第13話 鏡様の『愛』

ひとしきりワンワン泣いた後、先生はおもむろに顔を上げ、『家具を戻さないと』とすたこら歩き始めました。


その瞬間、ついに私の中で何かが決壊したのです。…自分から接吻しかけたことを忘れておきながら、『身体を重ねてはいない』と認めただけで歓喜の涙を流すなんて。接吻未遂であるからといって、十二分に揺さぶられた私の心は、どう折り合いをつけろというのでしょうか。私は内心、どうにか先生をやり込めようと画策しました。



「先生。」


「ん?」



沢山の本を抱えた先生は、無邪気にこちらを振り向きます。私はそんな先生の油断を突くようにツカツカと歩み寄り、思うさま近しい距離で立ち止まりました。案の定先生は、驚きを隠せない表情になりました。



「…どうした。」



私は、ひそかに息をつき、すうと大きく吸い込みます。



「先生は私と、本当に身体を重ねたい…など考えた事は?」



先生の手から、ばさばさと大量の本が落ちました。しかし、先生は見向きもしません。先生は明らかに動揺を隠せていないながら、どうにか落ち着いた声を出しました。ただ、両手は本を抱えた格好のまま、むなしく空を掴んでいます。



「どうしてそんな事を…急に訊かれても。」


「ないのですか。」



キッと挑むように見据えると、先生はふいと目を逸らします。



「年上を揶揄うな。」


「揶揄ってなぞおりません。」



先生は黙り込み、ただただ深く俯きました。先生の耳、首筋や鎖骨の辺りまで、一瞬の間に紅く色付きます。嗚呼、照れておられる。先生を思う通り困らせられたと、私の心は少々満足を覚えました。しかし、先生は微かな声で言ったのです。



「在る、と言ったら?」



びくり、と顔を上げると、先生はただ怖い顔で私を見下ろしていました。


私は、自ら勢い込んで詰めたこの距離を、この時非常に悔いました。私は、経験上間違いなく逃げ出すはずだった先生に、あろう事か追いつめられていたのです。しかし、私は勇気を振り絞って先生を睨み返しました。



「でも…その様な行為は、好き合った者同士が、覚悟を決めて行うものだと聞いております。」



先生は険しいお顔を少しも崩さぬまま腕を組み、「ああ」と頷きました。私の眼はそのどこか威圧的な先生に、釘付けになりました。



「で、ですからそれを踏まえると……私とそうした行為を、とお考えになる事ということはつまり…つまり、先生は私を好いておられるという事でしょうか。」



話しながらも、私の身体は自然に先生へと近付いてゆきます。同時に、先生も組んだ腕をだらりと解きました。


今にも身体が触れ合う距離で先生を見上げると、先生は険しい顔で、私の唇をじっと見つめておりました。つられて、私も先生の唇から目が離せなくなりました。



「玉雪君は、どうなのだ……」



先生の顔がおもむろに、私のそれに近づけられます。荒い呼吸が同調し、目を瞑ったまさにその時。


けたたましく鳴り響いた呼び鈴の音に、目を見開きました。開いた目の先には先生のお顔がありましたが、先生は私の顔に走った一瞬の怯えを見逃しませんでした。次の瞬間、まるで何事もなかったかのように先生は身体を翻し、窓辺へと歩き去ったのです。



「…鏡だな。」




私たちの間には、何とも言えない沈黙が流れました。



かけるべき言葉が見つからぬまま口を開いた瞬間、ノックの音が響きます。同時に聞こえたおおい、という声は、先生の言う通り鏡様のものでした。



「何だ?」



すると驚いたことに、返事を返す先生のお声は全くもって通常通りで、そればかりか先程紅く染まっていた顔や耳までも、すっかり元通りになっているのです。…先生はやはり、こういう場面に慣れている。女性に慣れていらっしゃるのだ。私の心は強く打ちのめされました。



一転して鏡様は陽気なもので、失礼失礼、と言いながら足取り軽く入ってこられます。



「なに、ここだけ明りが点いていたから、止むを得ずやってきた次第さ。て…おいおい何事だ?」



半端なお引越しごっこのため、異様な内装と変わり果てた先生のお部屋に、流石の鏡様も一瞬面食らいましたが、すぐに鏡様の表情は輝きだしました。



「若しや仙、ここを出るのかッ!?」


「出て行くか、この大馬鹿者が。」


「な、なんだ?妙に噛み付くな…。」



鏡様は、先生をしばし物珍しそうに見ておられましたが、程無くして突然こちらに向き直ります。



「まて、玉雪嬢もいるではないかッ!偶然同じ部屋に居合わせるとは……おいおい、仙になにか、変な事されてはいないだろうね?」



私はギクリと先生を見ましたが、先生はサッと目を逸らします。瞬間、私の中に業と炎が燃え上がりました。私はその勢いに任せて言ってのけます。



「『なあんにも』されておりません。私はただメエドとして『労働して』いただけですわ。」



横目でちらと確認すると、先生の眉は間違いなく一瞬吊り上がりました。鏡様はフム…と頷かれましたが、少しく不審に思われているご様子ようです。ふいに先生の冷ややかな御声が響きます。



