第15話 彼の人を救いたくば(2)

人知れず溜息をついてドアーを開いたとたん、私は伊勢海老よろしく後ずさりました。開いたドアーの眼前に、先生が待ち構えていたのです。


「お帰り」


「ヒッ!!」


「そこまで驚かなくても…いや、こんなところで待っていては当然か。吃驚させてすまない、中へ入ろうか。」


「エ、エエ…。」



先生に誘われる様に居間のテエブルに着いた私は、今朝がた不穏な別れ方をしたとは思えない通常通りのご様子に、かえって違和感を感じておりました。



鏡様の横で貴方の事を考えていたとき、貴方はここで…何をしていたの。



釈然としない気持ちのまま、何気なくテエブルを見渡すと、隅に寄せられた焼き栗の殻が目に入ります。あれは、近くの公園の露店で売られている代物…。まさか、先生が?否、館からめったなことでは外出しないはず…ではどうしてここに。



「茶を淹れたから、飲まないか?」



私の逡巡も知らず、先生は熱い緑茶を湯呑に注いで下さいます。先生の表情はあくまでも落ち着き払っていて、まったく感情が読めません。茜色に染まるその美しいお顔に、私はふいに見惚れておりました。



「…ン?」



自らの美しさに見惚れられていたなど微塵も気付かない先生は、物憂げだった瞳を真ん丸になさいました。「どうした?」



途端、羞恥に襲われた私は、咄嗟にあらぬことを口走ります。



「先生、もしや公園に行かれまして?」


「だッ!あ゛ッ!何故それをッ!」



先生は瞬発的に取り乱し、それまでの物憂げな美しさは完膚なきまでに消失いたしました。



「なぜって。私もその栗、よく買いますし。」


「迂闊……小説では絶対こんなヘマしないのに…僕は何故こうも詰めが甘いのだ…こんなだからあの下等生物にも侵入を許し…」



先生は卓上の栗を指摘されただけで、猛烈な悔恨状態に陥りはじめます。きれぎれの独白ながら、『下等生物』は恐らく鏡様の事で間違いないでしょう。



「と、兎に角そんなに取り乱さないで下さいな。栗を買いに出るのは何も悪い事ではありません。」


「イヤ、実は…君に買ってきたのだよ。驚かせようと思ったのだけど…。」


「エ。」



先生は恥ずかしそうに、テエブルの下から焼き栗の袋を取り出しました。同時に私の胸はざわめき立ちます。あの手練れの引き篭もりたる先生が、自らの授賞式にも出不精を貫徹しかけたあの先生が…??しかし、信じられない物を見る目で卓上の栗を見つめる私を、先生は何か勘違いしたようでした。



「あ…違う違う、これはその…毒見だよ。だってあの、変なものを君に差し出す訳にはいかないからね。」



先生はさりげなく、テエブルの端の栗の殻を手で隠します。大方、私に買った栗を召し上がった事に罪悪感を覚えたのでしょう。そんな、栗くらい…と言いかけた私は、栗の殻がざっと見積もって五つはある事に気付きます。毒見にしては、あまりに多くないか。しげしげと殻を見つめて差し上げると、先生は気まずそうに瞳をキョロキョロさせます。



「まああの。味は、一級だった。」


私はついに吹き出して仕舞いました。


「…嬉しい。」


しかしてそれは、誠の本心でありました。



先生はきっと、今朝方の不穏な別れがたいそう気にかかって、何かせずにはいられなかったのでしょう。屋敷の中で散々悩んだ挙句、吐く程に嫌悪している『外出』を選び、あてどなく彷徨ううちに栗の屋台を見つけたのです。そして、熱々の焼き栗を前にどうしても食べたくなって、『毒見毒見』と五ツも食べたのでしょう。


…わざわざ栗など用意しなくとも、私は先生が出迎えてくれるだけで十分幸せになれるのに。


きまり悪そうに俯いていた先生は、ふいに目を上げました。



「…食べる?」


「エ…。」



普段の私ならば、それはもう喜び勇んで平らげるところですが…実のところ、私のお腹はもうケエキとスコオンで満席でございます。私はやや躊躇いたしました。


「えぇっと…。」


「あ…無理に食べる事はないよ!しまっておこう、日持ちはするかな…。」



どこかしゅんと立ち上がった先生の腕を、私は反射的に掴んでおりました。



「い…いただきますわ!」「玉雪君…。」「先生…」「痛い…。」「ア。」



先生の腕をぱっと離すと、白い御肌は真っ赤に充血して居られます。



「ごめんなさい…。」「善い善い、慣れっこだからね。」



先生は何処か嬉しそうに、真っ赤な腕を摩りました。


・・・


先生の焼き栗は、冷え切っては居りましたが安定の美味しさを誇っておりました。確かに気づけば五ツも食べてしまいたくなる味ですが、五ツも食べたなら流石に『毒見』以外の理由を考えるべきはないかとも思われます。先生はどうも、狡猾さに欠けるのです。しかし、気付いたときには私は焼き栗を、全部食べ終えておりました。そして、私の心はケエキよりもスコオンよりも満たされておりました。



