第9話 お傍に置いて
「先生ってば、ちょっとお待ちくださいな…せ、先生!」
一向に歩みを止めない先生の背を追いながらも、私の胸は極度の困惑で覆われておりました。
まさか、今この私は…身体能力で先生に引けを取っている…?こ、この玉雪めが??
これまで脚力・腕力・視力聴力その他あらゆる能力において先生を凌駕してきたこの私、井形玉雪が……??
生まれて初めての屈辱に唇を噛み締めつつ先生を追いかけていると、いつしか眼前には愛しき発明館の玄関がありました。先生が物凄い勢いでドアーを開くと同時に、バタアンという派手な音が響き渡ります。こともあろうに先生は、突如上がり框(かまち)に倒れ伏したのです。
「せ、先生!!」
「゛……っ」
即座に近寄り抱き起こしてみれば、先生のお顔は蝋人形よろしく真っ白です。私は、脊髄反射的に先生の頬を打ちました。
「お、お気を確かにッ!」パアン、と力強い響きが大気を震わせます。
「あ痛ッ。」
先生が何か呟きましたが、まだまだ反応は芳しくありません。私は平手に一層の力を込める事に致しましたが、これらは全て先生の為なのです。こういう場合は、力ある者こそがその力を存分に発揮し、意識を呼び起こさなければならないのですから。この平手で先生が救えるのなら、右手一枚失ったとて痛くはないのです。
俄然気合いの籠った私の手は、幾度と無く先生の頬を打ちました。
「先生ッ!先生先生ッ!」
「い、痛…痛い!!いた…痛いと言ってるじゃあないかやめたまえ君ッ!!」
先生は死に物狂いで起き上がると、真っ赤なお顔を思い切り顰められました。全力の平手を受け続けたせいか、あるいは激しい怒りのせいか、兎に角血の気は戻っています。
「も、申し訳ございません…まだ意識が戻らぬものかと。」
「君ねぇ……」
先生は、大きな溜め息とともに、両手で頭を抱えます。…怒られる。反射的に身を固くする私を見ると、先生は怒るでもなく、ふぅと優しく息を吐いたのでした。
「兎に角…何でもすぐに暴力に訴えかけるのは止めたまえ。心配してくれるのはありがたいんだが…何かと力が強いのだよ、君は。」
「え…」
先生は私の困惑を知ってか知らずか、眼に涙をたくさん溜めて、頬っぺを擦られておいでです。イテテ、と呟くその仔鹿めいたお姿に、私の胸は強く締め付けられます。この御仁はなんてか弱く、いたいけなのか。
傷つき悲しむ先生を前に、私は静かに誓いました。力の強い者こそ、己が強さをわきまえなければならない…。
意図せず痛めつけた頬を撫でるべく、私の手は自然と伸びておりました。
「悪気はなかったのです。お許しくださいましね…」
「ん…?」
然して、この手が熱い頬に触れると、先生はヒュッと息を呑んで払い除けます。驚いて先生を見遣ると、なぜだか先生のほうが驚いた顔をします。
「き、気にするな…少し、傷んだだけだ。」
「はい…。」
私はぎこちなく微笑みましたが、冷たく振り払われた手の感触は、生々しく残ったままでした。
先生は私から目を逸らしたまま立ち上がると、ついと居間へと向かわれます。
「早く中に入ろう。」
「え、…ええ。」
なんだか…先生に触れるたび、いつも怒られる。
私は困惑と悲しみを抑えながらも、先生に続くべく立ち上がるのでした。
・・・
居間に入った先生は、難しい顔でソファへ身を投げ、そのままううんと伸びをなさいました。
「お水でもお持ちしましょうか?」
先生はいやいや、と手を振ります。
「どうか気にしないでくれたまえ、いつものことだからね。」
「いつものこと??」
先生は、やや血の気の引いた顔で、こともなげに頷きました。
「ああ。屋敷から一歩でも外へ出た日は、いつも決まってこうなるのだよ。無意識に気が張っているのだろうかね……その反動かで、帰って来ると無茶苦茶に疲れているのだ。」
先生はグシャリと髪を上げ、ふうと溜息をつきました。
「重度の内弁慶ということね…」
「何か言ったかい?」
「イエ」
不自然に口をつぐんだ私を眺めつつ、先生はまたお話を始めました。
「堂々と見えたかも知れんが、内心必死で吐き気と震えを堪えていたのだよ。中々上手い事隠せていただろう?」
先生は何処か得意そうです。
