第33話 寝ている間にいろいろありすぎですわ
整理しよう。
ここは間違いなく俺の(三角さんに借りた)テントの中。
一〜二人用であろうテントは、着替えくらいしか詰める時間がなかった荷物と俺一人を収容する分には十分なスペースがあったはずだ。
そのスペースが今、圧迫されている。
原因はテント中央、まっすぐに立つポールに巻き付いている巨大明太子だろう。
スペース的に十分な余裕をもって寝ていたはずがテント端に体が押し付けられていて、寝苦しさに起きた瞬間、目の前に広がっていた光景がこれだ。
目を疑った。
混乱する頭でそっと明太子に触れる。シャワシャワした化学繊維らしい手触り。
どうやら明太子の皮はシュラフでできているようだ。
どうりで人間大のサイズがあると思った。
次に繋ぎ目を探してみた。ポールをぐるりとくるむように巻き付く明太子の端と端の繋ぎ目。
正確には片方は端ではなく、なんというか、アルファベットのGみたいな形をしているのだけど、その上端の部分を探ってみた。
赤色のシュラフから、より鮮やかな緋色の髪がはみ出してくる。顔までは見えない。
どうやら明太子の正体はディナだというところまで、俺の寝ぼけた頭にもようやく処理できた。
ああ神様。
もしこれが昨晩考えていたことに対して課せられた試練であるというのなら。
どうか、何がどうしてこのような形になってしまったのか、その意図をお聞かせ願えませんでしょうか。
いやほんと。切実に。
*
朝の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで体をぐっと伸ばす。
ふぅ、と息を吐いて姿勢を戻し、周囲を見渡せば、広いキャンプ場に点々と散らばるテントから活動を始めに出てきた人々の姿がちらほら見えた。
散歩でもするか。
そう思い立ってしばらく歩く。
歩けば歩くほど頭は冴えて、冴えれば冴えるほど思う。
何がどうしてああなった。
「おはよ」
後ろから声をかけられて、いや、ほんとに声をかけられたのは自分か? と訝しみながらも振り返る。
……春永さんか。よかった。ちゃんと自分で合ってた。
「春永さん、おはよう。はやいね」
「散歩?」
「うん。春永さんも?」
「まあね。そういえば」
春永さんからこんなに話しかけてくれるなんて珍しいな。
朝だから気分がおおらかになってるのかな。
「お嬢、ぐっすり寝てた?」
朝だからとか、気分がいいとか。
そういうのであってくれたら良かったのに……。
「なんで、それを……?」
「私昨日、川の字の真ん中で寝てたんだけど。夜中にお嬢がくっついてくるから暑苦しくて」
「……うん」
「で、どうしようかと少し悩んで、名案を思いついたんだよね」
「名案って……?」
「まず、テントの入り口を開けるでしょ」
「うん」
「次に、君のテントの入り口を開けるでしょ」
「……うん?」
「で、君のテントの側からお嬢って呼んでみたんだけど、上手くいかなくて。試しにディナって呼んだらもぞもぞしながら出てきて君の方のテントに入っていったから、入り口閉めて帰って寝ました」
「君のせいか……」
「いぇい」
神様、ごめんなさい。冤罪でした。
真犯人は真顔でピースかましてくるこの人でした。
「一体なんでそんなことを……」
「……面白半分で?」
「していいことじゃないでしょ。何かあったらどうするの」
「ないでしょ。お嬢が好きだっていうのも嘘なんでしょ?」
どうしてそれを、というべきか。
やっぱりそういうことにされてたんだね、というべきか。
どちらで返すか悩んでいる間の沈黙を、どうやら肯定と受け取ったらしい。
「よくやるよ。そんなに知りたいもんかね。人が写真を嫌がる理由なんて」
ここでようやく、返す言葉が固まった。
「どうして、それを」
「君らがシャワーを浴びてる間に全部聞いたよ。依頼主の口が軽いと苦労するね」
「……それは、別にいいんだ。三角さんが本音で君と向き合えたならそれに越したことはないから。問題は、君のほうが本音で三角さんと向き合えたかどうかなんだけど」
返答が途切れた。俺たちの間に静かな空気が満ちる。
やがて再び口を開くまでに、なんの葛藤があったのか。
「知りたい? なんでこんなに嫌がるのか」
まだ、三角さんには話していない。
それだけは確信できた。
彼女にちゃんと話せたなら、わざわざ俺にも話す必要はないはずだ。
「もちろん、教えて欲しい。でもいいの? 三角さんじゃなくて俺で」
「いいよ。私、君のこと嫌いだから」
「えっ」
こちらの戸惑いに構わず、春永さんはすたすた歩いていく。
その背中を追いながら、いつ、どれで嫌われたのか、なぜ嫌いと話せるが両立するのかと疑問が頭の中を渦巻く。
嫌われた理由のほう、一番有力なのはやはり今回ついてきたのが邪魔だった説だけど……なんだかそうだと思えない。
そもそも。
人に引かれたとき。嫌われたとき。避けられたとき。
これまで向けられた目と今の彼女の目が、同じようには見えなかった。
「私の親が転勤族なのは聞いた?」
「……うん。次は来年か再来年かわからないって」
だから、三角さんは春永さんと過ごした証をほしがっているのに。
