10.一難去って

 目の前には俺より一回りも大きな熊の怪物。そして俺にあるのは、この刃こぼれした貧弱な短剣が一本のみ。

 そんな俺は目の前の怪物からすれば、狩られるのを待っているようにでも見えているんだろう。巨体は脇目も振らず、ただ一直線に突っ走るのみ。赤い両の目はそんな標的をじっと見つめ、俺も応えるようにじっと見つめ返す。

 俺は自然と武器を握る手に力が入る。そしてゆっくりと、しかし力強く立ち上がる。そこにあったのは、今まで感じたことのない、たぶん「生きたい」という気持ちに他ならなかった。そこには、俺がいるのが異世界だとか、だから死んでもどうだとか、そんなものは一切なかった。頭の中をただその思いだけが支配した。それだけだった。

 今か、あと少しか、もしくは最期まで来ないかもしれない好機をじっと待つ。それは、あまりに長い一瞬だった。

 永遠の刹那の、存在しないかもしれない終わり――ついに、それは訪れた。

 そして俺は、命のやり取りが実にあっさりしたものだということも知った。

 覆い被さるように腕を思い切り振り上げたそいつの体は、何があったのか、憑き物が取れたかのようにふっとよろけた、ように見えた。霧に覆われ少し先も見えない真っ暗闇の中、ふと陽が差して一本の道になったような。俺は躊躇うことなく、それに従って真っすぐに力いっぱい、剣先を突き立てた。喉元に刺さる短剣。そして後ろに飛びのく。あまりに無意識に体が動いて、俺にも動物的な本能というものがあったのかもしれないと、そう思った。

 壁のようにさっきまで視界を塞いでいたものは、嘘のように力なく、硬い地面に倒れた。ただその音と衝撃が、この光景が嘘ではないこと、怪物がちゃんと怪物であったことを証明していた。

「――――――っはあああああ!」

 息ができていなかったらしい。ふっと現実に引き戻されるのと同時に、肺にたまっていた空気が慌てて飛び出した。

 細かいことは考えなかった。考えられなかった。ただ、じんわりと理解できるようになっていく今の出来事に、一番は安堵の気持ちが、高速で駆け巡る血液と一緒に体中に広がっていくのを感じた。

 少しして、その感覚もだいぶ落ち着いた。俺は微動だにしない熊っぽいやつに恐る恐る近づく。近づくにつれ、「生きているかもしれない」が「死んでいるみたい」に、そして「たぶん死んでいる」に変わった。そっから前進させるのにうまい手立ては見つからなかったけど、足でちょいちょいと蹴って様子を見たりして、まあ、そういうことにした。

「しっかしこれ、どうすっかな……」

 たぶん道路だろうここに、このまま放置ってのもよくはないと思う。あくまでもそれは日本のルール的にだけど。

 仕方なく、俺は引っ張る、蹴るとかを駆使して、道路脇にそれを転がしておいた。きっとハイエナみたいな生き物が食べて処理したり、こういうのの取り扱いに長けた通りすがりの人が捌いて食用肉にするとか、上手いことしてくれるはずだ。うん、そうに違いない。

 最後に喉元に刺さったままの剣を抜こうとして、ちょっと引っ張ったら血が噴き出たから一度はやめた。なんなら手にいくらか付いた。

「………………」

 でも、俺が命を落とさずに済んだのはこれのおかげではある。いくら誰かの落し物だとしても、命の恩人、いや恩刃おんじんを放っておくのも気が引ける。しばらく悩んだ上で、血を浴びながら回収することにした。

 さて、こっからどうしたものか。とりあえず、走ってきた方向に戻るのはいくらなんでも無駄足というか、少なくともここまでの道のりには何も無かった。逆にここまで来たのに何も無いということはこの先も何も無い……かもしれないけど、仕方なし。思い切って更に先へと足を動かした。


