第二章
急いであの場を去った後、しばらくあの場所には近づかなかった。何度か廃棄物の山へ向かおうとはしたが、その道すがらにあるあの老人が寝ていた茣蓙が視界に入る度、恐ろしくなってその先へ進む足が自然と止まってしまった。
それでも空腹は襲い来た。あの店のパンを一度食べた。それに依存して生きていくことも可能ではあったが、少女にはそれが出来そうに無かった。ある日この恐怖を克服しなければならないと思い、廃棄物の山を見に行った。
そして恐る恐る廃棄物の山があった場所を見ると、もうそこには何も無かった。廃棄物の山の表面に剥き出しになっていた筈の老人ごと消え去っており、それが少女の中の恐怖が膨張するのを煽っていった。それは忘却への恐怖でもあったし、自分に迫る可能性のある危険への恐怖でもあった。
誰に見られているわけでも無い。そんなことはわかりきっていたが、とにかく普段通りに過ごさなければならないと思い、実際にそうした。しかしあの死体の眼差しが、廃棄物の山ごと消え去った後もずっと自分を見続けている気がして、少女の足は自然とその近辺から遠ざかった。
少女がいつも居た場所を離れた後、次に少女が過ごすと決めたのも大通りの見える道だった。老人が居なくなった、老人を消し去った路地裏の世界で暮らす中で、少女はより過剰に大通りの光と視線を求めた。大通りを歩む人間達の日常を見ていると落ち着いたし、自分に危険が迫った時、大通りを歩く誰かが自分を見つけて助けてくれるかもしれないと思ったからだった。
老人の死体がどうなったかはわからない。その結末を想像することは出来たが、それに手をかけてしまうと自分の中の恐怖が今以上に膨張し自分の心を刺激してしまう気がして、何も触れずに記憶の奥へしまい込んだ。
「最近、なんか変な奴らがこの辺歩いてるんだよ」
「変な奴ら?」
「ああ。なんかこん中の人間にしては妙に小綺麗でよ。なんかぽくないんだよ」
「なんか大通り歩いてる奴らが近道で使ってるとかじゃねえのか?」
「そりゃここら辺ならあれだけどよ、奥の方にも入って行ってるっぽいんだよ」
「へえ……」
そんな会話が少女の耳に入る。少女が移動してきたその場所は、元居た場所よりも多少人同士の交流があるようだった。しかしそれもけして多くはなく、その会話を偶然聞いてから四度の夜が過ぎるまで、少女は大通りを歩く人間以外の声を聞かなかった。
元居た場所から離れてそこで過ごす内に、少女の時間の中に再び平穏が訪れ始めた。安心とは程遠い、しかし確かな実感として、生活が元に戻ったと感じていた。廃棄物を漁り、食事をし、眠り、そしてひたすら耐える。しかしその中にはあの店は無かった。場所を移動したため距離が離れてしまい、以前のように行ける距離では無くなってしまった。
陽が丁度建物の隙間に差し込むように少女の頭上から差し込む頃。それが次の少女の時間だった。立ち上がって歩き出す。
過ごす場所と漁る廃棄物の山を変えた事で、少女の歩く道の光景は全て変わった。当然、老人が寝ていた茣蓙も無かった。それに時間帯が変わったことで、暗い道とは正反対の明るい道を歩くようになった。
「ここじゃ見ない顔だな」
背後からそんな男の声が聞こえた。周りに人は見えなかったが、自分に話しかけている訳では無いだろうと思いそのまま聞こえなかったフリをしながら歩いた。
「おいおい、無視かよ」
しかし男は続けてそう言った。そこで自分に話しかけているのだと理解した。思わず足が止まりそうになったが、それよりも少女の中にある警戒心が足を止めさせなかった。あの老人が廃棄物と共に捨てられ、その近辺を離れて来た場所で話しかけられた。路地裏の世界に入り込んでから話しかけられたのはあの老人からのたった一度だけだったし、その二度目がこのタイミングで起こったことは少女にとって元通りになった生活への闖入に感じられた。少女は警戒を強める。
「なんでここに? 最近仲間になりましたって感じじゃないな」
男は足を早め、少女の横に並んで顔を覗き込むようにして言った。目が合わないよう俯きながら歩くとその男の影が視界に入った。男は少女より身長も体格も大きいようで、その風貌に少女は益々警戒を強めた。
