Chapter Ⅰ◆5
――ひどい暴風雨が家を叩く。今、この町には嵐が訪れていた。
「母さん、セイディ!」
兄の声がした。セイディは部屋で母と顔を見合わせる。
嵐に備えて土嚢を積み、窓には板を打ちつけて備えてある。それでも、強い風が吹き荒れ、家の中の音を聞き取りにくくした。
セイディは膝の悪い母に手を貸しながら階段を下りる。母はまだ五十代だが、膝に古傷を抱えていた。歩けないわけではないが、雨が降ると特に痛むという。
階段を下りると、兄のトリスタンが雨除けの外套を頭から被って店の入り口にいた。
「トリス、その恰好……」
セイディと一緒に母も緊張したのがわかった。
ここは食堂〈カラスとオリーブの枝亭〉。
今日はこの天候なので早々に閉店し、灯りも落としてある。トリスタン――トリスの顔も黒髪もフードの陰になって見にくいが、どんな時でも彼は朗らかに言う。
「見回りに行ってくる」
トリスは町の自警団に所属している。だから、こうした緊急の時には出て行かなくてはならない。
十九歳にしては童顔で、背もやや低いが、人当たりはよくて町の人々からは親しまれている。
「風雨度数2だし、魔術対応値に達していないから、クリフ様のお手を煩わせるほどじゃない。すぐ治まると思うけど」
家が崩壊するほどの嵐であれば、魔術で対策を取る。アジュールの都、町にはそれぞれ魔術師がおり、町を護っているのだ。
このシェブロンは港町であり、脅威も大きい。それ故に、六年前から飛び抜けて優秀な魔術師が滞在している。
「気をつけるんだよ」
母は止めたい思いを抱えていて、それを押し込めていた。
自警団の仕事は、正義感の強いトリスには向いていると言えた。それでも、こうした時は心配にもなる。
「無理しないでね」
妹といっても、たったひとつしか違わない。むしろセイディの方が姉のようだとよく言われる。
トリスは青い目を細め、うん、と言ってうなずいた。
「魔族と戦うわけじゃないし。すぐ戻るよ」
この家に父はいない。男はトリスだけだから、トリスは母と妹を護るという使命感を持っている。
その想いが強くて、年頃になっても町を出ていくという選択をせずに留まった。それを知っているから、トリスは無事に戻ってきてくれると信じている。それでも不安がまったくないわけではなかった。
ほんの少し扉を開けただけで強い風が店内に吹き込む。トリスは素早く外へ出て扉を閉めたけれど、床が濡れた。セイディは小さくため息をつく。
「早くこの嵐が治まりますように……」
トリスが出ていってから一時間以上が経過した。風の音は弱まり、嵐は過ぎ去りつつある。
もう大丈夫だろうと思えた頃、店の扉をドンドンと叩く音がした。
店の椅子に腰かけてトリスを待っていたセイディは、ハッとして立ち上がった。
トリスなら、あんなふうに扉を叩くことはない。こんな時に誰だろうかと警戒しながら扉に近づくと、聞き知った声がした。
「すみません、イアンです。開けて頂けますか? トリスも一緒です」
トリスが一緒なのに自警団長のイアンが扉を叩き、声をかけた。まさか、トリスに何かあったのかと、セイディはいつになく狼狽して施錠を解いた。
開いた扉の隙間から明りが差し込む。イアンが手にした魔鉱石ランタンの灯りだ。イアンは四十代後半の筋肉質な男性で、小柄なトリスいると特に大きく見えるのだ。
「ああ、セイディ。遅くに悪いな」
扉を開けたのが母ではなくセイディであったのに気づくと、イアンは口調を和らげた。彼もまたずぶ濡れで、フードを被っていても髪から水が滴っている。
「いえ――」
答えかけて、イアンの後ろのトリスに目が行った。トリスの無事にほっとしたものの、口から飛び出しかけていた言葉が行方不明になった。セイディが口をあんぐりと開けて固まったのも無理からぬことだ。
トリスは、黒い服を着た誰かを負ぶっていた。濡れて張りついたスカートより零れる白い脚から察するに、若い女性である。