「だから、嫌なの」
春永さんは、そう言った。
「生きてりゃいつかは別れが来るじゃん。それが二、三年くらいのペースで来るのはさ、中学だって高校だってそうなんだから、別に私だけじゃないじゃん」
「それプラス転校もあるから、っていう話じゃないの?」
「それもあるけど。そう単純でもない。だって卒業はみんな一緒だけど、転校は私一人でしょ」
それはまあ、そうだろう。
集団転校で学級崩壊は斬新すぎる。
「私だけが切り離されるみたいに一人になる。それが可哀想だと思ったのかな。ある日、親がこのデジカメを買ってくれた。思い出を残しなさい、それが繋がりになるから、って。言われるがままにたくさん写真を撮って、また転校して、一人になってから見返した私はどう感じたと思う?」
「……寂し、かった?」
「……わかる?」
出会ってから初めて見た春永さんの笑顔。
それはとても、痛々しい笑みだった。
「写真の中では一緒にいるのに、今隣には誰もいない。みんなは今も一緒にいるのに、私だけが一人ぼっち。友達と一緒に映る写真はその証明みたいなものに見えた。撮ったときは、あんなに幸せだったのにね」
「……それが、写真を撮られたくない理由?」
「そ。別に意地悪したいわけじゃないよ。私がこんなに寂しいんだからあの子も寂しがればいいなんて……ほんのちょっとしか思ってない」
「ちょっとは思ってるんだ」
「一ミリだけね」
油断していた。
あけすけな心情の吐露に。彼女の薄い微笑に。やや和らいだ空気に。
ガードの空いた俺の胸に、彼女の言葉が深々と刺さる。
「私、観客でいたいんだ」
「…………え?」
「あの日から、私にとって思い出は鑑賞物。アルバムはお気に入りの美術館みたいなもの。好きな本や映画を並べる棚でもいい。大好きで、何度も見返すけれど、その中に自分が入りたいだなんてもう思わない。外から見ているだけで十分」
今更になって思い至る。
ずっと感じていた既視感。
彼女のほうから踏み込まず、俺たちにも踏み込ませない彼女の立てた壁の正体。
「だって、寂しいでしょ。もうその中の誰に会えるでもないのに」
彼女は――――俺だ。
「どうして、それを俺にだけ」
「君ならわかってくれるでしょ?」
見透かされている。なぜ。
あんな話、ディナにしかした覚えがない。ディナが言いふらすとも思えない。
「あれ、気づいてなかった? 私は結構すぐに気づいたけどな。君さ、私たちのことどんな目で見てるか自覚ない?」
また、それか。
「ディナには、『箱にしまい込んだ大切な宝物を眺める顔』って言われたけど」
「へぇ、あの子にはそう見えるんだ……まあ間違ってもないか」
「君には、どう見えてるの?」
「私? ……そうだね。初めてのおつかいに行く我が子を見守ってるみたいな顔、かな」
これまた、わかるようなわからないような、絶妙な喩えを。
「行きの車の中でも。いろいろ準備するときも。私を追いかけてきたときも、BBQのときも。いつも周りを気にしてるでしょ。楽しめてるかな、なにか困ってないかな、ちゃんと食べれてるかな、ってさ」
「ごめんね、心配性で」
「いいよ。私もそうだから。さっき君のこと嫌いって言ったのも半分嘘。ごめんね。勝手に自分を重ねて、勝手に同族嫌悪に陥ってるだけ」
「同、族……」
「同族でしょ。私ハピエン厨だから。綺麗な思い出であって欲しくて、いつも傷がついてしまわないかビクビクしてる。君とそっくり」
だからなのか。
春永さんの声にも視線にも、驚くほどになんの熱もなかった。
まるで自分自身に告げるように。
「そっくりだからさ。わかるんだよね」
刺さる。
まるで自分自身から告げられたように。
「君はこの話、陽香にはできないでしょ?」
否定するべきだった。
俺はその立場にいるはずだったのに。
ヒリつく喉の奥からは、空気の音すら漏れてこない。
「私はここにいたいから、向こうへ追いやらないで。……頼める義理は、ないけどね」
かける言葉は見つからず、足も動かない。立ち去る春永さんの背中をただ見送る。
少しずつ変われているのかもしれないと湧き始めていた自信が崩れていく音がした。
俺の根っこは今も、ディナの目に留まる前のままだ。
「ふ、吹?」
背後から思い浮かべていた人の声がする。振り返って緋い髪が目に入った瞬間、少しだけ目をそらした。
なぜだろう。ディナの目を見るのが怖い。
「あの、起きたら吹のテントだったのですけれど、何があったか知ってます……?」
「(どういう経緯でそうなったかは)知ってるけど、(どういう理屈でそうなったかは)知らない」
「どういうことですの!? ……というか、吹。なにかありまして? 顔色悪いですわよ?」
「ごめん」
君の目に、今の俺はどう映っているだろう。君が救われたと言ってくれた俺のままだろうか。
俺にはとても、そうと信じることはできなかった。
「俺はもう、最後まで協力できないかもしれない」
春永さんを通じて突きつけられる。
――これは、お前も選んできた道だろうと。
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