8
中は、しんと静まり返っている。
部屋の電気を全部消しても、この暗さにはならないだろう。天井から滲み出た黒い靄が視界の半分を消している。そんな妄想をしてしまうくらい、中は闇に覆われている。その向こう、短い廊下の先にぼんやりと扉が見える。廊下と部屋を仕切る扉だ。閉まっている。
後ろを振り返った。
暗いが室内よりはっきり見える玄関に、身を預けるように立つ近江と加瀬が並んでこっちを見ていた。目が合った加瀬が小さく頷く。
俺は、ふーっと息を吐いた。手に汗が滲んでいる。そして、無理矢理足を踏み出す。古い床がギッと鳴いた。
廊下は、確かそこまで長くもない。短かったはずだ。それなのに、全然扉が近づいてこない。周りが暗すぎて距離感を掴めていないのか。その周りの闇から何かがこっちをじっと窺っているようで足が進まないせいかもしれない。壁についた手に汗が滲む。
後ろを振り返った。
随分歩いた気がしたが、なんてことはない。三和土からまだ一歩ほど進んだ距離しか来ていない。後を付いてきていた近江がやっと三和土に足をつけたところだ。大人一人がやっとの狭さのため、加瀬はまだ玄関先に立っている。
いつの間にか短くなっていた呼吸を強引に整え、また足を進めた。途中、両脇にトイレと浴室の扉があったが、どちらもぴっちりと閉じられていた。それが何の前触れもなく開いて中から誰かの目が覗き込んでいて……なんてことはなく、子供のおままごとのようなコンロを通り過ぎ、漸く扉の前に来た。はーっと息を吐く。緊張から額に汗が流れ、それを手の甲で拭った。
もう一度後ろを振り返る。
暗い中、ぼんやりと長身が背後に立っていて、その後ろに小柄なシルエットがちらちらと見えた。いつの間にか玄関は閉めたらしい。真っ暗な廊下に誰かの呼吸音が聞こえる。
近江と加瀬だ、と思ったが暗くて相手の顔が輪郭ほどしか確認できない。長身である近江の後ろに立っているだろう加瀬に至っては、彼の隙間からちらちらと見える程度で全体も見えない。
これは本当に、二人なのか?
その考えが浮かんでゾッとした。長身の近江は俺より背が高い。小柄な加瀬がその後ろをつくと見えないのも分かる。だが、二人とも顔がよく見えない。
暗闇のせいだ。こんなに暗ければ人の顔も認識できなくて当たり前だ。そう思うが、意図的に黒く塗りつぶしたように顔が見えない背後に立つものを、俺はじっと凝視してしまっていた。手を伸ばせばぎりぎり届く距離にいる人影にごくり、と喉が鳴る。本当に、二人だよな?
黒い人の形をしたものが、じっとこちらを向いて立っている。口の中が乾いて、言葉を探すのに苦労した。
「おうみ、さん……」
「なんだ」
やっとの思いで出した声は掠れていた。ほとんど息のようなそれに、ちゃんと返事があった。声はさっきまで聞いていた近江の声だ。ずいと距離を詰めてきた長身の顔が闇から浮かび上がる。
無造作に下ろされた前髪から覗く切れ長の眼に、シュッとした俳優顔。その顔から幾分怖さが和らいで見えるのは、暗くて視界が悪いからだろうか。とにかく、後ろにいたのは近江だった。よく考えれば順に玄関から入ってきたのだから彼以外に間違いないのだが。
歩みが止まったことで、後ろの方から「ど、どうしました?」という声が続く。声は加瀬のものだった。こちらも当たり前だが、ちゃんと彼女本人だ。そのことに酷く安堵して、問題ないことを伝え前に向き直る。
目と鼻の先に扉がある。暗いが、ドアの取っ手も確認できた。一度確かめるように呼吸を繰り返し、そうして取っ手に手をかける。建付けのためか僅かな引っ掛かりを覚えながら、大きく扉を開けた。
部屋の真ん中に、白崎が座っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます