第14話 彼の人を救いたくば(1)
呆然とドアーを見つめていると、鏡様が口を開きました。
「追わなくて良いの?」
「えっ。あっ…。」
ぽかんと口を開けると、鏡様がはっ、と乾いた声で笑います。驚いて見上げましたが、どうやら鏡様は、外ならぬ鏡様自身を嘲っていた様でした。
「とんだ無様を見られてしまったね。」
「そんな…。」
鏡様は、軽く首を横に振りました。
「彼奴のいう通り、僕は惨めな人間なのだ。本当は…僕は彼奴がうらやましいのだよ。仙は正しく、そして強い…。」
「鏡様…?」
「彼奴にはいうなよ?」
「も、もちろんですとも!」
「…信じるよ。」
鏡様はフンワリと微笑みましたが、それはとても儚げにみえました。内心相当な痛手を負っていらっしゃる。私は咄嗟に、そう感じざるを得ませんでした。
「あの…先生も、きっと言い過ぎたのだと思いますわ。少し気が立っていて…。」
鏡様は驚いた顔をし、すぐにふふふと笑います。そして突然、私の頭をポンポンと撫でたので、今度は私が眼を丸くする番でした。
「君は優しい、良い子だね。」
「お、お止め下さい…。」
抵抗むなしく鏡様は、しばしシビシビ私の頭を撫で続けておられましたが、不意にその手を止めました。
「…僕を慰めるつもりがあるのなら、少しだけでも付き合ってくれないか?」
「え…っ。そ、それは。」
「何も仕事は頼まれてないのだろう?」
「…ですが…」「ね??」「う…」
鏡様の有無を言わせぬ圧力と少しばかりの情に負け、私は遂に首を縦に振りました。
・・・
ほどなくして。鏡様の呼びつけし最上級の人力車上にて、私は大騒ぎしておりました。
「歩いていないのに街が近づいて参りますッ!」
「…もしや人力車は初めてか?」
「そうですともッ。足があるのに他人様に、体を運ばすこの怠惰……嗚呼!父様母様お許し下さいッ」
「ちょッ!その言い分、何だか僕まで申し訳なくなってくるな。」
「ああッ!」
「今度は如何した!」
「ああああれはッ!」
「あー、あれは西洋人だね。おおかた政府関係で来日しているのさ…って君、少し落ち着きたまえ。」
「それに、それにッ」「玉雪嬢、落ち着くッ!」
「はッ!」
「…丁度着いたみたいだ。」
お車がピタリと止まると、鏡様は流れるような手つきで降り、次いで私が降りるのを助けて下さいました。人生初めての人力車にて高鳴る胸を押さえる私に、鏡様は何処か呆れておられます。
「君は…ずっとここに住んでいるのだろう?」
「そ…そうですけども…ほとんど、館の中からは出ませんのよ。」
鏡様ははッ、と息を呑みます。
「もしや仙之介に軟禁…?」「されて居りませんッ!私が好きで外に出ないだけで」
「え、好きで軟禁…!?」「違いますッ!」
顔を真っ赤にして怒ると、鏡様はあははッ!と笑い声をあげられます。
「立ち話も何だし、そろそろ中へ入ろうか。」
…嗚呼。鏡様の視線の先には、かつて一度も足を運んだことのない、いわゆる『カフェー』が其処に在りました。
・・・
あの憧憬の、羨望の、魅惑の至高の夢のカフェー。
私の口からは「フワア」という気体が漏れ出ておりました。風の噂に聞く通り、カフェー内部は煌びやか、麗しやかの極みを呈していたのです。優雅に茶を嗜む方々は凡そ洋装をまとい、勿論女給の方々も洋装…なのです。私の半開きの口からは、長い長いため息が漏れ出ましたが、やや不機嫌そうな鏡様の声で私は我に返りました。
「…そろそろ中へ入れてくれないか。」
「し!失礼しました。」
鏡様は哀れにも、立ち止まる私のせいで店外に立ち尽くしていた模様です。「ささドウゾ鏡様、こちらへ。」
すると先だってから我々の眼前に、彫像のように立ち尽くしていた女給様が、ウフフと小さく笑われるのです。同時に、鏡様も堪え切れない様子で吹き出すではありませんか。ひとしきり、十中八九恐らくは私の愚行をお笑いになった後、鏡様はソッと私の肩に手を添えました。