   ◇


 目の前にいる、天使とも死神とも言えそうな容姿をした彼女。その隣には体格のいい、単純に見た目の歳でいえばオジサンと、そして俺に抱きつく山田さん。

 何があったのかというと、それは一時間ほど前に遡る。

 命がけの勝負でなんとか勝利を収めた俺は、山田さんが言っていた『アーウェズト』という国を目指して歩き始めた。

 国というが、山田さんが言うにはイメージとしては街と言った方がわかりやすいとのこと。実際にアーウェズトの人々も自分たちが住んでいる場所のことは一般的には『街』と呼んでいるとも言っていた。

 それに国といっても日本に住んでいる感覚からすれば、それはめちゃくちゃ小さいらしい。人が住んでいる土地もあれば、ただの森やら荒野のまま放っておかれてる土地もかなりを占めている。これはアーウェズトに限らずどこの国も同じ感じらしい。さらに国と国も、各領地の区画はあやふやだともいう。日本に住んでいると忘れがちだけど、陸続きの国なんて珍しくないし、それこそ国境に線が引かれてる訳でもないからあやふやにもなるよなとは思う。

 さて。その目的地は、結論から言うと確かに選んだ方向、その先にあった。それもあの熊に追いかけられながらだいぶ近くまで来ていたようで、歩き出してからは実にあっさりと辿り着くことができた。

 それまで鬱蒼と木々が覆っていた中を歩いていたのに、それが急になくなり空が広くなったかと思うと、今度は整備された一本道だけが伸びる明るい太陽の下に出た。そしてその道の先には、人の背丈なんかよりはずっと高そうな壁が、ずっと横に広がっていた。遠めに見ても人工物なのは間違いなく、さらにその奥には、明らかに建物ややぐらのようなものが見えた。

 社長から貰っていたパンフレットは詳しく見る時間がなかったから、アーウェズトがどんな外観だったかはよくわからない。ただそこが何という場所でも、辿り着いたことに意味がある。怪物やらがどこから襲ってくるかもわからない森の中を彷徨うのだけは勘弁だったからね。

 そしてよく見ると、道の先、国の入口には門番みたいな人が立っている。今になって気がついたけど、どうやら視力も随分とよくなっているようだ。

 とりあえずあの人に場所の名前とか聞けば、これまでの選択が正しかったかがわかるわけだ。もし違ったら、その時改めて考えるとしよう。

 そんなことを思いながら、一本道を真っ直ぐに歩いていく。すると、それまでぼーっと空を眺めていた門番が、少し近づくと俺に気がついた。そして少しあたふたしたような風を見せると、突然門の中に消えた。そしてすぐに、今度は一人が二人に増えて出てきた。大層なおもてなしだなーなんて考えながらなおも歩いていくと、彼らはこっちに走って近づき、それぞれ腰の剣を引き抜いた。

「おい、お前!そのまま両手を挙げろ!武器は地面に置け!」

「ちょっ……え?」

 突然のことに驚く。しかし自分の手を見ると、そういえば例の短剣を握ったままだった。そして俺は、なんとなく状況を察した。

 今、自分が周りからはどう見えるのかを考えよう。まず右手、血が落とせていない短剣が一本。左手、何も無し。そして両手を中心に全身は、この短剣を熊から引き抜いた時に吹き出た血でそこそこ赤く仕上がっていた。

「いや、これには訳があってですね……」

「言い訳はいい!後で聞いてやるから、さっさと武器を捨てろ!」

「はい……」

 二人から剣を向けられた俺は言われたように武器を捨てると、そのまま後ろで手を縛られて、全身を纏うように布をかけられる。犯罪者はどこの世界でも同じような扱いを受けるのか。勉強になるなあ。

「あの、この国の――街かもしれないですけど、名前だけ聞いても……?」

「あ?アーウェズトに決まってるだろ。逃げられないとわかってんのに、今さらしらばっくれてんのか?自分から捕まりに来たくせに……ほら、さっさと歩け!」

 なんのことかわからないまま、引かれるままに足を動かす。そして、想定とはだいぶ違う形でアーウェズトに足を踏み入れることになった。

 そこは、どこか知っているような風景だった。石造りの建物。ちっちゃな角が生えた馬っぽい生き物が引く馬車。一見するとまさしく、歴史の教科書で見た昔のヨーロッパだ。あんまり覚えてないし、それもイラストとかだった気はするけど。

