第10話 甘党、風邪を引く

 初夏の陽気が強さを増し始めた朝影の折。

 店先で暖簾を出す番頭に声を掛けた雅月あづきは、困った顔で言い出した。


翔和とわ様がお風邪を!?」

「はい。昨夜遅くまで読書をしていたらしく、机に伏せて眠っているところを先程発見致しました。そのせいか、どうにも体調が芳しくないようです」


 そう言って、朝食時になっても起き抜けない翔和を不審に思い、訪ねたときのことを雅月は語る。

 青い顔で机に伏せていた翔和は、見事に風邪を引いていた。


「既にお医者様には診ていただいて、数日安静にしていれば治るだろうとのお話でした。しかし、その間こちらには顔を出せないかと存じますので、ご報告に上がった次第です」

「そうですか……。分かりました。店の方は我々で何とか致しますので、翔和様の看病はお任せしてもよろしいでしょうか」


 淡々と語る雅月の話にうむと唸り、困惑していた番頭はやがて、深々と頭を下げて申し出た。どうやら彼の体調不良は珍しいらしく、声音に心配と不安が滲んでいる。

 だが、そんな番頭に頷いた雅月は、


「はい。また何かあればご報告に上がりますね」


 着物の裾を揺らし、すぐさま屋敷へと引き返して行った。





「翔和? 入りますよ?」

「うーん、どうぞ……」


 水墨で描かれた芍薬が大きな花を咲かす襖を前に声を掛けると、今にも消え入りそうな翔和の声が聞こえてきた。

 一応目は覚めているようだが、普段とは違い、彼の口調はとても弱々しい。

 そのことを心配になりながら襖を開けた雅月は、頭まですっぽりと布団にくるまり、団子になった翔和に、ゆっくり問いかけた。


「体調はいかがですか? お粥を作って参りましたが、食べられますでしょうか?」

「ん、ごはん」

「無理はなさらないでくださいましね」


 医者が処方した薬を早々に飲まされ、寒気と格闘しながら横になっていたのか、しばらくもぞもぞとしていた翔和は、やがて亀のようにのっそり顔を出して呟いた。癖のある黒髪をぼさぼさに乱した彼は、どこかぼんやりと目を瞬いている。


「……」


 その、なんとなく、普段は見られない私的な姿を覗き見ているような状況に、形容しがたい想いを抱く雅月の横で、翔和はゆるゆると上体を起こし、食事に手をつけた。

 簡素に塩のみで味付けされたお粥には、ほぐされた紅鮭が乗っている。


「ああ美味しい……さっき飲まされた不味い薬の感触からようやく解放だ……」

「それはようございました。ですが、薬はしっかり飲んでくださいましね」

「……ん」


 枕元に置かれた粉状の薬を一瞥し、苦い表情を見せながら、翔和は普段よりずっと時間をかけて食事を口に運ぶ。

 その間、雅月は念のため傍についていたが、本来であれば翔和ももう仕事に出て、雅月も家事をしている時間だ。何もせずここにいることに、なんとなく気持ちが落ち着かなくなる。

 すると、そんな彼女の心情を見越したのか、匙を口に付けた翔和は、目線を雅月に向けて言った。


「雅月、今日は家のこと何もしなくていいから、僕の傍にいて」

「しかし……」

「ね?」


 あざといような上目遣いで彼女を見つめ、翔和は小首をかしげ懇願した。

 ちょっぴり強引な笑顔で押し切ろうとするのはいつものことだが、そこに風邪っぴきの弱々しさが加わると、何とも愛らしく見えてしまう。自分の気持ちを誤魔化しきれないと自覚してしまったせいもあるだろうが、素でこういう表情を見せる翔和に、雅月は困った顔で呟いた。


「……そんな子猫のような目で見つめないでくださいまし」

「じゃあ傍にいてくれる?」

「……っ。分かりました。急に熱が上がっても困りますからね」



 徐々に赤くなる頬を見られまいと若干俯きながら、雅月は翔和の願いに頷いた。

 そして明るい日差しが窓から注ぐ中、二人は他愛のない会話に興じる。


 始めは御代みしろ家の逸話から。天子様の傍に仕え、時にまつりごとを代わるような優れた武人がいたことから、御代という性を賜ったこと。「御」には仕える、治めるなどの意味があるそうだ。

 そして本邸と別邸、それぞれに植えられた精霊木。さらには翔和自身のことまで。

 正直に言えば、体を休めるためにも翔和には眠ってほしいのだが、そんな雅月の心情とは裏腹に、彼はなおも話を続ける。


 その中でもとりわけ印象的だったのは、翔和の両親のことだった。

 呉服屋の本店を仕切る彼らは、とても仲の良い夫婦らしく、伯爵は毎日のように夫人を口説いては周囲に仲の良さを見せつけているという。

 実際にどの程度の距離感なのかは分からないが、翔和の女の子に対する距離の近さは、おそらくこの両親を見て育ったせいだろう。

 もっとも、雅月に対してだけより遠慮がないのは、お供という性質故かもしれないが。


「……大変に温かいご家庭なのですね。とても素敵だと思いますわ」

「まぁ、それなりに過保護だった自覚はあるかな。でも母はお金に厳しい人だから、子供でも働かないと小遣いもくれない人だった。おかげで毎日店の手伝いさ」


 彼の性格の基盤は両親に由来するのだろうと、真に思いながら告げる雅月に、翔和はゴロンと寝ころんだまま彼女を見上げ、苦笑と共に思い出す。


 帝都有数の呉服屋として名を馳せる御代家も、その本質は誇り高い武門の家柄に由来する。おかげで翔和は華族としての矜持はもちろん、礼儀作法、果ては嗜みまで覚えさせられ、儀に反することは決してせず、物を得るには対価が必要だと教え込まれてきた。


