第16話 玉雪の愛

私はひそかに決心しました。


明日鏡様にお会いして、今日結んだ約束を解消しよう。先生の未来を奪うことになっても、もう嘘はつかない。私は、先生を心から愛しているのだから。



・・・



翌日。洗面所でうがいをしていると、ひょっこり先生が現れます。



「「あ。」」



昨日の今日で、非常に気まずくございます。が、先生もどうやら同じ心境の様で、お互い不自然に目をそらします。



「お、お早うございます…。今おどき致しますねッ!」


「いいよいいよ、別に洗面所に用があるわけじゃないから…。」


私は先生の言葉に、ギクリとします。


「では、私に用が?」


自分から言い出した癖に、なぜか先生も面食らいます。


「え…君に何かという訳でもなく…はないが。アァーそうだ!君は今から出掛けるのだね?!なら、僕に何か頼みたいことはないかねッ!」


「えぇッ?」


「何でも僕に言ってごらん。さあさあ!」



妙にやる気十分な先生は急に私の肩を掴みますが、私の困惑を察した途端にシュンとなりました。


「僕が君にできる事など…何もないか。」


先生がうら寂しく微笑んだ瞬間、グウウウウ、というこの上なく呑気な音が洗面所に響き渡ります。それはまさしく私のお腹が、盛大に空腹を訴えた叫びでありました。



「…。」「…。」



先生は無言で俯きましたが、小さく震える肩は明らかに笑いを堪えています。顔面から火を吹くと同時に、私は叫んでおりました。



「も…最中ッ!最中をば買ってきて下さいまし。」


「…最中ぁ?」



ああしまった。ついうっかり、脳裏に浮かんだ食べ物のことを口に出しましたが、最中は先生の著作『二物』における、最重要の要素なのでした。あわや先生に、禁忌である『二物』読破およびそれに準ずる窃盗/汚損が露呈するのではあるまいか。私の背中に嫌な汗がつたいます。



「いえ、その。た、たまたま偶然、最中の夢を見て。」



先生はどこか間の抜けた声でふぅむと呟き、首の辺りを掻きました。何処か呑気な面持ちは、最中の背後にある『二物』読破に気付いてはいないようです。



「分かった、最中だね?善処する。」


「あああ有難うございますッ!では之にて失礼つかまつる!!」



これ以上のぼろが出る前に退散した背中を、先生の『最中ぁぁぁ~?』という独り言が追いますが、私は素知らぬ振りで走り去り、鏡様との待ち合わせ場所へと馳せ参じました。


・・・


館の前には、すでに鏡様が人力車を侍らせておりました。


「おはよう、玉雪嬢。来てくれて嬉しいよ!昨日献上したドレスも…よく似合っている。」


「や、約束ですもの。でも、その前に少しお話したいことが…」



早速、昨日の申し出をお断りしようとしたものの、鏡様に強く手を引かれた私はあっという間に人力車に乗り込んでおりました。



「し、しまったッ!」


バタアン!とドアーを閉めた鏡様は、不敵にも満面の笑みでいらっしゃいます。


「さ、今日は新しく出来た劇場で劇を観ようね!」


「鏡様、その前にちょっとお話が…」


「あ、劇場に着いた。」「早ぁッ!?」



お断り『お』の字どころか息つく間もないままに、我々は爆速の人力車にて目当ての劇場とやらに到着してしまっておりました。


新装開店らしき劇場の前には、すでに怒涛の人だかりが完成しておりました。人力車を降りた私は、ただ茫然とその魔窟を眺めるのみです。



「ほわあ、すごい人だかり…ってなにゆえ私は、こんなところで感想をッ…!」


「今日はこけら落としだからね。っと失礼…。」



今にも人並みに呑まれんとする私をさり気なく庇いつつ、ぶつかった相手にも礼節を忘れないのが鏡様というお方です。そのいかにも紳士然とした振る舞いおよび麗しき立ち姿は、大方の女性にとって悩殺級に魅力的であるようで…。


先程鏡様と衝突し、『失礼』と微笑まれた見知らぬ淑女はポウと頬を染め、その場に立ちすくんでしまわれます。そして彼女がおもむろに立ちすくんだせいで後ろに続く方々の間に重大な玉突き事故が発生し、その様を目の当たりにした私は、ただただ鏡様の恐ろしさに息を呑むしかありませんでした。



