第16話
触れた唇が、頬、瞼、鼻と啄んでくる。
「ふっ…」
くすぐったさに、軽く身を捩るミハルの開きかけた唇を再び捉え、ライトは先程よりも少し深く口づけた。すぐに、唇は離れ、うっとりとするミハルを愛おしげに見つめていたライトだが、何か思い出したようにミハルの肩に顔を埋めた。
「…ミハル…」
「?」
「…今さらだが…」
「え?」
「『大好きな人』とは…?ブランケットの送り主の…」
珍しくライトが言い淀んでいる。その表情はよく見えない。ライトの質問に、ミハルは素直に答えた。
「前世の恋人、です」
「前世の…?」
「恋人でいた期間は、ほんの半年くらいでしたけど…会社の…同じ組織の人で」
思ったよりも冷静に話せている自分に、ミハルは自分でも少し驚いていた。
「俺、前世では少し足が悪くて…。付き合ってすぐくらいに彼が『冷えると痛むだろう?』って、あのブランケットを…」
足が不自由なことに気づいてくれた恋人はミハルと同い年で、上司でもあった。
「何て言ったらいいのかな…。そう、『身分違い』…」
自分とは住む世界の違う人だと思っていた。そんな人が恋人だなんて、夢みたいだった。けれど、あのブランケットが、実感させてくれた。とても大切なもの。
ガンツに拾われたときに、赤ん坊だった自分がそのブランケットにくるまれていたというのは、何の意図だったのか。
前世に思いを馳せるミハルの肩に、ずしりと重みがかかる。
「…まだ、忘れられないのか?」
ライトに尋ねられて、正直に答える。
「…たぶん一生、忘れないです。だって、『初恋』ですから」
前世では最初で最後の恋人だ。
ライトが「ぐっ」と、奥歯を噛みしめた。
「そうか…」
「忘れられない思い出です」
ミハルは言った。ふと、ライトの力が緩んだ感じがした。
「思い出なんです、もうとっくに…。今は、すぐ近くに『新しいブランケットを贈らせてくれ』と、言ってくださる方がいるので…」
そう言って、ミハルはライトを振り返った。
「わっ…」
一瞬、目が合ったかと思うと、ミハルはベッドの上に押し倒されていた。
「…!」
じっと見つめられ、ゆっくりとライトの顔が近付いて、ミハルは目を閉じる。唇が触れ、それは深く重なり合った。
「ん、ん…」
歯列や上顎を肉厚な舌でなぞられ、体中がぞくぞくっとする。
「ん、ぁ…」
ミハルも追いかけるように舌を絡め、口の端から唾液が溢れた。
ミハルの肩を押さえていた大きな手が、胸へと滑っていき、ミハルは体をぴくりと震わせた。その震えが伝わったのか、ライトが手を止めた。ゆらりと銀糸を引いて唇が離れ、お互いのため息が交錯する。
「すまない…性急すぎた」
体を起こそうとしたライトの首に腕を伸ばし、ミハルは掠れる声で引き留めた。
「…大丈夫、です。そのまま…」
たっぷりと艶を含んだその声に、ライトが息を呑む。
「…ミハル…」
二人の影が再び重なった。
逞しい腕に包まれ、髪が撫でられる。ミハルの胸元で揺れるシルバーのリングに触れながら、
「…これも、『大好きな人』が…?」
と、ライトが尋ねる。
「これは、わかりま、せん…。覚えはないんですが、保護された時、握り、しめていた、と…」
額や頬に口づけを落とされると、そのくすぐったさに、「ん…」と小さく声が出てしまうが、ミハルの瞼はもう重く、体を動かすのも億劫だった。ライトの質問に答えたが、もう、限界だった。何度も上りつめ、今、体は重たい倦怠感に支配されている。ただ心は満たされていた。
(あったかい…)
体中がぽかぽかする。
「おやすみ…」
優しい声が降ってきて、ミハルは意識を手放した
◇◇◇◇
「…あ~、え~と?」
広報部部長、
終業時間後の休憩室、
「仁志部長!これは…」
愛川が、状況を説明しようとするが、
「…終業時間を過ぎたとは言え、ここは会社だ。節度は弁えるように」
静かな声音の中に、有無を言わせない迫力があり、愛川が言葉を飲み込んだのが分かった。
仁志はそのまま背中を向け、去っていく。
(言い訳も、させてくれないんだな…)
美春がふらつく。
「…高遠さんっ!」
愛川の腕にしがみついて、なんとか意識を保つ。
「ごめ…、愛川…。部長に、誤解…」
「何言ってるんですか!?そんなことより、病院行きましょう?!」
「いや、少し、休めば…」
「無理ですって!」
「大丈夫だよ…」
愛川の胸を押して体を離し、自分で立って見せる。
「ほら、ね」
「先輩…」
連日の業務で、栄養と睡眠が、圧倒的に不足している。甘いのコーヒーでなんとかごまかし、休憩室の長椅子から立ち上がった瞬間、美春は立ちくらみを起こした。それをたまたま通りかかった愛川が抱き止めてくれたのだ。
それだけのことなのだが、仁志部長…美春の恋人、
(自業自得だ…)
「急用ができた」と言って、約束をことごとくドタキャンしてきたのは自分だ。
約束を何度もすっぽかしたくせに、会社の休憩室で別の男と抱き合っていたとなれば、誤解されても無理はない。
(…正直に言えれば良かったんだけどな…)
「急な残業になった」と。しかし、美春はそれをためらった。「残業をしている」という事実が、優秀な恋人に、自分の仕事のできなさを露呈しているようだったから。
自分に振られる業務や急な残業が増えたのだと、会えない日が続いていたのはそのためなのだと、ちゃんと伝えれていれば違ったのかもしれない。
(明人を頼ればよかった、ちゃんと…)
その日は「せめて今日だけは休んでください!」という愛川に、強引に家まで送られた。
(終電前に帰るの、何日ぶりだろ…?)
翌朝、目覚めると携帯電話にメッセージが入っていた。
ー月曜日の七時。いつもの店で。大事な話がある。
ぶっきらぼうなメッセージ。それに悲しい気持ちを感じるようになったのはいつからだろうか。美春は苦笑いをし、じわりと涙が浮かぶ。カレンダーを見た。
(大事な話…。いよいよ「その時」が来たってことかな…。思ったより、早かったけれど…)
ー承知しました。
美春はそう返信した。
(最後くらいは、ちゃんとしなきゃ)
月曜日はちゃんと会わないと。その日だけは、課長の無茶ぶりも無視だ。
それで書類に遅れが出たら、他の部署にまで迷惑がかかるかもしれないけれど。
(ああ、ならいっそ、辞めてしまおうか…。辞表と…ああ、デスクとロッカーも、整理しておこう…)
恋人と…明人と、ちゃんと「けじめ」をつけよう。美春はそう決意していたが、その約束は、またドタキャンすることになった。
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