絶望のスーパーダーリン

友利有利

第一章

 両親の顔は覚えていない。自分が何処から来たのか、教えてくれる人も居なかった。少女の中にある最も古い記憶は、ゴミの山からすくい出したパンの欠片を、自分の命を繋ぐために食べたというものだった。寒さでかじかんで赤くなった手で必死に廃棄物を漁った。その時手に取った、他の廃棄物の放つ匂いが移ったそれを口に入れた時の味や匂い。飲み込む時の不快さ。不快だったが、そうするしかなかった。そんな惨めな記憶の中にある行為を、今もなお続けて生きている。

 その記憶の情景から、冬を十度以上越えた。正確な回数は覚えていない。夏と冬という名前も知らないまま訪れる暑さと寒さを、先の見えない暗闇の生活の中でただ感じるだけだった。捨てられた食べ物が暑さで普段よりも早く腐り、日の当たらない場所で路地裏を抜けてくる寒気にひたすら震えながら耐える。そんな往復を、ただ繰り返してきた。

 気付けば、少女には何も無かった。親も無く、友人も無く、帰る場所も大切な物も無かった。手元にあるのは自分の体だけ。生に執着し、死を恐れ、ただ生きているだけ。それは少女の居る路地裏において多くの人間が陥っている状況ではあったが、少女はその状況にあることが、酷く恐ろしいことに思えていた。

 ふと大通りへ視線をやると、両親と手を繋ぎ歩く子供が見える。路地裏では見ることのない上等な服を着た茶髪の子供。その服は他の大通りを歩く人間と比べても上等に見え、その子供が両親に愛されているのだという事が見て取れた。あの子供は見てくれる人が居る。生まれながら、成長を見守ってくれる存在が居る。あまりにも贅沢だ。この路地裏にそんな存在は居ない。例えいつも視界に入っていた人間が居なくなっても、誰も気づかない。気付いても気にしない。悲しみもしないし、涙などきっと流さない。そんな人間が居たとふと思い出すことも無いのだろう。

 ならば今自分が死ねば、一体何が残るのだろう。少女が死した時、その死体は埋葬されることも無く、誰かが腹を満たすため口に入れるか、墓を建てられることも無くただ邪魔だという理由だけで何処かに捨てられるだろう。自分が生きていたという証は、自分はそこに居たという証明は、一体誰がしてくれるのだろうか。

 そんな恐怖も、全て生まれのせいに出来た。自分の生まれは酷いものだったから、そのせいだと。もうこの状況から逃げ出すことは出来ないと。そんな逃避をして、恐怖を出来るだけ遠ざけていく。逃避の末、結局この状況は何も変わっていないことから目を背けて。

 どれだけ言い訳を並べここから抜け出せない理由を並べても、少女は今ある恐怖を拭う事が出来なかった。拭う方法さえ知らなかった。

きっと誰かが覚えてくれていると思っていた。きっと何処かの誰かが、自分の事を覚えてくれている。そんな現実味の無い楽観的な逃避をするしか無かった。


 少女が居る街はそれなりの大きさを誇っていたが、他の街の人間からは殆ど通り道のように使われていた。他の町から来た人間はこの街に留まることを避ける。ただの通り道として扱い、馬車に乗ってただ景色の中の一つとして消費していく。その為、他の町から来た人間が通るのは馬車の走る大通りだけ。その街に住む人々が清潔に保とうとするのは大通りのみで、その大通りから少し道を外れるだけで、その場所には人々が打ち捨てた廃棄物の山や大通りには出すことの出来ない暗闇がたむろしていた。

 この街の治安は、けして褒められたものでは無い。大通りの治安はまだまともに保たれているが、それ以外の馬車が通らない道の治安は殆ど維持などされていなかった。大通りにおいても、街の入口から離れて中心に進むほど治安を守る衛兵の姿は見られなくなっていった。

しかし浮浪者や貧困層はたむろしている一方、例え街の中心に近くとも、その大通りに乞食は一人たりとも居なかった。乞食が大通りへ出て恵みを望めば、すぐに路地裏へ引きずり込まれその後その乞食は見なくなるし、かといって路地裏や裏道で乞食をしても恵みを与える人間は居なかったからだった。その為大通りの光が届かない、街の半分以上の面積を誇る路地裏の世界では、何処からか自分の食料を入手するしかなかった。少女は生きていくことを強制された。そんな過酷な場所の中で。

 路地裏の中では大通りでは出来ない様々なことを生業にする人間が居た。しかし幼くして捨てられた少女にはそんな人間たちの役に立つことは何も出来なかったし、路地裏の中でもさらに人の目の届かない深い場所に隠れたそういった存在を、そもそも認識することすら出来なかった。その為少女が生きるには、普通に生きる人間が捨てた廃棄物を漁るしかなかった。

 視線を上げれば、道を抜けた先に大通りが見える。その大通りを照らす光は路地裏の世界に深く踏み入る程弱まり、やがて少女の元まで伸びる頃には殆どその残滓しか残っていない。そんな大通りに通じた長い一本の道。その道が左右に分かたれ、そこを歩む者をさらに路地裏の奥深くへ誘うような三叉路。そこで少女は、いつも時が来るのを待っていた。

大通りを照らす光はまるでそれ自体が希望であるかのように煌びやかに見え、少女もその光に照らされることを望んでいた。しかし同時に、光に照らされることで自分の惨めさがより際立つようにも思えた。大通りを歩く人間になりたいと思いながら、その光に照らされることを恐れていた。だからこそ少女は、大通りが見える場所にずっと居た。顔を上げると大通りが見えて、大通りから覗き込む人間は誰も居ないその場所に。


