2, もう一つの力

「やはり、貴方もそう思いますか」

「うむ。こ奴らの襲来も決して偶然ではないだろう」

月明かりに照らされたほの暗い集会所。皆が去ったそこにはルラルの他に、今度はトルクと手足を縛られ猿ぐつわを嚙まされた灰の風達がいた。

「…彼らが口を割るでしょうか」

「期待せぬほうが良いじゃろう。一度灰の風に心を明け渡せばその支配から完全に逃れる術は無い。このまま里に置いておけば灰の風に対する忠誠心と戦いを望む錯覚を和らげることは出来ようが、それもあくまで気休めに過ぎぬ」

「そうですか」

ルラルは哀れみを帯びた目で灰の風達を見る。シャルとチェナが打ち倒した二人は丁度そのシャル達と同じ位の齢であった。どこでどのように暮らしていたのかは分からぬが、恐らくは戦いとは無縁の場所であったのだろう。灰の風が墨入れとして狙うのはそういう人間であるからだ。

「トルク。彼らが先陣であるとするなら、後陣には必ずや火種が来るでしょう。もしそうなったら…」

「残念ながら儂もセシムも里の防りに務めることは叶わぬ。そして真に地導を持つ火種がこの里を襲うとするのなら…この里は彼奴等の手に堕ちることになるじゃろう」

「ここにいる地導使いでは、火種には勝てぬと?」

「その通りじゃ」

毅然とした態度でトルクは続ける。

「敵が我らと同じ地平に立つ以上、その力に差を付けるは肉体に染み込んだ『経験』そのもの。如何に若い女と言えど敵は火種。あれほどがむしゃらに己を磨いたチェナですら、血濡れた道の中で育まれたであろうその力の前に敗れ去ってしまった。例え今ここにいる地導使い達の力を全て集めたとして、その差を埋め得ることは決して叶わぬじゃろう」

「……」

「故にルラルよ…」

トルクがそう言いかけた時、カポッ、という何かが開けられたような小さい音が響いた。

「流石はこの里の長じゃのう」

「えぇ。また貴方と同じことを考えていたようですね」

微笑を浮かべるルラルの手には彼女の小さな手に収まる程の小箱が乗せられていた。中には真白の綿が敷き詰められており、そこに二つの細い何かが丁重に収められている。トルクはその箱をルラルから受け取るとその中身を覗き込んだ後、静かに箱を閉じる。

「雫の量は如何ほどか」

「幸いなことに今年は樹液が豊作です。彼らが飲む分には十分です」

「良い知らせじゃ」

トルクは小箱を慎重に懐にしまう。

「トルク。あくまでこれは賭けです。それも、勝率は決して高くない賭けになります。例え彼らが女神に認められたとして、それが火種を打ち倒す力を、貴方の言う差を詰める力になるとは…」

「それでも望まねばなるまい。償いの地から選ばれた地導使いと、そしてそれを導いた地導使い。今この里に存在する者の中で可能性があるのはあの二人しか考えられぬ」

「そうですね…」

「負い目が、あるのかの?」

「…」

ルラルはあの日のシャルの瞳を思い出す。

「若さというものは慎重に用いられなければなりません。人が若い時に身に着け、学び得たものはその人物の生涯を形作る大きな幹と為ります。彼らはその幹を戦いというものによって育もうとし、私達はそれを助長しようとしている。これから得られるかもしれないその力を知れば彼らは喜んで雫を口にするでしょう。その意味で、負い目が無いと言えば嘘になります」

「…」

「しかし、人の幹は得てして己が望むものを吸収しなければ太く立派に育ちません。彼らはその道が危険と悲しみを孕んだものと既にその身を通して知りながらあえてそれを選んだ。故にそれを貴方に託し、貴方が彼らを誘うことは重荷を与えるのではなく彼らをより強くすることになる。私はそれを信じるのみです。二人を、どうかよろしくお願いします」

小さな優しい老婆の、その力強い言葉を受けたトルクはゆっくりと頷いた。


翌朝、シャルは眠気眼を擦りながら厩の戸を開ける。チェナの家に厄介になり始めてからというもの、シャルはチェナと共に毎朝早くからソラとスイの世話をするようになっていた。

