部屋のこと

1

「ほんっっと、そういうところが大っ嫌いなの!」

 わっ、と飛び込んできた声に意識が浮上する。何の夢も見ずに、朝ぱっちりと目覚めたときに近かった。

 まず目に入ったのが白色のカップに、その中で揺れる真っ黒い液体。コーヒーだ、と気づいたのは嗅覚が起きたのかもしれない。その次に、恐らく自分の膝。その上に軽く両手を置いている。座っているのか、俺は。寝ているんじゃなくて? と思ったら、隣からまたギャンと声が上がった。

「だいたいねぇ、私はひなたちゃんにお願いしに来たのよ! 性悪男に話を持ってきたんじゃなくて!」

「その、お願いしに来たやつも、俺が手を貸さねぇと何にもできねぇだろうが」

「はぁ!? そっちだって、ひなたちゃんがいないとなんっにもできないくせに!」

 隣を見ると、会社でほぼ同期の仙名千尋が立ち上がってものすごい形相で怒っていた。彼女は俺の半年後に途中入社してきたやつだ。歳も俺の一つ下で、座席も隣同士のために何かしら話すことも多い。かといって特別仲がいいというわけでもないはずだ、たぶん。

 その仙名が、目線の先に向かって指を指しながら吠えている。彼女のこんなに怒っている姿は社内でも見た記憶がない。そんな顔で怒るんだなと、どこか場違いな感想を持つ。そもそも何に怒っているんだと彼女の視線を追うと、こちらに対面するように座るスーツ姿の男が目に入った。記憶に新しいその人物に、頭の中でカチリと何かが嵌まる。

「近江……?」

 何故か声が掠れていたが、思わず出たその小さな言葉に対面の彼は気づいたらしい。切れ長の目がスッとこちらに標準を合わせる。まだ何か言いかけていた仙名の声も途中でピタリと止まった。

「あ、秋成くん?」

 こちらを窺うように遠慮気味に響いたそれに発した本人を見上げると、一瞬その目が揺れた気がした。彼女は自分の胸の前でぎゅっと握っていた手を、だんだん力が抜けるようにだらりと下ろす。その顔は、怒っているのか、悲しんでいるのか、子どもが何かを我慢するような表情をしていた。

 俺はなんとも言えない気持ちになる。

「仙名、何やってんの?」

「なに、何って……はぁーっ」

 何といえばいいか分からずとりあえずそう訊ねれば、仙名は何度か口をもごもごさせてから何かを諦めたみたいに盛大に溜息を吐いてソファに崩れ落ちた。革張りのそれが重みでギュッと悲鳴を上げた。


「つまり俺は仙名に助けられたと」

 事のあらましを聞いた俺は簡素にそう締めくくった。自分のことだというのに自覚がなく、薄っぺらい読書感想文のようになってしまった。

 仙名が言うには俺の部屋に何かがいて、ここに来るまでの俺もおかしかったというが何せ記憶がない。少し記憶を掘り返してみたが、畑瀬という刑事が訪ねてきて、話しているうちに頭痛が酷くなったというところでプツリと途切れている。

 それより、どうして俺はまた近江の事務所にいるんだ? 仙名が連れてきたと言っていたが、この人物とは先日啖呵を切って別れたばかりなので若干の気まずさがある。しかし近江本人は別段気にしていないのか――元々の顔に迫力があるのは別として――静かに脚を組んでいた。

「ほんと、危なかったんだからね秋成くん。部屋に何かいるし、君も様子が変だったし、石齧ってるし」

 石齧ってるし。背中を冷たい手で撫でられたようにひやりとした。白崎の最期の姿が浮かぶ。俺も、ああやって死ぬかもしれない。

 その考えを消すように話題を変えた。

「ところで、なんでここに? 仙名、近江……さんと知り合いなのか?」

 あまり好かない相手でも、どう見ても年上だ。言い方を切り替えた俺に、仙名は「ああ、違う違う」と手を振った。

近江こっちはオマケ。私が頼りたいのは、ひなたちゃんの方」

 こっち、と不躾に指を指された近江がぴくりと動いて内心ひやりとする。さすがに、そんなぞんざいな態度は俺も取れない。

 ひなたって? と聞こうとして口を開いた瞬間、部屋の扉がバァン! と壊れるような音を立てて開いた。

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