第三章


 桶に溜められた水に雑巾を付け、それを絞って床を拭いた。部屋の端から段々と埋めていくように順序良く拭いていく。床を拭き終わると机と椅子を拭き、今度は階段を一段一段丁寧に拭いていく。階段が終わると二階の廊下。それが終わってまだザックが出てこなければ、再び一階の床を拭いていく。

この家に来てから一か月ほど経った。ザックには一階の床と階段、二階の廊下を毎日掃除するようにと言われ、その他にも机を拭き、食器や服を洗い、最近は茶の入れ方を教わった。それら以外の時間は特に何をしろと言われるわけでも無い自由な時間だったが、ナナは自分が寝ている廊下の端でただ座り込んでいた。そうしていろと言われたわけでも無かったが、そうする以外に何をして良いのかわからなかったし、余計なことして嫌われたくは無かった。

 やがて全ての場所を二度ずつ拭き終わり、桶や雑巾を片付けた後は階段の中腹に座りザックが部屋から出てくるのを待った。ザックは少女が掃除をしている際中、大抵自分の部屋に居た。何をしているのかはわからなかったが、ナナが部屋に入ったり扉をノックをすることは禁じられていた。ナナはただザックが偶然出てくるのを待つしか無かった。

 やがて部屋から足音がして、少女は急いで立ち上がった。扉が開きザックが現れ、少女を見た。

「終わったのか。早いな」

「……うん」

 ザックが特に何の感慨も無くそう言って、それに対してナナが小さくそう返した。ザックは最初は褒めたり礼を言っていたが、段々とそういった言葉は少なくなっていった。またナナを呼ぶ時も名前を呼ぶことが減っていき、この家に来た時に得られていたものが失われていく感覚に内心少し焦燥を感じ始めていた。

「これから人が来るから、いつも通りそいつが帰るまで上に居ろ」

 その言葉に頷いて、ナナは廊下の端に座り込んだ。誰かが家を訪ねてくる時、いつもナナはザックに言われて二階の廊下で息をひそめていた。来訪した人間に居るのを知られるなと言われたわけでも無かったが、そうした方が良い気がした。掃除が終わり待つ時間、何もする事が無い時間を含めた、ただ何もせずに座っているだけの時間。ナナはこういった時間が好きでは無かった。

やがて家に入る扉が開く音がして、そこからザックと知らない男の話し声が漏れ聞こえて来た。それを出来るだけ耳に入れないように努めながら、息を潜めた。いつも座っている時としている事は変わらなかったが、話を聞かないようにすること、息を潜めようとすることが大事なのだと思ったし、そこに意識を割く分、普段よりも多少気が楽だった。

しばらくすると話し声は止み、訪ねて来た男の気配は無くなっていた。既に帰ったのかと思ったが、少女は廊下の端で座っているまま、一階へ戻ることはしなかった。ザックに言われていない事をするには勇気が必要だった。

「ちょっと来てくれ!」

 やがてそうナナを呼ぶ声が一階から聞こえ、立ち上がって階段を降りた。ザックは椅子に座って何か考え事をしているようで、降りて来たナナを見ることも無く口を開いた。

「ナナ、床拭いてくれ」

「……うん」

 いつもより覇気の無い声が気になったが、それよりも名前を呼ばれたことに舞い上がり、急いで床を拭く準備を始めた。桶に水を入れ、雑巾と共に持ってきた。そして雑巾を水につけ床を拭き始めたが何故かザックは椅子に座ったままで、やがて何かに悩むように小さな溜め息を吐いた。

 床を拭きながら、視線を気取られないようにザックを見る。ザックはナナが掃除をする時いつも二階に上がっていた為、自然と視線が吸い込まれた。それに今のように悩んでいるような姿を見せるのは初めてだったし、それほど今大きな悩みを抱えているのだろうかと想像した。

 雑巾を一度桶に入れ、水で少し洗ってから絞って再び床を拭き始めた。ザックがどういった悩みを抱えているのかはわからなかったが、もし自分に出来る事があるなら手伝いたいと思った。しかしナナは今まで人に話しかけた事など無かったし、自分などが出来る事なら既にやっていない筈が無いとも思った。