「…済まない、君の愛らしさについ、胸を射られた。君もそうだろう?」
鏡様の視線に、彫像の女給様もそれはもうとばかりにブンブン頷かれるではありませんか。彼女はそのまま流れるように、我々を席へと誘います…どうやら私は無意識に、女給様の任を為さんとする愚か者を演じていた様でした。
女給様のエスコオトで席につくと、私は恐る恐るメニューを手にします。
「さあ、遠慮せず何でも好きなものを頼みなさい。」
鏡様はゆったりと脚を組み、何処までもその場に溶け込んだ笑みを浮かべます。
「な、何でも…。」「ああ」「一番美味しくッて、一番お腹がいっぱいになるものは…。」
情けない独り言を聞いた鏡様はハハハと笑うと、通りがけの女給さんにメニュウを掲げました。
「書いてある物を、とりあえず全部いただけるかな。」
「ぜぜぜ全部!?」
「大丈夫、心配要らないサ。」
女給様は、鏡様の目くばせで恭しく去ってゆかれました。私の胸は、この短期間で二度も嘲笑を受けた打撃と更なる衝撃に打ち震えておりました。…私…、私、そこまで『大食漢』に見えるのかしらん。
程無くして。
眼前の目にも鮮やかな食べ物を節操なく口に詰め込んだ私は、その感動に涙しておりました。
「ンフンフ」「…美味しいかい?」「ンゴンゴ」「そうかそうか」
『スコオン』なる甘美な小麦に口中の水分を奪われ、一言も口がきけない愚かな娘の心中を菩薩のような笑みで察して下さる鏡様に甘え、無我夢中で頬張ったスコオンを漸く嚥下した私は、その時初めて、ずっと鏡様が私をしげしげ眺めていたことに気が付きました。途端、悶絶級の羞恥が私を襲います。
は…はしたない娘だと思われているッッ!!
私は手の震えを堪え堪え、あくまで淑女然にナイフを置き、紅茶のカップを手に取りました。然してなお鏡様はジッと私を凝視なさっているのです。瞬間、鏡様はいとも軽々しく口を開きました。
「玉雪嬢、僕は君に恋をしてしまったのかもしれない。」「ゴッフ」
淑女空しく紅茶を吹いた私に、鏡様は更に畳みかけるのです。
「僕の恋人になる気はないか?」「な…!?」
私の叫びとほぼ同時に鏡様は『驚かせて済まない』と呟きましたが、何処までも澄み切ったその瞳に反省の色は皆無です。私は全身の力が抜けていくようでした。そして鏡様はまたも、奇々怪々な言葉を紡ぐのです。
「無論、君が仙を好きならそれは考慮するが…。」
「せ…好きですッて!!?」
動揺が頂点に達した私は、勢い余ってガタンと起立いたします。その横で、ケエキに大口を開けていた手近な殿方は、あからさまなる迷惑顔。しかして事態は、全くもってそれどころではありません。
「あーすまない、『仙』というのは君の館に間借りしている仙之介のことで」
見知らぬ紳士の迷惑顔のほうがまだましというもので、肝心要の鏡様は依然として優雅に脚をお組みになって、呑気極まりないお声を上げられます。
「そ、そんな事分かっておりますッ。…わ、私が驚いたのはッ…」
そこで、周囲から好奇の目で見られていることをようやく悟った私は、しおしおと座り直しました。
「す、好き…とかいう部分であって。」
「あ、違った?」鏡様の瞳が星のように瞬きます。
「え?違わな…ンンッ。」「違わないの?」
「ち、違います!」「へぇぇー。」
鏡様は不自然に言葉を切って肘をテエブルに突き、その手にゆったりと顔を預けます。鏡様は、なおもその余裕を失わず、普段よりいくらか低いお声で呟きました。
「…違うのか。」
トロリと細められた鏡様の目は、何処までも温かく甘やかです。それは何故か、私をひどく不安定な気持ちにさせました。
カフェーの喧騒の中私たちのテエブルだけが帳を下ろしたように、甘く、静かな気配に包まれたかのようです。しかして私はその甘美な空気を、どうにか払いのけました。
