第11話 月明かりの下の青年

時は過ぎ、お夕飯の時間と相成りまして…



「先生、今日のお夕飯はいかがでしょうね?玉雪特製渾身の…『コンガリ焼きお肉』ッ!」


「…。」


「えッ!まだ一口も食べてないからうまいかどうかなんて分からない?さらば召し上がる迄!ホラホラお肉、お肉ですのよ先生ッ!」


「……。」


「どうしても召し上がらないというのなら、私めが先に頂いてしまいます…ああぁ美味しい、嗚呼幸せ。あッもう私の分が無くなった!!先生の分も頂いて仕舞おうかしらん…チラリ。」



必死で誘う努力むなしく、先生は突如パアン!とお箸を置かれます。



「玉雪君。」


「は!はいぃッ!」



先生は非常に深刻な面持ちにて、我々の背後を往復する人影を指さしました。



「シラを切っているつもりなのだろうが…、先程から廊下の向こうで不愉快極まる光景が展開しているのだよ。」


「は、はいぃ…」


「…どういう事か説明してくれないかねッ!」


「ぴゃッ!シラを切って申し訳ございませんッ!」



先生の恫喝とも言える魂の咆哮に、私の身体は飛び上がりました。



「ご明察の通り、今日から鏡様もこちらで部屋をお借りする運びと相なりまして…、ただいま絶賛、お引越し中でいらっしゃいますッ。」



先生は自ら問うたくせに、ガックリと頭を垂れました。



「嘘だ…僕はこんな信じないこんな悪夢……信じたくない……」


「で、でも、お家賃確保は私にとっても急務でして…何より鏡様いわく、『ここにはほとんど来ないつもり』なのですって。それに、よ、良いじゃありませんこと?同業の方として何かこう、高め合えるものが…『少しは』あるかも……?」



先生のお顔は、同業の件を聞いた途端ゲッと思い切り不愉快そうになりました。案の定、先生には、鏡様となにかしら高め合う意思が皆無のようです。絶望のあまり表情を失っていた先生は、不意に俯き、ポツリと呟きました。



「君は…良いのか?」


「え?」


「君はここで、僕と、その……」



先生はさらに言葉を次ぎますが、廊下の向こうより響いた何かが割れる音でかき消されました。私は、廊下の向こうを少しばかり睨みつけました。



「先生、何と?」



しかし、先生は頭を振っただけでした。



「何でもない、君には関係無い……そもそも、大家としての君の決断に僕が口を差し挟む権利は無い。」



先生は独り言のように呟き、同時に椅子から立ち上がります。



「あ、まだ一口も召し上がっていないのに…」


「彼奴にでも遣ってくれたまえ。ああ勿論、もっと焦がして炭素にしてからなッ。」


「先生…」


言うが早いか先生は、フンッと踵を返して居間を去ってしまったのです。



先生が去った後を呆然と見つめていると、入れ替わるように鏡様が参ります。



「箒と塵取りはあるか?!ガラスを割ってしまった!」


「た、ただ今ッ。」



然して、鏡様の後に続いて向かった部屋…そう、数時間前まで伽藍堂だったその部屋は…これまで見た事もないほどの煌びやかな世界に変貌しておりました。



「…ここはどこッ!」


「どこって…君の館の、僕の部屋。」



黙々とガラスを片付け始める鏡様の横で、私はただただ、絢爛たる空間に圧倒されておりました。


見る者を夢幻へ誘うラムプシェード…フカフカと見るからに寝心地の好さそうなベッドに、これまたフワフワの、西洋風なお座布団。


あのお座布団ひとつで私の布団一式が楽に買えるであろうことは想像に難く有りませんが、…これはいささか、仮住まいには豪奢過ぎる気もいたします。



「こ、これが『華族』…。」



立ちくらみを覚える私の脇で、鏡様はきょとんと首をかしげます。



「本邸で使ってない物を、何となく運んできただけさ。そうだ!折角だから、なんでも好きな物を差し上げよう!ホラこのラムプなどどうだ?舶来物だよ。」


「え…そんなお高そうな…!」



口先では遠慮しながらも、鏡様がお手に取ったのが密かに羨んでいた美しいラムプでしたので、私の胸は高鳴りを禁じ得ません。幸いなことに、鏡様は遠慮するなと手を振りました。