 この路地裏の世界で過ごす上で、少女がすべき事は数少なかった。膝を抱え、ただ待つ。待って、時間になれば食事をしに行き、また待つ。眠り、起きて、また待つ。ただそれだけの生活。それ以外、何もしなかった。することも無いし、する意味も無い。口に入れられるもの自体が少なく、そもそもいつ食べられなくなるのかもわからない。頭や体を動かせば腹が減る。無駄に体や思考を働かせる意味は何も無かった。

 肋骨が肌に浮き、頬は痩せこける。腰や口元辺りまで伸びきった髪はそれ以上伸びず、それを良い事としてそのままずっと放置している。伸びすぎた爪は噛んで切った。体を洗うことなど出来ず、ただ雨の日にそれを飲むのと共に体に浴びるだけだった。身にまとっているのは拾った大きな汚れた布一枚だけで、それ以外は何も着ていない。そもそも体を隠すためにまとっているだけで、服を着るという概念も曖昧だった。

持った常識はその殆どが路地裏で得たもので、大通りに住む人間の生活は殆ど空想の中の存在だった。だからこそ、意味が無いとわかっていながらも、大通りの人間がどういった風に生活を営んでいるのかを時々想像してしまった。一体自分とどう違うのか、そして自分がそういった生活を出来たらという憧憬を込めて。時折不意に現れるその想像は気付けば夢中になっていて、意識して消すことが出来なかった。


やがて時間になり、少女は立ち上がった。人と立ち上がって並ぶことなど殆ど無い為自覚は無かったが、栄養が足りない中でも多く眠ることで自然と背は伸び、女の中でもそれなりに背が高く分類される方に育った。しかし立ち上がったその脚や腕は細く、少しの力ですぐに折れてしまいそうな程のか弱さだった。少女は歩き始める。人の寝静まった深夜、月の光が民家の隙間を縫って空から照らす時。この時間は、少女の食事の時間だった。

ゆったりとした足取りで目的の場所へ向かう。少女は常に空腹で、食事は命を繋ぐために必要なものだった。しかしそれを得られる場所へ向かう足取りは決して軽くなかった。少女にとって、この時間行う食事はただ命を繋ぐためのもので、日常に潤いを与えるような、希望を与えるようなものでは無かった。

 見慣れた民家の壁。整備もされないままで凹凸の目立つ汚れた石畳。慣れ切った淀んだ空気と匂いに、先程の少女と同じように座り込む男。その道は薄暗く、月の光が辛うじて道を照らすだけだった。その為少し先になるともう殆ど暗闇のようなもので、月の光が入ってこない時間ではさらに深い暗闇がその道を覆った。そんな道を、少女は淡々と歩いていく。地面に転がった木の棒を避け、道の奥が暗闇に飲まれ何処に繋がっているのかもわからない分かれ道を、迷う素振りも無く曲がった。その暗闇に慣れ切った少女は、その光の殆ど無い道をハッキリと視認して、ただ見知った道を歩いていった。

民家の壁には稀に窓が見えたが、路地裏に面したその窓は防犯のためにしっかりと締め切られ、中も見えないように布で塞がれていた。まだ路地裏に捨てられて間もない頃は、家に住む人間がどういった生活を送っているのかが気になって、窓から家の中を覗こうとしていたこともあった。しかし住人が窓を締めきる理由に気付き始めてからは、そういった事をしようとは思わなくなった。

 路地裏は入り組んでおり、そして広い。長い大通りで分かたれるようにして形成されている二つの敷地は広大で、その殆どを埋め尽くすように建物が多く存在しており、隙間を縫うようにして無数の道が形成されている。その複雑さは大通りの人間が少し入り込めばもう戻ることが出来なくなるほどで、実際に大通りから道を反れてそのまま帰ってこなくなった人間は少なくなかった。幼い頃からそこに居る少女でさえその全貌は把握しきれておらず、慣れない道を通るのは自然と避けていた。

道を曲がったところで、茣蓙に寝た老人が視界に入った。髪も髭も白く染まり、伸ばしたまま。何処かで拾ったのであろう明るい色の帽子をかぶり、道に背中を向けて眠っていた。この路地裏の世界でただ生きているだけの、少女と似た典型的な人間だった。何ともないという風に少女はその老人を視界から外し、また前を見た。

 その老人とは昔、一度だけ話したことがある。お前に友人は居るか、とそう聞かれた。少女は居ないと答え、老人はそれに対してそうかとだけ答えてその後何も言わなかった。

今になってみても、あの会話にどういった意味があったのかはわからないし、それ以来一度も話していない。きっと自分の事だって覚えていないだろう。しかし少女は他の人間と接することが殆ど無い為、そういった時の事はよく記憶に留めていたし、何よりも人との繋がりを欲していた。

老人が自分の事を覚えていてくれたらという妄想が浮かんでくるが、それが叶わない事であるということは誰かから教えてもらわずともわかった。わかってはいたが、その妄想は消えてくれなかった。


目的の場所まであと少しと言ったところで、一人の男が見えた。男は路地裏で拾ったにしては綺麗で、それでいて種類の違うパンを両手に一つずつ握って食べていた。その横には布の切れ端が広げられており、そこに男が手に持っていたような綺麗なパンがもう二つほど乗せられていた。少女はそれを見てすぐに視線を反らした。先程の老人には関心の無さから視線を外したが、今回は男に対して湧き出たほんの少しの怒りが思わず視線を逸らさせた。食事に夢中な男を尻目に少女は少し早まった歩調で歩き、目的の場所へ向かった。


