04 新しい物語の始動 再会と予測不能な出来事
ジェニファー・メッツロイトンは、この日、かつての夫であった美しい皇太子に再会した。再び物語が動き出したのだ。ただし、予測不能な出来事が起きてしまう。
***
「ぽっしゃまぽっしゃまぁぁぁん、ん、ん、ん、ぽっしゃま、ドン、ドン!」
私は膝を軽く叩き、無意識に体を揺らす。
奇妙な煙で逝ったはずの私の子供は、まだこの世に生まれてもいない。
ソウタがよく口ずさんでいた曲だ。
ソウタはよく歌う子だった。
ウィルもよく歌う子だった。
1度目のループの時に転生に気づいたから分かったことがある。
最初の時は、ウィルが歌っている曲が何なのか、私にもさっぱり分からなかった。可愛い声で不思議な言葉と音程で歌うウィルに、メイドたちとよく笑ったものだ。
でも、今なら分かる。
ウィルはソウタの記憶を持っていたのだ。
ソウタが保育園でマスターした曲を、ウィルになってからも歌っていたということになる。私はそのことに今更ながら感動を覚えていた。
今、私は体を揺らして小声で歌いながら、秘密の泉で皇太子を待ち伏せしていた。かつての夫、つまり未来の夫と再会するためだ。
意識は遥か遠くに飛び、まだ生まれもしない子供たちを懐かしく、胸いっぱいに抱きしめたいと切なく思っていた。
私は無意識に、いつの間にか膝を叩いてリズムを取っていた。
誰かの笑い声でハッと顔を上げた。
――皇太子だ!
「奇妙な……歌だね。君は誰?」
私は真っ赤になった。
いろんな思いが交錯して胸に溢れて、うまく言葉が出ない。
久しぶりに会った皇太子は絶世の美しい男だった。最後に会った時より5歳若い絶世の美男……。私の記憶を遥かに超えている彼の魅力を目の当たりにして、私は圧倒される思いだった。
長いまつ毛に縁取られたグレーでありグリーンのようなブルーのような瞳が私を見つめる。褐色の髪が無造作にかきあげられていて、皇太子の身分である美しい男は私を真正面から見つめていた。
時が止まったようだ。
漂う空気感に光が差込み、何かが煌めく。
彼の特徴的な透き通った瞳が、真正面から私をとらえている。
こんなはずじゃない。
前回、私は泉に落ちて、ずぶ濡れになり、溺れかけて、皇太子に助けられる役目だった。濡れた服が私の体にまとわりつき、乾かそうとして、近くの山小屋で服を脱ぐ。
死ぬほどベタな展開を自然な行動で実現する、悪役令嬢の役。それが過去のジェニファー・メッツロイトン、私だ。
夫だった美しい男の5年前の姿を前にして、子供たちのこと、彼に捨てられた後に死んでしまったこと、彼だって自分の子供を亡くしたいとは思わなかったに違いないこと、結局、夫にお詫びができなかったこと、さまざまな事が私の胸に溢れてきて、しどろもどろで何も言えなくなった。
誰に殺されたのか分からないけれど、子供たちを守れなかったことを……。
私は真っ赤になり、震え、涙ぐんだ。
「ご……ごめんなさいっ!あなたっ……」
私は美しい男を見つめて震える声で言った。
「えっ!?」
失敗した。
やるべきことは、違う。
ジェニファー・メッツロイトンは、ここで手の届かない無理目な美しい皇太子に衝撃的な記憶を与えなければならないのだ。こんな気持ち悪い『あなた』を発する勘違い女じゃなくて。
私が頭を降って、次の言葉を探そうとしたその時ー。
ドボン!
突然、誰かが泉に落ちた。
私ではない。
「嘘っ!」
「うわっ!」
前回は私が落ちたが、今回は別の女性が勝手に落ちたのだ。
「あなたっ!大丈夫っ!?」
私は泉に飛び込んで、落ちた女性の首を後ろからつかまえて、立ち泳ぎをしてなんとか岸まで運んだ。その様子を呆れた様子で美しい男、私のかつての夫はただただ見ていた。
泉の水は氷のように冷たい。
「大丈夫っ?息しているっ?」
私はぜいぜいと息を切らしながら、ずぶ濡れの令嬢を岸まで引きずりあげた。彼女は意識を失っていた。
って。
そのずぶ濡れの女性は薄目を開けて私を見て、実に残念そうな顔を……?
うん?
