第19話 どこを見ても甘味!

 招待状を手に受付へと進み、出席名簿への記名を済ませた雅月あづき翔和とわは、主催である外務省、そして各国要人が挨拶に立つという大広間へ案内された。


 正直、翔和にとっては甘味以外興味の欠片もないのだが、招待された華族である以上、彼らの言葉は、ありがたいお話として拝聴しなければならない。

 大広間へ入った途端、ふわりと鼻孔をくすぐる甘い香り、白絹を纏った長机に並ぶ幾つもの見目麗しい甘味たちに気が移ろいでしまうものの、手は出せない。

 もどかしい生殺し状態に、翔和の表情がほんの少しだけ曇った。



「えー、本日は晴天に恵まれ……――」


 気もそぞろに広間の中ほどで待っていると、どこぞの役人によるお堅い挨拶が始まった。

 大広間の最奥に設けられた壇上にて、髪を撫でつけ、立派なスーツに瓶底眼鏡をかけたまま話す初老の紳士は、記憶違いでなければ帝国の外務大臣殿だ。

 だが、無駄に響く低音域の良い声と、甘みの欠片もない話に、翔和は早くも眠そうである。


(ふわああ、飽きた)

(翔和、ちゃんとお話し聞かないとダメですよ……)


 懸命に欠伸を堪え、ふらふらしそうになる翔和をなだめるように、雅月は着物の袂に触れ、真剣な顔で前を見続けた。途端、翔和の袂時計が小さな音を立てたけれど、周りは誰も気にしていないだろう。


 そうしているうちに大臣の話が終わり、次に壇上へと立ったのは亜麻色の髪をした紳士。そして、煌めく黄金色の髪と瞳をした、若い女性を始めとする一団だ。

 張り付く通訳の言葉を聞くに、彼らは欧州にある国際連盟の代表と、アイビアという国の王女一行とのことらしい。女学校にも外国人教師はいたものの、桁違いの華やかさに、雅月は見入るように彼らの姿を見つめていた。





「……っはぁ~。やっと終わった。さあ雅月! 甘味だよ! どこを見ても甘味!」


 鈴の鳴るような流麗な声で話す王女の挨拶を経て、西洋菓子博覧会は開幕した。

 途端会場は様々な言語と笑い声が入り混じり、すぐさま熱気に満ちてくる。

 もっとも、大抵の華族は来賓方とお近付きになるべく社交に励んでいるようだが、翔和の視界には、最早甘味しか映っていない様子だ。


「はぁあ~。会場内、好きに見て味わっていいなんて、幸せ。この大広間だけでなく、他の広間や庭にも立食形式で甘味が設けられるらしいから、あとで行こうね」

「分かりました。ですが、中には翔和とお話ししたそうな方もおりますので、御代みしろ家としてのお役目も多少果たしてくださいましね」

「うーん、気が向いたらね……」


 今にも踊り出しそうな笑顔で周囲を見渡し、長机に並べられた甘味の数々に目を輝かせた翔和は、一抹の心配を滲ませる雅月の手を引くと、目についたテーブルへ吸い寄せられていった。

 そこには、黄金色のサクサク生地に大きな苺とカスタードで彩られたミルフィーユをはじめ、生チョコレートとフランボワーズがアクセントのガトーショコラ、生クリームとミントを飾ったチョコレートムースなど、見た目からして美味しそうな甘味が並んでいる。


「パティスリー・ル・シュクル……欧州、ルリエル王国からの出店のようだね。あの国は昔からお菓子大国として名を馳せている。早速期待大、いただきます」


 甘味が並ぶ幾つもの銀盆、その前に置かれた各菓子と店舗の説明に目を通した翔和は、我慢できなくなった顔で一口サイズのミルフィーユに手を伸ばした。それは口に入れた途端、サクサクのパイ生地にカスタードの甘みと苺の甘酸っぱさが交響曲を奏で、幸せな旋律となる。

 想像を超えた美味しさに、翔和の頬が蕩けていた。


「はぁ~。美味しい~。雅月も食べてみなよ。甘さ控えめだからさ。メープルシロップをかけたらもっと甘くてもっと素敵になるだろうな~」

「流石の翔和もここではしないのですね。では、えーっと、はい。いただきます。……もぐ、……甘い」

「フフ、メープルシロップは母に禁止令を出されてね。御代家的に甘味に粗相はダメって言うんだ。失礼な。あれは甘味を引き立てる魔法の蜜なのに」


 甘党の甘さ控えめは甘い。苺の酸味に救われながらミルフィーユを嗜む雅月の横で、翔和はまた涼佳すずか命令にブツブツ言いながら、ガトーショコラやムースにも手をつけていった。

 なんだかんだ母の言いつけを守る姿は微笑ましくもあるけれど、それにしても、御代家における涼佳の権力(発言力?)の強さに、雅月は少々不思議な気持ちになる。普通もう少し、当主の意向があってもいいような気もするのだが……。



 それはさておき。その後も順調に大広間の甘味を味わった翔和は、二階ファーストフロア三階セカンドフロア、そして庭園にも足を延ばし、目についた美しい甘味を味わっていった。


 西洋菓子博覧会自体は今日から四日間開催されるものの、日にちによって来場者はおおよそ決まっており、初日と明日は主に来賓と華族向け、三日目はカフェー経営者や洋菓子店と言った企業、四日目は一般来場者向けとなっている。