「否否!このラムプだって、君の様な令嬢に愛でられたほうが幸福に決まってるさ。引っ越しの記念として、ぜひとも貰ってくれたまえ。」


「そ、それでは…」



内心ではあらん限りの快哉を叫びつつそっとラムプを手に取り、我が物となった喜びにうち震えつつウットリ眺めると…



「…鏡様?こちらに、『於兎丸様江 愛ヲ込メテ』とありますが。」


「え?あ、ああ…そう?」



ラムプシェードの内側には、人知れず、しかし確かに、恐らくどこかのご婦人から向けられた鏡様への愛が刻み込まれていたではありませんか。


冷め切った目で文字を指さす私を前に、鏡様はなお『いやあ贈り物だったか』など弁明がましく独り言ちておりますが、最早鏡様への悪印象は拭い去れません。



「ご婦人からの愛の贈り物を、こうもアッサリ他人にあげるなんて…」


「ま、待ちたまえ!誤解なのだよ玉雪嬢。これはそもそも、彼のご婦人が一方的に贈ってきた代物で…彼女と僕は深い仲にあったわけではないのだ!」


「…はぁ。」



謎の弁明を続ける鏡様に対して心無い返答をする私の様子に業を煮やしたのか何なのか、鏡様は突然パチンと指を鳴らしました。



「そうだッ!」


「な、何でしょう?」


「今ならなんと、それを僕に贈ったご婦人の愛ごと君に進呈するッ!…だから、だからむしろ、いやどうか是非ともそれを貰ってくれないかッ」


「厭です!呪いが降りかかるに決まってますッ!」


「頼むッ!今ならこの万年筆も付けるから!」


「す、素敵な万年筆…ん?こちらにもdear O.K. from R.Sとありますが…一体どういう意味かしらん」


「うん。それは、イニシアル表記で『佐野 凌子嬢より鏡 於兎丸へ』という意味さ」


「…これにて失礼致します。」


「しまったッ!君、待ちなさいッ」


「ぎゃあ!呪いがうつるから触らないで下さいましッ」


「失敬な人だな!貰わないと倍呪われるぞ!!」


「どうして私が呪われる前提となっているのですッ!」



この訳の分からない問答はしばし続きましたが、頑なに拒絶の意思を崩さない私に根負けしたのか、鏡様はついに「どうせ僕一人が呪われれば好いんだろッ!」と謎のお怒りをあらわにし、さらには「暫く帰らないよッ」と謎の念押しの上屋敷を去りました。


バタアン!と派手に閉まったドアーの前で、私はただ一人呆然と立ち尽くしておりました。



…私が一体、何をしたというの…。



兎も角!鏡様が出て行った事により、発明館にはひとときの静けさが帰ってきたのでございます。静謐万歳!発明館万歳!!


鏡様のものとなった豪奢なお部屋で一人、静謐の喜びに浸っていると、ふっと先生のお顔がよぎりました。


先生はあれからどうしていらっしゃるのかしらん…。お夕飯、結局一口も召し上がらなかったし。



どうにも先生の様子が気にかかる私は、先生のお部屋に向かう事にいたしました。



・・・



先生のお部屋からは一切の光が漏れず、中で明りは灯っていない様です。


どこかへお出掛けかしらん。でも、玄関には履き物があった…


私は不安とともに、ドアーをノックいたしました。



「先生、いらっしゃいますの?」


「………」


「お返事下さいまし!」



やや声を張り上げてみましたが、なおも音沙汰はございません。もしや、空腹で倒れているのではなかろうか。不穏な気配を察知し、私は思い切ってドアーを開け放ちました。



「失礼いたしますッ!」



ドアーを開けた先には、窓辺に腰掛けて平然とお酒を嗜んでいる先生のお姿がありました。妙に明るい月明かりが、上気した頬を照らしています。


滅多な事ではお酒を飲まないという先生が、ここまで紅くなるほど飲酒するお姿を、私は初めてお目に掛かりました。



「オヤ、玉雪君…何しに来たの。」



先生は酒器を傾けながら、涼やかな視線をこちらに向けます。頬の紅潮に反し、先生の眼差しはひどく落ち着いておりました。予想とかけ離れたお姿に、私はいくぶんか拍子抜けいたしました。



「何しにって…先生の事が心配で、様子を見に来たのです。お夕飯も召し上がらないままでしたし…」



しかし、なおも先生は落ち着き払います。



「ヘェ、僕が心配…。」


「え、ええ。」



黙って酒器を傾け続ける先生は、たしかに落ち着いていらっしゃいますが…いささか落ち着き過ぎていらっしゃいます。堪らずに私は問いました。



「もしや、あれからずっと…こうしていらしたのですか?」


「…ああ。」



先生はこともなげに頷くと、視線を再び窓の外へ移してしまいました。普段なら、こうした沈黙を嫌い、率先してお話しするのは先生の方なのに。死のような沈黙、そして普段と明らかに違う先生のご様子は、私をとても不安にさせました。


緊張で身動きがとれぬまま先生を見つめていると、ずっと外を眺めていた先生は、ふと思い出したように私を見返しました。



「…鏡は良いの?」


「鏡様?」



しかし、返事をする間もなく先生は視線を戻し、「ま、いいや」と呟きました。なぜだか私は、ひどく寂しい気持ちになりました。



先生が再び黙り込んでしまったので、我々はまた長い沈黙に包まれました。沈黙の長さに比例し、先生の酒瓶の中身は減ってゆきます。


ふいにどこからか金木犀の香りが漂い、私は得もいわれぬ良い心地になりました。先生が飲んでいるのは、金木犀のお酒なのでしょうか。


グラスは琥珀色の液体で満たされ、先生がそれを傾けるたび月明かりに煌めきます。愉しげに揺れる混成酒と、静かにそれを嗜む先生は、対照的でありながらも美しい調和をはかっておりました。


恥を忍んで申し上げますが、私はその美しい光景に、しばし見惚れていたのです。…否、もっと正確に表現すれば、そのとき私は先生の美しさこそに見惚れていたのです。豊かな表情の中に隠れがちですが、先生は、静かにしていればなお際立つ美しさをお持ちなのでした。



先生から、目が離せない…恐ろしいのに、なぜか。私の心臓は、早鐘を打ち始めます。胸の鼓動を気取られまいと、私は明るい声を出しました。



「鏡様なんて、本当に酷いお方で。」



ゆっくりとこちらに向けられた眼差しには、明らかに冷たい光が宿っていましたが、引くに引かれず私は続けます。



「お部屋にお伺いしたら、素敵なラムプを下さるって仰ったのですけど…何とそれは、ご婦人からの賜り物でしたのよ。頂いたことすら忘れていたようで…」



私は成る丈明るく、ウフフと笑いました。すると先生は、冷たい無表情のまま静かにグラスを置きました。



「ああ、そうだ。其奴は酷い……僕の言った通りだろ?」



先生は、いつもより幾分低いお声で呟くとおもむろに髪を上げ、ふん、と気怠く笑います。それはまるで、私をあざ笑っているようでした。



…これが、あの先生??



