Chapter Ⅰ◇6

 ルシエンヌは目を覚ました。

 そして、見慣れぬ天井に驚き、どこからが現実かわからなくなった。――ここは、どこだろうか。


 寝かされている木製のベッドにはピンクのシーツがかけられていて、壁紙も小花柄だ。白いレースのカーテン越しに光が差す。嵐は過ぎ去ったらしい。あの嵐は夢だったような気もしてくる。


 それ以前に、ルシエンヌが知らない部屋に寝かされている説明がつかない。見る限り、この部屋の主は若い娘だろう。

 サイドテーブルにはルシエンヌの唯一の荷物であるスカーフが置かれていて、湿ったそれを手に取って中を開いてみると、宝石の数はそのままで、薬瓶の中身も減っていなかった。


 擦り剥いた手には包帯が巻かれ、手当されている。よく見ると見覚えのない白い寝間着を着せられていた。多分、ずぶ濡れだったからだろう。


 覚えていないけれど、誰かが助けてくれたらしい。

 一体、誰が――。


 そんなことを考えていると、部屋の主が戻ってきた。


「あっ! 気がついたのね」


 年の頃は十八、九歳。背中まで届く長い茶髪を太い三つ編みにして垂らしてる。新緑のような色の目をした可愛らしい娘だ。水色のエプロンドレスがよく似合っていて、より清楚に見える。

 なるほど、いかにも善良そうだ。


「あなたが私を助けてくれたの?」


 ルシエンヌが声をかけると、娘は少し笑った。


「正確にはあたしの兄が、倒れているあなたを背負ってきたの。あなたのお名前は? 具合はどう?」

「私は、ルシ……」


 名前を正直に名乗っていいものだろうか。大陸を移ったが、いなくなった魔女と同じ名前では関連性を疑ってくれというようなものだ。

 母の名前でも名乗ればよかったかと固まっていると、娘は勝手に解釈した。


「ルシィさん?」

「そう」


 そういうことにしておこう。

 ついでに言うと、〈さん〉ではなくて〈様〉をつけてほしい。〈さん〉は中途半端で嫌いだ。しかし、それを言うと怪しまれる。それならいっそ、何もつけなくていい。


「ルシィでいいわ。具合は、悪くはないと思う」


 魔力が戻らないことを除けば。

 無表情なルシエンヌ――ルシィに反し、その娘はコロコロと表情を変える。


「よかった! 何か食べられそう? 念のために消化のいいものを持ってくるわ」

「いいの? ええと……」


 人間相手に名前を憶えないのは失礼だ。このところ、失礼な態度を取っても構わない相手としか接していなかったが、この善良な娘の名前は覚えよう。


「あたし? セイディ・シェルヴィーよ。じゃあ、もう少しだけ待ってね」


 にこりと笑ってセイディは去っていった。

 セイディは気が利く娘のようだ。名前以上のことを一度に訊ねようとしなかった。ルシィの体を気遣ってのことだろうか。


 今の隙に倒れていたもっともらしい言い訳を考え出さねば、とルシィは頭を捻った。



 しかし、セイディが戻ってくるのは思いのほかに早かった。あたためればすぐに出せるよう支度をしてあったのではないだろうか。段取りがよすぎる。


「ポリッジ、苦手じゃないといいんだけど」


 食べ物の匂いを嗅いだら、ぐぅ、と腹が鳴った。

 セイディは、湯気の上がっている皿をトレイごとルシィの腿に下す。オートミールをミルクで煮込んだポリッジは病人食の定番だが、ルシィは食べたことがあったか記憶にない。

 今は空腹だから、毒でさえなければなんでもいい。


「ありがとう」


 自然と感謝の言葉が零れた。こんなことは初めてかもしれない。

 今まで、人間に感謝されることはあっても、感謝したためしはない。それがセイディのような小娘を相手に感謝しているのだから不思議なものだ。

 それだけ自分が弱くなったのだと自覚すると、少し凹んだ。


 形のないべったりとしたポリッジをスプーンですくって口に運ぶと、ミルクの優しい甘さと塩味が絶妙で、こんなに美味しいものだったのかと感動した。空腹だから美味しく感じるのかもしれないが、とにかく美味しくてガッついた。