「…か、『仮に』、私が先生もとい日野様をお慕いしているとして。」
「 『仮に』…。」
「エェエェそれはもう『仮そめに』。…その場合、何かお考えがあるということですの?」
ああ、と鏡様は事もなげに言い放ちます。
「折角だし順に説明し直していこうか。僕は君が好きになった。だからぜひとも恋人となってもらいたい、ここまでは善い?」
私はどうにか頷きます。鏡様は少しだけ目を細めました。
「僕は是非とも、君と恋仲として善い関係を築いていきたいのだが…」
そこで初めて、鏡様の涼やかな笑みに影がよぎりました。
「君が本当に僕を愛してくれるまで決して強引なことはしない。仙之介のほうを好いているなら、その恋情を尊重するが、できれば僕が君と仲良くなれるようつとめることを許してもらいたいのさ。」
兎に角鏡様は、無理矢理に、鏡様との恋を強いる積りはないということでしょう。
「…僕は仙に代わって君の金銭的援助を引き受けても、一向構わないくらいだ。」
「金銭的援助…?」
「ああ。」
どうしてここで、お金の話が。私の胸は何時ぞやの様に酷く騒めき出しました。しかし、鏡様の表情はますます怜悧に成るのです。
「君の身の上について少し調べさせてもらったが、君は今、金銭的に困った状況におかれているようだね。なんでも、ご両親の遺産はほぼすでに、亡き御父上の発明に費やされていたとか…。そして、君の生活費は仙之介のメエドとしての給金と、家賃収入にかかっていることも。」
「どうしてそこまでを。」
私は静かにうなずきました。
「君を責めるのでも嘲笑するのでも無く言わせてほしい。金という代物は、君が思っているよりもずっとずっと簡単に、人の一生を壊す力を持っているのだよ。」
「…」
私は俯き、黙り込みました。しかし、私はお金の恐ろしさなぞちゃあんと知っておるつもりです。どうして忘れ去ることが出来ようか、我が命運を懸けた『四ツ目眼鏡』が、一つも売れなかったときの、あの絶望。屋敷に戻り、『おしまい』と呟いた私を見たときの、先生のあの瞳。私を映した瞳には、終わりを悟った者への畏れが、確と映っていたのです。
しかし、先生はその恐れから逃げなかった。そればかりか私に『メエド』としての任を与え、私を『生』へと引き戻した…思い返せばそもそも先生は、私が天涯孤独になったその瞬間からずっと、心の支えとして私を生かしてくれていたのです。
…先生はお屋敷で、今どうして居るのかしらん。
しかし、鏡様のお声が、私を現実へ引き戻しました。
「単刀直入に云おう。仙之助はいずれ君を助けられなくなるかもしれない。」
鏡様はここで一度息をついてから、話し始めました。
「物書きを生業にするには、ひとつ話が売れたくらいでは到底足りぬ。書いた物で食っていくには、常に 『大衆からの支持』を意識しなくてはならないが、時にそのためには己の最善を見捨てなければならないだろう。
物書きには書いた物を金に出来る云わば『職人気質』と、金に成ろうが成らなかろうが己の道を貫き通す『芸術家気質』に区分される。この区分において、同業の者から見た彼奴は、物哀しいほど『芸術家』なのだ。 」
鏡様の仰る事は大層難しいものでしたが、如何にか私はその意図を汲みました。…確かに、先生がお金のために世間様の好感を得ようと苦心する等という事は、金輪際有り得ないでしょう。
「僕自身もまだ作家としては駆け出しだから、物書きで食っていくなんぞまだまだサ。しかし、僕は幸運にも家から色々と相続していて、金に困ることはおそらくないのだ。」「…」
私の頬には、自然と涙がつたって居りました。途端に鏡様はすっくと立ち上がり、私の肩を撫でられます。
「すまない、その…」
「いえ、申し訳ございません。…唯、自分が情けないのです。」
鏡様はギュウと唇を噛み締めると、ストンとお席に戻られます。鏡様はもちろん、涙が止まらない私自身でさえどうして善いか判らぬ状況の中、時だけが過ぎてゆきます。すると、鏡様は静かに口を開かれるのです。