 基本的にこの街に建つ家々で溜まった廃棄物は、大通りの景観を汚さない為に場所と時間帯を決めてそこに捨てられる。その指定された場所は街の各地に点在しており、大通りに面しているような建物に住む人間たちはそのルールを遵守した。しかし大通りに面さない家の人間や、その指定されている場所からは少し離れた場所に住む人間たちは、各自捨てる場所を身勝手に決めて捨てていった。

 そういった人間たちは、決まって複数の家々で決まった場所に廃棄物を集めて捨てた。そしてそうやって、路地裏の世界の中に廃棄物の積みあがる場所がいくつも形成されていく。それはそれぞれが示し合わせてそうしていた訳では無く、ただ最初の人間が決まりを破って捨てた場所に周りの家の住人も捨て、やがてそれが形骸化して長い間同じ場所に捨て続けているだけだった。

 捨てられる廃棄物には当然食べ残しや腐ってしまった食物も含まれており、そういったものをただ捨てて放置していると、やがて異臭を放ち始める。しかし実際にそうはなっていなかった。それは少女のような人間たちが、捨てられた食物を処理しているからだった。


 目的地に着き、狭い路地に積みあがった廃棄物の前に少女は膝をついた。そして慣れた手つきで表面の邪魔なものを横へ置いていく。やがて半分ほど残ったパンを見つけ、手に取った。その丸く少し硬いパンは、子供のものであろう小さな歯型で噛み切られており、少女はその残った半分を口に運んだ。

 よく噛んで飲み込み、殆ど内容物の無かった胃の中に運んでいく。少女を含む路地裏に住む人間は大抵胃がかなり弱っており、よく咀嚼して飲み込まなければ折角見つけた食料を吐き戻してしまう事になってしまった。吐き戻したとてその吐いたものをまた口に運ぶだけではあるが、少なくともその手間をわざわざ介する必要は一つも無かった。

 少女にとって必要なものは、命を繋ぐ食物だけ。水分は雨と、大通りからかなり外れた場所の小川で摂取できていた。少し前までは酷い暑さに見舞われ、雨も降らず小川の水位もかなり低くなり、土の紛れた水と暑さで腐った残飯を、体調を崩すことに怯えながら食す毎日だった。

 廃棄物を漁り、残して捨てられたものや、調理する際に捨てられた野菜の皮などをある程度口に入れた。そしてやがて切り上げようとした所でもう一度漁り、やがて調理した際の端材として捨てられたのであろう野菜の端材を見つけ、それを廃棄物の山の表面に置いた。


路地裏の世界に住む人間は、互いに認知し合う事を嫌った。その為他の人間が漁っている廃棄物の山を、同じ時間に共に漁ることはしない。人が漁っている時間を避け、自分だけがその廃棄物を漁る時間を見つけていく。そうして自然と、自分の時間を見つけていく。少女が今漁っていた廃棄物も誰かが漁った後の物であったし、少女が漁った後にもまた誰かが漁りに来る筈だった。

生まれながらにして路地裏で育った人間は多くない。今は路地裏の世界に馴染んでいる人間も、元は大通りを歩いているような人間だったという事もよくある話だった。そういった人間は、自分が惨めに廃棄物を漁ってそこから取った食べ残しに噛り付くような姿を誰にも見られたくはなかった。そういった不文律を知らなかった子供の頃は、空腹のあまり他の人間が漁る筈だった時間帯に廃棄物を漁ってしまい、後から来た人間に酷い暴力を受けた。怖さと痛みで泣き喚くと、うるさいと怒鳴られさらに強く殴られた。

 廃棄物の山の表面に置いた野菜の端材の上に、漁る際に横へ置いていたゴミを元に戻し立ち上がった。次に訪れた人間が食物を見つけやすいようにという少女の気遣いだった。そうしなければならないと誰かに教えられた訳でも無かったが、ただ誰かがこの気遣いに気付いてくれると思っていた。そうやって何処かの誰かに直接でなくとも善意を与えれば、誰かが自分を見るようになってやがて今少女を襲っている恐怖から助けてくれると思った。まだ胃に物を入れるべきだと鳴る腹部を抑えその場を去る。

 元来た道を歩いて帰っていく。パンを食べていた男は既に全て食べ終わっていたようで、何処を見ているともわからない焦点の合っていない視線を地面に向けて放っていた。茣蓙に寝ていた老人はまだ眠っていて、その後歩いた道も来た時と何も変わらなかった。元の場所に戻り、少女は座り込んだ。

 廃棄物を漁るのは、大体一日か二日に一度。一日に二度漁ることは殆ど無かった。勿論、廃棄物の山から手に入れられる食料などたかが知れており、少女の腹が満たされたことなど今まで一度も無かった。それでもその状況で、いつも少なくとも一日は耐えなければならなかった。それに加えてもしも次の日に食事をしに行っても、何も見つけられずただ無駄な労力を使うだけになる可能性も十分にあった。酷い時は、七日ほど何も見つけられない時もあった。

 ふたたび腹が鳴り、小さく息を吐いた。あの廃棄物の山の表面にわざわざ置いてきた野菜の端材。あれを食べれば、今よりは空腹が和らいだのだろうか。今まで路地裏の世界でああいった行為を繰り返した中で、何度もそう思った。少女の行いは、ただ無駄な事をしているだけなのかもしれない。意味も無く自分を削って、居もしない誰かを求めている。しかし少女にはそれしか無かった。誰かが見てくれている。そう思い込みながら、何かしらの希望に縋る事でしか正気を保てなかった。