 ルシィの食べっぷりにセイディが驚いているくらいだ。


「おかわりもあるから。ゆっくり食べてね」

「んんっ」


 呑み込むのも待たずに答えると、セイディはクスクスと柔らかく笑った。

 ルシィがポリッジを半分ほど食べたところで、扉がノックされる。ノックの力加減から女性のような気がした。


「開けてもいいかい?」


 ルシィを助けたセイディの兄ではないとすると、母親だろう。それくらいの年齢に思えた。

 セイディが扉を開けるた時、その女性はルシィの服を持っていた。


「なんとか乾いたよ」


 彼女は皺が刻まれつつも優しげな面立ちをしていた。白髪が浮いた灰色の髪をひっつめ、落ち着いた紺色のワンピースを着ている。

 歩くたび、ワンピースの裾が大きく揺れる。足を引きずるような歩き方だった。


「セイディのお母さん?」

「そうだよ。あたしは母親のハンナだ。この食堂、〈カラスとオリーブの枝亭〉の女将をしているんだよ」


 ハンナはゆっくりと子守歌のように心地よい声で答えてくれた。


「食堂? だからこんなに美味しいのね」


 ルシィが感心していると、セイディとハンナは顔を見合わせて笑った。

 ここはなんて柔らかい、ふんわりとした空間だろう。


「うちの味つけが気に入ってくれたみたいで何よりだ。たくさんお食べ」

「ええ、ありがとう」


 その言葉に甘え、ルシィはポリッジを三杯おかわりした。そして、いつものロングドレスに着替えると少し落ち着いた。やはり、魔女には黒が似合う。

 一応、ルシィはまだ魔女のつもりである。


 着替えたらセイディの兄を呼んできてもらうことにした。礼くらいは言っておこう。セイディの兄ならば、多分マトモな青年だろう。


 人間の男はルシィの美貌に惹きつけられ、相手にされないとわかると嫌悪するのだが、それでも恩人なのだからルシィとしても邪険に扱うつもりはない。


 ――控えめなノックの音がする。


「ルシィ、着替えは終わった?」


 セイディだ。


「ええ、終わったわ」


 ベッドに腰かけながら待つと、扉が開いた。セイディとハンナ、そして少年がいた。

 黒髪に青い目、セイディとそれほど似ているというわけではないが、垂れ目の子犬のような少年だ。


「兄のトリスタンよ」


 と、セイディがトリスタンの背を押して中に押し込みながら紹介してくれた。

 だが、どう見ても兄というよりも弟だ。この童顔の少年――青年が、ルシィをここまで背負ってきてくれたと。


「トリスでいいよ。元気そうでよかった」


 ニカッ、とトリスはまるで邪気のない笑顔を浮かべる。ルシィは、軽く傷ついた。


 この青年は、少しもルシィの美貌にひれ伏さなかったのだ。のん気に、ごく平然としている。

 ここまで自然体を保てるのは、本気でなんとも思っていないからだ。お年頃の青年なのに、ルシィの魅力が通用しなかったのである。屈辱だった。


「た、助けてくれてありがとう」


 それでも、ルシィにはプライドがある。この屈辱をなんでもないことのように振り払った。

 トリスは多分、そんなことにもまったく気づいていない。


「いや、たいしたことはしてないから」


 やはり、なんの意識もしていない。にこやかだ。

 もしかすると、心に決めた恋人がいるのかもしれない。それにしても、ちょっとくらいぼんやり見惚れてくれてもよさそうなものを。


 そんなどうでもいいことに気を取られていたら、ハンナから急に脇腹をつままれたような質問が来た。


「それで、ルシィはどうして嵐の中で倒れていたんだい?」


 まだ何も思いついていなかった。マズい。

 ルシィは頭を抱え、うんうん唸りながら捻り出すしかなかった。


「どうしたの? 頭が痛むの?」


 セイディは心配してくれたが、まあ頭の痛い問題ではある。

 正直に言ったら、この家族はルシィを放り出すだろうか。いくら善良な人間でも、魔女を匿ったりはしないかもしれない。

 この国で魔女がどのような立ち位置であるのかはわからないが、良く思われている気はしないのだ。


「お、思い出せないの」


 言わない方がいい。絶対、その方がいい。

 行き倒れの可哀想な女性ということで通したい。


 ちらりと三人を見上げると、トリスはルシィの言い分を信じて気の毒がっていた。女二人は、何か事情があるようだが、言いたくないのだろうと察知していた。


「そうなの、それは大変ね……」


 セイディはどちらにせよルシィに同情的だった。騙してしまって悪いが、捕まりたくない。

 トリスはというと、困ったようにカラスの濡れ羽色をした髪を振った。


