第10話 『面倒で厭』な男
・・・
次の日の朝。
台所へ向かう途中、廊下の奥から先生が現れました。
「お早う、玉雪君。」
「あ…お、お早うございます。」
「はは、何やら大人しいね、君らしくも無い。」
先生は能天気に笑いながら、笑ったついでに欠伸をしながら莞爾としましたが、昨日の物思い以降、私は先生に対して、感じた事のない緊張を覚えておりました。動揺する気持ちをこらえつつ、私はどうにかいつも通りの声を出します。
「先生の方こそ、今日はお早いですのね…よく眠れなかったのでは無いですか?」
「否、その逆さ。確り眠ったせいか、気持ちよく目覚められたのだよ。」
「それは好かった。」
ああ、と先生は頷きましたが、私がその後黙り込んだので、私達の間には少しばかりの沈黙が訪れました。
「…朝食の支度に参りますので。」
沈黙に耐えかね、そそくさと先生の脇をすり抜けようとしましたが、すれ違いざまにあ、と声をかけられます。
「どうかなさって?」
「その。昨日、粥を有難う。」
「ああ…」
何も知らない先生は、屈託なく微笑みました。
「美味かったよ、とても。君は料理が巧いね。」
「あ、有難う…御座います。」
私は笑みもぎこちなく、逃げるようにそこを去りました。置手紙に話が及ぶのを心のどこかで恐れたのです。いつもであれば、「粥を料理と呼ぶのは先生くらいだ」などと軽口を叩くのに。
・・・
然して悲しいことに、いくら先生を避けようとも、私は先生付きのメエドでありました。朝食の後、アッサリとお茶を所望されてしまった私は、おめおめと自ら先生のお部屋へ参じることと相成ったのです。
「玉雪君、君の分もあるのだし、少しばかり僕と話さないか?」
「うっ…。」
断る用事もないのが判り切っていることからも、先生を避けようにも避けられないのは宿命であったか……。かつ、先生は何故だか朝からご機嫌で、何かにつけて私に構おうとするのです。
「…では、少しばかり。」
「うん、まあ大した話をする訳じゃアない。そう固くならないでくれたまえ。」
ははッと笑う先生は、私の笑みのぎこちなさなど全く気付かないようです。私の気分は少しムッとなりました。
「…昨日、萬造寺もとい鏡の話をしかけたが、まだ半ばだったね。」
「はい。学生時代からの腐れ縁…とだけ伺ったところで、うやむやに…。でも、先生のお気が向かないのなら、お聞かせいただかなくともよろしいのですよ。」
鏡様について話す先生の、光を失った瞳を思い起こし、私は少し不安になりました。しかし先生は、やや険しい表情で首を振ったのです。
「否……むしろあの男には子細な注意が必要だから、是非とも君には情報を掴んでおいて貰いたい…。昨日早速、眼を付けられてしまった様だし。」
「…確かに、あの時のランランと輝く眼…。僭越ながら不穏なものを感じましたわ…。」
授賞式会場にて偶然遭遇した鏡様の、私に対する尋常でない好奇の視線を思い起こすと、ぶるりと悪寒がいたします。そんな私の心中を察した先生はああ、と頷きました。
「…あの男と僕は、学生時代からの付き合いなのだ。」
「はい…『何かにつけて面倒で、思い出すのも厭』とも伺っておりますわ。」
ついでに付け足すと、先生は待ってましたとばかりに膝を打ちました。
「さっすが玉雪君、大切な所を確と押さえられているじゃあないかッ!そうだ、正しくそうなのだ!鏡は大層『面倒で厭』!何があっても、その事だけは覚えておくのだよッ」
「は…はいッ!」
…先生がお褒めになって下すったッ!思いがけない賛辞への喜びも相まって、まだ会話らしい会話も交わさないうちから私は『面倒で厭な鏡様』という文言を、深く胸に刻み込みました。
