コーヒーショップ

松木夏秋

コーヒーショップ

 その日は昼過ぎまではよく晴れていて入道雲は夏のシンボルのようにもくもくと空を目指していた。

 だからこそ私は、朝の天気予報を疑ってしまったのだ。


 仕事を定時で上がり、檻のようなオフィスから脱出する。今日は心待ちにしていた小説の発売日なのだ。主演俳優のファンだからという理由で五回も映画館に足を運んだし、このシリーズの原作はすべて買い揃えている。そのシリーズの最新刊がついに出版される今日、この日のうちに読んでしまいたい。

 書店は駅から少し離れたところにあるので多少遠回りではあるが、パッと買ってしまって家で最高の環境を整えて世界に飛び込むのだ。軽食なら家に菓子のストックが山のようにあるし、出勤途中に紅茶も買ってある。このまま最新刊を無事購入できれば最後のピースが埋まるのだ。心が一直線に書店を目指しているためか、普段なら気になってしまいそうな左右の小洒落た店がすべて壁に見える。歩いてはいるけれど、心の中では光の速さ。全力疾走で向かっているのだ。

 次の角を曲がれば行きつけの書店、距離は三十メートル弱といったところか。ずっと楽しみにしていたものだからか、少しずつ歩を進める度に不安が高まっていく。売り切れていたらどうしよう、別の書店?この辺りにあったっけ。いや、むしろ駅周辺は客も多いし家の付近で探す…?

 不安をぐるぐると循環させていると、手首のあたりに冷たい感触がした。


 ――雨だ。

 明るい住宅街にぽつぽつと地面を叩く粒の音。その数はどんどんと増えていき、やがて粒は空と地面を繋ぐ白線となった。

 ゲリラ豪雨。傘を持たない私はどこかに避難しなくてはならない。見渡すと、コンビニが見当たらない代わりに一軒の喫茶店を見つけた。今度こそ本気の全力疾走をした。


 幸い入り口には「営業中」の文字が昭和を感じさせるフォントでぶら下がっており、ドアを押すと乾いた鐘の音が控えめに響いた。

 店内は薄暗いが暖かみのある照明が雰囲気を演出しており、喫茶店にしては堅苦しくなく和風でかなりお洒落な雰囲気だ。問題は私が少し雨に濡れていることぐらいか。

 いらっしゃい、と店主と思しき初老の男性が顔を上げずに渋めの低い声。白髪に短い髭を生やしていてなんだか頑固そうな雰囲気の人だ。ハンカチで顔回りを拭いながら最初に目についたテーブル席に着く。


 入店してしまったからには何か注文を、と思いメニューを手に取る。コーヒー、紅茶にそれぞれ見開きのページが用意されるほど豊富な品揃えをしている。反対に、食事のメニューは隅の方に一つだけ「オムライス」と書かれていた。喫茶店のメニューにオムライスというのは一般的なのだろうか。私は軽い雨宿りのつもりだったので、

「すみません、セイロンティーをストレートでお願いします」と注文した。

 やはり店主は目を合わせず「はい」と応える。

 店内では古そうなノイズ交じりのジャズが流れており、奥のテーブル席ではピッチリとしたスーツを着た中年のサラリーマンが一人、読書に耽りながらコーヒーを飲んでいる。何やら古そうな本を読んでいるが一体何の本だろう。僅かに気になるが、あまり振り返って凝視するのも失礼なのでここはひとつ堪えておくことにした。


 椅子に腰かけ注文まで済ませたにも関わらず落ち着かない。本が売り切れてしまってはいないかと思うとそわそわした。きっと店主に不審に思われていることだろう。視線を定めるためにスマートフォンを確認。案の定、現在の天気は大雨になっている。しかし、予報ではあと一時間ほどで止むとのことなので長逗留せずに済みそうだ。待ち望んだ本を目前にひと時のティータイムというのもまた気が利いているのかもしれない。こういうのを確か昔の人たちは「瓢箪からぼた餅」とか言った気がする。


「はい、セイロンのストレートです」

 湯気の立った格式高そうな紅茶が出てくる。ティーカップなんかは特によく澄んだ白色をしていて、口を付けるのもなんだか恐れ多い気分になる。

 ありがとうございます。と小さく首だけの会釈をすると、店主はカウンターから何かを持ってくる。

「この本、会計時に返却して下さい」

 両手で受け取った本は、それほど厚みはなくややファンタジーな装丁をしている。紺色の表紙には銀色の文字「両手のひら」。

 これから小説を買いに行こうという高揚感に水を差されておいて他の本なんて!という呆れが数秒駆け巡ったものの、喫茶店のどこか文学的な雰囲気や興味を引くタイトルによって「まぁ最初の数ページくらいなら目を通してあげなくもないけど……?」という気持ちにさせられる。断じて私は浮気性ではない、と信じたい。


 雨は降り続いている。

 湯気を立てる紅茶は、まだカップを持つのも熱そうなのでもう少し待っておくことにした。

 ページを開く。初めに目に飛び込んできたのは「あなたはどのように世界を見ていますか?どんな世界ですか?」の一文。ページの真ん中に大きく二行で書かれていて、もう一度開くと目次が始まった。

