第6話 菅野灯という光

「す、がのさ……ん?」


 雨粒が途切れたのは、彼の着ていたパーカーを傘代わりにしてくれたからだ。

 ザーザーという、さっきと全く変わらない雨の音がわたしたちを包んでいた。


「何してるの。風邪ひくよ」


 立ちあがれる? と、手を出してくれる菅野さんだけど、その手を取ってもいいのかわからずに、わたしは下を向く。


 学級長会のキッチリとした菅野さんじゃなくて、素の菅野さんって感じがした。声音も普段よりも優しくて、クラスとかではどう振舞っているのかが気になった。


 彼は、同じ中学校の同級生。それ以上でも以下でもない、一般男子生徒。


 そんなことを考えていたら、グイっと手首を引っ張られた。

 突然のことになにも抵抗できなくて、わたしのそのまま手を借りて立ち上がる。


 さっきまで全く動かなかった体があっという間に動いて、わたしは驚き半分、申し訳なさが半分。


 触れている手首の部分が、そこだけ温かい。

 バクバクと高鳴る鼓動に、わたしは戸惑いを浮かべる。

 

 こんなの、知らない。


「ほら、行くよ」


 立ち上がるために貸してくれた手のはずなのに、その後も手首は握られたままで。

 ゴミ箱は彼が持ってくれて、わたしは彼に引かれてついていくだけ。


 雨の音だけが聞こえる、数分間。


 ただ、居心地の悪さは感じない。


 いつの間にか教室にいて、彼が元の場所にゴミ箱を戻してくれた。

 握られていた手首がふっと軽くなって、わたしは手を離されたことを知る。


「あ、の……! ありがとうございました……!」


 少し下を向いたまま、わたしは彼にお礼を言う。

 菅野さんは「たいしたことしてないけど」とそのままどこかへ行ってしまう。


「パ、パーカー、濡れちゃいましたよね……! わ、わたしのためにごめんなさい……っ」


 ちょうど教室のドアから出ていこうとしていた菅野さんが、くるりと振り返る。


「なんだ、そんなこと。人があんなところで雨に打たれてるんだから、知らないフリできないでしょ」


 答えになってない気がするけど、気にするなってことでいいの……?


「で、でもっ、申し訳ないので、何かお詫びを……!」

「いらない。僕こそ特別なことしたわけじゃないし」

「そ、それでもっ!」

「いいって。僕こそ申し訳ない」


 そんなことを言って帰ろうとする菅野さんだけど、わたしもお詫びに何かしたい。

 急いで引き留めて、わたしは無言で彼を見つめる。


 何十秒か見つめ合って、彼はため息をついた。

 あきらめのような、困ったような、そんな顔で。


「じゃあ、ちょっと手伝ってくれない?」

「っ、はいっ!」


 菅野さんが折れてくれて、わたしはにっこりと笑う。

 わたしの笑顔にもう一度ため息をついてから、彼は教室を出ていく。


「え……っと、ちょっと待ってくださいっ」

「はは。どっか行くわけじゃない」


 くす、っと小さく笑いながらそう言われる。

 その言葉にほっと安心しながら彼の背中を追った。

 結局、菅野さんが足を止めたのはとなりのクラス……E組の教室。


「はい、これを社会科研究室に運ぶんだけど。これ頼める?」


 渡されたのは社会の授業で使った、ひとり一冊貸し出した教材。目の前に差し出された教材を反射的に受け取り、わたしは教材を抱えた。


「じゃ、早く終わらせよ。社研遠いし」

「そうですね。……って……」


 ちらり、と彼の手元を見ると、わたしの何倍もの量の教材を抱えている。


「あの、わたしももっと持ちます!」

「だめ。こういう時は大人しくしてればいいのに」


 結局、最初の五冊以外は何も持たせてくれなくて、申し訳ない気持ちで社研に着いた。


 菅野さんは「失礼しまーす」と、無人の社研の中に声をかける。

 彼は手慣れた動作でドアの近くにあるスイッチを押すと、そのまま中に入っていった。


 部屋がパッと明るくなって、わたしはまぶしさに一瞬目をつぶる。


 前を行く彼について行って、五冊の教材を先生の机に置く。


「おっけー。帰ろ」

「あの、ありがとうございました!」


 つい、その言葉が口から出てわたしはペコッと頭を下げた。

 そんなわたしを見て、彼は驚いたような顔をする。


「え、僕、何かした?」

「教材ほとんど持ってくれましたよね……! わたし、いてもいなくても変わらなかった気がするんですが……」


 わたしの答えを聞いて、彼がわたしに顔を向けた。

 その顔は、蛍光灯に負けないほど、とても明るくて。


「お前って、面白いヤツ」


 ふは、と自然に笑いをこぼした彼が、とてもまぶしかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る