「おはよ…あれ?」

扉を開けた先にソラとスイしか居ないことにシャルは違和感を覚えた。普段ならシャルが来るよりも早くチェナが中の掃除をしているというのに今日はその姿が無い。

「珍しいな。ま、いっか」

少し新鮮な気分でシャルは立てかけてある箒を手に取り、藁屑を集め始める。暫く掃除をしていると、それを見ていたスイがブルブルと鼻を鳴らし始めた。

「ごめんな、スイ。お前の相棒、今日は朝寝坊みたいだ」

それに気が付いたシャルは一度手を止めると優しく声をかけながらシャルはそっとスイの首筋を撫でる。スイはソラと違い自分の感情を分かりやすく態度に出すような性格ではないが、それでも心地良さそうに目を細めている。

「今はこれで我慢してくれ。直ぐにチェナが来るから…」

その言葉を言い終える前に背後の戸が開き、チェナが入って来た。

「ん、おはよう。ごめん、遅くなったわ」

「おはよ。別に気にしてないよ」

短い朝の挨拶を済ませ、チェナもシャルと同じように床を掃き始める。しかし朝からてきぱきと動く普段とは違い、今日はどこか少し気怠そうに箒を動かしている。

「眠れなかったの?」

「うん。あんなことがあったからね…」

「チェナでもそう言う事あるんだね」

「里が襲われたんだから流石に動揺くらいするわ」

そう言いつつ、チェナは自身の指に残る「夜更かし」の証が彼に気付かれていないことに心の隅でほっとする。

「…そういうあんたはどうなのよ?」

「…うん。実は俺もあまり」

「まぁ、無理も無いわね。あんなに手を震わせていたし」

「いや、そうじゃないんだ」

「え?」

チェナは手を止めて、シャルを見る。

「昨日の夜、トルクさんに言われたことがずっと頭から離れなくて寝付けなかったんだ」

彼の目は、彼の言う通り寝不足のせいか頻りに瞬かれていたが、その奥には確かな希望と喜びの光があった。

「…そうね。お師匠様は慰めの為の偽りを吐くなんてことは決して無い人。そんな彼があんな言葉をシャルにかけたってことは、あんたのここまで積み重ねてきたものは確実に灰の風まで届こうとしているってこと。だから、自信を持ちなさい」

「…!ありがとう…!」

「ふふっ。シャルって本当に分かりやすいわね」

外が白み始めた頃、厩の掃除を終わらせた二人は朝の給仕の前にソラとスイを散歩させる為に手綱を引き、二頭を外に連れ出していた。その時である。

「おはようさん。朝から精が出るの」

朗らかな老人の声に二人はぴたりと足を止める。そこには昨晩突然の帰還を果たしたトルクが静かに佇んでいた。

「お師匠様…!いつの間に…」

「ほっほ。珍しいの、チェナが人の気配に気付かぬとは。その眼にその歩み、どうやら昨晩は良く眠れなかったと見る」

「はい、あんなことがありましたので…」

「無理もあるまい。しかし、その指はどうした?昨晩のお主にそんな傷は無かったと記憶しているのじゃが…」

トルクが指さした先には先程シャルに見つからなかったことに安堵した、チェナの細い指に巻かれた布があった。その布には所々小さな赤い染みがあり、それが患部に当てられたものであることは明白であった。

「これは、えっと…。眠れなかったので昨日の夜にちょっと裁縫を…」

そこでチェナはトルクの前ということもあり、つい本当のことを口走ってしまったことに気付く。チェナは横に立つシャルを見る。シャルは不自然に顔を背け、まるで自分はそこにいないかのようにソラの首を撫でている。しかし背けた横顔から見えるその口角は明らかに上になっていた。完全に悟られた。彼女が眠れなかった、いや、眠らなかった訳も、昨晩まで彼女が夜通し何をやっていたのかも。シャルのその表情はそれを確かに物語っていた。

(あぁもう…、何やっているのよ私…!)