「何だかそれは...あまり自慢にならないような……イエ、何でもありません。エェエェ、それはもう、堂々としておられましたわ。むしろ、萬造寺様の悪口…もとい『ご箴言』をなさる先生は、この上なく愉悦そうでしたわ!内心恐れ慄いていらしたなんて、微塵も感じさせぬ…」
そこまで言いかけると、先生は軽く咳払いをしました。
「…玉雪君。誤解して欲しくないのだが、僕が恐れているのは萬造寺ではなく、『萬造寺を除く屋敷の外すべて』なのだよ。彼奴など微塵も恐ろしくない上、むしろ萬造寺への『箴言』は大好きなのだ。」
「なるほど…。」
「うむ。兎に角、萬造寺だけには震える足なぞ見られる訳にはいかなかったから、いつもより気が疲れたのかも…」
「な、なるほど……。」
先生の『武勇伝』を全力で肯定しかねる私は、中途半端に首をかしげることしかできません。それにしても、如何やら先生は萬造寺様と、何か因縁がお有りの様です。ここはひとつメエドとして、把握しておくべきでなかろうか。そう決心した私は、少しく先生に身を乗り出しました。
「ところで先生は、萬造寺様とどの様なお繋がりが?」
私が問うと、瞬時に先生の眼から光が消えました。
「萬造寺か…。萬造寺 吏鏡…。」
「まんぞうじ、りきょう。先生で云うところの『黄堂 水仙』…つまり、ものを書く時の仮のお名前でいらっしゃいますのね?」
ああ、と先生は頷きます。「本名は鏡 於兎丸だがね。」
「お、おとまる?」
「ああ。かがみ、な。萬造寺の本名は、かがみ、おとまるだ。彼奴のことは鏡で良いからね。『様』とかも要らんよ。」
先生は、ご自身の安全な生活の為に本名を隠し通していると仰っていたような。とするともしや、萬造寺様も、そうやすやすと本名を明かされるのは不本意なのでは……。一方的な本名公開からの『様』不要までの迅速さに、私の脳は混乱いたしました。
…これほどまでにアッサリと実名を打ち明けてしまうということは、裏を返せば、萬造寺様とは、肝胆相照らす仲であるという事なのかしらん。それにしては、先生の憎悪の念があからさまに過ぎるような気もいたしますが…。
「と、兎に角、長い付き合いでいらっしゃるのね。」
「…学生時代からの腐れ縁さ。成人した今でさえ、何かにつけてちょっかいを出してくる…面倒な男だ。」
先生は一旦口を閉ざし、独り言のようにつぶやきました。
「…厭な男だよ…思い出すのもな。」
先生はそのまま、虚ろな目で物思いに耽り始めます。
…いけない、此の侭では先生の吐き気が再発して仕舞う。直感的に先生の危機を察した私は、即座に会話を打ち切ることにしました。
「先生。私は部屋へ戻りますので、どうぞこちらでお寛ぎ下さいまし。」
「え?ああ…そんな、急いで立ち去らずとも。」
先生は起き上がりかけますが、私はぐいとソファに押し戻しました。
「どうぞこのままお休みに!…何か御座いましたら、遠慮なくお呼び立て下さい。」
しかし、先生はまだ不服そうにモゾモゾします。
「ぼ、僕は別に一人で居たい訳ではないのだが…。」
「疲れがお顔に出ておりますのよ。たまにはメエドの云う通りにして下さいな…」
ぐいと顔を近づけ、ね?と微笑みかけると、先生はシュッと袖で顔を覆い、ぐぬうと唸り声を上げます。もしや、思うさま打たれた頬っぺを間近で見られるのがお厭なのか。
「…頬は、まだ痛むのですか。」
「…」
「先生?」
「…すぅ」
余程お疲れだったのか、先生は顔を隠したままで眠りに落ちていらっしゃいました。その無防備さに、私の頬は思わず緩みます。
先生の疲れを取るべく簡単なお夕飯でも用意しようと思いついた私は、足取り軽く台所へと向かったのでした。
・・・
台所にて拵えた粥をたずさえ、居間のドアーをノックしましたがお返事はなく、そっと中へ入ると、先生は部屋を出た時と全く同じ姿勢で眠っておられます。
私は盆をテエブルに置き、先生に近付きました。
「…冷めないうちとは思うけれど、起こすのも忍びなし。」
スヤスヤ眠る先生を眺めていると、心がポウと暖かくなります。
「…ご立派でしたわね。」
どうにか褒めてあげたくて、私の手は思わず、先生の頭を撫でました。すると先生の体に少し力が入ったような気がして、私はさっと手を引きます。
