6

 白崎と初めて話したのは、新人研修のときにあいつがペットボトルの水を床にぶちまけたときだ。


 ――バシャンッ!

「あっ! ご、ごめっ、……いえ、あの、すみませっ……!」

 緊張からかなんなのか、ぶるぶると震えていた手がペットボトルの蓋を開けようとしたのを滑らせて手から離れ、中途半端に開けられた蓋が床に着弾した勢いで外れて中身の水がぶちまけられるまでの一連の流れを、俺は研修の怠さに疲れた頭で見ていた。

 まだ半分以上中身が残っていたペットボトルの中身がどぼどぼと床に流れていく。白崎は泣きそうな顔でポケットからハンカチを広げ水を吸わせるが、幾分も吸う前に小さな布は用を足さなくなった。休憩に入ったところだったので研修担当の社員は部屋を出ている。周りの同期は痛い物でも見るような目で白崎を見下ろしていた。

 面倒だなと思った。けど。

「まず倒れてるの直した方がいいんじゃねぇの」

「えっ、あっ……」

 俺の足は無意識に動いていて、水浸しの床の傍にしゃがみ込み、倒れたままになっていたペットボトルを戻す。傍に落ちていた蓋を拾ってしっかり封をし、それから自分もハンカチを広げて水を染み込ませる。その間、白崎は戸惑った顔で床と俺を何度も見ていた。

「あの、あの、ハンカチ、濡れるので……」

「もう遅いし、どうせただの水だろこれ。後で絞れば問題ない」

 押し付けたハンカチはすぐに水を吸ったが、随分と床は綺麗になった。残りはポケットティッシュを数枚消費して吹き上げれば何事もなかったかのように元通りになった。

 そこまで一切動こうとしなかった他の同期達の視線を背中に受けつつ、滴り落ちるまで限界に水を吸ったハンカチを手に立ち上がる。

「休憩終わる前に、お前もそれ絞っとけよ」

 それ、と言われて座り込んだままの白崎は俯いたまま手元を見る。水分を吸った布は重量を増していて、白崎がそれをギュッと握ると吸い取った水分がじゅわっと滴り落ちた。その水は真っ赤に染まっている。

「え?」

 俺の口から素っ頓狂な声が漏れた。白崎が握った布から真っ赤な液体がどろどろと流れてきて、それは床を這って俺の革靴を濡らす。それを目で追っていると、自分の手に持ったハンカチも真っ赤に染まって液体が滴り落ちているのが目に入った。反射的にそれを放り投げる。

「うわっ!」

 布は水分を含んで重くなり、べちゃっという潰れた音を立てて床にへばりついた。そこからもどす黒い水が流れ出す。

「秋成、ごめんね」

 目の前で座り込み俯く白崎が弱弱しく言葉を発する。その顔がだんだん持ち上がってくる。やめろ。

「ごめんね、でもほんと、仕方なかったんだ」

 垂れた前髪の隙間から白崎の目が、虚ろなそれが俺を捕える。ぐいと持ち上げられた顔の半分から下が真っ赤に染まり、肉が潰れてぐちゃぐちゃな口だったものがぽっかりと開いて獲物を待ち望んでいる。

「あひぃない」

 潰れた口を持ち上げ、白崎は笑った。



「――ッ!」

 ハッと目を開ける。心臓の音が全身を駆け巡る。目の前にあの赤色がちらつき、何度も瞬きを繰り返した。口からは乱れた空気が漏れ出る。

 そうして何度か呼吸を整えて漸く頭が落ち着いてくると、目の前に見えるのが蛍光灯のついた天井だと理解してくる。僅かに動かした手はシーツのような手触りを伝えてきた。寝かされているのか。

 試しに動かした首は問題なく動かせそうで右に左に動かすと、いつの間にか左側にいた男と目が合い動きが止まる。

「やっと起きましたか、秋成さん」

 男は溜息混じりにそう言った。知らない声だった。

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