「然してその、不快極まる鏡だ。彼奴はこれまた鼻持ちならぬ事に、華族の出なのである。」
「華族様…。大層裕福な生活をなさっているのかしらん。」
「ああ。幼い時分より、甘やかしの限りを尽くされてきたろう成れの果てたる、あの性格ッ!」
先生は講談師よろしく、目の前の机をピシャンと打ちました。
「僕は幾度となく、彼奴から謂れのない屈辱を受け続けてきたのだよ…。」
「マア何て事…」
「そもそも華族が何だというのだ…全く以て怪しからん。華族なぞと云うものは、そもそもだ……」
お話が、長い寄り道へ差し掛かる予感がいたします。私は慌ててその軌道を修正させて頂くこととしました。
「先生、悔しいお気持ちは判りますが、少々矛先を見誤っておられます。」
「失敬…話を戻そう。鏡。鏡だったな。彼奴は…そうだな…」
「ええ。」
一体、二人のどのようなエピソオドが…。あわよくば、学生時代の先生について何か聞けるかもと身を乗り出す私を前に、先生は至極アッサリと言い放ちました。
「彼奴に関しては『面倒で厭』。これしかないから、もう語ることは無い。」
「えッ…そ、そんな、余りに悲しすぎますわ!これ程までに単純な悪口で語り尽くされるべき人間なぞ、この世に存在……」「するのだよ玉雪君…。」「ま、真逆…。」
私は先生の瞳に宿る真剣な光を見て、ゴクリと唾を吞みこみました。しかしこれは余りにも、主観的にすぎるように思われます。仮に鏡様が『面倒で厭』のみであるにしろ、そこには何か理由の一つも欲しいもの。鏡様について知るべく、私はどうにかして質問を思いつきました。
「そ、そういえば鏡様も先生とご同業でしたわね。鏡様の書かれるのは、どういったお話ですの?」
「…鏡の小説ゥ~?」
先生は、この上なく眉を吊り上げました。
「あの鏡様ですから、さぞや華やかなお話で!?」
「否否、違うとも。彼奴の書くのは、一貫して純然たる社会派小説というやつだ。」
「しゃかいはぁ?」
「ああ。労働者の苦悩とかイデオロギヰの対立とか世間に蔓延る悪とか云々かんぬん」
「先生、あの…」
「君の云いたい事は判っているよ玉雪君……つまり鏡は、幸福とか愛とか友情とかの極端に位置するものをボソボソ書いては、今日も2番を取っているという訳サ!!」
「先生、今さり気なくご自身を持ち上げましたわね」
「そうかい?全く気付かなかったが。兎に角、鏡 於兎丸もとい萬造寺 吏鏡とは、そういう男!よーーーく覚えておくのだよ。何かの役には立つだろうから…主に護身とかの分野でね。」
「はいッ!」
私が力強く頷くと同時に、玄関のベルがカラコロと鳴り響きました。
「来客だと?覚えは無いが…。」
「出て参りますわ!」
お客様なんて、何時ぶりかしらん…
もしかして、いつぞや四ツ目眼鏡の『水晶のみ』をお求めになった非常識紳士かしらん。やはり、まだお父様のレンズに未練が…!?
高鳴る胸を抑えてドアーを開けると、そこには…
「か…鏡様ッ!」
「ご機嫌よう。さて、ここには仙……もとい、『黄堂先生』がお住まいと伺っているが?」
「は、はぁ…なぜそれをご存じで!?」
「それは好かった。」
私の問いをサラリと躱しつつ流麗な笑みを浮かべるばかりの鏡様ですが、つい先程より鏡様についての惨憺たるご説明を伺ったばかりゆえ…微笑みの中にいささかでも胡散臭さを見出さんとする己の心根が、少々恥ずかしく感じられます。私は先生付きメエドとして、負けじと鏡様を見据えました。
「先生にご用がありまして?」
「ああ。無論、中だろう?あの内向気質だから。」
「えぇぇと…只今確認して参りますゆえ……少しばかり、お待ち下さいまし!」
あれほどまでに忌み嫌う鏡様の来訪を、先生が快く思うはずがありません。ここはひとつ、先生の心身の健康のため死力を尽くせねばならない。やる気に満ちた私は、先生が待つ居間へと音速で駆け抜けました。
しかし、ドアーを開いた矢先、すでに先生が物凄い陰気を放ちつつ私の眼前に迫っておりました。
「ヒィッ!せんせ「居ないのだ……玉雪君。」
「え?「ここには日野仙之介など、存在しないよ玉雪君……。」
この上なく悩ましげに眉をひそめながら、先生は違う違うと何かに言い聞かせるように、ゆっくり頭を振りました。
「この屋敷中どこを探しても、私に会うことは絶対不可能……何故なら、ここに私は『存在しない』……『理解した』かね?」
成程どうやら先生は、暗に私に『居留守』を強要しているようです。先生の邪気に恐れをなした私は、一も二もなく頷きました。先生は軽く頷き返すと、さらに言葉を続けます。
「そして、いいかね玉雪君。ここが最も重要なのだが…、奴に変な気を起こされないようでき得る限り『不躾に』言放つのだ。あたかも、そうだな…家畜に対するが如く。」
「家畜!」
「そうだ。分かったね?というか、もういっそ今この瞬間から彼奴の事は豚か牛かタコか何かだと思いなさい。さあ!怪しまれないうちにタコの元に戻るのだ!早くッ!!」
「はッ!」
先生の気迫に背を押され、勢いよく振り返った私でしたが…嗚呼。そこにはすでに、腕組みをした鏡様が悠然と立ち塞がっておりました。
「きゃあああ家畜!…あ。」
バチンと口を押さえた私を見て、鏡様はあッはッはと笑い出します。恐る恐る先生を振り返ると、先生は静かに頭を抱えてうずくまりました。
「何やら愉しそうに話していたから、つい入ってしまって申し訳無いが…それにしても僕を『家畜』とは。」
「も、申し訳ございません…ッ」
ペコペコと頭を下げる私の後ろで、ぬらりと先生が立ち上がる気配がいたします。
「何しに来たァ………鏡…」
案の定、先生は得体の知れない陰気を全身から垂れ流しておりました。
「そう怖い顔をするな、仙。勝手に上がり込んだ罪は、玉雪嬢の『家畜』呼ばわりで相殺してくれれば良いから。」
「何が相殺だァ……他人の居宅へ許可なく上がり込む大罪が『家畜』なんぞで相殺される筈なかろうが……そもそもマナアも守れんお前は家畜以下…ここから速やかに立ち去ればどうにか屠殺は見逃してくれるわァ………帰れェ………」
地獄の亡者の呻き声、あるいは黒魔術師の呪詛にしか聞こえない先生の発言にも、鏡様は平然と笑い返します。
「否否。実は僕はね、お前なんかに会いに来た訳じゃアない。他でもない玉雪嬢!君に会いに来たのだから…仙の命令など聞かないよ。」
鏡様ははちきれんばかりの笑顔を私に向けました。其の眩しさに、私は思わず二,三歩後ずさります。鏡様はそのままつかつかと私に距離を詰めました。
「申し遅れたが、僕は鏡 於兎丸という。仙とは古くからの仲でね…そんなことより、玉雪嬢。君は仙之介のメエドなのだろう?」
「え、ええ…。」
「おい待て何を馴れ馴れしく話しかけてる。本当に警官を呼ぶぞ!!」
「今日はお近づきの印として、麗しきメエドの玉雪嬢に贈り物があるのだ…見たまえ、これが正式なメエドの制服だッ!」
鏡様は、ご持参の大きな鞄から、サッと何かを取り出します。モサリと我々の眼前に広がった、それはなんと…
井形玉雪 齢十六。内心この上なく憧れていた所の……
洋装ではありませんかッ!
