第31話

Ⅱ【旅】〔輪廻〕p31


空が赤く染まり出すまではまだ

少し時間がある。


若者は大きな荷物を地面に置き、首に提げていた水筒から、まだ温かい飲み物をカップに注いで立ったまま飲んだ。


遮るものの何も無い景色をじっくり堪能し、惚れ惚れするといった風情で大きな溜め息をついた。


飲み物の湯気が霧のように若者の顔を覆い、その端正な美しさを神秘的な魅力に変えた。


ミッピーはそんな若者にうっとりしていた。


・・・・・オベロン様より美しいかもしれない・・・・・


そして自分の所在を知らせようか否か迷った。


早く見つけてほしい衝動は強かったけれど、完成した絵を見たい気持ちも大きかったし、若者にも完成した喜びを味わわせたかった。


こんな気持ちは初めてのことだったので、当惑しながらも、


・・・きっとこの絵は今日中に仕上がるわ。

その後でいいじゃない・・・・・


と自分に言い聞かせ、じっと待った。


『耐えて待つ』ことも初めてなのにそれすら自然に出来てしまう自分が本当に不思議だった。


若者はイーゼルを立て、画面が傷まないように枠組みされた箱状の蓋を開いて完成間際の絵を取り出し、絵の具をセットしてから再び飲み物を飲みながら絵と風景を交互に見つめていた。


若者はそのまま暫く大自然のパノラマに溶け込んでいたが、急に決断の眼差しになり、カップを傍らの平たい岩に置いて筆を持った。


その瞳の紺色に近い深いブルーは、空の変化に伴って繊細に変わり、湖のような静けさと思慮深さを湛えている。


・・・・・吸い込まれそうな瞳だわ…………

オベロン様もティタニア様もこの瞳の前では言葉を失ってしまうに違いない…………・・・・・


若者は丁寧に注意深く筆を動かしてゆく。


やはり今日は仕上げのようで、夕陽のほの暗い中でも山々の形を感じ取れるよう工夫しながらあちこちに少しだけ筆を入れている段階だった。


・・・・・この人の才能は凄い!

今までに無い描き方をしている・・・・・


ミッピーはこれまでにも何人かの絵描きと出会い、もちろんコレクションにも貢献してもらったけれど、この若者ほど『真実』を追求する描き方をしている絵を観たのは初めてだった。


人間界では、絵画の革命にすらなり得る作品だと思った。


若者の置いたカップの縁に腰掛け、飲み物の湯気で温まりながら、じっと若者の作業を見守り続けた。


気がつくと太陽は地平線ギリギリで、厚い雲のバリア越しに今日最後の淡い輝きとなっていた。


この雲では昨日と同じ夕焼けを望むことは出来ない。


薄明かりの中で若者はパレットと筆を握ったまま立ち上がり、後ろに退いた。


2歩程離れた場所から自分の絵をしげしげと眺め、気づいたように戻っては筆を入れ、また離れては眺めを何度か繰り返してから、ホッとしたように大きく頷いて、


「OK!」


と呟いた。

そしてようやくパレットと筆を置いた。


それから水筒に手をかけたので、ミッピーは慌ててカップから離れた。


若者は冷たくなった飲み物をカップに注ぎ、満足感も一緒に飲み干すかのように一口大きく飲み込むと、愛しそうにじっと絵を見続けていたが、暫くしてイーゼルの先に緑色の小さな虫が止まっていることに気づいた。


若者はおもむろに立ち上がって、その虫を掴むと、傍の小花にとまらせた。


それを見ていたミッピーは良いことを思いついた。


イーゼルの虫が止まっていた場所に腰掛けて、若者が気づいてくれるのを待った。


ところが絵の仕上がりを点検することに夢中な若者は、なかなかミッピーの気配を感じることができないでいる。


イーゼルから絵の額縁へと場所を移しても見向きさえしてくれない。


光のエネルギーを強くしても無駄だった。


「もう!」


ミッピーは若者の持っているカップの縁に再び座り、足をブラブラさせながら光のエネルギーを全開にさせて若者を見つめた。


若者が、視線は絵に向けながらカップを口元に近づけてきた。


「私を食べる気?!」


手元の方から微かな鈴の音が聞こえた気がして、若者はようやくカップに視線を移した。


「えっ?」


虹色の光の玉がカップの上で蠢いている。


若者は、虫とは明らかに違う光の塊をじっと見つめた。


その輝きの眩しさに少しづつ目が馴れてくると、背中に羽の付いた小さな女の子が、光を放ちながらカップの縁に腰掛けているではないか。


「君は誰?」


「やっと気づいてくれたのね」


「妖精なのかい?


ここは確かに『妖精の谷』と呼ばれているけれど…………」


若者の穏やかな声を聞きながら吸い込まれそうな瞳で見つめられると、ミッピーはドギマギした。


「アナタの絵は素晴らしいわ……

とても才能があるのね。


私ミッピー! アナタは?」


誘惑の手段としてお愛想を言うことはあっても、こんなふうに心から人間を誉めるなんてミッピー自身驚きだった。


「僕はジュード。


君はなんて可愛いんだ…………」


恥ずかしさでミッピーの光が強くなった。


「そうだ! 今度君を描かせてくれない?」


「わ、私を?」


とんでもない展開にミッピーは動揺した。


普通ではない自分の心の動きに危険を感じていた。


早くジュードの魂を抜いてしまわないと大変なことが起こりそうな予感がして焦ってもいたが、このまま魂を持った状態のジュードをずうっと見続けていたいという思いにも囚われていた。


見つめられている時の、あの消え入りそうな程切ない恥じらい、愛しさ、甘い疼き、新鮮な緊張…………いったい何なのだろう?……


心の迷いに翻弄されている自分さえ愛しく感じてしまう…………


・・・・・ジュードがかけてくれる優しい言葉の一つ一つに感動なんかしてる私はいったい何者だ?・・・・・


ミッピーは訳の分からない動揺にワナワナ震え出した。


「あっ、いいんだいいんだ無理ならいいんだ。

でももしその気になったら描かせてほしい」


「違うの…………」


ミッピーの鈴のような声は儚く消えて、ジュードには届かなかった。


「それじゃ、明日またここへ来るから。

また会える?」


ミッピーは大きく頷いた。


もうすっかり暗くなっていた。


ミッピーは民家のある所までランプの代わりになってジュードを見送った。

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