「町の手前で倒れていたんだ。気を失っているから、とりあえず運ばなければということになって、トリスに背負ってもらったんだ」
自警団にはトリスよりも体格のいい男性の方が多い。それなのに何故トリスが背負っているのだろう。ここへ運び込むという話になったからか。
何かに引っかかっているセイディに、イアンは苦笑する。
「とびっきりの美人でね。誰が担ぐかで揉めたんだ。とても他のヤツには担がせられないから、トリスに」
一番無害な男を選んだと。
当のトリスは、女性自身の重みと、髪や服が水を含んだ分の重みとがかかっているせいか、余裕があるようには見えなかった。立ち話を長引かせている場合ではないとセイディは動く。
「トリス、二階へ運べる?」
「う、うん」
一階は食堂、寝室は二階だ。その辺が水浸しになるが仕方がない。二人とも早く着替えさせてあげなければ体温が奪われる。
「イアンさん、彼女が起きたら、クリフ様のお耳にも入れておかなくてはいけないのでしょう?」
「ああ、そうだ。話が早くて助かるよ」
イアンを送り出すと、セイディは先に階段を上がって母に事情を伝えた。
「それは大変だ。着替えはセイディの服で合いそうかい?」
「多分ね」
セイディは自室のクローゼットからコットンの寝間着と体を拭くためのタオルとを取り出し、それをベッドの横のサイドテーブルに載せた。
それから再び一階に戻る。
「トリス、あたしの部屋に運んで」
「いいのか?」
「うん。あたしはお母さんのところに行くから」
この女性は背が高い。多分、トリスとそれほど変わらないのではないだろうか。
だから、トリスが背負うと女性の足が床スレスレのところにあった。ずり落ちてきて、トリスが背負い直そうと女性の体を揺らすと、彼女が腰に巻いていたびしょ濡れのスカーフが硬い音を立てて落ちた。
「落ちたわ」
硬い音がした。何かを包んであるようだ。セイディはそのスカーフを拾うと、石のようにゴツゴツとした手触りだった。
荷物と呼べるものはこれくらいか。やはり、着替えはない。
セイディはそのスカーフを持って、トリスが女性を運ぶ手伝いをした。
トリスはずぶ濡れの女性を一旦セイディの部屋の床に下す。
「トリスも着替えて。あたしとお母さんで彼女のことを見ておくから。あ、着替えさせるから、急に扉を開けちゃ駄目よ」
「わかってるよ。じゃあ、頼む」
トリスと入れ違いに母が入ってきた。セイディは床の上の女性を改めて見る。
大人びて見えるが、年の頃はトリスやセイディと同じくらいだろう。淡い色合いの金髪は、セイディの茶色の髪とはまるで違う。眠っているだけで、なんて綺麗な人だろうと同性でも見惚れてしまった。
トリスは我が兄ながら、この美女を背負ってきても平然としているのだから、少し変わっている。
「随分と上品な娘さんね。どこかのご令嬢かしらねぇ」
と、母も首をかしげている。令嬢にしては、真黒なロングワンピースというのがそぐわない気もするが、ただの町娘とも考えにくい。
「こんな嵐の日に外で倒れていたなんて、何か訳ありかもしれないわね」
多分、この女性には何かある。
もしかすると、攫われて命からがら逃げてきたのではないだろうか。体を拭っていくと、手の平には擦り剥いた痕があった。砂利が傷口に入っていて痛々しい。
「怖かったでしょうね。可哀想に」
セイディと母とで女性の服を脱がせた。陶磁器のような滑らかな肌をしていて、黒子ひとつない。ただ――。
「……この下着って」
思わずつぶやくと、母も目を瞬いた。
「おや、質はよいものだけど、随分と古風な下着だねぇ」
綺麗な人なのに、肌色の、妙にデザインの古臭い下着を身に着けていた。綺麗な人なのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます