5

『ああああああ!』

 めちゃくちゃにノイズを混ぜたような女の声が室内に響き渡る。空間がビリッと揺れて、思わず秋成さんの腕を掴んだ。彼はその不快な音も聞こえないみたいに俯いている。

 私は近江さんを見た。

「近江さん、それ。たぶん白崎さんに最初から憑いてるやつかも」

「らしいな」

 近江さんはなんてことないようにそう言って、また煙管を吸った。ずるりと出てきた煙が女を絡めとる。それが心底不快だというように、女はまた奇声を上げて吠えた。吊り上がってしまった目が縦になり、開いた口の端がぶちぶちと切れて耳まで辿り着く。狂ったように頭を振り乱し、その体がぐっと煙ごと近江さんに近寄った。煙が、押し負けている。

 女は間近で近江さんの顔を睨んで、それからニヤッと嗤った。嫌な笑みだった。

『お前ッ……お前、そうか! 近江の倅か!』

 ノイズ混じりの女の声が、近江さんの名前を呼んだ。そのことにぎょっとして私は咄嗟に近江さんを見る。彼もこれには驚いたようで、一瞬目を瞠った。

『ケハハ! 近江の! 出来損ないの倅か! ツグヒサの真似事をしてワタシを殺すつもりか!』

 女がゲラゲラと笑う。ツグヒサは知らない名前だった。人の名前みたいだけど聞いたことがなかった。

 女が笑うたびに空間が揺れて身体から何かが千切れそうな感覚を起こす。近江さんが口から煙管を離した。

『そんなことは出来まいて、出来損ないの! どうやってワタシの動きを封じたか知らないが、所詮は出来損ないの真似事よ! 知っているぞ? お前、視えないんだろう?』

 女がさも可笑しそうに笑う。裂けた口がきゅーっと持ち上がって、馬鹿にしたように優しく言った。

『可哀想に。お前が、出来損ないが余計な真似事をするからワタシの玩具が壊れてしまった。可哀想に。お前のせいだよ、倅の。あれはよく言うことを聞いてヨカッタのに。視えない出来損ないが』

 女は何度も近江さんのせいだと繰り返す。もしかして玩具とは、白崎さんのことだろうか。そう思って私の中でふつりと怒りが沸く。

 女は私でも知らない近江さんの家のことを知っているみたいだった。けれどそれと同時に、知らないこともあるみたいだ。だって今の近江さんは――

 煙管を離した口元が、ふっと笑みを作る。

「視えてんだよ、ババア」

 その切れ長の眼が女を捉え、次の瞬間には彼の心情を代弁するかのように煙吾が蠢き女を一呑みにした。「ギュッ」と何かが潰れた音がした。

 ――今の近江さんは霊が視えている。私が視ているからだ。

 ぐるぐると一層濃く深く巻きついた煙が女を締め上げる。煙の隙間から顔を出した女の口が何かを吐き出す前に、その真っ黒な空洞の口内に煙が滑り込んだ。胴の太い蛇が無理矢理口をこじ開けてその体内に入っていく。ずぶずぶと侵食していく煙吾に、女はとうとう目を見開いてがくがくと震えだした。

「残念だったな、俺が出来損ないで」

 近江さんのその言葉の意味は分からなかったが、次の瞬間に体内まで侵食された女はさっきの白崎さん同様煙に握り潰されるみたいにぎゅっと小さくなって、それからパッと煙と一緒に霧散した。後には残り香のような煙が漂っていた。

「近江さん」

 私は彼に近寄る。さっきの女の言葉が気になって、彼が心配になった。けれど近江さんは一度私を見て、それからなんでもないように煙管の火をとんとんと処理する。

「問題ねぇよ。俺が探してるやつかと思ったが、違ったみたいだ」

 その言葉の意味も、よく分からない。たぶん、近江さんの家に関係することだ。

 室内はいつの間にか少し明るくなっていた。さっきまでの墨を落としたような闇は薄れて自然な夜の暗さになっている。あんなにいろいろあったのに部屋の中はしんと静まっている。

「行くぞ。用は済んだ」

 煙管を内ポケットに仕舞った近江さんが歩き出し、それから秋成さんを見る。彼はまだ座り込んだままだ。

「秋成」

 彼がぴくりと反応する。

「立て、帰るぞ」

 私はさっさと玄関に向かってしまった近江さんの背を見て、それから秋成さんに目を向ける。彼はゆっくりと顔を上げて、それからもう何もなくなってしまった部屋を見て、静かに頷いた。


 それから私たちは待機していた島田さんの運転で近江さんの事務所に帰ってきた。

 いつの間にか日付が変わろうとしていたので、もう無理動けないと――主に私が――駄々をこねてみんなで事務所で雑魚寝することになった。

 近江さんには心底嫌そうな顔をされたが、どうせ詳しい話はまた明日するんだしということで無理矢理眠りについた。

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