「元居た場所からわざわざこの辺りに来たのか?」
男の言う通りだった。先程から言っている事が全て少女に当てはまっており、見透かされている気がして歩を速めた。すると男の影が視界から消え、自分を追いかけるのをやめたのだと思った。思わず安心して歩く速度を緩めた。
「自分が居た場所の近くで、死体でも見つかったか?」
ぴたりと、少女の足が止まった。先程まで男が言っていた事は、少女を見ればある程度分かったのだろう。しかし今男が言い当てたそれは、明らかに先程までの物とは違った。何故わかったのかという驚きもあったが、何よりも新たに移動した場所でそれを言い当てられたという事実に、逃げ場が無いと思わせられるような恐怖が少女を襲った。
「言葉がわかるんだな」
失敗したと思った。自分に起こったことを言い当てられて足を止めた。それは少女が言葉を理解出来るという事に他ならなかった。男の方を見ないように、俯きながらゆっくりと振り返った。やがて離れた男の足元が視界に入る。
このまま逃げれば、追いかけて来るのだろうか。そんな想像が頭を過ぎったが、少女が今走って逃げたとして、男がそれを走って追いかけるような状況を想像出来なかった。しかし今逃げたとしても、やがてまた再会してしまうような、男が自分を見つけてしまうような気がした。男の方を見るのが、怖い。
「……少し、なら」
そこで初めて、少女は口を開いた。もうそこで誤魔化そうとしても無駄だと思ったし、無視するよりも男の話は聞いておいた方が良い気がした。そうすれば、次に自分を見つけたとしても自分に話しかけてくることは無いかもしれないと思った。人と話せるという喜びなど殆ど無かった。ただ、どうすれば今目の前に居る男ともう関わらなくても良くなるかばかりを考えていた。
男の足元だけが視界に入っていた状態から、少しずつ視線を上げた。脚、体、肩が徐々に視界に入り、やがて目が合わないまでも男の顔が視界に入った。
髪を全て剃り上げた、少女よりかなり背の高い体格の良い男だった。大通りを歩くような人間の物とは違うもののしっかりとした服を着ており、大きな布を一枚纏うだけの少女とはそもそも取り巻く環境が違うのだろうと思わされた。
男が少女を見る。思わず目を逸らし、その後もう一度ゆっくりと顔を見た。目が合ったことを快く思ったのか、男が少し口角を上げた。そこでまた少女は俯いて視線を逸らした。男が何故笑ったのかわからなかったし、目を合わせることが怖かった。
「こっちに来たばっかなら知らねえとは思うが、最近この辺りは物騒なんだよ。お前が見つけたやつみたいに死体がたまに見つかってな。お前の方でも見つかったって事はそっちに広がってるって事なのかもしれねえ」
男は考えるような素振りを見せながらそう言った。少女は男の話した言葉を全て理解出来た訳では無かったが、それでも言われたことの意味はなんとなくわかった。
「お前、どっから来たんだ?」
「……五番……街……?」
「……五番街の辺り……ね」
男の質問になんと答えれば良いのかわからなかったが、少女は大通りを歩く人間が稀に放っていた名前を口にした。それが場所の名前を指していたのは合っていたようで、男がそう呟いた。しかし同時に男が纏っていた雰囲気が一瞬強張り、その理由がわからず少女はまた目を逸らした。
男が少女を値踏みするように見た。思わず庇うように腕を抱く。
「……お前、読み書きは?」
首を横に振った。
「数字はわかるか?」
「……少し」
「一から一〇は?」
「……わかる」
その後も続けて聞かれた質問を、少し詰まりながらも余計な言葉一つ無しに流れるように答えていく。その答え方に、男がより考えを深めるような態度を取った。
「なるほどな。まあ言葉と数字がある程度わかれば問題はねえ」
やがて組んでいた腕を解き、「俺の所に来い」と言った。
「……え?」
予期していなかった言葉に、思わずそんな声が出た。
「物騒だって言ったろ? それに、頼みたいことがあるんだ。人手が足りなくてな」
そんな少女の様子を見て、説明するようにそう言った。そのまま踵を返すように背を向ける。
