Chapter Ⅰ◇4

 リドゲートの翼ならば、完全に日が沈む前にアジュールへ到達できるだろう。


 もともと、天気のいい日には互いの大陸が見えるほどの距離なのだ。アージェントからは魔鉱石を、アジュールからは農作物をという貿易はしているものの、上流階級同士の交流はそれほど盛んではない。


 ルシエンヌ自身、森を離れたことはほとんどないので、アジュール王国もヴァート皇国も未踏の地である。それでも、どんな国々かという知識くらいはある。


 アジュール王国は、魔術の発達した国だ。といっても、ルシエンヌの持つ力とは質の違うもので、ルシエンヌからすれば児戯でしかない。

 術式を組み、火や水、風といった自然界に作用する力だ。なんでもできるわけではない。

 アジュールの魔術師たちが束になってかかってきたところで、以前のルシエンヌには傷ひとつ負わせられなかったことだろう。


 ヴァート皇国は、世界中で信奉されるベルナ教の宗主国。

 しかし、神に奇跡の力を与えられたとされる聖女も、今となってはお飾りでしかないらしい。近代ではすっかり人々の信心も薄れ、権威も落ちる一方だ。


 聖女の国に魔女が潜むというのは考えただけでも気が滅入る。あちこちに聖水を振り撒いて、決まった時間に祈りを捧げましょうと強要された日には寝込みそうだ。


 結局のところ、ルシエンヌが選べるのはアジュール王国の一択であった。

 ルシエンヌは遠ざかる森を、何度も何度も振り返っていた。それを背中で感じ取ったのか、リドゲートが風音に紛れてつぶやく。


『あの森は我らにとっても心安らぐ地だ。人に踏み荒らされることがなければいいが』

「ええ、本当にそう」


 人間は利己的で愚かだ。いつでも自らの利害を優先する。そのためには他者を退ける。

 ルシエンヌはそんな人間たちになんの思い入れもない。ごく稀に例外はいたけれど、それもすでに過去だ。

 とにかく、人間たちがルシエンヌの不在をいいことに、森を荒らさなければいいと願わずにはいられなかった。


 リドゲートは、ヒュウヒュウと風を切り、飛んでいく。

 これが真冬でなくてよかったとルシエンヌは心底思った。魔力がなければ体をあたためることもできない。冬の海だったら凍死していた気がする。


 思えば、ルシエンヌは死とは縁遠かった。魔女だから死なないというわけではない。祖母も母も死んだから、ルシエンヌもいつかは死ぬ。それでも、人よりもずっと寿命は長いのだ。