ふと、あの男が食べていたものを思い浮かべた。路地裏で手に入れたにしては綺麗なあのパンを。あの男が手に持っていたそれは、恐らく少女も知る店のものだった。

その店はいつも売れ残った商品を捨てず、トレイに乗せて裏口に置いていた。そして次の日そのトレイを回収し、またその日売れ残ったものを裏口へ置いておく。店主はその裏口に置いたパンを持って行く人間の顔など誰一人として知らず、それを持って行く人間もまたその店の店主の顔など知らなかった。その行為自体も恐らく優しさではなく、単なる気まぐれに過ぎないのだろう。しかし少女を含む多くの人間はそれに何度も命を救われており、実際にあの店が無ければ餓死して死ぬ人間は今よりももっと多く居ただろう。

 その店に行きパンを一つ取って口に入れれば、満たされずとも少なくとも今ある空腹とは一時的に別れを告げられる筈だった。けれど今は、その店へ向かうほどの空腹ではない。耐えられる空腹の時にその店へ行ってはならないと思っていた。それもまた、少女が縋りつく希望の一部だった。また腹が鳴った。

栄養が足りずに足先が冷える。膝を抱えていた手が震え、ぎゅっと力を込めてその震えを抑え込んだ。視線を上げて大通りを見た。月の光が、人の殆ど通らない大通りと、少女と大通りを繋ぐ細い道を照らしている。そこに大通りでの生活を営む人間たちが歩いていく幻が見える。親と手を繋いだ茶髪の子供が、幻であるにも関わらず少女を見た。しかしやがて月が傾き、少女と大通りを繋ぐ道に暗闇が訪れた。

想像の中にある人々の日常が、少女の心を焦がしていく。少女はそんな幻の子供から視線を逸らすように膝を抱え、眠るようにして目を瞑った。この日常をただひたすら耐え抜くためには、そうするしか無かった。



 日が昇り、また落ちる。少女の時間が再び訪れた。立ち上がって、いつも通り廃棄物の山を見に歩く。

 見慣れた民家の壁と、凹凸の目立つ石畳。淀んだ空気と匂い、昨日と同じく座り込んでいる男と曲がり角。いつも見る変わり映えの無い景色が流れ、やがてその中で茣蓙に寝た老人がいつもと違う形でその風景に割り込んだ。思わず視線が吸い込まれる。いつも道の方に背を向けながら眠っていた老人が、今日は道の方へ体を向けながら眠っていた。背中ばかり見ていた老人の寝顔が、久方ぶりに少女の記憶の中に来訪した。いつも老人に対して気を配っているわけでも無いし、興味も無い人間の顔などいちいち覚えていない。しかし老人の顔を見ると、老人のあの問いを思い出した。お前に友人は居るか。その問いを投げかけられた時も、老人は道に顔を向けて眠っていた。そして居ないと答えると、寝返りを打って道に背を向け直してからそうかと返した。

少女に友人は居ない。そもそも友人という概念さえ殆どわからなかった。視線は老人に吸い込まれていたが、少女は特に足を止めてはいなかった。そのままその横を通り、いつも通り廃棄物のある場所へ向かった。前にパンを沢山取って食べていた男は眠っていたようだった。

 男の居た場所から少し進んで、そこで足が止まった。いつもの廃棄物の山がある筈のその場所には何も無かった。少女はそれを見て踵を返し、いつも自分が居た場所に帰り始めた。

 住人たちの捨てられる廃棄物を必要とするのは、少女たちだけでは無かった。その人間たちは空腹に喘いでいるわけでは無く、むしろそれ以外の廃棄物を欲していた。彼らにとって有用なものが紛れていることがあるからだった。彼らは各地に点在している少女たちが漁るような廃棄物の山の場所をあらかじめ把握しており、定期的にそれらを回収していった。捨てられた食物などに興味の無い人間たちにとって、放っておくと悪臭を放って他の廃棄物にも悪影響を及ぼしてしまう食物を進んで食す少女のような人間たちの存在は好都合であり、一種の共生関係のようなものだった。

 周辺の住民たちが各々の家の廃棄物を固めて捨て、その中から少女のような人間が食物だけを取り除いて残りをその人間たちが持ち去っていく。それが一つのサイクルとなり、大通りしか通らない人間の知らない所で回っていた。

 少女の認識する限りでは前回の回収からそこまで日は経っていない筈だったが、そういった回収を行う集団は一つでは無かった。並び立つ家々に住む人間たちが捨てるものは、上手く利用すれば価値がある。それに気付く人間はそれなりに居たし、そういった人間たちがもう既に他の人間が回収を繰り返している廃棄物を持って行ってしまう事はそれなりにある事だった。

 元居た場所に帰り、少女は座り込んで抱えた膝に顔をうずめた。空腹の中で、食事を手に入れる手立てが無い。そんな状況の中でも、特に動揺は無かった。それはそれが決して珍しい事では無かったからだった。もう何度も経験したことだったし、むしろ日常の一部とも言えた。少女の記憶の中でも、毎日上手くいったことなど殆ど無かった。目を瞑る。余計な空腹を招かない為にも眠るべきだったし、これまでもそうしてきた。それに、明日になればまた何か捨てられているかもしれなかった。

しかしそういった状況がその後も続いた。次の日に訪れた時はその山はとても小さく、漁っても何も無い事がわかってしまい、その次の日は山自体はそれなりであっても、いくら漁ろうとも食べられるものは何も無かった。そしてその次の日にはまた山ごと無くなっていた。空腹には慣れているといえども、四日間何も口に出来ないという状況は少女に苛烈な苦痛をもたらした。

