15

 カタリ、という音で意識が浮上する。

「あれ……寝てたのか」

 いつの間にか意識が飛んでいたらしい。ぼーっとする頭で何度か瞬きを繰り返すが、視界が戻らずに暗闇が濃い。記憶にあるのは昼を少し過ぎた頃の日差しを差し込む明るい部屋だ。それが今は家具の配置も見えないほど闇に染まっている。そんなに寝てしまっていたのか。

 体を起こして、洗面所に向かうついでに照明を付ければいい。長年住み慣れた狭いマンションの一室は暗闇だろうと歩けるほどに熟知している。足を踏み出し、壁に手を着いた。

 ――はずの手が、空を切る。

「ん?」

 空振りした方を思わず見る。まだ目は暗闇に慣れないが、ソファのすぐそばに壁があるはずだ。そんなに移動した覚えもない。

 不思議に思って、視界を慣らすためにもう一度何度か瞬きを繰り返す。が、一向に目が光を捉えない。もうとっくに頭はクリアになっているのに。ここで漸く何かがおかしいと、胸の隅っこに闇が居座る。

 そもそも暗いといっても、ここはマンションの中だ。窓からは人工的な光が入ってくるし、室内が朧気にも見えないなんてことはない。けれど今、足元にあるはずのソファも見えない。

「いやいや、そんなわけないだろ……。どうせ天気が変わって曇ってるだけで……」

 誰かに言い訳するかのような言葉が滑り出る。笑ったはずの口角が上手く持ち上がっているのか分からない。

 嫌な汗が背中に伝うのをそのままに暗闇の中、洗面所があるであろう方向へと足を進めた。ソファから立ち上がって三歩も歩けば壁にぶち当たり、そこから右に少しズレれば廊下があって左手に洗面所だ。直進すれば玄関に出る。

 前に手を突き出したまま三歩、四歩と進んだところで手のひらに汗が滲む。何にもぶつからない。暗闇は何も映さない。急かされるように呼吸が短くなっていく。

 と、背後に強烈な気配を感じた。

「っ!?」

 振り返ったところで闇は闇のままだったが、何かに見られている気配がする。じっとこちらの様子を窺っているようなそれに息が上がり、呼吸を求めて口が開く。

 そんなわけないだろ、ここは俺の部屋だぞ。

 とっくに目が暗闇に慣れてもいいはずなのに、いまだに何も映さないことに心臓が全力疾走したときのように煩い。体を動かそうにも、じっとりと向けられる気配に指先が動かない。まるですぐ目の前に誰かが立っていて、細胞の先まで見られている感覚に叫び出しそうになる。

 息をすることも、相手に知られてはいけないような。

 ――ふいに、ぱっとテレビの電源を消すように気配が消えた。同時に、視界に見慣れた部屋の窓が映る。

「あ、あれ?」

 自然と詰めてしまっていた息を緩め、きょろきょろと辺りを見回す。

 ソファ、窓、テーブル。見慣れた自分の部屋だ。足はソファと壁の間で止まっていた。少し暗いが、全くの闇ということでもない。自然と窓から入ってくる光でぼんやりと室内が照らされている。

「なんだよ、まったく……」

 どっと抜けた力に溜息を吐く。白昼夢でも見ていたのか。それとも単に寝ぼけていただけなのか。額に滲んだ汗を拭う。

 自分が思っている以上に疲れているらしい。そういえば昼飯も食べた記憶もないが、飯の前に風呂に入りたい。汗で気持ち悪い体を流したかった。

 もう一度溜息を吐いて、壁に手をつき、短い廊下に向かう。ソファから立ち上がって三歩ほど歩いた壁だ。そこから右に少しズレれば廊下が視界に入る。

 壁から、右にズレる。

 視界に、真っ黒い人のようなものが立っていた。

 それがなんなのか。頭が理解するより前に、そいつが俺の顔スレスレまでずいっと近づいた。指一本分ほどしか距離がない。視界が黒い。焦点が合わない。肌に生温かい呼気のようなものが当たる。何かが腐った臭いがする。視界の前の闇が一部分だけもごもごと動いていて――


「うわあ!?」

 飛び跳ねた。拍子に体勢を崩し、ドタン! と大きな音を立てて衝撃が襲ってきた。痛みと恐怖と混乱した視界に僅かに入ってくるのは、横向きに映るテーブルの足。

 先程まで見ていたそれが夢だったと。ソファから落ちたのだと認識して、何故か涙が出た。

 同時に、夢だというのに感じ取った腐敗臭と生温かい呼気を思い出して、俺はその場で吐いた。

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