「用が無いなら、出て行けよ。」



私ははッと顔を上げました。先生は以前として、窓の外に目を遣っておいでです。それは…私に言ったのかしらん。私の胸はギュウ、と苦しくなりました。それと同時に鏡様は、さも愉快そうな笑い声をあげます。



「お前になぞ用は無しだが、玉雪嬢には用がある。ねえ玉雪嬢。」


「え?」



顔を上げた途端、大きな眼をランランと輝かせた鏡様は、長いお脚を目いっぱい動かし非常な大股で突進してくるのです。そのあまりの素早さは、あたかも瞬間移動したかの様でした。



「な、何です?」


「僕と市街へ外出しないか?洋装でも髪飾りでもラムプでも、何か君の欲しい物を献上させていただきたい。」


「はッ?」



あっけにとられる私に構わず、鏡様の眼は未だランランを失っておりません。



「な、なにゆえ…?」


「なにゆえってそりゃあ。」



ここで鏡様は不自然に息を深く吸い込みました。



「世にも可憐な令嬢と二人ッきりで、可憐な令嬢の望むまま可憐な品々を買いにゆくのだ。これほどまでに見眼麗しい午後が、他にあるのか仙之介ッ!」



鏡様は異様なる興奮をもってビシリと先生を指さしましたが、驚いたことに先生はその辺にあった本を立ち読みしておられます。



「仙ッ」「ちょっと先生ッ!あ…何でもありませんッ。」



なぜか鏡様と同時に叫んでしまいましたが、先生はこちらに見向きもしません。



「やれやれ、人がせっかく愛の素晴らしさを説いているというのに、飽くまで本が恋人か…ここで仕事もないみたいだし、行こうか玉雪嬢。」


「で、でも…。」



鏡様がやや強引に私の手をつかんだ瞬間、先生はぱたんと本を閉じました。



「嘆かわしい…何が愛だというのだろうか?」


「何か言ったか?本狂い。」



鏡様は刃物のような視線を先生に向けましたが、先生もさらに鋭い眼光で応じます。鏡様の眼光がよく磨かれたナイフであるならば、先生のはさながら

『新品の紙』といったところでしょうか。大方人畜無害ながら、切る時は切るという辺りが。



「ナニ…お前の言っている『愛』なるものに、少しばかり違和感を覚えたまでさ。お前のそれは単なる『自己満足の押し付け』だが…、もしや、それが愛とでも?」



鏡様はチッと舌打ちをし、明らかに剣呑な雰囲気に私は走り去りたくなりましたが、…否、鏡様からお誘いを受けた辺りからずっと走り去りたくはありましたが…私はついに思いとどまりました。


ここで去ったらあわや、文人同士の下手な殴り合いに発展しかねない。殴り合いに関しては、不慣れな者同士がやるものこそ危険を伴うため、適当なところで腕力のある者が仲裁に入らなくてはならないよ。幼いころより誰よりも腕っぷしが強かった私は、お父様から教わっていたのです。


ハラハラと見守るばかりの私を前に、鏡様ははずいと先生に近づいて、耳元でひっそりと言いました。



「つまり、僕に玉雪嬢を取られたくないのだな?」



大方私の耳に入らぬ様気を遣ったのでしょうが、悲しいかな地獄耳には嫌というほど聞こえてまいりました。不意に先生は、横目で鋭く私を見遣ります。どうせ聞こえているんだろ、というその意図に、私は思わずうつむきます。


先生は唸るように鏡様に食って掛かりました。



「お前に何が分かる。」



鏡様は大仰に両肩をすくめます。



「かび臭い頭の中など、みじんも興味がない。マ、兎に角彼女を我が物にしたいなら、精々努力したまえな…。」



そのまま悠然と歩きだした鏡様でしたが、先生はその腕をはっしと掴み、恐ろしい形相で睨みつけたのです。



「淑女を装飾品としか思えないくせに。」


「何だと?」



鏡様は即座にその手を振り払い、物凄い形相で先生に向き合います。しかし鏡様を見据える先生の眼も、怒りにたぎっておりました。先生は圧倒される事も無く、言葉を投げつけます。



「知ってるか?お前が侍らしてる淑女らも、『彼女ら自身』をお前に装飾させるべくして侍っているまでだ。つまり、お前もしょせん彼女らの格上げ道具に過ぎないのだ。いかにも惨めな共存関係だが、お互いそれで上手くいくなら愛だの恋だの勝手に名付け…」


「貴様ッ!」



鏡様がいよいよ先生に手をあげたので、私は走り寄りその手を掴みます。



「お止め下さい!」



鏡様は私の手を振り払おうと幾度か努力しましたが、圧倒的力量差の前にそれは叶いません。数回の努力のあと、ようやく私の力が『何かの間違い』でないことが分かった鏡様は、険しいお顔で手をおろしました。しかし、驚くべきことに、先生はまだ鏡様を睨み続けていたのです。



「誰でも好きな女と勝手に騒いで、狂っていればいい。だが彼女に手を出すのだけは、絶対に許さないぞ。」



先生は吐き捨てるように言うと、お部屋から出て行ってしまいました。残された私達の間には、重たい沈黙が横たわります。


「…」「…」



さんざん私を振り回しておきながら、どうしてあんな事。私は真っ赤になった頬を見られまいと、静かに俯きました。


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