「ついてこい」
男は少女が自分についてくると予想しているようで、そのままそう言って歩き出した。しかしついていく気にはなれず、男の後ろ姿を見ているままその場に留まって動かない。少女の歩く足音がしなかったからか、男が振り返った。
「……来ないのか?」
男が少女を見据え、男の背中を見ていた視線を下へそらした。
自分の行動によって、男を不快にさせてしまうかもしれない。人との関わり望んでいた少女にとってそれは不安でしか無かったが、それを看過してでも、簡単についていってしまうのは危険だという思いがあった。
しかし一方で、男の言う手伝ってほしい事という言葉が気になった。誰が見ているかもわからない善行をただ繰り返してきた少女にとって、具体的に誰かの役に立つことが出来るという事は魅力的に感じられた。
「俺の話を聞いて、不満だったら出て行けば良い。不満が無かったらそのまま居て俺を手伝ってくれれば助かる」
男がやがて、選択肢を与えるようにそう言った。先程のように殆ど選択肢が無いような行動を取られるよりも幾分か気楽に思えた。それに、出て行けば良いという言葉。仮に少女に何かしら悪意を持って行動を起こそうとしているなら、不満なら出て行けば良いなどという言葉を使うのだろうかと思った。そんな思考が巡る中で、少女の意識は今男が放った一つの言葉に引きつけられつつあった。
助かる、という言葉。少女は今まで一度も感謝されたことが無かった。まだ男に対して何一つしていなかったが、ついていけば感謝の言葉を聞けるのだろうかと思った。
男を一瞥した。その視線に気付いた男が、どうするんだというように肩をすくめた。また俯いて視線を逸らす。
そして逡巡の末、少女は小さく頷いた。それを見た男が「決まりだな」と言って歩き出し、少女はその後ろをついていった。
男は徐々に路地裏の奥へと歩を進めていく。最初は距離を詰め過ぎないようについていっていたが、その道は少女が居た大通りの近くの場所よりも道が複雑で、短い距離の中で二度、三度と角を曲がっていく男の足取りに、少女は距離を近づけることを余儀なくされた。
奥へ進んでいくごとに大通りからは遠ざかり、最初はまばらに見つけた路地裏の住人も段々と姿を見なくなっていった。大通りから離れていくことで段々と不安が増していったが、今更男に先程の決断を取り消す旨を伝える勇気は無かった。
「ここだ」
やがて男が、足取りそのままにそう言った。少女は足を止め、男が進んでいった方向を見た。
そこは一つの民家だった。それと隣接しているような家は無く、周りに経つ家々とは不自然な距離が保たれていた。路地裏の世界を形作る建物のうちの一つというよりも、何かの事情で残ってしまったスペースに家を一つ建てたというような風貌だった。
男がその家へ向かって歩き、ドアの前で止まって何か金具を差し込んで音を立てた。その後ドアを開き、入れと言うように少女を見た。開いたドアから覗く内装を見ているフリをして、少女を見る男と視線を合わせないようにした。そしてゆっくりと歩いていき、男のすぐ近くをすれ違う事に一瞬の不安を抱きながら家へ足を踏み入れた。
家に入ると、まず自分が踏み出した足裏の感覚に違和感を覚えた。下を見ると地面が丁寧に切られた木で出来ているようだった。視線を上げ、内装を見た。先程まで感じていた筈の眩い陽の光が、少女に差し込んで来ない。家の中はそれとは違う別の光に包まれており、そこで上を見上げた。視線の先には屋根があり、そこで初めて屋根の下に入ったのだと実感した。
部屋の中心には机とそこに椅子が四脚ほど入れられており、見える範囲にドアが一つと、奥に入る通路が一つあるようだった。そういったものへ視線を移していく中で、少女の視線は壁に打ち付けられた木の板に吸い込まれた。一瞬それが何なのかわからなかったが、よく見てみるそれは窓を塞いでいるようだった。陽の光を遮り、外で何が起こっているのかは一切わかりそうになかった。そしてこの中で何が起ころうとも、外の人間が目視することは出来ないのだろう。もっとも、家の中で誰かが暴力を振りかざされているから助けよう、などといった正義感を持った人間など、この路地裏の中には誰一人として居ない事は理解していた。それでもその異様さから来るその家の雰囲気に、少女の心に不安が灯った。