普段なら椅子を動かして机の下を拭く所で、そこから離れた壁際を拭いた。悩みを解決するために手伝えることがあればしたいのは確かだったが、ナナの中でザックがまだ逆らう事の出来ない存在であるという事もまた確かだった。

ザックがナナを見た。ナナは気付いていない。

「……そうだな」

 やがて思いついたようにザックがそう呟いたが、ナナの耳には入らなかった。

「……ナナ」

「……なに?」

 そしてザックがそう呼び、ナナが立ち上がって返事をした。

「やって欲しい事があるんだ」

「……やってほしい、事?」

「ああ。……ナナ、お前にしか出来ない」

 普段なら用件を最初に伝えるザックが、少し回りくどい言い方でそう言った。不思議に思いながらも返事を返すと、ザックがナナの目を見ながら名前を呼んでそう言った。

「やってくれるか?」

「……うん」

 ザックは未だ用件を言わない。こんなことは今まで殆ど無かった。しかしその違和感は、名前を呼んでもらえた静かな高揚感で霧散していった。

「実はな、盗みに入って欲しいんだ」

「ぬ、盗みに……?」

 全く想定していなかったザックの言葉に狼狽しながらそう返す。

「な、なんで……?」

「金が必要になったんだ、ほんの少しなんだけどな」

 そう言われ、俯いた。盗むという言葉の意味は知っていた。それが忌み嫌われる行為であることも。大通りを歩く人間が、家に盗みに入られたと話していたのを聞いたことがあった。それを話す口ぶりは怯えや怒りが入り混じったもので、その感情が自分に向けられるかもしれないと思うと途端に怖くなった。

「大丈夫、盗むっつっても少しだけだ。そんな大金を盗もうって訳じゃない」

 盗みに入ることを提言した本人が、特に問題無いというようにそう言った。

共に過ごす内に、いつの間にかザックが悪人であるという発想は頭から抜けていった。そんな中での願いに、ナナはザックの事が分からなくなったような感覚に陥った。

「私、何も知らない……」

「大丈夫だ。鍵は予め別の奴が開けておくから、お前はただ忍び込んで金や金になりそうなものを手に入れてくるだけだ」

「でも、見つかったり……したら……」

「安心しろ、捕まっても俺がすぐに手を回して助けてやる」

「……でも……」

 心変わりしてくれることを願いながら、断る理由を並べていった。しかし止めることはせず、むしろナナが承諾するための言い訳を述べていった。ザックの目がナナを見据える。そのナナを見る目に、ザックが正しいのではないかと勘違いしてしまいそうになる。

自分とザックなら、きっと正しいのはザックの方なのだろう。それでも、他人の物を奪うという事が悪事であるという事は理解出来た。ザックは、その分かりきった悪事をナナにしろと言っている。

 思考を巡らせていったが、ナナがその願いを受け入れない理由を見つけることが出来なくなっていく。しかしそれが受け入れる理由になった訳でも無く、ただザックの視線に晒され、どう返せば良いのかわからないまま時間が過ぎていく。ザックの顔を見ることも出来ない。

「……出来ないか?」

 ザックのそんな言葉が聞こえ、ようやく視線を上げて少しザックの顔を捉えた。

「さっき、やるって言ってくれたと思ったんだが」

 そしてそう言われ、身体が強張った。先に用件を言わなかったのはザックだが、一度承諾したものを断るという罪悪感がナナの判断を鈍らせていく。

そんなナナに、立ち上がったザックが諭すように口を開く。

「別にその家の奴らを不幸にしてやろうって言ってるわけじゃない。ただ、ちょっと分けてもらおうってだけだ」

 ナナの肩に手を置いた。肩が少し跳ねる。

「一回は考えたこと無いか? あいつら皆恵まれてるなって」

 ザックの言葉で、大通りを両親と手を繋ぎながら歩く子供が頭に浮かぶ。

「生まれついて家があって、親が居て、暮らしていけるだけの金がある。そいつらはずっと恵まれてるんだ。そこから恵まれない俺たちが少し貰ったって、誰も文句言いはしねえさ、な?」