先生の初めて見せる表情に戸惑いを隠せず、私は身動きも、視線を逸らす事すらままなりません。


しかし、そんな心情までもを掌握したかのような先生は、むしろ私を試すように、「もっとこちらへお出でなさい」と言いました。途端に、磁石の様に先生に引き寄せられます。先程までは、身動きも取れなかったのに。



お酒を召したせいか、先生の額には少しの汗が浮かんでおりました。じっと見ていると、前髪の一束が、だらんと目の上に落ちました。構わず先生も、前髪の隙間からじっと私を見つめ返します。先生の美しい瞳の奥には鋭い光が宿っており、見つめれば見つめるほど、その光から目が離せなくなるのです。先生は、私に尋ねました。



「それで?その酷い男は、どこかへ行った?」


「はい…静かになって、良かったですわ…」



すると先生は、はッと乾いた声で笑い、「それは好い…君が好事と思うなら、万事須らく好事哉」と、漢詩のように呟きました。



窓辺に腰掛けたままの先生はおもむろに長い脚を組んで肘を付き、その手で頭を支えました。その拍子に先生のお着物は大きくはだけ、胸元が露わに成ります。先生はそれを意にも介しませんでしたが、ついそこに移動した私の視線は、先生の鎖骨の辺りに小さな黒子がある事に気付きました。濃紺のお着物と真っ白な肌、そしてその上の小さな黒子。私は、見てはいけないものを見てしまった気分になりました。


次の瞬間、怒りを露わにした先生の声が降ってきます。



「…何処を見てる?」



はッと目を上げると、先生は大層不機嫌そうでした。



「申し訳ありません…不躾でしたわ。」


「そうじゃない…そんな所じゃなく…」



云い終わるが早いか、先生は私の顎を掴み、強引に目を合わせます。燃え滾るような強い視線が確と私を捉えた瞬間、低い声でおっしゃいました。



「僕を見ろ。」



びくりと肩を震わせると、先生はしばし私の様子を観察します。そして、顎を掴んだまま、はあ…とわざとらしく大きな溜息を付きました。



「『名は体を現す』とは、斯くも如し。」



身動きが取れない私の耳元へ口を近づけると、甘く、優しく囁きました。



「玉雪君は、雪のように白く…玉のように美しい…」



途端私の全身に、ぞくんと何かが走りました。先生の呼吸と呼応するように、私の呼吸も荒くなります。またしても先生は、不意に呟きました。



「食ってしまいたいほどに…」



私は、はっと息をのみます。



「否…食ってしまおう。」



先生はゆっくりとその口を近付け、唇が触れ合う直前、あーんと大きく開きます。私は思わず眼をつむりました。


しかし、突然ふ、と顎から手が離れ、ドスンとこの上なく重い感触が肩にのし掛かります。


「ッ!」


驚いて眼を開けると、先生は私の肩に頭をもたせ、思い切り眠りこけておりました。



「スコー、スコォ…」


「え…ちょっとッ?」


「スコォー…」


「…精々よくお眠りに成ることねッ!」


私は思い切り先生を突き離すと、脱兎のごとく自室へ戻ったのでした。



・・・



「あれは、一体…。」


先生が見せつけた妖艶さ、普段からは信じられない言動、そして、今にも触れる距離まで迫った荒い呼吸。


感じたことのない感情と感覚に、私は完全になすすべもありませんでした。ただ、先生はこの私に、口付けしようとしたことのみが明らかなのでした。



どれだけ時間が経ったかと壁の時計を見遣ると、とうに日付は変わっておりました。



私は大きな溜息をつくと、畳んだままのお布団に倒れ込みます。混乱しておりましたが、なにより眠くて仕方がないのです。


嗚呼…、しかし、今晩は特に冷える。


布団の中で思い切り体を縮めた私は、ある事に気付きました。先生のお部屋の窓が、開けっぱなしのままかもしれない…。


私の肩で意識を失っていた先生を思い出すにつけ、先生があの後自力で窓を閉めたなど到底あり得ません。あのまま夜を明かせば、間違いなく先生は風邪を召すでしょう。しかし、散々人の感情をもてあそんでおきながら…風邪をひいても、自業自得ではないかしらん。私は布団の中で頭を振りました。


…それにしても、布団の中というのに、今日は本当に寒い。外では雪が降っているかも、明け方頃には積もるかも…「あーもうッ!」


遂に私は布団を脱ぎ捨てて、先生の部屋へ向かったのでした。



・・・



「窓だけ閉めて帰る、窓だけ閉めて帰る、窓だけ閉めて帰る……」


自分に言い聞かせるようにドアーノブに手をかけた瞬間、一瞬の疑念が頭をよぎります。



もしも先生が起きていて、先刻と変わらない態度だったら?