「あ、あな恐ろし…」


「え?何だって?」


「何でもございません!」



鏡様はどこ吹く風といった様子で、ひょうひょうと微笑んでおられます。そればかりか、長身をかがめ私の耳元で、可笑しな事を言い始めるのでした。



「みんなが君に見惚れているよ。」


「は、はい?」


「しっかり見てご覧。」



鏡様が指差すと、前方の見知らぬ紳士はサッと明後日の方角を見やります。その隣のお帽子紳士、さらにその横のお鬚紳士からも一様に目を逸らされます。どうやら鏡様の言う通り、みな私を凝視していた様でした。



「…尻尾や耳でも生えておりましたかしらん。」


「ははッ!君が余りに可憐だからに極まっているだろう?」


「ま、まさか…。」


「僕はとても誇らしいよ。」



鏡様は心底楽しそうに微笑みましたが、私はとても複雑な気持ちに成りました。


見知らぬ方々からこのように一心に凝視される事は、はたして人として『誇らしい』事なのであろうか。こんな状況、見世物になった気持ちで、大層居心地が悪いだけなのに。


さらにいうなら、鏡様は人からこのように見つめられる事に執心なさっておられるけれど…どれだけ多数の視線を集めたところで、鏡様ご自身の価値は見てくれではなく、鏡様の内部にあるものなのに。


鏡様はずっと何やらお話していますが、私の気持ちはいよいよそぞろと相成りました。また、私はこうも危惧しました。劇が始まるまでに交際をお断りしなければ、ついに話す機会が遠のいてしまう。



しかし、好機はふいにやって参りました。鏡様は懐中時計を見ると、おもむろにこう切り出したのです。



「開演まで少し時間がある…。それまで、歩いて時間を潰そうか。」


「は…はいなッ!」



願ってもない『お断り』の機会到来ッ!私は内心、この機を逃すまいと息巻きました。



・・・



人また人でごった返す劇場から少し離れた路地を歩きつつ、私は静かに切り出しました。


「あの、鏡様…お話したい事がありますの。」


私は俯いたまま、そっと語り出しました。


「実は、昨日の約束…についてなのです。昨日鏡様と私は、恋仲になる前提で親しくする代わりに、私の金銭的援助を図っていただく…と言うようなお約束をしましたわね。」


しかし、顔を上げると、そこに鏡様の姿はありませんでした。振り返ると、なぜか彼は数歩前で立ち止まっていたのです。



「鏡様?」



鏡様のもとへ駆け戻った瞬間、彼は至極小さな声で「なぜ彼奴が…」と呟きます。



「なぜって一体、如何したのです…ヒャ!?」


「振り向かないで。」



鏡様は急に私の両肩を掴み、強い力で押さえつけます。そして、なおも判ぜぬ事ばかりを繰り返すのです。



「早く劇場へ入ろう。」


「い、一体何があったのです?」



思うさま鏡様の手を振りほどき、振り返ろうとした私を、彼はなおも制します。



「振り向くな!」


「だから、何故!」


「振り向いたら君は…僕を捨てるから!」



瞬間、頭にある事実が閃きました。


「…先生がいたのですね?」


おそらく今朝方『最中』を所望したせいでしょう。でなければ『あの』先生が街を出歩く筈がございません。すると鏡様は、少年のように頼りなく私を見つめます。



「どうしても振り返るなら約束してくれ。…僕を見捨てない、と。」


私の胸は不思議な感情で埋め尽くされます。


このお方はどうしてこんなに、子供の様に怯えているの。何の飾りを付けなくとも、すでに充分に素晴らしい人物なのに。どうしてそれを見て見ぬ振りして、誰かにすがりついておられるのか?


鏡様はとても孤独な方なのかもしれません。しかし、その孤独を共に乗り越えるべき者は、私ではありません。


なぜなら、私が愛しているのは『先生』だけなのです。



「鏡様を『捨てる』ことなど、いたしません。でも、貴方を『選ぶ』ことは出来ないのです…なぜなら私は、先生を愛しているからです。」



言い終わるが早いか、私は猛烈な速度で走り出しました。



「先生!!!」



私の大声に、数尺先で男性があからさまにギクリと背中を震わせます。あそこまであからさまな驚き様では、自分から『見つけて下さい』と言っているようなものでした。



「先生先生ーッ!」


「ヒィッ!ぼ、僕じゃないッ!追ってくるなァア!」



全力で疾駆を開始した私に、あからさまに先生と思わしき男性は断末魔を上げておられます。



「そこな先生、お止まりくださーーーいッ!」



一体、何が『僕じゃない』のかと思いつつ街を駆ける私を、道行く人の『何て素早い娘だ』『短距離走の国体選手か』等の呟きが追いかけます。悲しいかな韋駄天のみならず地獄耳でもある私めは、どんな賛辞も批評も、とりあえず受け付けるしかないのでしょう。


そうこうしているうちに、私と先生の距離は如実に縮まってゆきました。

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