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「こんばんは~」

 気の抜けそうな声が夜の闇に溶ける。イントネーションが西の方のそれだった。

 初めて近江の事務所に行ったとき、一階のコーヒーショップで目が合った男性だ。会話こそなかったが、その柔らかい表情は印象に残っている。今はショップ内で見たシャツとエプロンではなく、ぴっちりとしたライダースーツを纏っていた。

 彼はにこにこと俺と加瀬を見て、それから近江に目を向ける。

「遅いて、匡嗣さん。連絡来てから手配して全速力で匡嗣さんの後追いかけてって。それ三十分で済ませたんやで? 逆に早かったないうて労うところやわ」

 言葉こそ不満そうだが、その顔は変わらずにへらっと笑っている。笑うと目をきゅっと細くするもんだから余計に周りの空気が和らぐ。

 いきなりの第三者の登場にどうしたらいいか分からずにいると、隣にいた加瀬に軽く腕を引かれた。

「え、えっと。この人、来栖くるすくん。お、近江さんのとこで働いてる人な、なので、大丈夫です」

 こそっと耳打ちされた内容に驚く。ただのコーヒーショップの店員だと思っていたが違うのか。なんなんだ、近江の事務所は。と思っていたら来栖がにこにこしながらポケットから何かを取り出し、近江に差し出す。何かがチャリと音を立てた。

「まあ、匡嗣さんが先走ってドア蹴り開ける前で良かったわ。面倒事を消すのも面倒やし。で、はいコレ。頼まれてたもん

「お前があと五秒遅ければ脚が出ていたかもなぁ。もういいぞ、帰れ」

「はぁーっ、この容赦ない感じ! 思いっきし残業してこの扱いやで。俺かわいそうやと思わん、ひなたちゃん?」

「ええ、と。お、お疲れ様です」

 とんでもなくまいったなという表情で、けれどへらっと笑って自身のおでこをパシンと打った来栖は、くるんと向きを変えて加瀬に同意を求める。それに多少後退った加瀬に気づかなかったのか、やたら陽気な来栖は「せやんな~」と笑っている。加瀬も慣れているのか、特にそれ以上困った様子は見せない。

 あの美味いコーヒーを淹れたのが目の前のこれと言われて複雑な気持ちになったが、何故か納得する気持ちもあった。飲んだコーヒーの味と香ばしい香りを思い出していると、パッと顔を上げた来栖と目が合う。

「秋成くん、頑張ってなぁ」

 何を、と言う間もなく「ほな帰るわ」と言って来栖がバイクの方に戻っていく。すれ違い様に肩をポンと軽く叩かれ、一拍遅れて振り返るともう彼はヘルメットを装着しているところだった。

 自己紹介もし合っていないのに名前を呼ばれたことに多少モヤッとしたが、それは背後でガチャリと鳴った金属音に阻まれた。近江がドアノブに鍵をさしている。

「え、鍵、え? なん、?」

 なんでここに白崎の家の鍵があるんだ。混乱する頭で、さきほど来栖が近江に渡したものが過る。何かが金属の擦れるような音を立てていた。手配して。頼まれた物。来栖の言葉が蘇り、さっと血が引く。その来栖は来た時と同じようにエンジンを吹かして走り去った。

「こんなん――!」

 犯罪じゃねぇか! と叫びそうになったのを加瀬が止めた。ぐいと引かれた腕に力がこもっている。バッと彼女を見ると、しーっというように口に指を当てていた。

「よ、よくないことですけど、近江さんはこ、こういうことできちゃうくらい力持ってる人、なので……」

 でも騒がれると困るので、と続けた加瀬に頭が痛くなりそうだ。

 どうやってやったのか見当もつかないが、短時間で見てもいない特定の部屋の合鍵を作らせて躊躇いなく開ける。これが犯罪じゃなくてなんなんだ。俺は今、本当にやばい奴らと一緒にいるんじゃないのか。

「何してる、さっさと来い」 

 当たり前のように近江に促される。その手はもう玄関を開け放っていた。これは俺も犯罪者の一味になれということかと絶望していると、加瀬が顔を覗き込んできた。

「だ、大丈夫です。鍵はあ、あとで処分するので。それより……」

 彼女がすっと前を向く。それを追うと、ぽっかりと口を開けた玄関が目に入った。処分するしないではないと言いたかった口が閉じる。

 もう夜も遅い。外の暗闇のせいもあって見えにくいのは分かる。だが、それよりももっと深く、墨を落としたような闇が口を開けている。中を覗き込もうにも暗すぎて何も見えない。鳥肌がぶわっと襲ってきた。近江と目が合う。

「秋成、お前が先に行け」

 それは死刑宣告か何か?

 思わずふるりと首を振って拒絶を表してみるが、近江からは盛大な舌打ちを、加瀬からは催促するように背中を押され、俺は死ぬ思いで重い一歩を踏み出した。

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