第11話 唐突な縁談
蛙の鳴き声を聞きながら、小雨の降る道を行く。
(今日の夕食はお魚の煮つけと、人参と牛蒡のきんぴら、あとは……)
ここは御代家の別邸ではあるものの、翔和しかいないこの屋敷に、人が訪ねてくることはあまりない。訪ねてきたとしても、大抵は日中彼がいる呉服屋の方ばかりだ。
屋敷へなんて、誰が何の用事だろう。
(お客様にお茶出しできなかったわね。でももしかしたら、私が会っては都合の悪い方もいらっしゃるかもしれないし……)
外国製の立派な車と運転手らしき人影を横目に、雅月は脇道へ入ると、屋敷の裏手から敷地内へ戻った。勝手口をそっと開けた台所内に人影はなかったが、棚にしまわれているはずの急須と湯飲み一式が消えていることから、翔和が自分で対応をしたのだろう。
居間か客間か、顔を出すべきか否か、迷ったまま
少し声を荒げているようにも聞こえる翔和と話をしているのは、女性だろうか。
(ちょうどお帰りのようね。もう少ししたら翔和のところへ顔を出して見ましょう。その、帰宅を告げないと、いけませんもの……)
すると、なぜか言い訳のように言葉を付け足し、籠の中身を出し終えた雅月は、そろりと入り口の柱に手を掛け、辺りの気配を窺った。
お客人はそのまま帰宅したらしく、話声はもう聞こえない。そろそろ顔を出してもよいだろうか。
(湯呑のお片付けも必要になるものね。それに、翔和は一体誰と……)
お供の分際で、翔和の交友関係を気にできるような立場にないと分かっていながら、彼女は躊躇いがちに一歩、足を踏み出した。
正直に言えば、女性だったと思われる相手が誰なのか、気になって仕方がない。
「翔和……? ただいま帰りました……」
「おかえり雅月。買い物ありがとうね」
出来るだけそっと廊下を歩き、翔和の姿を居間に見つけた雅月は、恐る恐る声を掛けた。やはり客人は帰宅済みらしく、室内には翔和の姿しか見当たらない。
振り返った彼は、いつも通り笑んでいるが、表情になんとなく影があるようだ。
「……!」
そう思いながら視線をずらすと、卓袱台には湯飲みが二つ置かれ、真ん中に立派な枠に飾られた写真が一枚。そこには、深い小豆色の髪に黒い釣り目を持つ少女が、艶やかな着物姿で映っていた。
つまり、これは……。
「ああ、母がまたどうでもいい見合い話を持ってきたんだよ。一度くらい会ってみなさいと無理やり写真を置いて行かれてね。まったく、困ったものだ」
見開かれ、小刻みに揺れる雅月の視線に気付いたのか、翔和は肩を
どうやら先程の来訪者は翔和の母君であり、目的はお見合いの打診。それ自体は
「……っ」
「雅月!?」
呑み込んだ状況と、見えた顔に、くるりと踵を返した雅月は、動揺したまま駆け出した。
苦しくなるほどに呼吸が覚束なくて、瞳に、涙が浮かんでくる。
でも、あの場に留まることだけは、出来なかったのだ。
「雅月、待って!」
「……!」
どこに行くべきか、どうすべきかも分からないまま廊下を駆け、やがて、庭の池と紫陽花畑が見えてくるところまで走っていた雅月は、不意に引かれた手に、我へと返った。気付くと慌てて追いかけて来たらしい翔和に、彼女はぎゅっと抱きしめられていたのだ。
甘い香りがして、少しだけ、乱れた心に、平静が戻って来る。
「はぁ、はぁ、ごめんなさい、翔和……っ、私……」
「落ち着いて、雅月。大丈夫だから」
「……っ、はい……」
覚束ない呼吸を整えようと、必死で手を握りしめながら、雅月は切れ切れに呟いた。
その混乱と、激しくトラウマを刺激されたような震え方に、翔和もまた驚きを露わにしている。だが、彼女の気持ちと呼吸が戻るまで何も言わないと決めた彼は、ただ静かに、彼女の髪を撫で続けた。
その横で、雨音が少しずつ、強くなっているような気がした。
「少しは落ち着いたかい?」
「……はい。お見苦しいところを、失礼致しました……」
雅月が落ち着きを取り戻したのは、それから十分ほどのことだった。
辺りはいつの間にか薄暗闇に包まれ、分厚い雲から激しい雨が注いでいる。
「ねぇ、雅月。もしかして、あれがきみの妹、なのかい?」
それらを横に見据え、彼女を抱く腕に力を込めた翔和は、覚悟を決めて問いかけた。
見合い話と聞かされて動揺するほど、彼女が弱くないことは知っている。だとしたら、問題は相手にあると考えるのが妥当だった。
「……そうです」
「!」
「あの子は、私の妹・
問うことに少しだけ心苦しくなりながら、それでも冷静に問いかけると、彼女はコクリと頷き、翔和の予想に首肯した。
そして、涙に震える声音に絶望を滲ませた彼女は、何を告げるべきか迷う翔和の傍で、小さく呟く。
