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外に出ると先程より日が傾いていて、アパートの影がより伸びていた。時間を見ると三十分程しか経っていないがここの雰囲気も相俟って随分暗く感じる。
部長になんて言うか。なんとか言い訳をしつつ穏便にあの爺をやり過ごす算段を頭の中で組み立てながら敷地から出ようとしていた時、アパートの入り口の向こうからこちらに向かって一人の老婆が入ってくるのが見えた。腰が曲がってよたよたと歩いてくるそれを見て俺は距離を詰める。
「すみません、ここのアパートに住んでる方ですか? 俺、一階の奥に住んでいる白崎ってやつの知り合いなんですけど、彼のこと知りません?」
愛想良く笑ってみる。その辺りの社交性は身についている。
俺に進路を防がれてか、老婆はぴたりと足を止め曲がった腰をそのままに下から俺を見上げた。見上げた、というより睨みつけられた。俺はそう思った。しわくちゃの皮膚に無理矢理押し込んだような小さな目が、ぎらりと俺を睨みつける。思わず怯む。
「えっ、と……」
作った愛想笑いが引き攣った。嫌な沈黙に体温が下がる気がした。
老婆は何も言わずにじぃっと睨んだかと思うと、ふっと視線を外して俺を避け、一階の一番手前の部屋に入っていった。扉が閉まる音にまた苛立ちが積み上げられる。
「はあ? ふざけんなよババア!」
扉でも蹴りに行ってやろうかと思ったが寸でのところでやめた。後々面倒なことになるのは先に手を出した方だ。
収まらない苛立ちをそのままにアパートの敷地を出る。もういい。白崎はいなかった。部長には文句を言われるだろうが、それよりももうここから立ち去りたかった。駅まで辿ってきた道を記憶を頼りに進む。地図アプリを開くのも面倒だった。遠くの方で救急車のサイレンが小さく聞こえ、その音にも苛立つ。
そうして水の濁ったような臭いのする河川のそばを早足で歩いていた時、俺のスマホに着信が届く。
表示された名前には『白崎良介』の文字。
「白崎! お前どこにいんだよ!」
秒で通話を開始した俺は相手が口を開くより早く怒号を飛ばしていた。白崎の名前を見て苛立ちがピークに達していた。耳に当てたスマホからは、ザザザ……というノイズが断片的に聞こえてくる。
「お前のせいでこっちは迷惑してんだぞ! いい加減にしろよ! お前――」
そこまで言って、耳に入ってくる音が不自然なことに気がついて言葉が途切れる。ザザ、というノイズに混じり引き攣るような声、それからゴリッという何か固い音も混じる。俺の足から歩みが止まる。次の句を出せずにいると、漸く声が聞こえてきた。
『あ、あきなり……秋成、ごめん、俺、おれもうどうしたらいいか分からなくて』
その声は弱弱しく、嗚咽が混じる。時折思い出したようにゴリッという音がする。
『でも、でも……うっ、どうしようもなくて……ごめん秋成、ほんと、仕方ないんだ……』
「……おい。おい、白崎、お前何やってるんだ。今どこにいる!」
俺の中から苛立ちが消え失せ、その代わり言い知れない不安が襲ってくる。道の端で立ち止まった足が僅かに震える。何度もごめんと謝る白崎の声が得体のしれないもののように感じ、何かが起こっているのだということだけは理解した。すぐ横を流れる川から腐った水の臭いがする。
その時、遠くに聞こえていた救急車がいつの間にか近づいて、俺のすぐ横を慌ただしく駆け抜ける。そのサイレンの音が少し遅れてスマホのスピーカーからも聞こえてきた。俺は駆け出した。
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