「ここは俺が住んでる場所兼、仲間も集まる場所って感じだ」
男が少女の横を通り過ぎながらそう言った。仲間、という言葉だけが浮き出て耳に入る。少女は今までそういった類のものは一度も持ったことが無かった。他の人間も殆ど同じだと思っていたが、男にとってはそうでは無いのだろう。明らかに人と接することに慣れている態度がそれを納得させた。
男が部屋の中心に置かれた椅子を引いて座った。少女は何処に居れば良いのかわからず、机の前で立ち止まったままだった。
「何してんだ、そこ座れ」
そう言って机を挟んだ反対側を指差し、少女はそれに従って男がしたのと同じように椅子を引いてそこに座った。捨てられた椅子を見たことはあったが、実際に椅子に座ったのは初めてだった。固い地面に膝を抱えて座っていた時間が長すぎて、座ると足しか地面につかない感覚には慣れられそうに無かった。無意識に体が地面に座っていた時のように前向きに傾く。
「お前、名前は?」
「……名前……」
少し考えて、それが個人を呼ぶ際の呼び方であることを思い出した。
「……無い」
誰も自分個人の事を指して呼ぶことなど無かった。その為そんなものは必要でなかったし、生まれついた時にそれを与えてくれる人間など居なかった。
「無い……か。まあここじゃ珍しい事じゃねえ。でも、呼び名が無いのは不便か……」
男が顎に手を当て、考えるような素振りを見せる。
「そうだな……とりあえずナナとでも呼ぶか」
「……ナナ……?」
「ああ、七番目だからな。ここで仕事をするようになった奴らの中で、お前が七番目」
男のその言葉を聞き、俯いた。少女は今、名前を与えられた。今まで少女は、誰に覚えられるでも無くただそこに居るだけの人間だった。しかし男は、少女にナナという名前を付けた。現実感の無さから、喜んで良いのかもわからなかった。自分の些細な発言や行動一つで、名前を得たという出来事が夢のように消え去ってしまう気がした。
「……そう」
短く、そんな返事をした。どう返せば良いのかわからなかったのもあったが、今心の中に生まれた感情を表面に出すことが正しい事なのか、そもそもどう表現すれば良いのかもわからなかった。
「……何、するの?」
「ああ……まあ、この家で色々と家事をやってほしいんだ」
少女は自分も意識しない内に、男の手伝ってほしい事というものに対して能動的に問いかけた。それに男が少し虚を突かれたような様子でそう答える。
「家事?」
「掃除とか、皿洗ったりとかだな。あとは俺が仕事をしてたら茶でも出してくれると嬉しい」
家事というものが何かわからずそう聞き返したが、男がすぐにそう説明した。少女のような人間と話すことに慣れているようだった。
「……私、やったこと、ない」
「わかってるよ。最初は俺が教える」
男が安心させるようにそう伝える。
「ここで簡単な仕事をしてれば、毎日飯も与える。寝る場所もここで寝れば良い。雨も風も凌げる場所で寝た事、お前あるか?」
男の言葉で、今までの日常を思い出す。人の残した廃棄物を漁り、それ以外は寝て待って、ただ大通りを見つめて自分の理想の生活を夢を見る生活。その夢が叶う可能性など万に一つも無いことは少女も理解していて、そこから脱却する術など何一つ無い事も理解できてしまっていた。
寝ている最中に雨が降れば体は冷えたし、狭い路地を抜けていく冷たい風に晒された事もあった。暑さでいつもより早く異臭を放ち始める廃棄物の山から食物を取り出し食べて、雨の降らない日が続くと泥の混じった川の水を飲んだ。それらは少女にとって当たり前の事で、それに悩まされない生活など少女の妄想の中だけのものだった。しかし今目の前に居る、少女に名を与えた男が、それを今から与えると言った。
先程見上げた天井を再び見た。この屋根がある限り、今まで少女に打ち付けていた雨が入り込んで来る余地はまるで無いのだろう。雨が降っていた時に口ずさんでいた言葉を思い出す。あの時口ずさんでいたものは、この家で男と共に居ればきっと全て取り除かれる。少女にとってこれ以上無い待遇ではあったが、それを容易く受け入れることは出来なかった。