チェナは思わず心の中で悪態を吐く。シャルがニヤリとしていたのは決して彼女に対するからかいだけでは無いことをチェナ自身も分かってはいたが、だからこそそれが余計に悔しかった。

「ほうそうか。家の中の仕事など全く興味を持たなかったお主が裁縫とは。ユウに何かそそのかされたのかの?」

しかし昨日のそんな会話やユウとのやり取りなど知る由も無いトルクはチェナが縫い針を持ったという事実をただ珍しがった。

「しかし良い仕事というものには良い睡眠がつき物。無理はせぬようにの」

「はい…」

「うむ。…ところでユウは既に目覚めておるか?」

「いえ。ただ、もうすぐ起きてくるかと思います。叔父に何かご用ですか」

「悪いが直ぐに呼んで来ては貰えぬか?少し、彼と話したいことがあるのでな」


二人を背にしながら、ユウはトルクの言葉を時折相槌を打ちながら淡々と聞いていた。

「…わざわざありがとうございます。ですが二人の選んだ道に既に私が口を出す隙間はありません。それを彼らが望むかどうか、どうか彼らに対して直に伝えて頂きたい」

「無論そのつもりじゃ。しかしこれまで彼らを見守ってくれた者に礼の一つも言わずにつれ出すことなど許される事ではない。これまでシャルとチェナを救い支えてくれたこと、感謝する」

「こちらこそお気遣い感謝します。そして二人を、どうかよろしくお願いします」

「うむ」

そうしてユウとの会話を終えたトルクは改めて二人に歩み寄る。

「さて、チェナにシャルよ。お主達が己の信念に基づいて灰の風を倒さんとしていること、儂は実に頼もしく思う。その為に互いに切磋琢磨していた事も先程ユウから聞いた」

その言葉にシャルは再び目を輝かせる。

「しかし…」

ただ、その次に続くトルクの言葉は瞬く間にその輝きをシャルから奪った。

「残念ながら今のお主らの力では墨入れに勝ることは叶っても、火種を制することは叶わぬじゃろう」

「え…」

「…」

そして突き付けられた事実はシャルは勿論のこと、この半年共に鍛えたチェナの胸にも重くのしかかる。

「…仰る通りです。私達はこの半年、鍛錬に付き合って頂いたセシムさんに一度たりとも敵わなかった。その事実は以前、セシムさんと相対して互角に渡り合った火種にも勝ることは出来ないことを意味していることに他なりません」

「自らの力量を良く解しているようじゃの。しかし地導を持つ火種が里に襲来したその時、それを打ち倒すことが出来るのもお主ら二人しか居らぬのじゃ」

その言葉にシャルは目を丸くする。

「そ、それじゃあトルクさんは里を守る為に戻って来た訳ではないのですか…!?」

「灰の風がこの里に訪れた以上、もはやここも彼奴等の毒牙の射程に入ってしまったと考えるしかあるまい。叶うなら儂自身が残るか、せめてセシムを置いておきたいところじゃが、儂が戻ってこられたのは西ノ国の為に助力するという密約があったからこそ。如何なる理由を並べ立てたところで故郷を守る為に彼らの軍と離れて剣を振るうことなど決して許されないじゃろう。この帰郷も西ノ国に無理を言って叶ったもの故、明日の明朝には儂はセシムと共に里を去らなければならない」

「そ、そんな…」

シャルはてっきりセシムやトルクは共に戦ってくれるものとばかり思っていた。だからこそ昨夜のトルクの言葉に素直に、そして無垢に喜ぶことが出来たのだ。それが叶わぬと知り、そしてトルクにはっきりと「未熟である」という事実を突きつけられた上で、己の力一つでタルシュに立ち向かわなければならないという現実にシャルは激しい不安を覚える。

「案ずるなシャル。儂はただお主らの心をいたずらに乱す為に来たのでは無い。儂がここに来たのは灰の風の脅威から里を、地導の神秘を守護するべく、お主らに“もう一つの力”を与えんとする為じゃ」

「……!!」

刹那、チェナが強く息を飲み、目を見開き、両手で口を抑えて驚愕の表情を見せる。チェナがこのような驚き方をしたことなどシャルは今まで一度たりとも見たこと無かった。

「何故、私も一緒に…?私はシャルやお師匠様のように特別な人間ではありません…。それなのに…」

「それは否じゃ。お主はケハノに生まれながら女神に選ばれ、そして地導の使者と同じ徴を持つ青年と地導使いとして初めて出会い、そして彼をここまで護ってきた。まるでシャルが歩むべき道標となるかのように。儂はこれをただの偶然であるとはとても思えぬのじゃ」