…先生が起きていたら、怒られるところだった。同時に、玄関で先生に手を払われた際の、いいようのない気持ちが胸を埋め尽くします。
どうして先生は、私に触れられることを極度に嫌がるのかしらん。先生は私のお兄様、私は先生の妹…と微笑み合ったのは、つい最近の事ですのに…
そもそも、妹というものは、軽々しく兄に触れてはならないものなのかしらん。私、本当のお兄様なぞ持たないから、ずっと分からないままですのよ。
私はただ先生と、仲良く親しく、本物の家族のように過ごせたら、それで充分なのです。だから、だから如何か私を…
「…私をお傍に、置いて下さいましね…。」
不意に口をついた言葉に、私は得も知れぬ羞恥を覚えましたが、幸い先生はまだ眠っておられます。
安堵した私は、先生が起きた頃戻ってこようと決意して、静かに自室へ帰ったのでした。
・・・
頃合いを見計らって居間を訪れると、もうそこに先生は居ませんでした。その代わり、卓上の盆のお粥は綺麗になくなっておりました。
…すっかり食べて下さったのね。
ようやくお役に立てた気がして、私はほっと息をつきました。さて、と盆を片付けるべく手を伸ばすと、盆の端の小さな紙切れに目が留まります。
「あっ…」
どうやら置手紙らしい小さな紙切れには、
「気遣い有難う。君の粥はとても美味い。日野」
と、先生の美しい文字で記されておりました。先生らしい真面目な文面に思わず笑みが浮かびます。しかし、何気なく紙を裏返した私は、ふたたび小さく声を上げることになりました。そこには、さらに小さな文字で、
「僕の方こそ宜しく頼む」
と記されていたのです。
「僕の方こそ」とは…。思いもよらぬ文言に、しばし私は首を傾げましたが、ついに、先刻先生に対して意図せず口走った言葉を思い出したのです。
先生は、先程私めが「傍に置いて下さい」と独り言ちたのを、聞いていらしたに違いありません。眠っているふりを続けたものの、心優しい先生のこと、どうかして私を安心させようとお返事を残さずには居れなかったのでしょう。
しかし、あくまで内気な先生です。紙の裏に、気付かれない程の小さな文字で、『気付かれなければそれでも良いさ』などと自分に言い聞かせながら書き綴ったのに相違ありませんでした。
私の眼からふいに涙がこぼれ、ぽたりと手紙を濡らしました。
先生は、どうしてこうも、お優しいのか。
どうしてこうも、いつも近くに『居てくれる』のか。
涙はとめどなくあふれ、ぼろぼろと零れ落ちました。
「…それにしても、狸寝入りがお上手ですこと。」
本当は起きていたはずの先生の、澄ました寝顔を思い出すと、今度はくつくつと可笑しくなってくるのでした。
・・・
部屋に戻った私は、なおも紙切れの裏を眺めておりました。
「僕の方こそ宜しく頼む」
先生の文字を見ていると、突然、これまでに感じたことのない深刻な気持ちが湧きおこってくるのを感じました。
先生にとってこの書置きは、天涯孤独の哀れな娘への何気ない慰めでしかないはずです。それなのに、私の心はどうも、先生の感情を『それ以上の何か』にしたいようでした。言うなれば、私はできるだけこの言葉を重く受け止めて、実際にそれだけの重みがあるように仕立て上げたいようなのです。
それと同時に、この不思議で深刻な気持ちはなぜか、恐ろしく、あってはならないもののようにも感じられるのです。
何気ない書置きに何かを求めること。つまり、それ以上でも以下でもないものに、それ以上を求める事は不躾である―私の本能が、そう私に警告しているようにも思われました。
先生は優しいから、言葉ではきっと否定するでしょうが、先生の優しい言葉や行動の根底にあるのは、哀れみなのだ。
私の心はそれらしい理屈を得て、少しばかり落ち着きを取り戻しました。しかし、そう言い聞かせる私の胸には、確かな痛みもあったのです。それは、細い針で刺すような小さな痛みでしたが、その針は非常に鋭く長いのです。私は自らの手で、自らの心の深いところに傷を付けたのでした。
そして私は、胸の奥の傷から目を背けるように、置手紙の裏には気付かなかったことにしよう、と決めたのでした。
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