 視線をザックの顔に戻した。目と目が合う。

「それに、少し取るだけなら気付かれないかもしれないだろ? 誰も気付かなければ、誰も不幸にならない。そうだろ?」

 体のいい言い訳を与えるようにしてそう言う。ナナの思考が段々と蝕まれていく。確かにそうなのかもしれないと、そう思ってしまいそうになる。

 掃除をする、肩を揉む、茶を入れる、人が来たら息を潜める。今までザックの軽い願いに対してその全てを受け入れて来た分、ナナの中では段々と断るという行為が重みを増していった。

 了承してはならない。そんな本来強く響く筈のものが、何処か心とは遠い場所で鳴り響いてしまっていた。その警鐘は大きな音でナナへと音を伝えようとしたが、それはナナの元へ届くころには微かな存在となり下がってしまっていた。

 やがてナナは、何も言わないまま小さく頷いた。俯いたままのナナの肩をザックはそうかそうかと言いながら叩き、やがて軽い頼みごとをしたかのようにじゃあ今度頼むぞと言って上機嫌そうに部屋へ去っていった。そこにはナナが一人取り残され、ゆっくりと光の外に広がる暗闇へと踏み出した感覚を確かに感じていた。



 それから三日、いつも通り掃除などをこなしながら、ザックに盗みに入る際の注意点や基本的な知識を教えられた。必然的にただ廊下の端で座っている時間が減り、代わりにザックと共に居る時間は増えた。それ自体は喜ばしい事だったが、素直に喜ぶことは出来なかった。

「もう一度確認するぞ」

 そう言って、ザックは硬貨を三枚取り出して机に並べた。金、銀、銅と三種類あり、それぞれで大きさが違っていた。金の硬貨が一番大きく、銅の硬貨が一番小さかった。ザックが銅の硬貨を指さす。

「これが銅貨だ。この中だと一番価値が高い。これを盗ると気付かれる可能性が高いから、これには手を出すな」

 ザックは慣れた様子でナナに教えていく。盗みに行く際の知識を教える機会など殆ど無い筈だと思ったが、ザックはそうではないようだった。しかしそれ以上考えるとザックはナナに教える前にも誰かに盗みをさせていたかもしれないという予想に辿り着いてしまうと思い、それ以上は深く考えずただ教えられたことを頭に入れることに集中した。しかし盗みに行くことについても、その為の知識や技術をザックに教えられることも未だ許容出来てはいなかった。

「それで、これが銀貨。これが金貨だ」

 ザックはそう言いながら銀貨を指さし、そして次に明らかに造りが銅貨よりも精巧な金貨を指さした。

「これが一番価値が低い。一番良く使う硬貨だから丁寧に作られてる。これなら盗んでも気付かれる可能性は低い」

 ザックが金貨を手に持ち、強調するようにナナに見せた。

「だからお前は、金貨だけを盗ってくれば良い。初めてだし一枚で良い」

 初めてだから、という言葉が引っかかりながらもナナは不安そうにしながら頷いた。

路地裏では硬貨で取引をする人間など一度も見かけなかった。実際に存在はしていたが、それらはナナとは遠い場所に居た。その為ナナはザックに教えられるまで硬貨の存在を知らなかった。硬貨の存在自体を、そしてその種類も初めから教えられた。

「よし。鍵は事前に開けてくれる奴が居るから、あとは見つからないようにするだけだ。頑張れよ」

 ザックにポンと肩を叩かれ、ナナは再びゆっくりと頷いた。それを見るとザックが扉へ向かい、そのまま扉を開いて招くようにして開けたままナナを見た。言外に急かされているようにも思えた。

 ナナはゆっくりとした足取りで扉へと向かった。出来るだけゆったりと、しかしザックにはわざとそうしているとは気取られないように。その足取りのまま家を出て振り返ると、ザックは再び頑張れよと言いながら扉を閉め、ガチャリと音が鳴った。

 振り返り、閉まったドアに向けられた視線を下げて俯いた。その扉が不意に開く想像をした。やっぱりやめようと、再びナナを家に招き入れてくれる想像を。しかし扉は閉まったまま、ナナを受け入れる気は無いと言うかのようにたたずんでいる。そこで、自分はもうザックに言われたことを完全に遂行しなければならないのだと思い知った。

今から人の家に盗みに入る。実際に人の眠る家に忍び込み、物を盗んで帰って来る。現実感の無い、しかし確かに目の前に存在している未来がナナの心を蝕んでいった。閉じたままの扉から視線を切り、俯いたままゆっくりと歩き出した。