廃棄物に埋もれた老人を見つけ、移動してきた先で声をかけられた。あまりにもタイミングが良すぎるというのは否めなかったし、未だ男が何者なのかも分かっていない。それに他にも人間が居る中で何故自分なのかという疑問もついて回った。
木の板を打ち付けられ、日の光や視線の入らない窓を見る。この家に来るまでも、大通りから離れるような道ばかりを通ってきた。男は少女と違い、大通りに憧れてなどいないようだった。この家で男と共に過ごすという事は、少女が今まで縋ってきた大通りの光を全て諦めてしまうという事である気がした。少女は、大通りの景色を捨ててでも男の元に居ると言うだけの勇気が湧いてこなかった。
「どうするんだ、ナナ?」
やがて断る意思を伝える為に口を開こうとすると、男がそう言った。今与えたばかりの、少女の名前を呼びながら。初めて名前を呼ばれた。
もしも提案を断ってここを出て行けば、男はすぐに自分の事を忘れるだろう。少女は与えられたばかりの名前を失い、そしてまた何処から襲い来るともしれない恐怖と忘却が、折り重なって少女を飲み込んでいく。しかしこの男の元に居ればどうだろうか。
この世で少女ただ一人を指す名前。それを呼んでくれる人間が出来る。それが先程男が出した条件の何よりも大きな魅力をはらんでいるように思えた。
それに男の後ろについて道筋を歩いてきたが、今少女が元居た場所に戻るとして、そこに戻るまでの道を少女はしっかりと記憶しているわけでも無い。
少女の目の前に差し出されたものの前に、次々と承諾するための言い訳が溢れて来る。そしてやがて、少女の中で一つの結論が導き出された。
「……わか……った」
静かに、言葉を詰まらせながらそう言った。男が上手くいったという風に笑う。
「そうか、そりゃ良かった」
男が立ち上がり、少女の元へ歩いてくる。何をされるのかと思わず目を瞑ったが、男は少女の肩をポンと叩いただけだった。目を開き見上げると、男は笑みを浮かべていた。殴られる以外で人に触れられるのは初めてだった。
「俺はザックだ。これから頼むぞ、ナナ」
男に呼ばれたナナという名前に、少女は酷い高揚感を覚えるのを感じていた。そして男の名乗ったザックという名前を、初めて名乗られたその名前を、何よりも優先して記憶しようとしていた。
「じゃあまずは体洗って来てくれ。掃除するのに汚れたままじゃあれだからな」
そう言われ、自分の身体を見た。最後に雨が降ったのは八日ほど前で、少女の服や体もその時から洗い流せていなかった。元々雨が降る度に体や服を清めてはいたが、ザックに指摘されると自分で思っていた以上にそれが恥ずべき事のように思えて俯いた。
「そこに水は溜めてあるし桶も布もあるから、とりあえず布に水付けて髪と体洗って来い。俺はここで待ってる」
ザックが一つの扉を指さし、少女は不安からザックの顔を見てからおずおずとその先へ向かった。やがて扉の前に立ち、ドアノブを握った。少女は扉を開けるという経験も初めてだった。そのまま引けば開くのだろうかと思い引くが開かず、押してみると少し重かったが簡単に開いた。そのまま開いていき、ザックを一瞥して部屋に入り扉を閉めた。
その部屋には水が溜められている場所があり、少女は横にあった桶を取ってその水を汲んだ。そしてザックの言っていた通り、置いてあった布を桶に入った水に沈めた。水に沈めた手が熱を奪われていく。そこで自分が冷静になっていくのを感じた。
共に暮らすことを選びはしたが、いざ一人になると先程二人で居た時よりもかなり落ち着いていた。他人との関わりを確かに求めてはいたが、一方でそれを当たり前の幸福として受け入れるには、まだまだ自分が他人と接点を持つ事に慣れられていないようだった。
やがて水から布を取り出し、それを一度置いて纏っていた大きな布を脱いで横に置いた。そして置いておいた布を手に取り、それで身体を擦った。
不意に扉がノックされ、思わず肩を跳ねさせた。