 両手で腹を抑える。食事を求めて鳴る胃の音を抑えようと、腹部を軽く拳で叩いた。それを何度も繰り返す。しかし空腹は収まることなく、やがて腹部を叩いていた拳は、少女が座り込む固い石畳を弱弱しく殴った。

 珍しい事ではない。起こり得る時は起こり得る不運の一部だった。だからといって、少女を襲う空腹の苦痛が和らぐわけでは無かった。その空腹を和らげる方法も、今まで何度も試行してきた。土を出来るだけ咀嚼し細かくして飲み込んだり、捨てられた布の切れ端を口に入れて何度も咀嚼することで誤魔化そうとした事もあった。結局どれも上手くはいかなかった。

何か食べるものさえがあれば全て事足りる。少女には、まだそれを手にする手段があった。それこそがあの男が食べていた店のパンだった。初日に食事を手に入れられなかった時点でその店に向かうことも出来たが、少女はその手段に安易に頼ることをしなかった。店の裏口に置かれるパンの数は限られている。自分が取らない事で、それがより多くの人間に行き渡る。そういった心にも無い善意による行動を、例え意味など無いとわかっていても止めることが出来なかった。それさえも無くしてしまえば、もう少女には正真正銘何も残らなかった。

それでも空腹は少女を蝕み、その苦痛はやがて少女を数刻の逡巡の末に立ち上がらせた。そして普段よりも遅い足取りで、ふらつくようにして歩き出した。


少女はいつもと違う道を歩き、一つの店の裏口に辿り着いた。その裏口のドアの横には大き目の木箱が置かれ、その上に磨かれ清潔な状態のトレイが乗っていた。そしてトレイには様々な種類のパンが並び、その配置からしてもう既に半分ほどは持ち去られていたようだった。しかしまだ十個ほど残っており、時間的にはまだ残っている方だった。

トレイの前に立ち、路地裏の中風景の中では明らかに浮いた綺麗なパンを見た。様々な種類が並ぶ中で、どれを選ぼうかと選別している訳では無かった。少女がこの店に来た時、手に取るものはいつも決まっていた。ただ空腹でこの場所を訪れたが、それでも目の前にあるパンを取るかどうかを決めかねていた。

やがて手を伸ばし、並んでいるものの中でも質素なロールパンを一つ手に取った。他にも何種類かあり、それらは皆食欲を大いにそそるものだった。しかし少女はそれらを選ぶことはせず、それらを後に取りに来る人間に譲るという選択を取った。少女の腹が鳴り、思わず腹を抑えた。

少女が一つ取っても、まだ多くのパンが残っていた。そこからもう一つ取ったとしても、きっとそれを知る者は居ない。再び耐え難い空腹の波が襲い来る。

もう一つ、と手を伸ばしそうになる。しかしその衝動をぐっとこらえ、奥底にある願望を無理やり断ち切るように踵を返してその場を去った。意味など無いとわかっていても、少女にはこれしか無かった。


元の場所へ戻り、また座り込んだ。手に持ったロールパンを見る。少女の手は少し汚れており、パンからその手を離すと持っていた部分が少し汚れていた。それに出来るだけ力を入れないよう丁寧に持ってきたつもりだったが、先程腹が鳴った時に少し力を入れてしまっていたからか少し凹んでしまっていた。食する上では問題無かったが、汚れてしまったという事実に対して虚しさが生まれた。

食べようとした所でふと周りを見た。特に理由がある訳では無かった。ただ自分があの店のパンを食べている所を見られていないかと、無意識に心配になった。当然周りに少女の様子を伺っている人間など居らず、視線を戻した。そしてゆっくりと、少しだけ罪悪感を感じながら口へ運んでいく。

一口食べ、そのまま勢いに任せてもう一口、二口と頬張った。パンを口にすることは珍しい事ではない。この街の人間の主食だったし、そうなると当然捨てられるものも多かった。半分ほど食べられ捨てられたものや、買ってから時間が経ちカビが生えたもの。他の物へ調理される過程で捨てられた端材もあった。

しかしあの店に置いてあったパンは、普段食べるそれらのものとは何もかもが違った。食感も、味も、舌触りも、食べている時どういった気分になれるかも。そして何よりも、それを食べると、自分も大通りの人間に近付けたような気がした。今食べているのは確かに大通りのもので、今自分がその普段大通りを歩いている人間と同じものを食べているという感覚が好きだった。大通りを覆う光が自分にも差し込んでくれるようで、少女にとってそれは特別なものだった。

 空腹を埋め、そして食べ続けていたいという感情のままに頬張った。気付けば、もう手の中にあった筈のパンは無くなっていた。先程までそれを握っていた手を見て、強く握った。そしてやがてその手を解き、また膝を抱えて俯いた。パンを一つ食べたからといって、腹が満たされるわけでは無い。それが胃へ達すると、もっと何かを入れてくれと言うように胃が音を立てた。

 パンをもう一つか二つ取ってあの男のように食べれば、少女が満腹になる事など容易いのだろう。実際に少女が訪れた時には、少女が満腹になる程取ってもまだ余るほどの数が並んでいたし、一つしか取ってはいけないと誰かが決めた訳でも無かった。

 ただ例え長い気まぐれであったとしても、ああやって裏口にパンを置いた店主が、たった一人の人間がその中の多くのパンを手に取って、結果適切な人数へ行き渡っていなかったと知れば悲しむかもしれない。それに自分が二つ、三つとパンを取ったせいで手に取れない人間が居たら、その人間は次の日まで命を繋げないかもしれない。そんな意味の無い想像が浮かび、それを思考から弾き出すことが出来なかった。