 ザックと暮らし始めてから、家の外に出るのは初めてだった。路地裏の様子は相変わらずで、ナナがザックと共に暮らすと決め、手放したものを享受する人々で溢れていた。それを見て、ナナは尚更ザックの元を離れられない気がした。しかしそれを深く理解していくたびに自分がこれから盗みに入らなければならないと思い知らされるような気がして、その光景に見ないふりをするように足早に歩いた。ザックの言う通りに道を進み、やがて目的の建物が視界に入った所で、フードを被った人物を見つけた。

 その家のドアの前で一人で立っているその人物は、ナナを見つけるとその場を離れていった。去っていくその後ろ姿を見る。あれがザックの言っていた事前に鍵を開けておいてくれる人物なのだろう。しかし見た限り先程までそのフードを被った人物が鍵を開けている様子は無かった。ナナが来る少し前にもう鍵を開けていたという事なのだろうか。ならば何故、ナナが来るまでわざわざ扉の前で待っていたのかという疑問が頭を過ぎったが、ナナが目的の家に辿り着くための目印のような役割だったのだろうと無理矢理納得した。

 ゆっくりとその家に近付き、既に鍵を開けられた後なのであろう扉を見る。ザックの言っていたことが正しければ、目の前にある扉をただ開けばもう簡単に侵入できてしまうという事になる。少し震える手でドアノブを握った。ドアノブの冷たさが手に伝わる。そのまま少し押すとやはり鍵はかかっておらず、簡単に開いた。鼓動が早くなるのを感じる。

 そのままゆっくりと開いていくと扉の蝶番が軋んで音を立て、反射的にドアノブから手を離した。驚いて荒くなった息を、ゆっくりと整えていく。息遣いを誰かに聞かれないように、静かにゆっくりと。

 心細く、恐ろしい。怖い。助けてもらいたかった。ザックの元に帰りたいと思った。しかし、ここへ来たのはザックの為。ザックの悩んでいる姿や今までの生活、それに何も成し遂げずに帰り失望させてしまった際の反応を思い浮かべると、帰るという選択を取ることは出来なかった。

再びドアノブに手をかけ、開いていく。今度は音が鳴らず、手を止めることなくゆっくりと扉を開けた。やがてナナ一人が通れるほどの隙間を空け、そこから体を入れるようにして家へ入った。

そこは明かりも無く、木漏れ日のような子細な月の光がナナの開けた扉から入るだけで、殆ど暗闇のようなものだった。しかし暗い路地で慣らしたナナの目は、その暗闇の中の光景をしっかりと視界に映し出した。ナナが開けた扉は裏口のもので、その先は炊事場に繋がっていた。

侵入するドアの先は炊事場の事が多いとはザックから聞いていたが、実際に見ると身が強張った。ザックと居た家と違う光景であるという事もあったが、何よりも今から自分が盗みに入る家の日常を目にした気がしたからだった。

 外との関わりを一切遮断され、ただ痛みに対してひたすら無垢になったナナの肌に、重圧が突き刺さった。ザックと暮らした時間を思い出す。大通りを歩く人間とは、違った日常だったかもしれない。しかしナナにとっては初めて手に入ったものであり、そして手放すことが難しいものだった。例えその日常によって痛みに弱くなったとしても、その痛みを享受する機会が無ければ問題無い筈だった。しかし現実にはその機会が訪れてしまった、ナナが手に入れた日常から這い出るようにして。だからといって今更それを捨てることなど出来なかった。今まで、それが自分の手の中に無い時間が長すぎた。

 扉をしっかりと閉めた後、足音を消してゆっくりと移動していく。ナナの足が踏みしめた床が不意に軋んで音を立て、そこで足を止めた。鼓動が速くなるのが分かった。ここで見つかってしまえばどうなるのだろう。捕まった先で、自分は何をされるのか。そんな昏い想像が頭の中で回っていく。しかし人が来る気配はなく、やがてまた一歩歩を進めた。今度は床は軋まずそれに少しの安心感を覚え、また家の奥へと入り込んでいった。