「こ、これはッ!いわゆるドッドド、ドレスにございますか!!」
「ああそうさ。しかも、ただのドレスでは無い!本場の英国メエドのみが着用している、由緒正しき制服なのだ!中々手に入れるのに苦心したのだが、昨日初めて会った君の美しさが忘れられなくてね。さあ!今すぐ着て御覧!」
「こッ、この野郎……、初対面の玉雪君に妙な気を起こした上、勝手に衣装まで用意して押しかけるとは…!そもそもどうしてここが分かった!?」
「出版社で君の担当に聞いたら一発だったよ。彼、口が軽くて使えるね」
「誰にも…とりわけ此奴には言うなと言ったのに、あぁんの下衆ゥッ!」
「先生、机を蹴らないで下さいましッ」
殺気極まる先生の横で、恥ずかしながら私は興奮の頂点に立っておりました。密かな憧れをもって見つめていたドレスなる布の塊が、今この手元に…
「よ、洋装なんてそんな、嗚呼ぁどうしましょう……」
うっとり溜息をもらした私の手を、先生は急にハッシと掴みます。
「待て。そんないかがわしい物、絶対着てはなるまいよ玉雪君。何が仕込まれているか分からないのだ!!一度分解して中を確認するから、早く僕に寄越しなさい。」
「仙!口を挟むのをやめたらどうかね!これはね、僕と玉雪嬢のやり取りなのだ。いくら主人とはいえ野暮な真似に過ぎ……あれ?玉雪嬢が居ないぞ。」
「……人生初めて身に着けたので、勝手が判らずやや手間取ってしまいましたが……これで宜しいかしらんッ」
「「も…もう着ているッ!」」
先生方の歓談中でありながら、興奮で居てもたってもいられなくなった不肖・玉雪…気付かれぬ間に自室へ向かい、どうにか自力で身に着けた末、爆速で居間へと復帰しておりました。
しかし、意気揚々とする私を見、なぜかお二方は口を閉ざされます。
「…」「…」
「あの…な、何か言って下さいまし。」
「…可憐だ。」
先生がぼんやりと何事か呟いた瞬間、鏡様は突然大きな手を打ち始めました。
「イヤア、素晴らしい!何て好く似合うのだッ!」
「え…似合うッ?」
まさか、ああよもや洋装が…私に似合うですって。感動で息をのむ私に、鏡様はウンと力強く頷きます。
「ああ!この上なく似合っているよ玉雪嬢。漆黒の布地が地肌の白さを引き立てて…かつ純白たるフリルが其の控えめさを以てして可憐さを増強し、逆説的に得も云われエロスを搔き立てr「玉雪君今すぐその男から離れるのだッ」
「せ、先生落ち着いて下さいまし…何も、そこまで躍起に成らなくとも良いではありませんかッ!」
私は思わず大きな声を上げましたが、その本心は、私の洋装がどこか不満げに見える先生の反応に、少なからず落胆を覚えていたのでございました。
「…済まない。」
「マアマア好いじゃないか。仙は昔から少々奥手なのだよ、単に君が愛らしいから照れているだけなのだ。」
「余計な事を言うな!!「それよりも。」
サラリと先生の脇をすり抜けた鏡様は、至極スマアトに私の背後へ立たれます。
「か、鏡様?」
「髪を下ろした方が、きっと良くなる…失礼。」
「はぁぁ?」
不意に鏡様の声が耳元に近付いたと思うと、髪を束ねていた紐が解かれる心地が致します。自然、私の量の多い髪は、バサリと肩へ下りました。目の前の先生がはっと息を飲み、ばつが悪そうに目をそらします。先生の耳は、なぜか真っ赤でございます。
「やはりこの長い巻き髪…。本当に美しい。」
「う、美しいだなんて…ご冗談を!」
「冗談?まさか…。僕は婦人に嘘は吐かないよ。とりわけ、君の様な美しい人にはね。」
「とりわけ?婦人である事に変わり無ければ、とりわけなんて可笑しいですわ!」
「君は、中々面白い事を言うな…」
ドレスを着せていただいている上、散々に賞賛して頂けるのは有難い限りなのですが……先程から若干、お顔が近い気がいたします。
こそばゆさに身を竦めるのですが、鏡様はなおもその距離を変えようとなさいません。それに、先程から耳元に響くお声が、いささか妖艶かつ過激…である気もし、私はおかしな緊張に冷や汗をかいておりました。
しかし、そんな動揺を知ってか知らずか、鏡様は「オヤ、リボンが解けてる」と、私の腰元へと手を伸ばされるではありませんか。
「ひゃアくすぐッたいッ!」
「嗚呼、動かないで。」
くすぐったさにケラケラと笑い始めた私と、なぜか愉快そうな鏡様…最早私は今何をして居るのか。今は一体、何の時間なのか。全くもって分からなくなってきた頃、叩きつけるようにドアーが閉まりました。
