間を作らないよう気を付けられたかのように並べられた金貨が三分の二程を埋め、端に銀貨と銅貨が並べられることも無く乱雑に収納されていた。
金貨にゆっくりと手を伸ばし、並べられた金貨の中から一枚を掴んだ。そしてそれを金貨の列の中から引き抜いていく。やがて金貨が完全にナナの手に入った所で、抜き取った金貨の横にあった金貨が傾き、綺麗に並べられていた金貨の列が乱れた。そこで、いずれこの箱の中を見る店の人間の事を思い浮かべた。
ザックから頼まれた金貨は四枚ほど。つまり、この並んだ金貨の中から残り三枚ほどを抜いて帰らなければならない。店の人間が箱を見た時、誰かに盗まれたという事に気付くのは確実だった。一枚程度であれば金貨を並べ直して誤魔化すことも出来たかもしれないが、四枚ともなるとそれは不可能だった。そこで、自分は店の人間を自分の為に傷つけるのだという事実が強くナナの心を傷つけた。
また箱へ手を伸ばし、金貨をもう一枚取った。隣の金貨が傾き、間を埋めた。店の人間を傷つけたくない。そう強く思った。しかしそれは出来なかった。その罪悪感を捻じ曲げながら、金貨をもう二枚取った。そして金貨を自分の纏っている布越しに握る。盗んだ硬貨を素手で触るのは苦手だった。箱を戻し、引き出しを閉じて部屋を出た。後は店自体から出ていくだけ。
振り返って、厨房を見回す。布越しに感触の伝わる金貨が、確かにナナがこの店から盗みを働いたという事実を強調していた。今この時間、ここには誰も居ないと聞いていたし実際にわかっていたが、わかっていたにも関わらず誰かに見つかるかもしれないと恐ろしくなった。
居るはずの無い店の人間を無意識に探す内、入口からは隠れていた厨房の隅にある小さな箱に、パンが無造作に入れられているのが見えた。思わずその箱に歩み寄った。近寄ると、その小さな箱の全てはパンで埋まっているようで、それは丁度いつも裏口に置いてあったパンと同じくらいの量に思えた。そしてそのパンの一番上にあったのはナナがいつもこの店の裏口に来た時に食べていたロールパンだった。
きっとこのパンは捨てられたもので、もう店の店主にとっては必要の無い物なのだろう。恐らく、ナナが一つ取って食べたとしても気付きはしない。ロールパンを一つ手に取り、震える手で口に運んだ。
そして一口食べ、もう一口食べた。空腹では無かった。ただ、今手の中にあるパンはナナにとってあまりにも大切なものだった。やがて手の中にあったパンは無くなって、箱に捨てられているパンを見た。路地裏に居た時とは違い、今目の前にあるのは捨てられたもの。他の人間に行き渡ることも無く、放っておいても誰の口にも入らない。ナナはそのパンへ手を伸ばしたが、その手が止まる。何故自分が手を止めたのか分からなかった。もう金貨を四枚盗んだ。パンを一つ多く盗ることなど何の問題も無い筈だった。そう思うと、止まっていた手はパンへと伸びていった。しかし代わりに、自分の中にあった何かが捻じ曲がっていく感覚があった。捻じ曲がり、ひしゃげ、原型が無くなっていく。やがて伸ばした手がパンに触れた所で、それが何だったのかはわからなくなってしまった気がした。
思わず伸ばしていた手を引いて、へたり込んだ。目の前にあって、もう捨てられるだけで誰の口にも入らない筈のパンを手に取れない。ナナはただ、店の人間が傷つくことを恐れていただけだった。それだけの事だった。
今まで、誰かが自分を見てくれると思っていた。そう思っていたからこそ、ナナはずっと善意を振りまいてきた。二つ目のパンを取らず、廃棄物の山の表面に食物を置き、人の事を覚えていた。それを繰り返している内に、ナナの中には純粋な善意が生まれていた。ナナは善人だった。ただそれだけの事だった。
しかし、ナナは今まで自分を不幸にしながら善意を振りまいて来たのに、誰も現れなかった。老人の死体を見つけ、逃げた先でザックと出会った。ザックは、今までナナが行ってきた全ての善行と何も関係が無い人間だった。