 普段から小説を読んでいるせいもあってか、元々読むのはかなり速い方だ。パラパラと読み進めていく。

 店主が貸してくれたそれの中身は小説だった。舞台はヨーロッパ風の世界、誰もが心臓を二つ持っている国。自国の民だけが持つ生命の力を誇らしく思う周囲の中で幼少期を過ごし、彼もまた多少の優越感を感じるようになる主人公のマルセル。物語の中盤で、成人を迎えたマルセルは唯一の友人であり幼なじみアランの危篤を知る。

『先生、アランが危ないって。もう片方の心臓も悪いってこと…?』

『いや、右側の心臓は二年前から動いていないよ。彼から聞いてなかったのかい?』

『えっ、そんな…、だってあいつそんなこと言ってなかったし……』

 即座にマルセルは、寿命の半分を犠牲にしながらもアランに左側の心臓を分け与えることを決める。


 チリンチリン――。

 ドアの鐘で現実に引き戻される。見渡すと、さっきまでサラリーマンがいた席にはコーヒーカップだけが残っていた。

 ふと、忘れかけていたセイロンティーに口をつける。いい意味で癖がなく温かみのある香りは、喫茶店の柔らかい椅子に私をより深く押し込めるようだった。

 雨もかなり小雨になっている。もう少しで止んでくれるだろうか。


 読書に戻る。

 アランの病が快復したことで平和に物語が終わると思っていたが、ここからマルセルの苦悩が始まる。

 彼は自分の選択に自信が持てなかったのだ。

『人から見たら、確かに僕は正しいことをした。アランが今も生きてて心から嬉しい』

『でも、その幸せを感じられるのは、僕が生きてる間だけなんじゃないか?』

『その「生きている間」を僕は半分失ってしまったのか…?』

 彼は、苦しいのは選ぶ瞬間までだと考えていた。しかしそのとき初めて、選択は積み重なっていくことを知る。選ぶ苦しみとは、そのものの痛みとは別に後悔や迷いを背負うことだと知ったのだ。

 マルセルはやがて夜も眠れず考える。一体どうすれば、何も失わずに済んだのか。

 自分が手放したものの大きさに気づいた彼は、不眠症になってしまった末に

『もう、何かを選んで、積み重ねていくなんて、無理だ』と川に身投げをする。

 物語は、バッドエンドだった。


 本を閉じて大きく息を吐くと、雨が止んでいることに気が付く。時計は二時間半の経過を教えてくれた。

 残りの紅茶をゆっくり飲む。まだ意識は本の中にあった。

 マルセルは、友人が病になった時点で不幸が定められていたのか?


 選択は、意思を飼っている。しかし、選択肢に自分の納得のいく正解が潜んでいるとは限らない。そんなの学校の試験だけの話だ。

 マルセルは、自分の時間と親愛なる友人を天秤にかけた。その瞬間から、すでにどちらかを失うことは決まっていたのだ。

 幸せの箱は、どっちだったんだろう。


 タイムアップ、と言うかのようにドアの鐘が鳴った。

 目線だけチラリと向けると、そこには一目で双子とわかる二人組がいた。背丈や服装こそ違うものの、他はすべて同じ人間と言って過言ではないほど何もかもが瓜二つだった。手に持っている近所の書店の紙袋までお揃いなので、雑なCG映画を見ている気分になった。双子はなにやら映画の話をしながら並んでカウンター席に着くと、背の高い方がメニューも見ず「エスプレッソ二つとオムライス一つで」と注文する。

 私は荷物をまとめてカウンターと並びになっているレジで会計をし、ありがとうございました、と本を返却した。釣り銭を財布に流し込みながらクルリと振り返った瞬間。

「「この店を選んでよかったですか?」」

 と、それまで会話に興じていた双子が同時にこちらを向いた。

 私は驚きのあまり心臓のバクバクをした鼓動を感じながら「え……まぁ、そう…ですね」と、しどろもどろに答えると双子は子供のようににんまりと笑った。


 私は店を出た後も、しばらく背中に焦りの冷や汗を感じた。

 選ぶことは時に、得られるものとは釣り合わないリスクを手渡してくる。にも関わらず、回答時間は一瞬だったりする。

 会話だってそうだ。言葉は重たく、それでいて簡単だ。


 その後私は書店に訪れたが、目的の本は売り切れていた。

 

 ――そう。

 思い返せば最初から妙だった。

 私はなぜ、あとたった三十メートルを走って書店に駆け込まずに、この喫茶店に入ったのか。

 あの双子は、一体どのようにオムライスを食べるのか。一人が全部食べるのか、それとも半分を分け与えるのか。あの問いの目的は何だったのか。そして、何の本を買っていたのか。


 次の日、なんとなくあの喫茶店が頭から離れなかったので、もう一度訪ねてみることにした。


 そこには、喫茶店などなかった。

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