炊事場を抜けて、廊下へと出た。廊下に出て左を見ると、その先に玄関と階段らしきものが見えた。階段は玄関の方へ向いており、誰かが降りて来てすぐナナを視界に入れることは無さそうだった。住人が寝ているのは二階だとは聞いており実際に記憶にもとどめてはいたが、それを思い浮かべる余裕は無かった。とにかく見つからないこと、認識されない事ばかりを考えて、それ以外の余計な情報を浮かべながら行動することなど欠片も出来なかった。その二つについては意味が無いと考え、他の部屋を探し始めた。

廊下を玄関の方向へほんの少し進むと、扉も無く廊下と繋がった部屋が見えた。その部屋を慎重に覗く。

そこは広めの部屋で、複数人で食事が出来そうな机が一つ、そこに四つ程の椅子が備え付けられていた。壁に備え付けられた小さな棚、そこに置かれた花の入った花瓶。そしてその近くに窓が見えたが、カーテンが閉め切られており外の様子はわからなかった。それはナナにとって好都合だったが、同時に大通りが見える路地裏で過ごしていた時の事を思い起こさせた。食事をするため廃棄物の山を漁りに行く際いつも見えた、カーテンを閉め切った窓。少女はそれを見て自分が拒絶されているような感情を抱いていたが、実際に今こうして人の家に盗みに入っているナナを、誰かが拒絶しないで居てくれるのだろうか。ただ路地裏の世界で毎日過ごしていた時の方が、少女は普通に暮らす人間たちにとって無害な存在だったのではないか。ならば今、何故自分はその時よりも害ある存在に堕ちるような行為に手を染めているのか。そんな考えが渦巻くように頭の中を回っていく。しかしそれに気付かないふりをして、その部屋からさらに繋がったもう一つの部屋へ向かった。

その部屋の中心に大きなカーペットが敷かれており、それは部屋の端を通らないとそのカーペットを避けることが出来ない程の大きさだった。そして壁際には大きめの棚が一つ置かれ、その隣には蓋の外れた木箱が一つ置いてあった。一方で椅子や机は無く、ナナはこの部屋が一体何のために使われているのかわからなかった。

炊事場に入った時にも思ったが、ザックと共に住む家とはかなり違った。ザックの家にも机や椅子はあったが、花瓶や棚、カーペットなどは少女の見ている範囲では見かけていない。

それらの置かれているその部屋の光景が、盗みに入ったナナに尖った害意のようにして突き刺さった。お前は今からこの日常を破壊するのだと、そう言われた気がした。

そこでふとザックの顔が思い浮かぶ。この状況を、ザックに救ってほしかった。しかしザックの顔が浮かぶと、同時にザックが自分を盗みに行かせて扉を閉めた瞬間の事を思い出す。ナナがザックの望むものを奪ってこない限り、あの扉が開かないという可能性もあった。

そんな想像に付随するように、ザックに教えられた探すべき場所が記憶から浮かんだ。それを遂行すべきだというように。誰に助けを求めても、もうナナには盗みを行って戻るしか選択肢は無かった。先程記憶から浮かんだザックに教えられたことを、より鮮明に思い出していく。

人は硬貨を何よりも大切にしまう。その為誰もが置く場所にはこだわるし、出来るだけ家族以外の人間は触れられない場所に置く。しかしこの街に並び立つ家々には、建物自体の大きささえ同じであればそれほど構造上の差異は無く、それ故自然と硬貨を置く場所は似通った。

 硬貨を置く場所は、主に自室。自室で無くとも、二階がある家なら二階に置かれる場合が多い。しかし二階に行くには階段を登らなければならないし、それだけ見つかった時その家から逃げることが難しくなる。自室などは以ての外で、基本的にナナが盗みに入る時には階段は上がらなくて良いと言われた。

 ならば何処にある硬貨を盗むのかと言うと、それは必要になった時にすぐ取り出せる硬貨の方だった。自室や二階に仕舞う硬貨は、言ってしまえばただ仕舞っておくだけの硬貨。それはその家の中で一番大切と言っても過言では無い物で、それは自然と誰にも盗まれる心配の無い奥の方に仕舞われる。しかしそこに保管してあるだけではいざという時に取り出すのが面倒な為、大抵はすぐに取り出せる場所にも分けて仕舞ってある場合が多い。ナナが探すべきはそれだった。