 純粋な善意などから来る行為では無い。ただ、いつか偶然誰かが少女の事を認識して覚えてくれると思った。路地裏の世界では、常に死と忘却が蔓延している。誰に知られることも無く死を迎え、その後その人間の事を覚えている人間は誰一人としていない。その人間がそこで生きていたことも忘れ、存在していた事実さえ残らない。それが恐ろしかった。

 俯いたまま、少女はまた大通りを歩く人間たちの日常を頭に浮かべた。あの店のパンを簡単に手に入れられて、食べたければ一度にいくつも食べることが出来る人間たちの日常を。


 結局その次の日には廃棄物を漁って食事を見つけることが出来、またしばらくは同じ生活を繰り返した。膝を抱え、ただ待つ。待って、時間になれば食事をしに行き、また待つ。眠り、起きて、また待った。普段と同じ、路地裏の世界の生活だった。そして少女は、自分の時間になると立ち上がって歩き出した。

見慣れた民家の壁と、凹凸の目立つ石畳。淀んだ空気と匂い、座り込んでいる男。そしてしばらく進んで曲がり角。その角を曲がり、そして少女の足が止まった。その視線は、地面に広げられた茣蓙に向けられていた。いつも茣蓙の上で寝ていた老人が、居なくなっている。足を止めることはしないようにしていたが、思わず足が止まってしまった。

 少女は長い期間老人を目にしていたが、茣蓙に寝ている所以外見た事が無かった。食事の時間も自分の時間と一切被っていないのだろうと思っていたし、ずっと寝ている所を見て来た手前、そもそもここで寝ている所以外の姿を想像さえしたことが無かった。

 冷静になって考えると、老人も食事をする必要があるし————尤もその食事のために居なくなった姿さえ見たことが無かったが、いつも漁っていた廃棄物の山が何かの事情で使えなくなり、必然的に漁る場所と時間が変わった可能性もある。少女にもそういった経験があった。それ以外にも老人が居なくなったことについて想像で理由づけをすることは容易だった。


 それでも、その事実は少女に重い不安を植え付けた。老人はこの路地裏の世界で唯一話した事のある人間で、少女が自分の時間を迎えるたび毎日その横を通っていた。都合の良い想像だと思い聞かせながらも、あの老人なら自分の事を覚えていてくれるかもしれないと思っていた。

 ただいつも見ていた景色の中から人が一人消えただけ。路地裏の世界ではありふれた事だったし、明日になればまたいつものように帰ってきているかもしれなかった。

 やがて少女は食事の為、止めていた足を進め始めた。老人が居なくなったことは出来るだけ考えないようにして、そのままいつも通りに辿り着いて廃棄物を漁った。食事を終えた帰り道にも茣蓙が視界に入り、自然とその視線も吸い込まれそうになった。しかしそれも見ないようにして、少女が元居た場所へ帰っていった。明日になったらいつものように茣蓙に寝転んでいると、言い知れぬ悪い予感を抱えた心に言い聞かせるようにしながら。しかし翌日も、老人はそこに居なかった。そしてその次の日も。

 その日以降、老人の姿は見なくなった。何故居なくなったのかも分からないまま、ただ少女の中には確かにそこに居たという記憶と老人の寝ていた茣蓙だけが残った。何処に行ってしまったのかを想像することも出来たが、少なくともそれは少女にとっては生産性の無いものだった。しかし実際に居なくなったという事実は少女の中で反芻し続けたし、それについて考えずとも過ごせる日が来るのはずっと先の事だろうと理解していた。

 いつも通り、自分の時間を迎えたら廃棄物のある場所へ向かう。視界を見慣れた景色が流れ、そしてその中に老人の寝ていた茣蓙も現れた。

 それに視線をやって、ふと足を止めた。しかしやがてすぐに視線を切ってまた歩き始めた。少女の漁っていた廃棄物が回収され、日が経ってまた廃棄物が積みあがった。それほど時間が経っても、老人は帰ってこなかった。もしも何処かで死に瀕していたら、老人には何が残るのだろう。

友人は居るか。そんな問いが反芻した。あの老人も、自分を見てくれる友人を求めていたのだろうか。誰も寝ていない茣蓙を見て、老人の存在を知らない人間は何を思うのだろう。ただ茣蓙が広がっていると思うのか、そこで誰かが寝ていたのだろうとまで想像が及ぶのか。何を思っても、結局その人間が老人の存在に辿り着くことは無いのだろう。

 そのまま誰の記憶にも残らないまま、いずれ少女もあの老人を忘れれば、老人がそこに生き、存在していたという証は一体何処に残るのだろうか。死した後の何も残らない末の忘却がそこにあった。

 しかし少女は未だ覚えている。自分が覚えている限り、老人に忘却は訪れないような気がした。少女は意識的に、老人の事を記憶に留めて置くようにした。

 それが自分を慰める事にもなった。自分が老人を見ていてそして覚えているように、自分の事も何処かの誰かが覚えていてくれるかもしれない。例えそうでは無かったとしても、自分のように他人の事を覚えておくような人間が居るという事を事実とすれば、自分が覚えているのだから他にもそんな人間が居るかもしれないと思うことが出来た。それは殆ど意味の無い行為だったが、少女にとってはそれが縋れるものだった。



 その日は雨が降っていた。少女は雨を凌げる場所へ逃げるでもなく、ただ雨に晒されていた。

 両手の中に水を溜め、それを飲んだ。両手の中にある水を飲み干すと、また両手を掲げて水を溜めた。それをまた飲み干す。飲み干しては溜め、また飲んだ。とにかく腹が膨れるまで、もういらないと思っても飲み続けた。少女のような人間は何をするにも、もう必要が無いからそれをやめるという選択肢など必要なかった。必要か必要無いかでは無く、それをすることで生きるか死ぬかだった。