「今着てるのも結構汚れてたろ。とりあえずこれ羽織ってろ」
ザックのそんな声が聞こえ、扉が開く音が聞こえた。思わず少女は腕で体を隠すが、ザックは完全に扉を開くことはせず、少しだけ開けてその隙間から腕だけを出し畳まれた布を差し出していた。入って来るのかと思った少女は一瞬動けなかったが、開いた扉の隙間から出る腕が催促しているように見え、布を受け取った。ザックはそのまま腕を引っ込め、扉を閉めた。
少しの間、閉まった扉を見ていた。驚いて激しくなった鼓動を抑えるようにその扉を見つめて、そして息を吐き、再び身体を拭き始めた。
その後身体を拭き終わり髪なども清潔にした後、それらを拭いた布を洗って元の場所に戻した。そして立ち上がって先程受け取った布を広げ、自分の身にまとった。元々少女が着ていた布とは多少肌触りが違う程度の違いしかわからなかったが、人から貰ったものを身にまとうのは不思議な感覚だった。
先程脱いだ今まで纏っていた布を見る。それはザックに貰った布に比べると汚れや小さい穴、擦れなどが目立ったが、それでもそれは今まで少女が長い間纏ってきたもので、それを何の感慨も無く見下ろすことは出来なかった。その布を不慣れな手つきで畳み、手に持った。そしてドアノブを握り、扉を開く。扉を開けるとその先に誰かが居る。そんな状況も初めてで、扉を開ける動作にも緊張がまとわりついた。
ザックは先程の椅子に座ったまま俯いて何かを考えていたようで、扉が開いたことに気付き少女を見た。少女は思わず視線を逸らし、腕を抱いた。
「へえ」
ザックが感心するようにそう呟いたが、少女の耳には届かなかった。
「……まあ綺麗になったな」
そう言って立ち上がり、少女が手に持った布を見た。不快にしてしまっただろうかと思ったが、ザックは言葉を続けた。
「じゃあまず掃除だ。桶に水汲んで雑巾……てか布と一緒にここに持ってきて、布をその水で濡らして床拭いてくれ。俺は二階でやらなきゃならねえことがあるからな。床拭くときはちゃんと布絞れよ。あと、その持ってるの残しときたいなら後で自分で洗っとけ」
少女が頷くと、「頼むぞ」と言ってザックは階段を登っていった。その後ろ姿を見送り、手に持ったままの布を見た。捨てろと言われるかと思ったが、ザックはそうは言わなかった。小さな安堵が少女の心に生まれ、それから言われたことをこなすことにした。少女は先程体を洗った部屋に入った。布を置き、そこから言われた通り桶に水を溜めてその桶と雑巾を持って戻ってきた。膝をつき、桶に汲まれた水に雑巾を付けた。そして布を絞り、それで床を拭き始めた。桶を置いた場所から順々に拭いていったが、ある程度拭いてまだ拭けていない場所を見ると、部屋の端から始めた方が良かったのだと思い至った。しかしそこから端まで行ってまた拭くとなると手間になると思い、そのまま拭くのを再開した。
しばらくして、手に持っていた雑巾を見た。その雑巾は汚れを取ってはいるようだったが、想像していたほど汚れてはいなかった。外を歩いた靴のまま入って来る為もっと汚れているのかと思ったが、そうでも無いようだった。ただそういうものなのだと思うことも出来たが、ふと少女が来る前から誰かが掃除していたのだろうかという想像が過ぎった。しかし少女は、ザックのそういった事情が特に気にならなかった。
先程までザックが座っていた椅子が視界に入り、それを移動させようとした。最初は椅子の脚を床に付けたまま引っ張って移動させようとしたが、床が傷ついてしまうかもしれないと思い持ち上げて移動させた。少女はそのまま四脚あった椅子を全て持ち上げて移動させ、その机の下を拭いて椅子を戻した。筋力の無い少女にとって椅子はそれなりの重量があったし、必ずしも持ち上げて移動させる必要など無い筈だった。少女は自分も意識していないまま、言われたことを言われた以上の丁寧さで遂行しようとしていた。
やがて一階の床を殆ど拭き終わり、階段の方を見た。ザックに言われたことは殆どやり終えた筈だったが、その後どうすれば良いのかわからなかった。他の部分を掃除しようにもそうしろとは言われていなかったし、二階に上がって良いとも思えなかった。路地裏に居た時は何もしていない時間が多くあったが、今の状況の中で何もせずに居るという選択を取ろうとすると不安が湧き上がって来た。