 炊事場、玄関または裏口のすぐ近く。そういった場所はそもそも硬貨を置いてある可能性は低い。探すべきだと言われたのは、玄関や裏口からはある程度距離があり、かつそこに住む人間からすれば簡単に取り出しが出来る一階の部屋。つまり、今少女の視界の中にある木箱と棚のような場所だった。

少女は足音を消し、棚を視界に入れながらゆっくりと部屋に入った。棚に向かって真っすぐ進もうとして、カーペットを踏んだ。二歩ほど進み、足裏の感覚に慣れず足元を見た。カーペットはナナの足音を消してくれているようで、その上を歩いていると少し心が落ち着いた。

 やがて棚の前へ行き、目に入った棚の一番上の引き出しの取っ手を持った。実際に盗みを働くためにここまで来たが、この家のものに触れるのは————それに加えて持って動かすという行為には、さらなる罪悪感が付きまとった。触れるまでならまだしも、そこから動かしてしまえばそれは言い訳の出来ない害意ある行いになるような気がした。

 罪悪感を押し殺しながら、引き出しをゆっくりと開けた。その引き出しは軽く、簡単に開いた。その引き出しの中は空で、中に硬貨が仕舞われていない事に少し安堵した。無駄だとわかっていても、まだ自分が硬貨を盗まなくとも良いのだと思いたがっていた。

 しかしそこでザックが言っていたことの続きを思い出した。金銭を保管してある場所は、棚の一番下の引き出しである場合が多いと。

 開いた引き出しを閉じ、しゃがんで一番下の引き出しの取っ手を持った。そしてそのまま、しばらくは開かずにいた。しかしやがて、未だ引いていかない罪悪感を抱きながら引き出しを引いた。するとその引き出しには、上等に見える布に包まれ大事そうに保管された箱らしきものがあった。盗みに入るのが初めてのナナでも、それが探していたものであるかもしれないという予感を浮かべるには十分だった。

 引き出しの隅に置かれていたそれを中心へ持ってきて、その布を解いていった。布に包まれていたのは木で出来た小箱であり、鍵などはついていないようだった。その箱に手をかけ、蓋を開いた。

 中には事前にザックに見せられた硬貨が並んでいた。銅貨が二、三十枚、銀貨が十枚程で、金貨は四枚だった。金貨と銀貨は箱の中で丁寧に並べられていたが、銅貨は余ったスペースに乱雑に入れられていた。銅貨が一番価値が高い。そう言っていたザックの言葉に、強い疑念が渦巻く。もしもナナの抱いた疑念が正しいものだったなら、ナナは嘘を教えられたことになる。一体何故そんなことをしたのか。

 それに、わかってはいたものの実際にその箱が丁寧に仕舞われていた所を見たことで、ナナの中にあった躊躇や罪悪感が膨れ上がっていくのを感じた。

丁寧に保管されたそれを、自分のような人間が手を付けて良いのかと。そしてもしも一枚であったとしても、これだけ丁寧に保管された大きな金貨を取られて、この家の住人は気付かないのだろうかとも。

 ザックは、誰も気付かなければ誰も不幸にならないと言った。あの男が、そう言った。ならばそこに、ナナが思考を挟む余地は無い筈だった。そう思っても、ナナの鼓動は鳴り止まない。もしも住人が硬貨を盗まれたことを知れば、どういった反応をするだろうか。驚き怯えるのか、気味悪がるのか。どういった反応であれ、それら全てがナナを傷つけることは間違いなかった。だが自分がどれだけ傷ついても、目的を達成する以外の選択肢は無かった。

 あの家の中で、ザックの願いは全て聞き入れて来た。ザックの願いを断ることは一度もしてこなかった。ナナの中で、段々とザックの願いを断るという選択肢は削り取られていた。少しずつ、しかし入念に、着実に。最初は小さな願いを受け入れさせ、それを繰り返す。やがて徐々にその願いを少しずつ大きくしていく。やがて普通は断ることしか出来ない願いを人に聞かせる。それはザックの策略であったが、ナナにそれを知る術は無かった。

