第1話  自称スパイ、来店!

「あの、ここでスーツを作れるって聞いたんですけど…」


店の扉を開けて入ってきたのは、背広にサングラス、そしてトレンチコートという、いかにも「それっぽい」出で立ちの男だった。数子はチラリと男を見上げ、目を細めた。


「ええ、ここはテーラー数子。スーツくらいなら作れるけど、アンタ、その格好はどうしたの? どこかの舞台帰り?」


男はその質問を無視して、すっとサングラスを外し、声を潜めて言った。


「実は、私はスパイなんです。敵に気づかれない特別なスーツを作ってほしいんですよ」


数子はしばし沈黙した後、ふっと吹き出した。


「スパイねぇ…アンタ、それ本気で言ってんの? まるで子どものヒーローごっこだよ」


男は眉をひそめ、真剣な表情で頷いた。


「本気です。私の正体は誰にもバレてはいけない。だから、このスーツに隠しポケットを50個くらい作ってほしいんです」


「50個!? 何を隠すつもりだい、あんた? そんなに入れたらスーツが膨れ上がって、逆に目立っちまうよ!」


「そこをなんとかお願いします。何を入れるかは…まぁ、諜報活動に必要なアイテムですから」


「ははぁ、ガムやらボールペンやら、おやつのクッキーでも隠す気かい? アンタ、スパイっていうより、ただの駄菓子屋の店番みたいだね」


数子は肩をすくめたが、男の必死な様子に押され、仕方なく引き受けることにした。


「まあ、いいさ。どうせ暇だったし、こんなバカげた注文もたまには面白いかもね。でも、50個は無理だから20個で我慢しな」


そう言って数子は、スーツの設計図を描き始めた。隠しポケットをあれこれと考えながら、ため息をつく。


「こんな無茶なスーツ、作ったのは初めてだよ。出来上がっても、ちゃんと使いこなせるのかねぇ…」


数日後、ついにスーツが完成した。男が再び店を訪れ、試着を始める。数子は腕を組んでその様子を見守っていた。


「おぉ…これが私の特別スーツか。素晴らしい出来だ!」


男は感激しながらスーツをまさぐり、次々とポケットに手を突っ込む。しかし、あまりの数に自分でも混乱してしまい、どのポケットに何を入れたか分からなくなっていた。


「あれ? 確かここにあったはずの……あ、いや、こっちか?」


「あんた、本当に使いこなせるのかい? そもそも、そんなにポケットがあったら、いくら隠しても中身がパンパンに膨らんでバレバレだよ」


数子は口元を歪めて笑った。男は少し顔を赤くしながらも、決してあきらめなかった。


「い、いや、大丈夫です! 私はこれでどんな任務でも完遂します!」


そう言いながらも、ポケットに手を突っ込む度に「ここじゃない、あれでもない」とブツブツ言い続けている。数子はその様子を見て、思わず吹き出した。


「まったく、スパイも大変だねぇ。アンタ、もうちょっと整理整頓を覚えたらどうだい?」


「それもスパイの技術のひとつです!」


男はそう言い残し、いまだにポケットの中身を探し続けながら店を出て行った。


「まぁ、あんなのもありかね。今度はどんな奴が来ることやら…」


数子は彼の後ろ姿を見送りながら、笑いを抑えきれずに店内に響くほど大きな声で笑った。その日以来、「変な客」が訪れるテーラー数子の噂は、じわじわと街に広がり始めるのだった。

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