「でも、あそこは私達が足を踏み入れて良い場所では…」

「左様。だからこそ儂がお主らを導くのじゃ」

「……」

口に当てていた両手を解いたチェナは不安そうに、代わりにその両手を胸の前で組んで小さく俯く。一方のシャルは二人の会話の意味を全く理解出来ていなかった。

(な、何なんだ一体…。地導、イギ?まさか、まだこの力には何か秘密があるって言うのか…)

「…分かりました。私に女神様が認めて下さるだけの力があるとはとても思えませんが、お師匠様がそこまで言うのなら。そして何より火種を退けるだけの力が手に入るというのなら断る理由はありません」

やがて決意を定めたチェナは隣に立つシャルの手を静かに握った。

「ごめんね、シャル。何が何だか訳分からないと思うけど、今は私と一緒にお師匠様についてきて。ただ、これだけは伝えておく。もしかしたら、私達は火種に勝てるだけの力が手に入るかもしれない。これから向かうのはその力を得る為の場所よ」

それを聞いたシャルはチェナと同じように大きく息を飲む。

「…分かった。事情は分からないけど、チェナがそう言うのなら俺は何処だろうと一緒に行く」

その言葉と共にシャルはチェナの手を握り返す。彼女の反応からこれからただならぬ事が起こる事は容易く想像が出来たが、何が待ち構えていようと今更尻込みしている場合ではない。

「…ありがとう」

感謝と共にチェナはシャルの手を放す。そこから二人の意志を確かめたトルクは

「さぁ参ろうか」

と短く告げ、林道の中に入って行った。二人は互いの顔を見ると静かに頷きトルクの齢に似合わぬ真っすぐな背を追いかけてゆく。

早朝で低い場所にある太陽の光は鬱蒼とした林道の中にはまだ殆ど入っては来ず、林内の冷気も相まって暗く寂しい雰囲気を漂わせている。普段のシャルなら朝の散歩としてこの道をソラの背に乗って歩いているのだが、トルクの命で馬達を置いて来た今は、共に居れば歩みを進める度に高まって来る緊張を和らげてくれるであろうソラの温もりが堪らなく恋しかった。

「馬達は置いてきてくれなどと頼んですまんの。しかしこれからの道のりは彼らの足ではちと厳しいものがあるでの」

その心の内を見透かすように前方のトルクが彼らを気遣うような発言をする。

「あの、お師匠様。この道で本当に間違いないのですか…?」

「あぁ間違いない。まぁそう疑問に思うのも無理はないがの…」

「知らなかった。こんな近くにあったなんて…」

「…おっと。そんなことを言っていたら、危なく通り過ぎるところじゃった。こっちじゃ」

トルクは急に砂利道を外れ、すぐ横の藪に足を踏み入れて行った。彼が一歩一歩歩みを進める度に枯れ木や枯草を踏みしめるガサガサ、パキパキという音が響き渡る。通り過ぎるところだったと言う通り、トルクが足を踏み入れた場所は獣道も何もない、本当に唯の藪であった。彼にしか分からない何かがあったのだろうか。だがそんなことを考えている間を与える事無くトルクは藪をずんずんと進んでいく。

「え、こっちですか…?」

「いいから行くわよ…!」

置いていかれぬようにシャル達は慌てて彼に続く。しかし、藪に足を入れた瞬間シャルは何かに足を取られ、顔面から勢いよく転んでしまう。

「ちょっと大丈夫!?」

「だ、大丈夫…」

幸い彼は転倒程度では傷の一つも着かない。纏った地導を解いたシャルはゆっくりと立ち上がると自分が躓いた原因を見る。

「これは…黒曜石?」

彼が足元から拾い上げたものは拳大程の大きさの黒い、つるつるとした石であった。周りに付着する泥を払うと石は薄暗い林内でも分かる程の艶やかな光沢を放つ。

「でも、何か変だ…」

黒曜石はそれこそ彼の故郷であるケハノのあるハイラ山脈のような火山帯で採れる石だ。しかし里のある「ハイラの両腕」は少なくとも黒曜石のような石が地表に露わになっているような場所ではない。それに彼が拾ったそれは大きさの割に異様に重く、更に石の一部はおよそ自然物とは思えない、凸凹の無い平らな面を持っていた。