「美味しゅうございました。」



先生は微笑みましたが、ふいに不自然な咳払いをなさいます。



「厭なら言わなくて善いのだが…今日、鏡とはその…何をしてきたのだ。」



先生はちらりと私を見ると、すぐ目をそらします。


…なぜ問うのかを聞き返しても、決して答えてくれないくせに。わざと黙っていると、先生はさらに言葉を紡ぎます。



「今朝…というか、正確には昨晩からか…君には済まない事だらけだね。」


「え?」


「いや、その…色々と。」



…済まない事、という言葉がぐさりと胸に刺さります。先生は、昨晩および今朝方の接触を、『済まない』という言葉一ツで捨て置いてしまうのかしらん。


昨夜からの出来事の中に、先生の本心は、一つも混じって居ないのかしらん。


私は半ば叫ぶように『謝らないでください。』と言いました。俯く私の目には、勝手に涙が溢れてゆきます。



「先生は何も分かっておりません。」



先生は黙り込みます。何かを思い詰めていらっしゃる様でした。



「…ずっと考えていた事がある。ずっと前から、君に伝えなければならなかったことが。」



顔を上げると、先生は至極深刻な表情をしていました。



「君が鏡と行ってからも、ずっとその事を考えていた。」


「先生、顔色が…。」


「こんな事を突然言われたら、君は気分を悪くするかもしれない。だが…もう我慢が出来ないのだ。」


「い、一体何を…」



感じたことのない空気の中で、私は先生がお伝えしようとしている事に思い至っておりました。



「玉雪君、僕は…ずっと君のことが」



私は咄嗟に席を立ちました。聞いては駄目だ。聞いてしまえば、鏡様との約束…ひいては、先生の未来がだめになってしまう。



「すみません…気分が良くなくて。」



廊下に走り出た私の腕は、即座に先生に掴まれます。



「待って。」



先生の力強い瞳に、私は顔を逸らしました。先生が、小さく息をのみました。



「…済まない。」


「申し訳ありません、疲れているのです…。」



恐る恐る顔を上げると、先生は年長者らしい笑みを浮かべていました。



「ゆっくり休みなさい。」



先生の表情はどこまでも礼儀正しく、それゆえに、どこまでも遠いものでした。胸がギュウと締め付けられ、私は思わず二の句を次いでおりました。



「違うのです。その…ああ、疲れてはいるんですが…」



しどろもどろな私を見て、先生は困ったように微笑み返します。



「どうしたの?」



嗚呼。この困ったような慈しむような、そしてどこか照れた微笑みは、いつも私の胸に不思議な感覚を呼び起こしてしまうのに。



「…うまく説明ができないのですが。」


「気にすることはない。」



先生は、ぽんと私の肩を叩きます。泣き出しそうになるのをこらえ、私は先生を見つめ返します。



「こんなところで悪いのですが…明日、お休みを頂いても?」



先生の体が一瞬強張るのが分かりましたが、果たして彼は柔和な笑みを崩しませんでした。



「構わないよ。君の好きな様に働いてくれれば、それでよいのだから。」



先生はおやすみと行って踵を返すと、いつもと同じ足取りで部屋へ戻って行かれました。



残された私は、茫然と立ち尽くすしかありませんでした。


間違いない。先生はさっき、私たちの関係性を大きく変える告白をしようとしていたのに。


・・・


部屋に戻るとすぐに、私は机に泣き伏して、そのまま眠っており…どれ程の時間が経ったか、泣き疲れて顔を上げると、そこには『二物』がありました。


私はその小説に手を伸ばし、気付いたら全部読み終わっていたのです。先生の書いた小説の結末は、愛で結ばれた二人が和菓子屋を開き、最中を売り出して成功する…という至極幸せなものでした。


先生の文章は思慮深く、時に可笑しくそして優しく、正に先生そのものでした。読み終わった時、読み終わるのが何だかとても、寂しくなったのです。


その瞬間、私はついに、先生への愛を自覚したのでした。

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