よくは分からないけれど、確実にこれまでと何かが変わってしまうような…『何か』がここで起こるでしょう。そして、先程の経験から分かっている通り、どういうわけか私は先刻のような状態になった先生を、一切拒絶できないのです。


それでも、もしまだ眠っているなら…先生のお身体は、私に比べて大層弱いのです。風邪だけでは済まないかもしれません。先生が起きていようがいまいが、窓だけは閉めて然るべきでしょう。ばくばくと跳ね上がる心臓を無視するように、私はえいやとドアーを開けました。


「失礼しますッ。」


同時に、この上ない冷気が私を迎え撃ち、私は一瞬で状況を把握しました。つまり先生は、私がお部屋を逃げ出してから何一つ変わらぬ姿勢のまま、こんこんと眠りこけておられたのです。


やはりと思う心と、どこかこれを残念がる気持ちが胸に広がりました。私はそれを振り払うように、先生の元へ走ります。案の定、開け放たれた窓からは白い雪が降り込んでおりました。



「あ、綺麗…ではなくて!」



先生の身体をやや乱暴に押しのけ、私は即座に窓を閉めました。すると、窓際に置かれていた先生のご本に、雪が降り積もっていることに気が付きました。

 


「嗚呼、大切なご本が…。」



私はそれをそっと手に取り、積もった雪を振り払います。同時に表紙に現れた題名を見た瞬間、ひゅっと息が止まりました。


それはまさに、読む事を厳禁されているところの先生が著作、『二物』だったのです。私の胸は俄かにざわめきたちました。



…読んでしまおうか。



私は眠る先生に目を遣ります。



「本当に、本当に眠っていらっしゃいますね?」


「すぅ…」



嗚呼、どれもこれも先生が悪いのだ。どういった理由かはうまく言えないけれど、兎に角私は悪くない。人の気も知らず、すやすやと眠る先生のせいにして、私は罪悪感を打ち消そうとしました。それに、ほんの少しなら…私は月明かりの下、ついに禁じられた本を開くことにしたのです。



・・・



物語は、主人公の書生が仲間と共に、お座敷遊びに興じる所から始まります。


彼はそこで、新人芸者の失態でいきなりお酒をぶちまけられたにも関わらず、彼女に恋心を抱くのです。それ以降、彼の恋心が時に切なく時に激しく、彼本人により切々と語られていく…。『二物』はそんなお話のようでありました。



…正直なところ、文学の「ぶ」の字も判ぜぬ私めは、その崇高な文学性如何よりなにより、文中のお座敷遊びが妙に現実的であることが気になってなりません。


先生が文面にしたためた芸者と書生のやり取りは、いかにもその場を知り尽くした者の筆遣いに思われます。



否、そもそも先生は、作家である前に一人の成人男子なのです。それも、先生は控え目に申し上げ、大層美しい青年なのでした。思慮深い瞳と、凛とした眉。真っ白な素肌に、漆黒の髪。身なりと重度の内弁慶さえ正せば、鏡様にも引けを取らない色男となり得るでしょう…もっとも、内弁慶を正すのだけは実現不可能でありましょうが。



