03 1度目のループ(1)

  2019年6月19日水曜日。



 もはやワンオペ育児が何かも分からない。

 知らないことは沢山あるが、なぜこんな理不尽がまかり通る国なのか。


 私は朝早い駅の構内を双子ベビーカーを押して急いで歩いていた。私は都内の金融機関に務める子持ちのフルタイムワーカー。幼児3人を抱えて悪戦苦闘の毎日を送っている。


 まだ人がそれほど多くない時間帯であり、前方を遮るものもなく、双子ベビーカーが通行者に迷惑をかけるほどの人混みはなかった。思ったよりも閑散としていてホッとした。


 3人の子供を抱えて復帰しようとすれば、死ぬほど辛い現実が待っていた。覚悟はしていたが、実際は大変だった。


 毎日毎日「お前はそれでも復帰したいのか」と問われているような気持ちになる。


 当たり前に会社に行ける日も少なく、神経をすり減らす毎日。


 育休中は追い詰められて死を選ぶ人がいるのも理解できた。だから、私は復帰する過酷さを選んだのだが、果たして正解なのか。


 本音は正解なんかどうでも良くて、生き延びることができれば勝ちなのだ。

 生き延びることが、できれば。


 3人の子供を抱えて職場復帰を果たした私は36歳で、子育てでは役に立たない夫と5人家族だ。


 私が子供たちの支度と自分の支度でバタバタしていでも、夫は一切協力しない。


 夫は食料すら買わない。

 夫はお金も渡さない。


 だから、私は仕事に復帰した。


「大丈夫、大丈夫だよー」


 歩きながら口に出して言う。


 焦る自分に言い聞かせるために。

 3人の息子たちに言い聞かせるために。


 泣きたい自分を憐れむ暇はない。

 子供たちを守らねば。


 双子のミナトとヒナトはまだ11ヶ月で、ソウタは3歳だ。


 双子ベビーカーの座席に座るソウタとヒナトの様子を確認して、私の胸のところに抱っこ紐の中に包まれている双子のもう一人のミナトを確認する。


 ――大丈夫。3人とも大丈夫。


 帰り道は、4人で夜道の大冒険だと思いながらいつも30分かけて帰る。雨の日も風の日もだ。


 雨ニモマケズ、風ニモマケズ。


 令和のフルタイム勤務のママは宮澤賢治を地で行くのだ。人生で一番、雨にも負けず、風にも負けずのフレーズがよぎるのは、今だ。


 今日は水曜日で週半ば。

 明日になればもっとつらいと感じる木曜日だが、水曜はまだ体力がかろうじて残っている。


 まずは3歳のソウタから園に預けなくては。双子とソウタは別々の保育園。私は気合いを入れて双子ベビーカーを推して歩く。


 抱っこ紐を駆使して双子をおんぶに抱っこで抱えてソウタを園内に連れて行き、おむつ棚や着替えを補充して、ソウタを預ける。ソウタはまだ粗相はあり得る年齢なので、オムツが予備として必要だ。


 それからまた双子ベビーカーに双子を座らせて、ヒナトとミナトの保育園に連れて行く。つまり、通勤の電車に乗るまでに毎朝保育園を2つ回るので、正直そういう生活が死闘に近い。



 パシっ!


 急いで階下に降りるエレベーターのボタンを押した。やってきたエレベーターに双子ベビーカーをなんとか入れる。


 3人分の大きなカバンを持っているが、中身はオムツやら着替えやら色々で、昨晩、眠る前にふらふらになりながら準備したものだ。


 オムツ1枚1枚に手書きで名前を書いているが、3人分ともなると恥ずかしいぐらいの殴り書きだ。保育園の先生に読んで欲しい名前のはずなのに、半分は判読不能な文字になっている。着替えは洗って干して乾いたらすぐ使っての繰り返し。


 エレベーターから降りて、ソウタの保育園までの道のりを双子ベビーカーを押して歩く。


 久しぶりに良い気分だ。


 今日の空は青い。

 天気は良く清々しい朝だ。


 とにかく3人とも熱が無い奇跡的な日だ。

 それだけでありがたい日だ。


 だが、暗闇が訪れた。

 突然に。

 

 何かが激しくぶつかってきた。

 真っ暗になった。




 え!?

 ソウタ、ヒナト、ミナト?


 ***


 パニックになりかけた所で、目の前にダンディな男性が見えた。懐かしい顔だ。


 よく知っている顔?


「クイーンズマディーノモベリー公爵」


 舌を噛みそうな名前をメイドが言った。


 この時、私は双子を抱えていて、すぐそばに3歳の男の子がいた。金髪でブルーの瞳の男の子。双子はブラウンの髪の毛にグリーンの瞳だ。


「ソウタ?」



 私がそっと聞くと、金髪の小さな男の子はコクンとうなずいた。


 良かった。


 って良かったってなに?これって転生なの?


 その瞬間、私の脳裏に色んなことが蘇った。私はこちらの世界で死んだのだ。子供達も一緒にだ。


「結婚式でお会いしたのをのぞけば、初めましてですね。初めてこうしてお会いしたのですが、皇太子妃様に折り入ってお話がございます」


 私はまっすぐに目の前の黒髪の男性を見つめた。優しくて慈悲深いと思った眼差しは、真っ赤な嘘だ。心の奥底が冷え切る。まだ誰が犯人かは分からないが、彼は信用できない。


 私はこの世界では、誰が自分の味方で、誰が敵なのか、はっきりと認識する必要がある。なぜなら命を奪われるから。


 彼は二重人格のように自分の本当の姿を巧妙に隠しているかもしれない。私は騙されたあげく、大事な息子たちの命まで奪われたのだから。


『初めまして』


 彼がさっき言った言葉は、私にある事実を悟らせた。


 今が彼と『結婚式以外で初めて会った日』なら、私は2年前に戻ってきているようだ。


 つまり、私は2年後の自分の運命を知っていることになる。


 彼と出会って2年後に私は死んだのだから。

 私は机の上に置かれたカレンダーを見つめた。


 今日は1880年の秋の10月だ。

 私が死んだのは1882年。

 1880年のこの日、私は自分の味方のフリをした敵に出会ったのかもしれない。


 クイーンズマディーノモベリー公爵は、夫であるアンドレア皇太子の元婚約者のパトリシアの叔父だ。誰が私たちを殺したのかは分からないが、パトリシアは皇太子であり既婚者である私の夫と再び恋に落ち、妻である子供たちの母である私は宮殿を追い出されて殺された。


 今から2年後のことだ。



 彼は裏切り者かもしれない。私と子供たちは彼の裏切りによって2年後に殺されたのかもしれない。


 私の心は冷たく冷え切った。私は考え込むフリをして、子供達3人を見つめた。


 さて、どうすべきか?

 せっかく死に戻ったなら、自分と子供たちの死を回避すべきだ。


 焦った。


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