13
「さんっ?」
自分の声が見事に引っくり返る。中途半端に零れ落ちたそれは立派なローテーブルを滑り落ちて床に転がった。
聞き間違いかと縋って近江を見るもニヤニヤと笑っていて。その隣では少し気まずそうな加瀬の表情がチラチラと見えた。
「えっと、」
「三十万だ。それ以下はない」
静かに繰り返されて、ひゅっと息が漏れる。冗談かと思ったが、相手は真剣に言っているらしい。
俺はこういう相談事に対しての相場なんて知らない。けれど、それが異常な額だということくらい分かる。頭の中がひやりとした。
「いくらなんでもそれは……!」
「払えねぇなら帰れ。金にならない話は必要ない」
ピシャリと言い、すらりとした脚が組まれる。長身だからか、長い脚がローテーブルとの間で狭そうだ。
隣では加瀬が戸惑ったように肩を竦める。
「お、近江さん。やっぱりたか、高すぎるんですよ、き、金額。三十万なんて大金、一般市民はそ、そんなポンポン払える額じゃ、」
「加瀬ぇ、その報酬の半分がテメェの口座に振り込まれてるんだろ。自活できないくせに、生活費が減って文句言える立場か? あ?」
「そ、そそそれはぁ……」
横目で睨まれた加瀬が面白いくらいに狼狽えて目を泳がせる。胸の前で何度も無駄に行きかう手が近江に縋るような仕草をしたり膝に着地したりと忙しい。
その、こちらを無視したような空気にカッと血が上る。
「っふざけんな!」
想像以上に声が響き、ぴりと室内が震える。思わず立ち上がった拍子にカップがカチャリと悲鳴を上げた。
びくりと肩を震わせて目を開きこちらを窺う加瀬とは対照的に、近江は表情も変えずに立ち上がった俺を下から睨みつけた。その蛇のような眼に一瞬後悔のようなものが生まれたが後には引けなかった。
「そんな大金払えるわけねぇだろ! こんなの――」
詐欺だ。という言葉は無意識に飲み込んだ。
だいたいどうして自分がそんな大金を払わなければいけないのか。こっちは少し調べてほしいだけで、そもそも何をどうやって調べるなど明示されていない。そんな怪しいものに、そう、死んだやつのために。
しかし、張り上げる声も聞こえていないかのように、近江は態度を変えない。
「さっきも言ったはずだ。払えねぇなら帰れ」
静かなその声に余計に腹が立った。
用が済んだというように視線を逸らして煙草を咥え始めた男にとうとう限界を迎え、隣で慌てる加瀬も無視して早足で部屋を出た。これ見よがしに扉を閉める手に力を込めれば、鉄扉は建物を揺らすほどの騒音を出す。
一階に降りればカウンターで作業していた若い男性が視界に入ったが、その表情を認識する前に店を出た。島田さんはいなかった。
勢いのまま店を出ると、外は平日の昼前というのに行き交う人でざわざわと騒がしい。駅近ということもあるのかもしれない。通りの向こうを見れば駅に向かう人が滑り込むように流れている。
大勢の人間が口々に喋る騒めきが耳に煩く、苛立ちのまま自分も駅へと足を向ける。白崎のことは気になっていたが、その気持ちも先程のそれで薄れてきていた。
もういい、と足を速めたとき、後ろから声が追いかけてきた。
「ちょ、ちょっと待って、待ってくださ、あ、あきなりさ……!」
か細い声に振り返れば、加瀬が息を切らして走ってくるところだった。
「ま、まって、ま、げほっ、ぐぉほっ!」
先程の近江の態度が思い出されそのまま無視もできたが、酸素不足で盛大に噎せて倒れ込みそうになっているその姿に自然と足が止まる。店からまだそう距離も離れていない俺の前に漸く追いついた彼女は膝に手を置いて苦しそうに息を整えていた。
「……大丈夫ですか」
「ごほっ、だ、だいじょうぶで……ちょっと、う、運動不足で……」
運動不足という範囲を超えている気がする。たった数メートルの距離でこれだけ息を乱している人は初めて見た。しばらくぜぇはぁと大きく肩を上下させていたが、やがて落ち着いたのか顔を上げる。
「す、すみません。あの、こ、これをわ、渡しておきたくて」
ふーっと息を吐いた加瀬が、すっとこちらに手を伸ばす。
その手には紙が握られていた。
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