 でも、その時代のヨーロッパは衛生環境が酷かったと聞いたことがある。一見した限りアーウェズトがその点では違っていて、そこは良かった。

 ただ、あっちこっちにと歩いてる人たちを見て、ちょっと残念な気持ちにはなる。異世界だから翼が生えたり耳が長い人間っぽいヒト型生物とかがたくさんいるのだと思ってたのに、どうにもそういった人は見当たらない。筋肉隆々の男とか、黒いローブで杖を持ったまさしく魔法使いみたいな人はいるけど、どちらかというと微妙に現実味がなくてコスプレ感が強いまである。

「こっちだ」

「あっ」

 ついでに街並みとかをちゃんと見ておきたかったけど、すぐに狭い路地に連れ込まれる。大丈夫?このままこの男たちに痛い目に遭わされるとかヤなんだけど。見逃してもらうためのお金も持ってないよ?

「あ、おい、ダロ。ちょうどいいところにいた。ちょっといいか?」

 路地に入ってすぐ、俺を連れていた男の一人が、ちょうどそこの建物から出てきた大柄の男に声をかける。名前はダロというらしい。

「あ?なんだ」

「ほら、今朝の殺しの犯人っぽい奴を捕まえたからよ、こっからは任せた。ほら、鍵」

「いや、俺いま休憩時間になったばっかなんだが」

「じゃ、よろしく頼むわ!おい、行くぞ!」

「え?えっ、は、はい!」

「あっ、てめ……」

 俺を連れていた男たちは、そう言い残すと俺をダロと呼ばれた男に押し付け、走って行ってしまった。

 そして寂しく残される俺と、休憩時間を奪われ面倒事を抱えることになった可哀想な男。

 男は呆れたようなような顔をしながら、ため息をつく。

「おい」

 なんの事やらと自身の胸のとこで困ってる俺に声をかけるのと同時に、被せられていた布をどかす。当然、血が付着する服も露わになった。

「お前、本当に人を殺したのか?」

「いえ、やってないです!というかなんの事かさっぱりで……」

 慌てて答えると、男はもう一度ため息をつく。

「……だろうな――全く、これだから国の教育は駄目なんだよ!血くらい見てわかれって話だろうが……どいつもこいつも誇りがどーとか言っておきながら、なんでも今みたいに途中で放り出しやがって!……まあ当番の仕事もあるから戻らないとってのは分かるけどよ……だったら一人で連れてこいよ!自分だけじゃ不十分だって言ってるようなもんだろ、情けねえ――」

「あの……」

 まくし立てる男。それに内心びくびくして、小さめに声をかける。

「ああ、すまん。日頃の不満っつうか、まあ気にすんな。事情は知らんが、たぶんお前が悪いってことじゃないんだろ。その服じゃあちこち動けねえだろうし、とりあえず中に入れ」

 そう言うと小さな刃物を取り出して、縛っていた縄を切る。

「ええと、ありがとうございます……?」

「そういえばお前、ニホンの人だろ。あれだろ、みたいなことやってんのか?」

「いえ、もしかすると知らないかもですけど、僕はイセカイ運輸の職員で――」

「イセカイ運輸?適当なこと言うな。あそこの職員がそんな格好で外を彷徨うろついてる訳ないだろ」

「いや、そうかもしれないんですけど」

「……まあ、後で確認すればいいか。ちょうどシェナもいるしな」

 シェナ?名前だろうか。山田さんたちからは聞いてない気がするけど、うちの会社のことに詳しい人なんだろうか。と、誰なのか聞いておきたかったけど、それより先に男は俺を建物の中に入れる。

 でも、説明に納得はしてくれなかったけど、せめて会社のことを知ってる人だったのが何よりだ。あとは、シェナさんという人が話が通じる人だといいんだけど。

 それにしても、お休み返上での来訪者の対応、お疲れ様です。どこの世界でも仕事とはこういうものなのなんだろうか。明日は我が身かもしれない、そんなことも思うといくらか憂鬱になった。

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