「覚えてないのか。でも、クリフ様がそれで納得してくださるかな?」


 そんなことを言った。


「クリフ様?」


 鸚鵡おうむ返しにその名を口にすると、トリスはうなずく。


「うん。この町の領主代理、クリフォード・ノックス様だ。国内でも一、二を争うような凄腕の魔術師だよ」


 領主代理ということは、この町を任されていて責任がある。その〈クリフ様〉とやらに、不審な行き倒れがいることを報告しないわけにはいかないらしい。


「でも、クリフ様なら、記憶のない気の毒な女性を放り出したりされないわよ」


 セイディの意見に賛同したいが、その領主代理の情報が不足しすぎている。ルシィは恐る恐る探りを入れることにした。


「領主代理って、名前からすると男性よね? そんなふうに愛称で呼べるくらい親しみやすい人なのかしら?」


 男なら色仕掛けが通用するかもしれない。しかし、あまりに枯れた老人だと無理だ。太って脂ぎった中年男とかはルシィが無理だ。

 すると、ハンナが教えてくれた。


「あたしの夫がクリフ様のお母様と兄妹で、この子たちとはいとこ同士なんだよ。この子たちのこともよく可愛がってくださって」


 代理とはいえ領主なのだから、上流階級の家柄だろう。そこへハンナの義妹は嫁に行ったということだ。庶民出では苦労も多かっただろう。

 母親が庶民だったなら、クリフの気位はそこまで高くないのかもしれない。


「こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、兄さんがいたらあんな感じかなって」


 トリスの口調から尊敬が垣間見える。兄というなら、少なくともトリスの父親の年齢には達していないはずだ。それを聞いてほっとした。


「そうなの。そんな立派な人なら大丈夫ね」


 色仕掛けか泣き落としが通用しそうだ。ルシィは心底ほっとしている。

 ただし、不審者として突き出されることこそ回避できたとしても、それでどうするという問題もある。どこかに腰を落ち着けなければ、今のか弱いルシィは生きていけない。


「うん、一度ご報告に行かないとな。ルシィが歩けるようなら明日にでも」


 先延ばしにしても仕方がない。ルシィは腹をくくった。


「ええ、いいわ。行きましょう」


 その後でルシィがどうなるのかは、今のところ誰にもわからない。


「クリフ様が助けてくださるといいのだけど……」


 心配そうにセイディがつぶやいた。


 ルシィはその間に、サイドテーブルに置いてあったスカーフを手に取り、手探りで宝石をひとつつかみ出した。それをそっとセイディに握らせる。


「これ、助けてもらったお礼よ。もらって?」


 紫色の宝石だった。こんなのあったかな、とうろ覚えだったが、家から持ってきたのだからあったのだろう。たくさんありすぎて覚えていない。


 セイディはきょとんとして手元を見たが、それが光り輝く宝石だとわかった瞬間に激しく首を振った。太い三つ編みがブンブン揺れる。


「こ、こんなのもらえないわよ。気持ちだけでいいの」

「どうして? 私があげると言うのだから、もらったらいいのに」


 何故断ろうとするのかがよくわからなかった。ハンナに預けようかと思ったが、ハンナもトリスも首を振っている。要らないのか。

 そこでルシィは気づいた。


「ああ、そうね。この大きさだと換金しにくいのね? 割りましょう」


 平然と言ったルシィに、皆が、気は確かかというような目をした。見かねたハンナがため息交じりに言う。


「見返りなんて要らないよ。何かがほしくて助けたわけじゃなくて、あたしたちは見過ごせなかっただけだから」


 見返りを求めない人間などいるのか。ルシィには信じがたいものがあった。

 いたとしても、かなり稀有な存在で、ルシィはその稀有な親子に助けられたとするのならなんて幸運だろう。


「余計なことは考えなくていいから、今はゆっくり休むんだよ」


 どういうわけか、ハンナの目はルシィを憐れんでいるようだった。無力でか弱いただの人間に憐れまれた意味を、ルシィはわかりたくなかった。


 ただし、無力なのにハンナからは弱々しさを感じるわけではない。むしろ、内面の力強さが見える。子供たちを護り、生き抜いてきた母親だからだろうか。

 あまり似ていない兄妹を見比べ、ルシィは、ああ、と納得した。


 カラスのような黒髪の兄と、オリーブグリーンの目をした妹。

 ふたつの宝物を店名にしたハンナの優しさがここには溢れている。だから、居心地がいいのかと。

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