「大事は無いか?」

派手に転んだせいか流石のトルクも足を止め、彼の方に顔を向ける。

「はい、問題ありません。お恥ずかしい所をお見せしました」

「足元に気を配れよ。これからの道、そのような石が幾つも転がっているのでな」

目を凝らすと、彼の言う通り積み重なった枯れ葉や枯れ木の隙間からは彼が足を取られたものと同じ石が頭を出していた。

「トルクさん、この石は一体?」

「それはこの先にあるものを見れば自ずと分かるじゃろう」

トルクはそれ以上何も言わず、再び歩みを進める。そしてシャルもそれ以上の言及を避け、トルクの助言に従って慎重に彼の跡を追った。


そして数十分程、文字通りの道なき道を進んだ末、それは突然に現れた。

「ここは…」

「…」

薄暗い森の中にぽかりと出来たその空間は、半年間二人の鍛錬の場であったあの広場よりもずっと小さく、そして人の手が殆ど入って無いことが一目で分かる程、雑木が伸び放題であった。そしてその奥には先程シャルが躓いたものと同じ石で出来た四角い祠のような建物がぽつんと立っていた。祠の入り口には扉等何も無く、真っ暗な入り口がぽかんと口を開けている。

「さて、シャルよ。あの先に進む前にこの場所について話しておこう…」

「待って下さい。私に話させて下さい」

それをチェナが遮る。

「許そう」

「ありがとうございます」

そしてチェナは真剣な表情でシャルに語り始める。

「シャル。先ずは一つ謝罪をさせてちょうだい。里に着いた日、私は貴方に私達の先代がこの地を新たな里に選んだのはトゥラグの木が目的だと言ったわよね。ただそれは、半分は正しくて、半分は間違いなの。先代達が広いハイラの両腕の中でわざわざここを選んだもう一つの理由は、この場所を地導使い以外の人間に決して見つけられないようにする為。ここは私達地導使いが試しの泉と共に古代から隠し、守って来た『聖域』の入り口なの」

「聖域…」

「そう。でもここはお師匠様を除いてはルラル長老しかその所在を知らない禁足の場所でもある。だからさっきお師匠様の言葉を聞いた私があれほど取り乱していたの」

シャルは目線の先にある、真っ暗な祠の入り口をじっと見つめた。聖域、禁足の場所。そしてあの先に、火種を倒すだけの力がある―

「感謝する、チェナ。さぁ、参るぞ」

トルクはいつの間にかその手に火を灯した松明を握っていた。その明かりと共にトルクは二人を連れて祠の入り口に近づいてゆく。

(この石、やっぱり黒曜石なんかじゃない…)

シャルは祠の壁を指でなぞる。見たところ祠を形作るその黒い石は先程のものよりも風化が進んでいないようで、その見た目は黒曜石と異なり濃い紫色を帯びている。更に祠はまるで一つの巨大な巨石を丸ごと削り出して作り上げたかのように、その壁には石を積み上げたり、重ねたりしたような隙間が一切見当たらない。こんな山の斜面に一体どのようにしてこのようなものを作り出したというのか。

「この石が気掛かりなようじゃな」

そんな疑念を巡らせるシャルにトルクが語り掛ける。

「はい。こんな石材も工法も、今まで見たことも聞いたこともないので…」

それを聞いたトルクは長い顎髭を撫でる。

「そうであろうな。この祠を成すこの石。これを生み出す技術は既に失われているのじゃからな」

「…え」

「この先に進めば分かる事じゃ」

祠の先は黒い石で出来た、大の大人が二人横に並んで入れるかどうかという程のとても狭い道が続いていた。祠が山をすぐ背にして建てられているということから、この道は坑道のように山を掘り出して、その周囲を石で舗装して作り出した、ということになる。そんな道を三人はトルクを先頭に一列になって祠の中を進んでいく。

(この雰囲気、あの時を思い出すな…)

限られた視界にはチェナとトルクの背しか見えない暗く狭い道を進みながら、シャルはかつてショウと共に潜り込んだ、試しの泉に続くあの洞窟を思い出す。半年という短い期間しか経っていないのに、あれももうずっと前の出来事のように感じる。