やがて布を水につけ、もう一度床を拭き始めた。今ある自分の中の不安を拭うにはこうすること以外に手段がわからなかった。しかし前までの少女はいつも自分に不安が訪れてもそれに対して何もすることが出来ず、ただじっと時間が過ぎるのを待つことしか出来なかった。今は不安を抑えるために何かに興じるという選択をとることが出来、そういった経験は初めてだったと共に、その行為に小さな安らぎを感じ始めていた。
そんな時間が続く中、やがて階段を降りて来る足音が聞こえ、思わず立ち上がった。階段からザックが降りて来て、少女の元へ歩きながら床を見た。
「掃除、まだ終わってなかったのか?」
「……終わった……けど、もう一回」
「なるほどな」
そう返して歩きながら床をまじまじと見て、その様子を少女は不安げに見つめた。そしてやがてザックは少女の顔に手を伸ばした。少女が怯えるわけでも無くただ目を瞑ると、ザックが少女の頭に手を乗せ、少し雑に撫でた。髪がくしゃくしゃとなり、撫でる手が止められた所で目を開けて、ザックを見た。
「よくやった」
少女は思わず目を丸くした。自分がしたことによって誰かに褒められたのは初めての経験だった。それは少女の記憶に強く残るものになったし、そして少女が考えていたよりも、ザックが少女にとって大きな存在になるであろうことを理解した。
その日から、ナナという名前を与えられた少女はその家でザックと共に住むことになった。
ナナには体に纏う新しい布の他に毛布が与えられ、二階の廊下の端で毛布を床に敷いて眠るようになった。最初は慣れなかったが、やがてその環境が自分が今まで居た路地裏よりもかなり良質な環境であることを思い知った。屋根があり、壁があり、そして今まで居た場所ではけして手に入る事の無かった安全と安心が手に入った。朝目が覚めると知らず知らずのうちに雨に打たれており体が冷えて震えている事も無いし、路地裏を跋扈する虫やネズミなど他の小さな生物たちも見なくなった。元々纏っていた布も洗い、畳んでナナの眠る横に置いておいた。
食事や水も、満腹とまではいかないものの、廃棄物の山を漁っていた頃にはけして安定して食べられなかった量の食事が与えられた。一日二回、ザックと一緒の机に向かいながら食事をした。ナナにとって食事はただ命を繋ぐだけのものであり、人とその時間を共有した経験など無かった。ザックが忙しく共に食事を出来ない時は一人で食事をしたが、共に暮らす内、その一人で食事をする時間に寂しさを覚えるようになっていった。ザックが与えてくれた環境は、今までナナが得られなかった殆どを内包していた。
だからこそザックの言う事にはなるべく従った。肩を揉んでくれと言われれば肩を揉んだし、他の部屋の床も拭いてくれと言われれば他の部屋の床も拭いたし、一人での食事を一度たりとも寂しいなどとは口にしなかった。
それは言外の礼でもあったし、その度に述べられるザックからの感謝の言葉に心が軽くなった。自分の名前を呼んでくれることも心地が良かった。
だからこそザックが言っていた、ここで仕事をするようになった六人の人間達の姿が一切見えない事に対しても、何も考えないようにした。今のナナのようにここで暮らし、やがて外で仕事をするようになったか、あるいは別の場所で何かすべき事を与えられているのだろう、とそんな推測でその疑問を埋める事にした。
しかしその推測とは裏腹に、この家に来た日からナナはその家からまだ一度も出ていなかった。家に訊ねに来た人間の応対は全てザックが行い、食事の買い出しなどもいつの間にか誰かが買いに行っているようだった。ナナは外との関わりを何一つ持っていなかった。
それを少し恐ろしく思う一方、自分は守られているとも感じた。今まで自分を覆っていた全ての不幸から遮断され、生まれ変わったかのような感覚さえしていた。
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