 ただし、それは魔力が十分にあっての話だろう。今のルシエンヌは自分の怪我すら治せないのだから、ただの人間と同じだ。死も同様に訪れるのだろう。

 そう考えたら、ぶるりと体が震えた。それはまだ、ルシエンヌが想定していない未来である。


 海の只中で太陽は山へ吸い込まれるように隠れた。頭がほんの少し出ているくらいでしかない。

 今に暗闇になる。リドゲートはそれでも見えているようだが、ルシエンヌには見えない。

 辺りが見えなければどうなるだろう。不安が募るだろうか。


 ――そもそも、今の状況はルシエンヌにとって不安なものなのか。

 そこを考えてみてもよくわからない。慌てはしたが、こうしているうちにも魔力が戻るかもしれないという希望がある。それでなのか、絶望までは感じていない。


 それ以前に、今まで不安を覚えたのは、母が死んで一人になった時だけだ。それはもう随分と前のことだから、不安という感情をすぐには思い出せないだけかもしれなかった。


 夜になれば、春とはいえ風が冷たい。

 それでも、リドゲートの体温が伝わるから凍えることはなかった。本当に、彼らの声まで聞けなくなっていたら、それこそ一巻の終わりだった。


 ルシエンヌが体をすり寄せるからか、リドゲートは翼を動かしながらも気遣ってくれた。


『寒いのか?』

「ううん、平気よ。あなたこそ疲れていない?」


 誇り高いグリフィンは、容易く疲れたなどとは言わない。フン、と息を吐いただけだった。


 アジュールに上陸する際、見つかるとややこしいことになる。闇夜に紛れて着陸したいのが本音だ。

 飛んでいるのが魔族ならば問答無用で撃ち落とされるだろうが、アジュールでも幻獣グリフィンをむやみに攻撃してきたりはしないと思いたい。


 それからしばらく飛び続けると、ふとリドゲートのペースが落ちた。本当に疲れたのかと思ったが、そういうことではなかった。


『雨の匂いがする。アジュールの方は天候が崩れているようだ』

「そうなの? でも、今さら引き返しても、ね。行けそう?」


 辺りは暗く、ルシエンヌにはリドゲートの羽音と波音のどちらかしか聞こえない。何も見通せないとは、今の状況そのものだ。


『雨だけならばまだしも、風もある。飛ばされないように』

「ええ、ありがとう」


 雨と風にさらされた経験のないルシエンヌは、自然を甘く見ていた。そのことに気づいたのは、それからすぐ後だった。


 痛いほどの雨粒が肌を叩く。服も髪も海に落ちたほどずぶ濡れで、水気を絞りたいがとても手を放せる状況ではないし、絞ってもどうせすぐにまた濡れるだけだ。


 ルシエンヌでさえ濡れそぼって体が重たくなったように思えたのだから、大きな翼と長い毛に覆われたリドゲートはもっと重たく感じられただろう。

 リドゲートは、ルシエンヌのために懸命に海を渡ってくれる。海は遮るものもなく、雨も風も容赦なかった。


「ごめんなさいね、リドゲート」


 思わずつぶやくと、リドゲートは疲れている中でも言葉を返してくれた。


『この程度のことはなんでもない』

「魔力が戻ったら、たくさんお返しをさせてね」

『ああ、楽しみにしている。――さあ、陸地は近い。そろそろだ』


 リドゲートが言うように、遠くに灯りが見えた。崖の上に灯台がある。嵐の中、その灯りを目指して飛んでいた。近づくと、星屑のような細かい光も見える。あれは港町だろうか。


 アジュールの町だ。あまり民間人と接したことはないが、せめて手持ちの宝石を金に換えて食料を確保したい。できれば濡れた服も着替えたい。着陸したらあそこを目指そう。


 リドゲートは風に煽られながら飛んでいく。町から少し軌道が逸れているのは風のせいではなく、直接町に降りると混乱を招くからだ。グリフィンに乗って現れた女が只者なわけはない。


 暴風雨の中、リドゲートがついに陸へ到達したことだけはわかった。リドゲートは旋回し、高度を下げていく。あと少しだが、風が強い。あと少し――。


 ルシエンヌは地面に着地するつもりで落下した。暗くて見えなかったが、思った以上に高さがあったのだ。着地に失敗したルシエンヌは痛い思いをした。


「い、痛い……」


 今日は痛い思いも、寒い思いもたくさんした。もうクタクタだ。それでも、生きている。

 落下時に打った腰を摩っていると、リドゲートがルシエンヌの近くを旋回する。ルシエンヌは嵐の中、風の音に消されないように感謝を伝えた。


「もう大丈夫よ。ありがとう!」


 リドゲートは約束を守ってルシエンヌをアジュールまで送り届けてくれた。もう十分だ。彼にもゆっくりと翼を休めてほしい。そんな思いを込めて、ルシエンヌは手を振った。


 いつまでも顔を向けていたら、リドゲートが去れない。ルシエンヌは再会を夢見ながら彼に背を向けた。濡れた髪は頬に張りつき、スカートも脚に絡みつく。まるで帆のように風を受け止めるスカートが恨めしい。

 顔をしかめつつも、ルシエンヌは重たい一歩を踏み出した。


 ――しかし、ただでさえ歩き慣れないルシエンヌが嵐の中をまっすぐに進めるものではなかった。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。風に弄ばれながらさまよっている。


 そして、今のルシエンヌの体力はただの人間でしかない。それも、かなりひ弱な。

 疲労というのはこういうことか、と眩暈を覚えた。体が重たいのは、滴る水気のためだけではない。ヒールの靴も泥水を含んで、歩くたびに滑る。


 ここで倒れた場合、誰もルシエンヌを助けない。野ざらしになったまま、二度と目覚めない可能性もあるのだろうか。

 魔女と恐れられたルシエンヌの最期にしては滑稽だ。もし死後になって遺体がさらされ、後世まで笑いものになったら嫌だな、とそんな心配をした。


 それでも、体力というものは自然と湧いてこないらしい。今までは魔力がすべてを補って余りあったから、自分自身が脆弱だということを知らなかった。

 疲れた。


「あっ」


 また、転んだ。倒れた先の草が水気を含んでいて不快だ。けれど、これでもう汚れる心配はしなくていい。これ以上ひどくなりようがなかった。


 起きないと、と思いながらも疲れには勝てない。顔を起こしかけて、ルシエンヌは再び突っ伏した。汚れた雑巾のようなルシエンヌにも雨は容赦なく振りかかる。


 再び目を覚ました時、意識はあの世かもしれないと思った。

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