「あー、仙が出て行って仕舞ったね。」
「えッ!先生!!」
この状態で置いてけぼりとは、余りにも救いがありません。無慈悲極まる先生を追わんとしますが、ぐいと引き戻されてしまいます。
「待って。リボンがまだ結べて居ない…それに、仙なぞ後でいくらでも構えるだろう?折角僕が持ってきた衣装なのだから、もう少し見せてくれないか…」
「で、でも…」
な、何だかこれは。余りにも。
「…もっと此方だ」
「不健全に御座います!!!」
…しまった…。またしても私は、鏡様に対して本音を絶叫しておりました。
「も、申し訳ありまッ…。」
即座に謝りかける私を、鏡様は少しの間目を丸くして見つめておられましたが、すぐにはッはと笑い出しました。
「玉雪嬢、僕は君がとても気に入ってしまったよ。」
「え…?」
良かった怒られない…けれど、な、なぜかむしろ不穏な。
「『不健全』な振舞い、どうかお許し願いたい。君があまりにも魅力的で、つい手癖の悪さが出てしまった。」
「み、魅力的ですって…」
「ああ。仙が出てったのも十中八九、君に見惚れるマヌケ顔を見られたくなかったんだろう。ま、仙之介なぞどうでも好いが…。」
そう言うと、鏡様は改まった咳払いをなさいます。
「時に玉雪嬢。この洋館に空室は有るか、知っているかね?」
「は…?」
「仙はここへ部屋を借りているのだろう?」
「エエ、まあ、そうですが。」
「だったら僕にも一室貸して頂きたいと、大家に伝えに行かなくては。」
「えええッ!?」
突然何を言いだすかと思えば…。明らかに、先生が聞いたら卒倒事案でございますが、…家賃収入なぞ、いくらあっても足りないのもまた事実。私の心は密かに揺れました。
「で、でも…先生に訊いてみなくては。」
「仙?どうして仙之介の意見が必要なのだ?…まさかここは、仙の屋敷なのか?!」
「イエ、私の屋敷にございます。」
「そうか君の…え!?ということは…君がここの大家なのか?」
「ハイ、そうにございます。」
「つまり君は、仙のメエドであり大家…??」
「そうにございます。」
あくまで平然と言いのける私に、鏡様はやや驚きを隠せないようでしたが、とりあえず部屋を借りるほうが先と判断したのかシャンと背筋を伸ばしました。
「マア君が大家なら、話が早い。心配ないよ、仙ともうまくやるし…そもそも下宿人に大家の決定を覆す権利はないし。」
「で、でもそれ以上に、先生は私の…」
「…君の?」
『家族のようなものだから』と言いかけた私は、ふいに口をつぐみました。このところ、よく考えていたことを思い出したのです。
先生の私に対する優しさは、単なる哀れみからくるものなのではないか―。
そうであるならば、こちらが一方的に家族のように振舞うことは、先生にとって迷惑なのではなかろうか……。
「せ、先生は私の…」
「『想い人』?」
「ち、違いますッ!」
弾かれた様に声を上げる私を、鏡様はどこか神妙な面持ちで見ています。
「ならば、都合が良い事この上ない…『僕にとっては』、ね。」
鏡様は意味ありげな笑みを浮かべ、フフンと私を見下ろしました。
「ま、ここに部屋を借りたとて、今の所そんなに使う予定もないのだが…。」
「え?そうなのですか?」
てっきり、鏡様も先生よろしく居を構えると思っていた私の胸に、不謹慎ながら歓喜の感情が流れ込みました。鏡様がお厭…というよりは、鏡様と先生の組み合わせが…という意味で。
「では、鏡様はどこへ住まわれるのですか?」
「んんにゃ、これまで通りというか、『住まわない』というか…そもそも僕は、一日を色々な人の部屋で過ごす事にしているのだ。とにかく、僕は仙より手がかからない優良な下宿人だから、ぜひとも安心したまえ!」
「…はぁぁ?」
理解が追い付かず間の抜けた顔をする私に、鏡様は「君にはまだ早い」とだけ言いました。
「まっ、とりあえず、異論がなければ話を進めさせていただこうか。今日から宜しく頼むよ、玉雪嬢。」
「そ、そんなッ!」
こうしてうやむやのうちに…否、『家賃収入』という単語を脳裏から振り払えない間でほだされるように、鏡様を本日付で下宿人とする事と相成ってしまったのでした。
諸書類の準備やらお部屋の算段やら…と忙しくする最中でしたが、私の頭の片隅ではずっと、
『先生は君の『想い人』?』
という鏡様の言葉が、何度も何度も反芻されるのでした。
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