第2話
ある日の事、お屋敷の中にいる私の元を一人の男性が訪れた。
「セレーナ、来ちゃったよ。元気にしてるかい?」
優しい口調でそう言葉をかけてくれるのは、私がここに居なければきっと結ばれていたであろう相手、オクトだ。
彼と私は幼馴染の関係にあって、小さな時からずっと一緒だった。
お互いが貴族家の生まれというだけあり、親同士の関係も近くて仲が良く、毎日会う事が当たり前の事だった。
ちなみにセレーナと言うのは、私がエリスになることを命じられる前の本来の私の名前。
「オクト、こんなことしてたら危ないよ…。今日もまたお屋敷の監視の目を盗んで入ってきたんでしょ?」
「良いじゃないか。セレーナだって知ってるでだろ?俺昔からこういうのは得意だからさ」
「と、得意って…」
彼は貴族家の令息でありながら、昔から少しやんちゃなところがあった。
夜中に遊びたくなったと言って私のお屋敷に忍び込んで、そのまま私を連れ出して遊びに出かけたりすることなんてこともよくあった。
「シュノード様に見つかったら大変なことになっちゃうよ…。一応今の私、第一王子様の婚約者なんだから…」
あの時は見つかってもお互いの両親に怒られるだけで済んだ。
でも、今は全くそうではない。
こんな形で私に接触していたという事が発覚したなら、彼だけでなく彼の家ごと大きな罰を与えられてしまうかもしれない。
もしかしたら、貴族家としての立場を失ってしまうことになるかもしれない…。
「心配するなって。セレーナに会いに来るなら、それくらいのリスクは負わないといけないことくらいわかってるからね」
「ま、またそんなことを言って…」
口ではオクトにそう言いながらも、やはり内心では彼がここに来てくれたことをうれしく思っている私。
毎日のようにシュノード様からいびられる生活を繰り返す中で、私が自分の心を失わずにいられているのは、こうして彼が私のもとに定期的に来てくれているからなのだろう。
「…もう、オクトだけだよ。私の事をセレーナって呼んでくれるのは…」
私がここに来てから、しばらくの時が経過した。
その過程で、私がかつてセレーナという女であったという記憶は人々の記憶から薄れていっており、もう私の存在はエリスという事が当たり前になっていきつつあった。
…かくいう私自身も、最近はセレーナとしての自分を見失う時が時々あり、自分という存在が日に日にエリスに侵食されて行っているのを感じていた。
「…セレ―ナ?」
「私、時々分からなくなる時があって…。一体どっちが本当の自分なんだろうかって…」
私は小さな小さな貴族家に生まれた令嬢だった。
その影響もあってか、私がシュノード様から婚約の申し出を受けたという事を知った私の両親は、即決で私の事を送り出すことを決意した。
…それ以来二人には会っていないけれど、シュノード様に手配してもらった場所で今頃どこかで優雅に暮らしているのだろうと思う。
シュノード様と結ばれるからには、私は幸せになるに決まっていると確信したのだろう。
だからきっと、私のことを思い出すこともないのだろう。
「セレーナ、聞いてくれ」
「…?」
その時、それまで楽しそうな笑みを浮かべていたオクトが一転、かなり真剣な表情を浮かべながらそう言葉を発し、私の顔を見つめる。
「誰が何と言おうとも、君はセレーナだ。今は仕事でエリスを演じているだけで、君は昔から変わらず君のままだよ。俺はいつも、エリスに会いに来ているんじゃない。セレーナに会いに来てるんだから」
「オクト…」
オクトははっきりとした口調でそう言いながら、私の事をはげましてくれる。
その言葉が、今の私には本当にうれしく感じられた。
私の事をみんながエリスと呼び、エリスとしての振る舞いを求めてくる中で、彼だけは本当の私の事を見てくれていることがわかるから。
…けれど、私ももうオクトの思いに甘えてはいられない。
これ以上彼に甘えていたら、それこそ本当に彼の事を破滅させてしまうかもしれないのだから…。
「オクト、本当にありがとう。おかげで元気出た」
「そうか?」
「…でも、会うのは今日が最後」
「…?」
「これ以上オクトを巻き込んでしまったら、取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。私はもうどうなってもいい身だけれど、あなたは違う。あなたには、あなたのお父様の後を継ぐっていう使命がある。…なのに、私に構っているってことがシュノード様に知られてしまったら、あなたやあなたのお父様にまで迷惑がかかってしまう…。だから私は…」
コツン、コツン、コツン…
「!?!?」
その時、私たちの部屋に向かって誰かが歩いてくる足音が聞こえてきた。
誰かは分からないけれど、ここにオクトがいるところを見られてしまったらまずい!
「は、はやく隠れて!」
「い、いきなり言われても…!」
「見つかっちゃったらオクトが大変!わ、私が何とか言いくるめるから、とにかく隠れて!」
ガチャッ!
その時、私たちのいる部屋の扉が開かれ、一人の人物がこの場に姿を現した。
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