 さらには仕事と移動の関係上、初日しか博覧会に参加できない翔和としては、片っ端から甘味を楽しみたいのだろう。

 弾んだ心のまま行動する彼を止めるつもりはないけれど、目まぐるしい移動に、雅月はいつからか苦笑を隠し切れなくなっていた。





Excusez-moiすみません……?」


 そんなことを思いながら、秋の日差しが注ぐ庭で、甘味と花の香りを感じていると、不意に後ろから耳慣れない言葉が聞こえてきた。

 猪突猛進に甘味巡りをしてきた代償か、遂に賓客に捉まった翔和と一旦離れた雅月は、グラスに入った色とりどりのキャンディから視線を外し、驚いたように振り返る。

 すると、そこにいたのは大広間で挨拶をしていた王女・リリーヌ姫だ。

 お人形のように愛らしいお姫様は、どこか不安げな眼差しで雅月を見つめている。


「えーっと……?」


 周りに護衛がいないことを不思議に思い、女学校で習った拙い言葉を頼りに聞くと、姫は夢中で甘味を巡っているうちに、侍女とはぐれてしまったと教えてくれた。

 それ自体はどうしようもできないことだが、異国の地で一人になるのは怖いことだろう。正直、没落華族令嬢が一国の姫君と話すなんて畏れ多いことだが、放っておくことはできなかった。



 ということで、雅月は侍女が迎えに来るまでの間、リリーヌ姫の話し相手となった。

 雅月と同い年だという彼女は、国王である祖父の影響で甘いものが大好きなのだという。

 もちろん言葉のすべてを雅月が知ることはできなかったけれど、瞳をキラキラ輝かせる姿は、どこかの甘党を想起させる。やはり皆、好きなものを語るときは楽しそうだった。


「――!」



 十五分ほどして侍女と再会できた姫は、後日お礼を贈るからと住所を聞いて別れ、雅月はまた一人になった。音のない空間に、甘いクリームの香りが漂っている。


(翔和はまだ、誰かに捉まっているのかしら。そうよね、彼は御代家の跡取りだもの……)


 そう思うと急速に寂しくなって、雅月は庭園を見回した。

 家の役目を果たすようにと言ったのは自分だが、それを寂しいと思ってしまうのは、我が儘だろうか。

 清く正しく生きたいのなら、もっと心を律して……。





「別嬪さん発見~」

「……」


 なんて思っていた矢先。今度はこの場に似つかわしくない下卑た声が聞こえてきた。

 美しい庭園をずかずかと踏みつけにし、無精髭を撫でるのは、どう見ても賓客とは思えない身なりの男たち。どうやって軍や警察の警備を抜けたのかは分からないが、気怠げなのに無駄のない身のこなしに、嫌な予感が募る。


「別嬪さんよぉ、ちょっくらツラ貸せや。なぁに、痛くはしねぇさ」


 警戒心を露わに、努めて気付かない振りをしていると、男は雅月に声掛ける。

 手を出されそうなものならすぐに反撃を試みるところだが、ここは下手に刺激をせず、無難に回避した方が利口だろう。三年間借金取りの追われていた経験から、雅月は気丈に振舞った。

 自分たちを見ても怯えない凛とした姿に、男たちは目を見開き、あるいは立派と口笛を吹く者までいたけれど、ここは何とか、誰かが事態に気付くまで持ちこたえなければ。


「……ご遠慮申し上げますわ。私、人を待っておりますので」

「だぁれが意見なんて聞いたよ。おい」


 だが、無駄に話を長引かせるつもりのない男たちは、徐に荒縄を取り出した。

 さらには異臭の漂う薬品を取り出し、雅月を拘束しようと試みる。

 暴れ回って西洋菓子博覧会を壊すことが目的に見えない以上、きっとこれはあの子の刺客なのだろう。不思議なくらい簡単にその推測が胸に落ち、警戒心を強める彼女の視界の端に、黒い瞳をぎらつかせた妹の姿が映った気がした。


(振袖は戦闘に不向きね。上手く足を上げられないもの。ここは防御一転、捕まるわけにはいかない)


 姉が下卑た連中に捕まる瞬間を見たいだなんて、悪趣味な心情にため息を吐いた雅月は、薬をかがせて昏倒を目論む男の腕を回避すると、足を掛けて転ばせた。途端男は傍にあった円卓に突っ込み、食器や菓子が音を立てて崩れる。

 高価な食器類を無駄にしてしまうことには少し躊躇いもあったけれど、どうか誰か、この異常事態に気付いてほしい。





「くすくす、まぁなんて野蛮なお姉様。早く捕まっておしまいなさいな」


 ――その近くで、杏子あんこは楽しげに笑っていた。

 眞銅しんどう暦時れきじと腕を組む彼女は、まるで観劇でもしているかのような雰囲気だ。

 だが流石に物音に気付いたのか、どこか遠くから、人の駆けてくる気配がした。

 自分たちの存在を悟られないよう、これ以上の滞在は危険だが、杏子の笑みは止まらない。

 お綺麗な姉が屈辱に歪むさまを、早く見たいと思った。





 心臓が早鐘を打ち、雅月は回避を続ける。

 拳を振り上げる男たちは、周囲を気にしながらも捕縛の手を緩めない。

 三人がかりの武骨な手が迫り、雅月は後ろへ飛……――。


「僕の雅月に何をしているんだああ!」

「……!」


 ……ぼうとした瞬間、鋭い蹴りと共に現れたのは、青黒い瞳に怒りを宿した甘党おうじ様だ。

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