そんな事を考えていた為、前の二人が足を止めたことにシャルはすんでのところまで気が付かなった。チェナの背中にぶつかる寸前でシャルは慌てて足を止める。

「…行き止まり?」

「…うん」

そこは少し広くなった空間で、彼らの先には黒い石より成る壁が聳えている。シャルの言う通り、それは紛れもない行き止まりであった。しかしトルクは狼狽えることなく

「一つ目の関門じゃ。二人共、儂を挟むようにして横に並べ」

と命じた。彼の言う通り、二人はトルクの横に並び立つ。

「壁に向かって徴を示すのじゃ」

「徴…?」

「共に響き合う徴じゃ。示してみよ」

「…分かりました。シャル」

「あ、あぁ」

困惑しながらも二人は両手で徴を結び、それを壁に見せつけるように腕を伸ばす。だが徴は本来地導使いが互いを認識するためのものだ。そんなものをこんな壁に向けたところで―


カチッ!


鍵を回した時のような音が響くと同時に二人の全身に地導が顕現する。そしてその瞬間

「な…!」

「う、嘘でしょ…!?」

壁がぐらぐらと揺れたかと思うと何と音を立てながらゆっくりと上にせり上がり始めたのだ。重い石の壁が何かに引き上げられるかのように自分で動く様を、二人は仰天しながら見つめていた。

「お主らが今開けたのは資格なき者を阻む石の扉。地導使いでなければあの壁は決して開けることが出来ず、故に地導使いでなければこの場所に訪れることは決して叶わぬ」

壁の扉の先にあったもの、それは青白い光に包まれた広大な空間であった。祠やここまでの道と同じ黒紫色の石で出来たその空間は地上から遥か上にある天井に幾つもの隙間が空いており、青白い光はそこから漏れ出ているもののようだ。時折隣り合ういくつかの隙間の光が弱くなることから恐らくこの光は地上の日光なのだろう。だがここに足を踏み入れた二人はそんなものよりも眼前にある二つの巨大なものに目を奪われた。

「あれは…石像…?」

「それにあの壁画…」

空間の中心には二人の背丈の倍以上はある巨大な像が佇んでいたのだ。しかし、その造形はどこかおかしい。三人が開いた入り口に対して背を向ける形で鎮座するその像は跪くようなその恰好から明らかに人の形を象ったものであることは分かるのだが、まるで巨大な鎧を纏っているかのように異様に張り出した肩や、関節部に刺々しい装飾が施されており、少なくとも生身の人間を正確に象ったものではないようだ。

「来なさい」

トルクに連れられ、二人はその像に歩みを進める。像に近づくにつれ、三人がいる空間それ自体にもおかしな点があることに二人は気が付く。ここに続いていたあの狭い道とは異なり、この空間には崩れ落ちそうな天井を始めとして壁や床に大小様々な傷や、燃えた跡のようなものが無数に存在していたのだ。そしてそれらの傷は風化による自然が起こした傷では明らかに無く、鋭利なもので切り付けたような細く真っすぐな傷、何か重いものを叩きつけたようなひびを伴う窪み、といった具合であった。

二人はトルクと共に、その石像と向かい合う形で立った。そこで二人はこの像の異様さの理由に気が付く。

「何よ…これ…」

石像はやはり人では無く鎧そのものを象ったような造形で、それは先程上げたものの他に体中に施された奇妙な装飾、更に男の憤怒の表情を模したかのような恐ろしい上に嫌に生々しい顔を持った頭部と言った特徴を持っていた。先程鎧を象った、という言葉を使ったがその様相は西ノ国の鎧と東ノ国の鎧どちらにも見られないもので、それが余計に不気味であった。また像は周囲と同じように全身が傷で覆われてぼろぼろであり、左腕は既に欠落していた。だがこの像の最も異様な点は跪いた状態で残った傷だらけの右腕を虚空に伸ばしている、という格好にあった。製作者は一体どのような意図でこのようにしたのか、その姿はまるで何かを懇願しているかのようで、またこの体勢になるその直前まで像そのものが生きていたかのようであった。そしてその腕が伸びる先、入り口と対面する形で聳えるその壁には鮮やかな色彩で描かれた巨大な壁画が存在していた。そこには無数に描かれた逃げ惑う人々、赤い溶岩と黒煙を吹き出す山々。その黒煙の中から顔を覗かせる怒りと悲しみに満ちた美しい女性の顔が描かれていた。

「お師匠様、ここは一体―」

「二つ、お主らに教えることがある」

今度は石像に背を向け目の前の壁画を見上げながら、トルクは語り始めた。

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