「あの子はまた、私から奪うのね。今度は翔和のことまで……っ」
「……!」
「やっと、やっと少しだけ、平穏な生活を取り戻せたと思っていたのに……!」
まるでもう、彼と妹の縁談が決定したかのような口ぶりで、彼女は誰にともなく囁いた。
きっとそのくらい、妹の存在は彼女にとって、苦痛なのだろう。
先日
「雅月。こっちを向いて。よく聞いて?」
「……?」
心の中でそれを誓い、彼女の胸に巣食う大きな苦痛に眉根を寄せた翔和は、そっと彼女を離すと、真正面から雅月を見下ろした。真剣さを湛えた青黒い瞳には、強い意志と想いが浮かんでいる。
「安心して、雅月。僕はお見合いなんて受ける気はないからさ」
「……」
「だって僕、結婚には興味がないんだ。そんなもので人生を拘束されるなんて、絶対に嫌」
「……!」
「だけどね、もしもこの先、どうしても誰か一人を人生の伴侶として選ばなくちゃいけないなら、僕はきみがいい」
「!」
「言ったでしょう? 誰にも渡さない。きみはずっと僕のものだ。僕のものでいて?」
涙を拭うように、彼女の頬に指を滑らせながら、翔和は優しく微笑んだ。
彼の言葉は単に慰めにも聞こえるけれど、告白のようにも聞こえてしまう。でも、そんなことって……。
「フフ、また勝手に解釈付けたりしてる? 好きだよ、雅月。お供としてじゃなく、女の子として。きっと、ずっとそうだったんだ」
「え……」
「本当はね、海沿いの通りで最初にきみを見かけたとき、とても綺麗だと思ったんだ。理不尽な状況にいながら、それでも力強く前を見つめ、立ち向かうきみが。だから咄嗟に声を掛けたし、理由をつけてまで僕のものにしたくなった。それまでは甘いものにしか興味がなかったから、僕自身、どうしてそんな気持ちになるのかは分からなかったけれど、きっとそのときから、僕はきみに惹かれていたんだよ」
彼女の頬に触れたまま、翔和は雅月と出逢った春の日を思い出していた。
昼食を買いに出掛けたあの日、突然細い路地から飛び出してきた少女は、恐れも後悔もなく海を目指していた。そして、追いかけてきた男たちを堂々と蹴りつけ、立ち回る。
凛として、格好良くて、綺麗で。
高潔な魂をこのまま海に攫われたくない。気付くと翔和は声を掛けていた。
『なんだか大変な場面に出くわしてしまったなぁ』
尤も、その一目惚れみたいな感情の意味が自分でも分からなくて、理由はちょうど探していた、甘味巡りのお供に当てはめた。もしかしたら、助けたという名目なら従ってくれそうな雰囲気を感じ、胸が高鳴ったのだと解釈する自分がいたからだ。
だけど、本当はそうじゃない。
共に過ごし、共に甘味を巡る中で、彼女を傍に置きたい気持ちがどんどん強くなっていった。他には誰もいらないし、誰にも彼女を譲りたくない。
だから……。
「ねぇ雅月。もしきみが、これから先も僕と一緒にいてもいいと思ってくれるなら、答えを聞かせて? 結婚は保証できないけれど、一生、手放したりはしないから」
「……!」
慈愛に満ちた微笑みで彼女を見つめ、翔和は正直に胸の内を露わにした。
雅月がこれまで冗談や距離感の誤りだと思っていた彼の行動は、そのほぼすべてが無自覚な彼の愛情だったのだろう。無自覚だったからこそ、雅月も心を傾けてはいけないと自分を律していたはずなのに、彼の想いは、分からないなりに自分にちゃんと向いていた。
彼の言葉は決して、冗談なんかではなかったのだ。
「はい……」
そう思った途端、気恥ずかしさと嬉しさに、心がひどく騒めいた。考えるまでもなく、言葉が口を突いて飛び出し、嬉しい気持ちでいっぱいになる。
気付くと、普段あまり表情を見せない雅月の顔に、笑みが浮かんでいた。
「……とても光栄に存じます、翔和。今や何の身分もない私を、あなたが選んでくださるのなら、私もずっとお傍にいたい……。そう、思います」
涙に濡れた瞳でまっすぐに彼を見上げ、雅月はどきどきと胸を高鳴らせたまま答えを告げた。
もちろん、二人が導いたこの答えを、御代家が許してくれるのかどうかは分からない。
それでも、正直に伝えてくれた彼の想いに、自分も素直に答えたいと思ったのだ。
「うん。ありがとう、雅月。じゃあ二人でこのお見合い話、取り下げてもらいに行こうね。きみの妹にも、手に入らないものくらいあるんだってお灸を据えないと」
「はい」
にこりと微笑み、もう一度抱きしめてくれた彼に、雅月は力強く頷いた。
今度こそ妹の好きにさせないため、二人は作戦を練る……――。
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