 震える手で、その金貨へ手を伸ばす。これを手に取ってこの家を出れば、もう戻ることは出来ない。息が勝手に上がり、鼓動の音が耳に入って来る。自分が追い詰められているのが分かる。思わず伸ばした手を引いた。何故こんなに追い詰められているのか。そんな疑問が頭を回る。ザックが自分にこんな苦労を背負わせる理由は何なのか、自分以外の人間では駄目だったのか。しかしそう考えた所で、もしもあのザックとの生活を享受していたのが自分以外の人間だったらという想像が広がった。あの老人の影に怯えながら、自分の願望や恐怖に苛まれる日々。あれが、ナナの身に未だ襲い掛かっているかもしれなかった。

 再び手を伸ばし、金貨を一枚手に取った。震える手が手に持った金貨を震えさせ、丁寧に並べられた他の金貨に当たってカチカチと音を立てる。金貨の冷たさがナナの手に染み込んでくるようだった。もう戻れないと、そう告げるように。とにかくそれから手を離したくて、身体に纏っていた布を掴んでその一部で金貨を包んで握った。ザックが一番価値があると言っていた銅貨を持ち帰るという案も頭に過ぎったが、もしナナの中の疑念が正しかった場合にザックがナナに向ける感情を思うと、そうすることは出来なかった。

金貨を盗った手を見た。それはいつも通りの手だったが、金貨から出た何かが染み付いているような気がした。その手を握り、不安から流れそうになる涙をぐっとこらえた。

 硬貨が入っていた小箱を戻し、引き出しを閉まった。箱を包んでいた布を元通りに包むことは出来なかったが、少女にそれを気にする余裕は無かった。

 そこで、緊張で視界に入っていなかった木箱の中身が視界に入り、焦点が合った。棚の横にあった、蓋の外れた木箱。そこには布で作られたのか、不可解な形をした作り物があった。何に使うのかわからなかったが、見覚えがある気がした。目的は達成したし、早くそこから立ち去るべきだった。しかし何故かそれを一体何処で見たのかが気になって、記憶の奥に沈む風景の中にあったその物を探してしまった。そしてやがて、それを見た時の光景を思い出した。親と手を繋ぎ、大通りを歩いていた子供がいつか腕に大事そうに抱えていたものに似ていた。同じものでは無いが、きっと同じ種類の物なのだろう。

 それが木箱の中で一番上に置かれ、その下にある別の物も見える。そこで、何に使うのかわからないと思っていたこの部屋は、子供が遊ぶための部屋も兼ねていたのではないかという推測に達した。そして、そんな部屋に盗みに入ったという事実も。そんな不安が、ただの推測にあるまじき現実感を持ってナナの頭を過ぎった。ここに住まう子供の日常を奪ってしまったのではないかと。

そんな想像が含み、やがて急激に何かが込み上げてきた。息が荒くなって、肩が上下する。鼓動が早くなった。視界が暗転するかのようにチカチカとして、もはや自分が何処を見ているかもわからなくなった気がした。

その後、急いでその家を出た。足早にその場を去って、やがてその家から少し離れた路地裏で壁に手を付いた。乱れた息を必死に整えようとしたが、いつまで経っても呼吸は整わなかった。むしろ悪化しているようにも感じられる。

息が苦しい。どれだけ深く吸っても、息が何処かへ奪われているようだった。足が震え、やがて耐えられなくなった膝が折れて地面へと座り込んだ。そして膝を抱えた。あの家の中では無い、路地裏の世界。そこで膝を抱えて座っていると、あの家でそうしている時よりも鮮明に路地裏で過ごしていた時間が脳裏に浮かんできた。ふと視線を上げた。視線を上げても、もう少女の居る場所は大通りと通じていない。少女が憧れていた筈の光は何処にも無かった。しばらくして立ち上がり、まだふらついたままの足取りで歩き出した。

 今はただ、ザックの元へ出来るだけ早く帰りたかった。ナナが縋れるのはあの男しか居なかった。歩き出したまま、あの家へ帰る道を進む。

 やがて家が見え、ナナは内心安堵した。急いで駆け寄って、扉をノックした。しかしノックしてすぐ開くわけでは無く、待っている時間が長く感じた。もう一度ノックしようかと思ったが、ザックにうるさいと思われるのが怖く、出来なかった。やがて扉が開き、ザックが現れる。