私は見覚えのある展開に、寒気がした。
冷たい水のせいだけではなく、ガクガク震え出した。
サッと振り返って、大木の影に紳士が2人隠れているのを見た。
ブレッチダービー公爵とヒュームデヴォン伯爵だ。
彼らが固唾を飲んで事の展開を見ていたことに気づいた。私の時と同じだ。今回の悪役令嬢の役目は私ではなく、この私が助けてしまった令嬢ということか?今回、私はこの美しい男の相手ではないということか。
では、もう二度と私の子供たちには会えないのか。
絶望感が私の濡れた体を切り裂いた。
双子の柔らかいほっぺと、私に「あー」と微笑みかける仕草が胸をよぎった。ソウタとウィンが「ぽっしゃま」を歌う声と姿も。
私は胸が熱くなり、目から涙をポタポタとこぼした。
ずぶ濡れの姿のまま、皇太子の服の胸の下のあたりを右手の指でつまむようにつかみ、「ねぇ、あなた」と泣きながら言った。
「(子供たちを)……返して」
皇太子は泣く私を驚いたように見つめて、ずぶ濡れの私の方に引き寄せられた。私が泣きながら服をつまんだのに意表を突かれ、美しい男は無防備に私の方に体を傾けた。
私はそのまま近づいてきた皇太子の体に抱きつき、泣きじゃくった。
「……返してよぉ……」
私は皇太子の温かい胸の中で泣いた。
美しい男は目を丸く見開き、驚愕した表情で私を見て、体を退けようとしたが、私は彼の服をつかんで離さなかった。
彼の長い指が私の顔の涙をそっと拭いた。
「君は誰?僕たち知り合い?どこかで会った?」
私は泣けて泣けて、困った表情の美しい男に首を振った。
私は今回は彼と結ばれることはない。
ブレッチダービー公爵とヒュームデヴォン伯爵が全てを賭けた令嬢は、さっき私が助けた令嬢だ。
彼女の邪魔を私はしてはならない。
彼女だってお家の事情があって、きっと、あれほどの屈辱に耐えて、ここに来ているのだろうから。
それにだ。
ブレッチダービー公爵、ヒュームデヴォン伯爵を敵に回すと私の命が危ない。
ジェニファー・メッツロイトンは、奇人変人の印象を皇太子に与えて、自分の子供たちに会えなくなるのか。
私はダメだと頭を振った。
目を上げた。
皇太子は真っ赤な顔をして私の胸を見つめていた。
私はもう一度頭を振ってみた。胸に張り付いて形がくっきりあらわになった大きな胸は私の動きに合わせて揺れた。
えっ!
この美しい男の欠点は、そこ?
私は激しく動揺した。
きっとこの美しい男はウブなのだ。
由緒正しい令嬢のパトリシアは、今の私のような恥ずかしい振る舞いはきっとしない。
私はとっさに目の前の美しい男の手を取り、もう片方の手を、地面に座り込んでいるさっき私が助けた令嬢の手に差し伸べた。
ぐっと手に力を込めて、令嬢を凛々しく助け上げた。
美しい男の手を令嬢の両手に渡して、私はその場を去ろうとした。ブレッチダービー公爵とヒュームデヴォン伯爵が見ている場では、彼らの計画を邪魔できないから。ひとまず退散しよう。
「待てっ!」
皇太子は私を引き留めた。
「ぽっしゃまの……さっきの歌をもう一度聞いてみたい」
私は頭にウィルの面影がよぎり、また涙が止まらなくなった。肩を震わせて泣いた。
「あなた」
私は皇太子を振り返り、うなずいた。
皇太子は『あなた』と私に呼ばれても、もう気にも留めないようだった。
「さあ、君も服を乾かそう。すぐそこに山小屋がある。暖炉の暖かさで服などすぐに乾く」
皇太子はずぶ濡れのもう一人の令嬢と私に、山小屋の方角を指さしてみせた。
ここは皇太子がお気に入りの秘密の泉。
夏はよくここで一人で泳ぐらしい。
冬でもよくこのあたりを散歩するらしい。
前回、ジェニファー・メッツロイトンが、ブレッチダービー公爵とヒュームデヴォン伯爵から指示された皇太子と出会う場は、この秘密の泉だった。
前回、私は夫の前に妖精のように現れて、冬の泉に落ちて、助け出され、凍え死にそうになった二人は近くの山小屋で暖を取って距離を縮める計画だった。
その彼らの目論見は前回は成功した。私はこの美しいアンドレア皇太子に結果的に見初められたのだから。
今日は、おそらく山小屋には薪がたんまりと積まれていて、食料も用意されているに違いない。ブレッチダービー公爵、ヒュームデヴォン伯爵は謀に関しては抜かりないはずだ。
私は美しい男に指差された方に、ガタガタ震えながらついて行った。彼はもう一人の令嬢にガウンをかけてあげて、私には自分の腕を巻きつけてくっついて歩こうとしてくれた。
ガウンの方が暖がとれる気がするのは、気のせいだろうか。
くっつかれた方が、物理的な距離より精神的な距離が近い気がするのは、気のせいだろうか。
私は吐く息も白い中で、歩き続けた。
雪はとけかかってきてはいるが、私たちがしたことは自殺行為だ。
薪の用意がなかったら、ここでまた私は逝ってしまう。
だが、私は子供たちに会えるまでは絶対に死ねない。
私は自分を強く奮い立たせようとした。
美しい男は身震いする私の体をギュッと腕で抱きしめて、「死ぬなよ」とだけ声でささやいた。
この美しい男は、そういう人だ。
前にも私はこの男に同じ事を言われた。
長いまつ毛が瞳を縁取り、真っ直ぐな鼻筋の下には決意を固めたような唇がある。褐色の髪はかきあげられ、射るような透き通った瞳が、真っ直ぐに前を見ている。グレーのようなグリーンのようなブルーのような瞳。背の高い、この美しい男は私と恋に落ちて、3人の子をなして、私を冷たく捨てた男。
彼の唇からは、私が想像もしない言葉が漏れた。
「もっとくっついて。君は死ぬな」
ジェニファー・メッツロイトンは、この日、かつての夫であった美しいアンドレア皇太子に再会したのだ。新しい物語が再び始まろうとしていた。
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