第2話『僕、もっと強くなりたい』

ガタガタと揺れる車に乗りながら、僕は深く帽子を被って窓の外を見ていた。


「わざわざ駅まですみません」


「良いんだよォ。和子ちゃんも悪いねェ。こんな田舎にさ」


「いえいえ。空気が綺麗で良いですよね」


「ワハハハ! 物は言いようだなァ」


お爺ちゃんの車に乗りながら、たまに跳ねる椅子の上で僕は、特に何かを話そうという気力もなく、ボーっとしていた。


あれから。


野球を止めるとお父さんに言った日から僕の世界に野球は消えた。


帰ってくると楽しそうに野球の話をしていたお父さんも、今ではすっかり止めてしまい、面白いドラマの話やアニメの話をしている。


それが何だか無理をさせている様で、僕は何も言う事が出来なかった。


お父さんもお母さんも、なんだか無理をしている様だった。


もしかしたら僕がまた野球を始めれば良いのかもしれないと思ったけれど、またあんな事になるのは嫌だった。


だから、何も見ない様にしながら僕は深く帽子を被るのだった。


こうしていれば、僕は何も見ずにいられるから。


「そう言えばさァ。和樹は野球やってんだっけか。春樹と同じだなァ」


「……っ」


「お、お義父さん! その話は」


「あ。しまった。すまん。すまん。忘れてくれ」


「もう……!」


「すまん。和樹。爺ちゃん、忘れっぽくてな」


「……ううん。全然気にしてないよ。でも、僕野球は止めちゃったから」


「そっかァ。それは残念だなァ。爺ちゃん、和樹とキャッチボールしたかったんだが」


「キャッチボールくらいなら……やる」


「あぁ、それは嬉しいなァ」


僕は帽子を少しだけ上げて、お爺ちゃんを見ながら笑った。


お母さんは驚いた様な顔をしていたけど、キャッチボールくらいなら、怒鳴られる事はないし。


お爺ちゃんと遊ぶのは楽しいから、僕は構わないと思ったんだ。


でも、お爺ちゃんとキャッチボールをする為に大きな広場へと行った僕たちは、変な事に巻き込まれてしまう。


「頼むよ。佐々木さん。負けられねぇんだ!」


「しかしなァ」


「人数合わせで良いんだ!」


広場では既に沢山の大人の人が居て、ワイワイと騒いでいたのだが、お爺ちゃんの姿を見つけると勢いよく駆け寄ってきたのだ。


そして、チームに入ってくれと言ってきた。


無論野球のチームだ。


しかしお爺ちゃんは僕の方をチラチラと見ながら悩んでいる様だった。


多分、僕の事を気にしているのだろう。


僕は集まっている大人の人たちを見て、監督の様な怖い人が居ない事を確認して、お爺ちゃんに頼み込んでいるおじさんを見た。


本当に困っているのだろう。


なら、少しくらいは良いかもしれない。


怖い人が出てきても、お爺ちゃんが助けてくれるだろうし。


「僕は、良いよ」


「本当かい? 君、ありがとう!」


「和樹、良いのか?」


「うん。困ってるみたいだし。ここには怖い人は居なそうだから」


「そっかァ。和樹は本当に優しい子だなァ」


お爺ちゃんは僕の頭をやや乱暴に撫でて、ニカっと笑う。


そして、僕が出来るポジションは投手しかない為、投手としてマウンドに立つ事になった。


もう二度と、立たないと思っていた場所だけど。


今回だけだから……。


「やぁ。飛び入りの子って君だよね。僕は立花光佑。キャッチャーだよ。よろしくね」


「……よろしくお願いします」


「わ、凄い礼儀正しい子だね。うん。よろしくお願いします」


僕よりも少し年上っぽい男の子が話しかけてきて、僕は思わず深く帽子を被りながら頭を下げた。


そして、僅かな視界から確認すると、なんだか優しそうな笑顔をした人だった。


こんな人でも、僕が投げる球を受けたら怒るかもしれない。


そんな恐怖で僕は、震えそうになる声を抑えながら、ソレを口にする。


「僕は、下手なので、変な所に投げちゃったら、ゴメンナサイ」


「そんなの気にしなくて良いよ。気楽にやろう」


「……」


「それにさ。例え、どんな所に投げたって、どんなボールだって、僕は捕ってみせるから、安心して」


爽やかに、そんな事を言ってキャッチャーの位置へ移動する立花さんを呆然と見ながらも、試合開始の合図に僕はボールを握りしめた。


あぁは言ったけれど、あんまりギリギリや変化の激しい球は止めた方が良いだろう。


それなりに、捕りやすい球を……。


僕はど真ん中に球を放る。


しかし、余りにも気の抜けたボールは僅かバットに掠ってしまい、ファールだが、当たってしまう。


心臓がドクンと高鳴った。


打たれたくない。


だって、僕はずっと打たれてなかったんだ。


本気を出せば、僕は誰にも打たれない。


そう考えて、僕は半ば無意識の内に『本気の』カーブを投げていた。


投げた後、しまった! と気づいたが、既に手遅れだ。


僕の手を離れたボールは当然の様に打者を空振りにして……キャッチャーのグローブに収まった。


「え?」


審判のストライクと叫ぶ声と、僕の間の抜けた声が重なった。


そして立花さんが投げ返してきたボールを受け取りながら、僕は次の変化球を握り、投げる。


それも容易く打者を空振りにしてキャッチャーのグローブに収まった。


当たり前の様に。


それが自然であるかのように。


それから、どれだけギリギリを攻めた球であろうと、変化の急激な球であろうと、彼は宣言通りに全て捕ってくれたのだった。


そして当たり前の様に三アウトを重ねて、彼は僕の所に駆け寄ってきてから、嬉しそうに僕の手を握った。


「何処が下手なんだい。君は凄いよ! こんなに凄いピッチャーは見たことが無い!」


「でも、僕は、下手だって……監督に言われて」


「それはきっと君をちゃんと見てないからだね。こんなに素晴らしい投球をするのに、下手だなんて、信じられないよ。僕の知る限り、君は最高のピッチャーだ!」


「……」


僕は立花さんの言葉に、深く、深く帽子を被りながらただ小さく頷いた。


何だろうか。悲しくもないのに、胸が苦しい。


勝手に涙が溢れてくる。


何度袖で拭っても、拭っても、止まる事なく、涙が流れてしまう。


「あ、あれ? 君?」


「あー。すまん。すまん。もう限界だったか。悪いな。光佑君。この辺りでワシらは帰るよ」


「……そうですか。分かりました。おじさんには僕から言っておきますね」


「すまんな。助かる。さ、帰ろう。和樹」


僕はお爺ちゃんと共に球場を離れて、お爺ちゃんの家に向かう。


お爺ちゃんの手を握り、僕はずっと止まる事のない涙を流しながら、彼の事を考えていた。


キラキラとした笑顔で、僕の投球を褒めてくれた、立花さん。


こんな形で終わってしまった。それを申し訳なく思う。


僕はもっと出来るのに。僕はもっと凄い球を投げられるんだ。


そう彼に伝えたかった。


僕の事を最高のピッチャーだって言ってくれた彼に。


でも、今の僕はこんなにもボロボロで、どうしようもなくて、情けない姿だから、それが出来なかった。


それが、ただ、悔しかった。


「お爺、ちゃん」


「どうした。和樹」


「僕、野球を、またやりたい」


「そうか。なら帰ったら、春樹や和子さんにも教えてあげようか。きっと和樹の勇気を応援してくれるよ」


「……うん。僕、もっと強くなりたい」


小学校四年生、ある夏の日。


僕は、運命に出会った。

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