 やがてこれ以上飲めないという状況になってから、もう一度両手に水を溜め、それを無理矢理飲み込んだ。やがてようやくその両手を離し、立ち上がった。雨を浴びて体を濡らし、服を濡らした。伸びた髪を掴み、手櫛で指を通していく。顔を上げ、顔に雨が降りかかるのを感じた。手で顔を拭い、濡れ切った服の表面を手で払った。雨は命を繋ぐ貴重な水分だったし、人間として最後の節度を守れるものでもあった。薄汚れ、腹を空かせ、残飯を漁って理由も無く生きる。それは路地裏の世界に住む人間のありふれた姿だった。例え無意味であっても、清潔であろうとすることは少女の持つ希望にとって必要なことだった。やがて体を一通り洗い終わると、座っていつも通り時間を待った。


雨は、命と尊厳を繋ぎとめていてくれるもの。しかし少女はそれが嫌いだった。それでもその場所を離れないのは、いつも居るその場所を離れることが嫌だったのもあるし、雨を凌げる場所に行くと必然と他の路地裏の住人と寄り合うようになってしまうからという理由もあった。路地裏の世界の住人は、余計な体力を使う事を嫌った。自分が過ごす場所を変えることも嫌ったし、必然的に自分がいつも過ごす場所も雨を凌げる場所を選んでいる事が多かった。しかし少女は、ただ大通りが見える場所を選んだだけだった。その為雨が降るといつもそのまま雨に晒される事になったし、その周りの雨を凌げる場所には大抵先客が居た。誰かに自分を見て欲しかったが、自分から誰かに接する勇気は無かった。

 雨に打たれ、体が冷える。体が冷えると、自分を囲い込む孤独が余計に浮き彫りになる気がする。まだ明るいうちでも大通りを歩く人間は著しく減って、自分はいつも居る場所から動かず雨に打たれている。少女にとってそれは生きるために必要だったが、大通りを歩く人間にとっては必要の無いものだった。それが自分と大通りを歩く人間の差のようなものをより如実に表してしまう気がしていた。

普段聞こえる大通りの喧噪の代わりかと言うかのように、雨音が鼓膜を叩いていく。それが自分から大通りの光を奪われているような感覚を覚えさせ、無意識に膝を抱えている手を強く握った。

「……寒い……」

やがて、静かにそう呟いた。雨音を出来るだけ遠ざけようとして放つその言葉は、その意思とは裏腹に雨音にかき消された。少女は路地裏の世界に入り込む前から、ある程度言葉を理解出来た。それに加えて大通りの喧噪をずっと聞いているうち、簡単な言葉や会話は理解できるようになった。この場所に来る前言葉を誰に習ったのかなど覚えてはいなかったが、言葉は他人と繋がる手段であり、また自分に言葉を教えた誰かという存在は少女の中で小さな光として残っていた。

「冷たい……」

 もう一度、そう言葉を放った。何を呟いても、雨音が全て消し去って行く。少女がそう言った言葉を放つのは雨の日だけだった。自分が助けて欲しがっていると知られたくはなかった。自分が誰かに助けて貰いたがっていると知られると、今まで行ってきた善行も全て、自分の為だという事も知られてしまう気がした。

「冷たい……寂しい……怖い……」

 順番に、思い出すようにして言葉を並べていく。そして顔を上げ、周りを見た。居るはずの無い人間を探し、居ない事に安堵と悲観の入り混じった心情を浮かべて顔を膝にうずめた。

「………死にたくない……」

 それは少女の本心だった。少女は、忘却が自分を包んだまま誰の記憶にも残らず消えていくのが怖かった。自分は確かにそこで生きていたと証明してくれる人間が欲しかった。しかしそれと同じくらい、死ぬ事も怖かった。

 寒さは死を連想させた。凍えたまま死に至り、そのまま放置され誰に記憶されるでも無くそのまま何処かへ消え失せた死体を、何度も見て来た。やがて自分もそうなるのかと、そう思わざるを得なかった。寒さに凍えて倒れ、やがて眠って何も感じられなくなる。その後目を覚ますことなく、今まで自分が感じていた全てが自分の傍から無くなってしまう。それが恐ろしかった。少女の言葉に言葉を返す人間は居ない。雨の音で誰にも聞こえていないからだと、無理矢理自分を納得させた。

 やがて少女の居る場所を闇が覆い、少女の時間が訪れたと告げていた。立ち上がり、いつも通り歩き始めた。いつもより深い闇に覆われ、それに雨も交じっていつもよりも視界が悪かった。それは少女により孤独を感じさせた。

 いつもよりさらに暗い道を歩いていく。水に濡れた石畳、湿気ていつもよりも重く感じる空気。座り込む男は屋根がある場所の為、少女のように雨に濡れてはいなかった。

 やがて進んでいくと、いつも老人が居た場所に着いた。雨に濡れた茣蓙を見る。濡れた地面から、茣蓙に雨が染み込んでいるようだった。眠っている老人の幻が少女の目に浮かぶ。老人の居た場所も座り込んでいる男と同じで、屋根があり雨に晒されることは無かった。その為老人は雨の日であってもそこに寝転んでいた。

