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 内容はよくは見えないが、メモ用紙を千切ったようなそれに顔を顰める。

「なんですか、それ」

「あ、わ、私の連絡先です」

 何かあったときに、と続けられた言葉に、ますます眉間が寄る。

 こういう状況でなければ、同年代程の女性から連絡先を渡されて喜ぶだろう。けれど今、『こういう状況』だ。ついでに言えば、目の前に立っているのは――失礼だが――あまり目を惹かないような、数メートル走っただけで死にそうになっている女性だ。

「必要ないです」

 溜息と僅かな苛立ちを乗せて言えば、びっくりしたような顔をされた。そんな顔をされる謂れはない。思わずむっとすれば、彼女は慌てたように首を振った。

「あ、いや、でも。お、近江さん、あんなだから、また必要になったと、ときに困るだろうとお、思って」

 まるでこの先困ることを前提にしたようなその物言いに文句を言おうかと口を開く前に、さっと手を握られる。その、氷のように冷たい手に驚いて体が固まった。

「と、とにかく、」

 そこで加瀬は一度言葉を切って、視線を駅の方に向ける。意外にもまつ毛の長い小さな目が何かを捉えたように一点を見つめている。

 なんだと思って自分もそちらに目をやるが、駅前通りで行き交う人混みがあるだけだ。ざわざわと耳につく話し声がさっきから煩いだけの。

 視線を戻すと、彼女はまだ向こうを向いていて、その唇が何か言葉を形作る。残念ながら小さくて聞こえなかったのか、あるいは元から何も発さなかったのか分からないが、その声を掴み取ることはできなかった。そうしていると唐突に加瀬がこちらに視線を戻し、ばちっと目が合う。

「何かあったら、電話してください」

 吃らずに言い切ったそれが、ざわめきを通り越して耳に入ってきた。

 ひやりとした冷たい手に紙切れを握らされて、彼女はぺこりと頭を下げて戻っていく。そのやけに小さな背中が建物に吸い込まれるまで、俺は何故か動けなかった。


 結局、自宅に戻ってきたのは正午を少し回った頃だった。

 思い出したように動かした足をのろのろと進め、乗り込む寸前で扉の閉まった電車を一本見送り、最寄り駅で降りてからスーパーで数日分の食料を買い込み、溜息と共に自宅玄関を施錠した。結局、さっきの紙切れはポケットに入ったままだ。

 ほぼインスタントを詰め込んだ買い物袋を適当にテーブルに放り投げ、体をソファに沈み込ませる。

 なんだか体が重いが、精神的疲労だろうか。途切れた思考に先程の近江とのやり取りが思い出され、顔までソファに埋めた。

「疲れた、もういい」

 思えば、どうして自分がこんなことをしなければいけないのか。ただ最期のあいつの声が、表情が、脳の皺に入り込んだみたいに消えてくれない。

 そもそも白崎が謝っていたのは先に俺が電話をかけたから、その名前を見たから俺を呼んでいたんじゃないのか。謝罪の意味はよく分からないが、ようは誰でもよかったんじゃないか。鈍った思考でそう考え、また顔を埋める。

 瞑った瞼の裏側に、しゃがみ込んで背を向ける白崎が浮かんで、パッと消えた。

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