 故に彼は仕事も欠かさないし、家に迷惑をかけず甘味を巡れるよう、個人で投資をするようにもなった。そこには、母の教えが影響していると言えるだろう。

 残念ながら実母との思い出を持たない雅月にとっては羨ましくもあるが、御代家は華族と商家の性質を上手く兼ね備えているようだ。大店おおだなもどきと呼ばれながらも揺るがない現状に、つい納得してしまった。


「翔和のお母様は素晴らしい方ですね。呉服屋の繁盛にも納得ですわ」

「ま、変なところで強引な部分もあるけどね。それこそ、母の持ってきた見合い話で何度喧嘩したことか分からないよ」

「……!」


 と、今度ははぁとため息を吐き、翔和は何気ない口調で呟いた。

 確かに番頭や裕也ひろなりも、翔和は母君が持ってきた縁談を見もせずに突き返していると言っていた。

 だけど、いつまでも引き下がるほど、御代家も彼を放ってはおかないだろう。

 不意に出てきた言葉に、雅月の表情がほんの少し暗くなる。


「どうかした?」

「いえ。それより、話通しでお疲れではありませんか? 眠られてもよろしいのですよ?」

「うーん……」


 だが、表情の変化に気付いて小首をかしげる翔和に、雅月は首を振って問いかけた。

 既に話を始めてから二時間余りが経ち、そろそろ疲れが見え始めてもおかしくはない。にも拘らず、翔和に眠気すら浮かばないのはなぜだろう。


「そうだな。せっかく雅月とずっと一緒に話せる機会だからと思っていたけれど、なんとなく視界が覚束なくなってきたよ。やっぱり熱があるのかな……?」

「なっ。なぜ早く仰らないのですか! もう、お話は終わりです! 少々失礼致しますよ」

「……!」


 雅月の質問を受け、ようやく白状する翔和に彼女は目を見開くと、喉元まで布団を引っ張った。

 そして、ぼさぼさの前髪に隠れたおでこに触れ、体温を測る。

 幸い高熱ではなさそうだが、やはり彼の体温は常人のそれより高いような気がした。


「雅月の手、冷たくて気持ちいいね。ちょっとどきどきするのは熱のせいかな……?」


 すると、真剣な顔でこちらを覗き込み、じっと熱を測る雅月に、翔和はふと微笑んだ。

 こんな状況でもいつも通りの発言ができるのは流石だが、今はそれどころではないだろう。言わずもがな、雅月も彼に触れて緊張していることはさておき、面喰いながらも颯爽と立ち上がった彼女は、なぜか嬉しそうな翔和に踵を返すと、言い置いた。


「こんなときまで変なことを仰らないでくださいまし。今、布を冷やして参りますから、大人しく寝ていてくださいね」

「はぁい……」





(まったく、人の気も知らないで……。いいえ、知られては困るのだけれど。でも、そうよね……。翔和のお母様は、翔和に何度縁談を持ってきたのかしら。私が傍にいられるのも、きっと……)


 庭に出て井戸の水を汲みながら、雅月は心の中でひとりごつ。

 誤魔化しきれない想いに気付いて以降、彼女は日々、心のどこかで不安を抱いていた。

 雅月が傍にいられるのもきっと、あと残り、本当にわずかな時間だろう。

 出逢ってもう二ヶ月以上経つ。もしかしたら夜会やサロンに顔を出した影響で、翔和の両親にも雅月の噂が届いているかもしれない。

 そして、何か間違いが起きる前に正式な相手を選ぼうと、御代家が動いている可能性も……。


(はぁ。私が気を揉んだところで、どうにもならないのは分かっているわ。それに私、センスがないのよ。前に、明るい橙の着物に明るい黄色の袴を合わせようとして止められたのだから、呉服屋の仕事はできない。でも、せめて、あと少しだけ、この日々が続くといいな……)





「翔和? また入りますよ?」

「うーん、遅かったね……」

「それは失礼致しました。おでこに綿布、乗せますよ」


 心内にいだく感情などおくびにも出さず、水で冷やした布を手に、雅月は再び翔和の部屋を訪れた。

 彼女の言いつけ通り、布団にくるまったまま目を閉じていた翔和は、襖を開けた途端嬉しそうに笑っている。

 だが、綿布を乗せた瞬間また話し出そうとする彼に、雅月は釘を刺して言った。


「このまま、しばらく寝ていてくださいましね。傍にはいますから」

「いなくなったりしない?」

「お約束しましたでしょう。分かっておりますから。さあ」


 駄々を捏ねる子供をなだめるように頷き、誘導に合わせて目を閉じる翔和に、雅月は優しく寄り添った。

 途端、少しだけ開けた窓から、初夏の空気が入り込む。


 もしかしたら、すぐにでも壊れてしまうかもしれない穏やかな時間。

 それを噛み締めるように、雅月はただ黙って眠る翔和を見つめた。

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