 特に深い感慨を覚えたわけでも無く、少女は足を止めた。ただ、老人は今雨を凌げる場所に居るのだろうかと、そんな想像をした。老人が眠っている場所は何処なのだろう。

 やがて視線を外し、少女は再び足を進めた。

老人はもうこの場所に戻ってくる事は無いのだろう。そんな確信を持った予感が少女の中にあった。何故居なくなったのかは未だわからず、そもそもわかる筈も無かった。

ここへ来てから————少女が捨てられてから、唯一少女が話した相手。その相手はもう居ない。少女を知る人間は居なくなった。元から自分を知る人間など居ない。そう強く思い、歩を早めていつもの場所へ向かった。

やがてパンをいくつも取って食べていた男が見え、その男の前を通り過ぎた。少女が前を通ったのを確認すると男が顔を上げた。背後からの視線に気付くことなく歩いていく少女を見て、やがて視線を地面へ戻した。

 いつも漁っていた廃棄物の場所へ着いたが、少女は思わず足を止めた。

 その廃棄物の山はいつも見るよりも明らかに膨らんでおり、少女は普段必要のない警戒を強いられた。廃棄物の山は人が生み出すものであり、当然その量にはバラつきがある。多い日もあれば少ない日もあり、少女の空腹の度合いは大体がその量に比例していた。しかし今回のそれは異常だった。普段よりも多く物を口に入れられるかもしれないなどといった楽観的な感想が湧き出る間もなく、深い疑念が少女を襲った。今日は何も食べずにその場を去るという選択肢も脳に過ぎる。今も空腹には違いないが、一日なら恐らく問題は無かった。しかしそれは意味の無い考えだった。今日食事をせずに帰ったとして、明日また食事が出来る保証は無い。今日何も食さなかった事で、数日後に死してしまう可能性もあった。

 その廃棄物の山へゆっくりと歩み、膝をついた。そしていつも通り、山に乗ったものを漁っていく。表面にある廃棄物をのけ、食事として摂取出来るものを探していく。

 しかしその山は大きいだけでいつもよりも食物が少なく、いつもならもう既に一つは食べられるものがあるという程漁っても、出てくるのは食べられない廃棄物ばかりだった。そこでさらに不信感を高めながらも続けていくと、やがて一枚の大きな布に辿り着いた。


 それは山を覆うように掛けられているようで、この路地で見るにはあまりにも大きな布だった。少女が身に纏う布もその身を隠せるほどではあったが、それよりも大通りの人間が荷物を雨で濡らさないようにかける布の方が近しい大きさだった。

 この布を剥がしても良いものか、と少女の中で逡巡が生まれる。少女にはこの布がどういった目的でかけられたものなのかわからなかった。布をただ捨てるだけであれば、丁寧に山を覆うように広げる必要は無い筈だった。

 疑念が更に深まっていく。布をかけられている理由は、考えて見れば想像はついた。恐らく、この布の下には雨に濡らすべきではない、または隠すべき何かがあるのだろう。何が隠されているのか、というような好奇心は一切無かった。路地裏の世界では、得体の知れないものに自ら触れに行くことは殆ど自殺行為だった。しかし、布の下に少女が口にできる食物がある可能性は十分にあった。

 深く思考を巡らせて、やがて少女が布に手をかける。布の下に何があっても、それを避けて物を食べれば良い筈だった。

 布を剥がした。するとその下にあったものが少女の視界に飛び込む。生気の無い顔。それは、あの茣蓙の上でいつも寝ていた老人だった。稀に目にすることのあった老人の寝ていた際の表情とはあまりにもかけ離れた表情のまま動いておらず、ただその廃棄物の山に乗せられたまま動く様子の無い四肢に、少女の視線は酷いほどに吸い込まれた。

思わず後ずさり、尻餅をつく。鼓動が速くなり、呼吸が荒くなった。息をする唇が震え、雨音さえも耳に入らなくなり、何故こんな所にという疑問が頭を覆いつくしていく。

 この老人に自分が関与しているのではと疑われるのが怖くなり、周りを見て、そのまま表面から剥がして横へ置いた廃棄物を急いで拾い、押し付けるように山へ戻した。目を瞑って、見ないように、逃避するように、ただ必死にそれを押し付けた。そしてやがて目を開けると、その押し付けた廃棄物の隙間から、その老人の目が少女を見据えていた。少女の手から力が抜け、押し付けていたものが零れ落ちる。死したはずの老人と目が合い、目が離せない。

 これが誰にも見られず認識されていない人間の末路だと、そう語りかけられている気がした。老人の事を、辛うじて認識していた自分が居た。しかし実際には、誰にも知られること無く、守られることも無く、人知れずこんな廃棄物の山へと捨てられた。

 ならば、今自分が死に、この老人と同じように捨てられれば、一体自分には何が残るのだろうか。誰が気付くのか、誰が心配するのか、誰が自分を覚えているのか。

 雨が強まり、少女の肌を強く打った。急激に少女の熱を奪っていくような感覚。少女の中にあった恐怖が、地面を叩く雨音のように、止めようの無い膨大な存在となって急激に膨張していく。

 竦み、震えていた少女の足が、反射するように動いた。震えがふと大きなものとなって訪れただけのようだった。しかし少女はそれをきっかけにして、足を動くことを認識した。震えたままの体を抱いて、老人から視線を切り立ち上がった。

 とにかく、自分はこの場所から居なくならなければならない。そんな直感が警鐘を鳴らす。ふらつく脚で、壁に手を当てながらとにかく歩いた。後ろ髪を惹かれるように振り返る。廃棄物の山が老人を隠し、その顔は見えない。やがてその廃棄物の山から逃げるようにして視線を外して再び歩き出した。老人の顔に雨打ち付ける。老人に忘却が訪れた。

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