空腹で限界という時に、わざわざ二つ目のパンを取らずに去っていた。あの時の空腹を思い出す。今までの自分は不幸だったのだ、という強い思いがナナの心に纏わされた。自分の元に望みもしない不幸を招いて、代わりに誰のためにもならない善意をひたすら振りまいていた。ただ誰かのためになれば、それがいつか自分を見てくれると思いながら。しかし意味など無かった。今まで自分が招き入れた不幸も、居もしない人間へ振り撒いてきた善意も、何の意味も無い物だった。
立ち上がり、ゆっくりと厨房を出てそのまま裏口へ向かった。そしてドアを開き、未だ自分を見張っているのであろうフードを被った人物を探すこともしないままザックの居る家への足取りを踏み出していった。
ザックが居る。今の自分にはザックが居る。命令されたことをこなすほど、自分を見てくれる人間が確かに居る。これからもナナが行うであろう盗みは、全てザックの為であり、そして自分の為でもあった。自分にはもうザックしか居ない。そう強く思った。
ドアをノックした。少ししてザックがドアを開けて現れ、ナナを迎え入れた。
「上手くいったか」
ザックはそのまま椅子に座り、ナナは何も言わずただ俯いたまま、店から奪ってきたものを机に置いた。
「不安がってた割にはやれてるじゃねえか」
ザックが机に置かれた金貨を持ち、吉報を受け取ったようにそう言った。そんな言葉を聞いて、ザックの表情を見た。ザックの反応には、そこに自分が悩んでいた悩みが解決したという安心感など何処にも感じられないように思えた。
「……その」
「ん?」
「……バレちゃうかも。あのお店の……人に」
「んなもん……」
ナナの言葉にザックが一瞬何か言いかけたが、いずれ何かを思い出したかのようにその言葉を止めた。
「ああー……まあ、大丈夫だろ」
やがて面倒そうにそう言いながら立ち上がった。
「じゃあもう今日は疲れただろうし休んでろ」
ナナは頷いたが、ザックはそのままナナを見ることも無くそう言って階段を登っていった。そして二階でドアの閉まる音がした後、ナナもそのまま階段を上がった。
二階へ行き、廊下の隅で置いてあった路地裏で纏っていた布を今纏っている物の上から纏って丸まるように寝転がった。しかしそれだけでは落ち着かず、下に敷いていた毛布を頭から被るようにした。考えないようにすることが一番の自衛であるとは思ったが、考えないようにすること自体が出来そうになかった。
今まで自分を幾度となく救ってくれた店を、自分の手で傷つけた。あの店の人間が盗みに入られたと気付いた時の反応を無意識の内に想像した。顔も見た目も、性別さえ分からない。ただ、いつ誰に盗まれたのだと恐れている所が鮮明に浮かんだ。そこでザックの言葉と表情が思い起こされた。
驚かせてやって欲しいという言葉と、その後適当に取り繕うように出た金貨四枚ほどを盗んできてくれれば良いという言葉。そして、明らかに銅貨よりも造りが精巧で、銅貨と銀貨よりも丁寧に仕舞われていた金貨。そんな筈が無いと、そういった疑念については何度も考えないようにしたが、ナナはもう殆ど気付いていた。ザックはナナに嘘を教えている。嘘を教えて騙し、悪意を持って盗みに行かせ、そしてそれを遂行しているのか見張りまで付けていた。ザックは紛れも無く悪人だった。
しかしもう、盗みに行かないという選択肢など無かった。ただザックの言う通りに盗みに行くだけ。もうナナにとってはそれしか無かった。
それから少しして、またザックに盗みを頼まれた。金貨を二枚盗んで来いと言われそれを了承して、金貨を二枚盗んで来た。
あの店に入ってから、段々とナナの中で盗みに対する躊躇は薄れていった。ただザックが望む通りに盗みに入った。もう後戻り出来ないという感覚があった。
ナナはザックが望む場所で望むように盗みを行い、ザックからかけられる労いや感謝の言葉を求めた。それだけがナナの生きる意味であり、それ以外には何も無かった。
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