「帰って来たのか、ナナ」

 その言葉に、反射的に頷く。ザックはナナを迎え入れ、扉を閉めた。そして扉の鍵を閉める音がして振り返ると、ザックはそのままナナの横を通り過ぎて椅子に座った。鍵の閉められた扉を見る。ナナはこの家から逃げようと思ったことなど無かったが、ザックはナナがいつ逃げ出すかわからないと思っているのだろうか。そんな悪い想像が頭を過ぎる。しかし、盗みに入った家にも鍵はかかっていた。夜に鍵をかけるという事は当たり前のことである筈で、そこにナナへの感情などは関係が無い筈だった。

「で、どうだった?」

 ザックのその質問に、自分が体験した恐怖や緊張、罪悪感の全てを話してしまいそうになった。実際にそうしたかったし、そうしてもよかった。しかしザックの言葉が指しているのはナナの事ではなく成果はどうだったという事であることに気付き、何も言葉を返せないまま布越しに握っていた金貨を素手で持った。そしてそれをザックに差し出した。

「おお、ちゃんと出来たのか」

 ザックはそう言ってそれを受け取った。

「上出来だ、よくやった」

 そして立ち上がり、ナナの肩をポンポンと叩いた。ナナはザックが思い悩む姿を思い出した。あれだけ悩んでいたことが解決した割には、反応が少し淡白であるような気がした。

「次も上手くやってくれよ」

 ザックの反応への違和感を感じ始めた時、不意にそう聞こえた。

「……え?」

「ん? どうした?」

 思わずそんな反応をしてしまったナナに、ザックが何もおかしくないと言った風にそう返した。次も上手くやってくれ。確かにそう言った。つまりナナはもう一度、人の家に盗みに入らなければならないという事だった。盗みに入った時、そして実際に硬貨を手に取った時。自分の立てる物音一つに怯えながら歩き、その家に住む住人の暮らす光景を見た。襲ってきた全ての緊張と恐怖、罪悪感が再び蘇ってきた。あの行為を再び行うのはもう二度とごめんだった。

もう次は無理だと、そう伝えなければならなかった。しかしザックに自分から何かを伝えるという行為には、多大な緊張が付き纏った。それにザックにとって今ナナが口から出そうとしている言葉は明らかに望まないもので、それを伝えるという事はザックに逆らうという事にもなる気がした。

 ザックが二階へ戻ろうとして、階段の方へ歩いていく。今言わなければ、後々言える気がしなかった。今言わなければ、ナナはまたあの行為を繰り返さなければならない事になる。

「……もう、私は————」

 逆らうのは怖い。そんな恐怖を捻じ曲げて、そこに出来た小さな隙間から漏れ出たようなか細い声。自信の無い声だった。しかし、ザックは足を止めて振り返った。そのままナナの元へ歩み寄り、立ち止まった。

「大丈夫、次もまた頑張ってくれれば良いんだ」

 ザックはそう言って、ナナの肩を再び叩いた。そして次も任せたぞと確かにそう言って、男は階段を上がっていった。

 その言葉に、もう何も言えなくなった。期待に応えられたという充足感など微塵も無かった。ただ、自分はまた誰かの家へ盗みに入らなければならない。そんな事実だけが心の中に闇を落としていった。

 ザックは階段を登ったまま部屋へ戻り、ナナもその後階段を登って廊下の端に座り込んだ。膝を抱えて座り、その膝に顔をうずめた。今日盗みに入ってから経験した全ての事が恐ろしかった。そしてその状況へ、また足を踏み入れる事になる。ふと顔を上げると、ナナの隣に畳んで置かれた元々着ていた布が視界に入った。それを手に取り、座ったまま広げた。

 布は色褪せ、穴が開きかけている場所がいくつもあった。ナナが今纏っている物の方が新しかったし、着るものとしてはそちらの方が確実に良いものだった。しかし今ナナが手に持つそれは、ナナが路地裏の世界で大通りの光を頼りに生きていた時を共に刻んできたもので、今纏っている布とは確かに違った価値を持っている気がした。

手に持っていた布を自分が今纏っていた布の上から纏い、再び膝に顔をうずめて眠りについた。そしてその夢の中で、ナナは顔の映らないあの家の住人が盗人に恐怖する姿を見た。


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