とにかく、この文章を読むにつけ、先生には色事の経験がきっとおありになる。私の胸は、ズウンと重く沈みました。私は静かに考えをめぐらします。




賑やかな宴会の最中、静かにお酒を嗜みつつ、隣の芸者さんを機知に富む表現で揶揄う先生…


宴会の喧騒を倦み、勝手に帰ろうとした先生を呼び止める芸者さんを、皮肉っぽい笑みでサラリと躱し颯爽と帰宅する先生…


物憂げに黙り込む横顔のみで芸者さんを虜にしつつも、頭の中は取り込み忘れた洗濯物で一杯の先生…




想像力不足のゆえ、徐々にやや普段寄りの先生になり口惜しい限りですが…どれも一様に、世の婦人方の目にとってもさぞや魅力的に映るでしょう。


私はふと考えます。


…先生は、芸者さんのみならず意中の女性に対しても、ああ艶っぽくなるのかしらん…否、そうでないと困る。なぜって、誰かれともなくあのような顔を見せつけられてしまっては、誰しも先生に恋をして仕舞う…嗚呼それだけは、絶対に嫌…



「ぜ、『絶対に嫌』!?」



思わず声を上げた私は即座に両頬を叩きました。



「確り、確りするのよ玉雪!」



そう、確りしなければ。これではまるで、私が先生の事を、愛しているようではないか……


カアと頬に血が上ったと同時に、最も恐れていた事態が起きました。完全に存在を忘れていましたが、ずっと隣で眠っていた先生が、ムックリと起き上がるではありませんか。


「お、起きたッ!!」


しかし、起き上がった先生は、焦点の合わない目で虚無を見つめるばかりでしたが、唐突に大きなくしゃみをなさいます。



「ぐしゅッ!…寒ッ!」「ひぃっ!」



嗚呼…完全に覚醒してしまった。案の定、『二物』はしっかりこの手の中。今更言い逃れはできまいと、私は観念いたしました。



「せ、先生…これには少しその…訳が。」


「ム?」



先生は思い切り眉間に皺を寄せ、暫し私を穴が開くほどお見つめでしたが、

ゆっくりと口を開きました。



「誰だ君はぁ…。」


「…え?」


「あ、それ僕の本じゃないかぁ…」


「は、はあ…。」



先生はさも自慢げに「くふふふふ」と笑います。どうやら先生は、かなり強めに寝ぼけているらしい。



「貸して御覧、呼んであげよう。」


「あ。」



私から取り上げた著作を開き、さも嬉しそうにペエジを繰る先生は、ピタリと手を止めました。



「ここはねぇ、僕が一番に気に入っているのだよ……。」


「…?」



先生の声が力強さを増し、私は引き込まれていきました。



「『君さへ居て呉れるなら…他には何も…要らないのだ……』」



先生はチラリと視線をこちらに向けます。私はなぜか、酷く恥ずかしくなりました。



「『才能も富も賞賛も…君の前では何者にも成り得ない……』」



先生はまだどこか焦点の合わない瞳でフワリと微笑みます。



「『…だから如何かこれからも…僕を愛してくれないか。』」


「…ッ。」



私の反応を伺っている先生の瞳に、ふいに強い力が宿ります。もしやこの方は、本当は寝ぼけてなどいないのではないか…そう思った次の瞬間、ふがっ!と世にも間抜けな音が発せられます。


「?」


先生は突如として、ゴンと音を立てながら額を机に打ちつけ、そのまま余りにも無様な姿で、眠りの深淵へと堕落したのです。


…文机にへばり付きよだれを垂らすこの殿方に、一度ならず二度までも恍惚とした我が身を、一体どうしろというのか。


「…すぴー…すぴー」


いっそ思い切り、この方の頬を打ってみてはいかがか…暴力的な誘惑に身を任せそうになった途端、突然先生の手からご本が滑り落ちました。


「危ない!」


とっさに『二物』を手にした瞬間、もう一度悪魔が囁きます。



…こうなったら、もう最後まで読ませていただきます。



実は先生の朗読を聞いて以来、この作品への関心が非常に高まっていたのもまた事実です。



「『他には何も要らないのだよ』…。」



私は御本を軽く撫でるとそっと懐に忍ばせ、そそくさと部屋を後にしたのでした。

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