「本当はね、金なんて…どうでも善いのだよ。君の前では金も何もかも、取るに足らないものに見えるのだ。」
「…なんですって。」
どこかで聞いたことのある言葉に、私は目を見開きました。
「おおかた仙之介もそう思っているからこそ、君の館から出ようとしないのだろう。」
「真逆。」
「どうして、君自身とまったく関係無いと言いきれるのだ?」「それは…」
燃えるように赤い頬を隠すように俯く私を、鏡様はしばしの間眺めておりました。
「仙之介一人で生きていく分なら、奴だって何とかするだろうが、君をメエドとして雇う分まで稼ぐとなると、仙之介はたいそう苦しい思いをすることになるだろう。君の判断で…仙之介をも救われるかもしれないのだよ。」
鏡様のそれは、まさに悪魔の囁きでした。私の心は、グサリと射貫かれたように成りました。私は決心しました。
「まずはお友達…ということでもよろしいでしょうか。」
鏡様の瞳は、綺羅星のように瞬きます。
「勿論だとも。」
「一つ、約束して下さい。鏡様と私の関係を…絶対に、絶対に先生には言わないと誓って頂きたいのです。」
鏡様はふいに瞳を細めます。
「ああ、言わないよ。」
こうして私は奇妙なことに、『先生のため』鏡様とお近づきになる道を選んだのです。
・・・
その後、市街に繰り出した我々は、鏡様の気の向くままドレスやら香水やら舶来品やら…の店々を渡り歩き、何やらものすごい量のお買い物ののち、どうにか解散の方向へ向かいました。
発明館へと向かうべく、人力車に乗り込んでからというもの、鏡様は一向に口を開かれません。気まずさのあまり、私はいよいよ口火を切る事に致しました。
「あの。か、鏡様…」
同時に鏡様は、す、と指を伸ばします。
「見て、路面電車だ。」
瞬間沸騰的にに私の興奮は頂点に達しました。
「すごいすごいッ」
動物園のお猿よろしく身を乗り出した私は、カフェーでの度重なる失態を即座に思い返し、シオシオ座席に戻ります。
「…すみません。」
「今日一日で、彼奴が館から出ない理由が分かったよ。」
「彼奴?」
鏡様は答えず、輝くばかりの笑みを向けられます。
「ねえ、明日も一緒にでかけないか?一緒に劇を観よう。」
今日一日の狂騒を思い返して内心ひえぇ、と恐れおののいた私は、精一杯困惑の表情を作りました。
「一度先生に聞いてみなくては。メエドとしてのお仕事があるかもしれませんし!」
しかし、一向怯まぬのも鏡様です。
「気が進まなければ、明日その場で断ってくれて構わない。兎に角、今日と同刻に迎えに行くよ。」
「そ、そんなぁ…。」
鏡様は不意に、お首を傾げます。
「…強引な男は嫌い?」
その姿、声、瞳。私の直感は鋭く働きました。はたしてこれは、飲酒で乱心した先生のあの『壮絶な姿』にひどく近しい、何か大層な『危険』を感じさせるものだったのです。…呑まれてはいけない!
「鏡様はこのようにして、洋装の婦人を集めてきたのでしょうか…。」
「…洋装??」
「なんでもありません。あ、館に着いたようですので、本日はこれにて失礼いたします!」
非常に名残惜しそうな鏡様をいなすように、私はどうにかお別れを告げることに成功しました。
しかし、鏡様の人力車を見送る私の胸中には、十中八九鏡様の望むような結末は起こらないという確信がありました。仮に、鏡様とこれまで以上にお近付きになるとしても、相当の時間がかかるはずです。少なくとも私にとって、先生との関係は、最早色々と超越していたのです。
恋?愛?尊敬?信頼?よくは分かりません。けれどただ一つ言えることがあります。
彼と私の絆は、そう簡単には解けないのだ。
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