最終章 広がる戦火 1, トルクの帰還
集会所に連れてこられた二名の灰の風と、その足元に並べられた彼らの得物をルラルはシャル達を含めた他の者と共に無言で見つめていた。皆が見守る中、ルラルは女が所持していた火筒を指でなぞる。
「概ね穿鎧火槍から着想を得たのでしょうか…。シャル、チェナ。このような恐ろしい武器を持つ者達を相手にしたにも関わらず、良く無事でいられましたね」
その言葉にシャルの隣に立つチェナが応える。
「はい、全てシャルのお陰です。彼がこれから漂う火薬の臭いに気が付いてくれなかったら私は死んでいたかもしれません」
「いえ、寧ろ守られたのは僕の方です。あの場にチェナが来てくれなかったなら、僕はあの二人に殺されていました。そうでなくとも、あのまま逃げていたら二人を里まで連れてきてしまっていました」
「そうですか。いずれにしても、貴方達は灰の風の脅威から里を守ってくれた。長として礼を言います。本当にありがとう」
ルラルに続いて、シャルとチェナの周りにいる者達も次々に感謝の言葉を投げかける。それを受けて二人は照れ臭いやら誇らしいやらで頬を赤らめる。
「しかし彼らがここに来た、ということは遂に灰の風達が動き出した証に他なりません」
ルラルのその言葉で一同は再び沈黙する。
「故は分かりませんが火種は地導だけでなく我々の存在、更にはハルの歴史までをも知り得ています。墨入れ達を刺客として送り込んできたのは我らの里の所在を知ってのことか、或いは里の所在を暴く為に彼らを放ったのか。どの道、残念ながら我らの里は灰の風にその場所を知られてしまった、と考えるのが妥当でしょう。前者の場合は勿論の事、後者においても並みの武人では歯が立たない墨入れが戻らないとなれば火種は必ずや怪しむはずです」
『……』
その事実に皆、瞳に暗い影を落とす。その中から一人の老人が
「ルラルよ。もし火種がこの里に攻めてくるとしたら、儂らは…」
と震える声で訊ねた。
「えぇ、モル。火種がこの里に訪れることになれば、それ即ち地導使いが牙を向いて襲い来ることになります。そしてそれを止める為には…」
そこで初めて平静を保っていたルラルの瞳にも暗い影が過る。それ以降の言葉を噤んだのは既に皆それを分かっている為か、或いはルラル自身も言葉に出すことを憚られる為か。
(くそっ…やっぱり足りなかったんだ…!)
その沈黙の中、シャルは己の無力感を改めて感じた。ここで皆が安心してシャル達に背中を預けてくれるのならルラルも皆もこんな表情を見せることはないはずだ。しかしそうしないということは、それは自分にまだ火種と対等に渡り合えるだけの実力がないことを暗に示されているようにシャルは感じた。
その時、沈黙を破るかのように背後の扉が開く。
「ルラルよ、今帰ったぞ…ん、どうしたんじゃ、夜中にこんなに集まりおって」
扉が開けられたその先には白く長い顎髭を蓄えた仙人のような老人が立っていた。
「トルク!?」
「トルク殿!?」
「お師匠様!?」
ルラルを含めた全員がその姿に驚愕した。
トルクが里に帰る数十日前。東ノ国では西ノ国からの使者を交えた再び大会議(ダイ・クルゲ)が開かれていた。その内容は使者による東ノ国に対する糾弾と、それを償う為の西ノ国からの要求についてであった。その要求とは、約半年前に発生した宿場町や行商達への襲撃。そこに帝の腕が紛れていたことに対し、トルクを軍部重臣の座から降ろすことと帝の腕の解体を求める、というものであった。
「ミンガン殿、頼む!もう少し待っては貰えないだろうか!?」
それに対し一番に狼狽した声を上げたのはいつもトルクに突っかかるチラクその人であった。
「私がわざわざ山を越えてここまで来た理由が分からぬ訳ではないでしょうチラク殿。それにトルク殿の失脚は貴方が最も望んでいるものと存じていたのですが?」
「くっ…」
そう言ってチラクを黙らせたのは西ノ国二代皇帝アルグンの右腕であるミンガン将軍であった。彼の言う通り、アルグンが絶大な信頼を置く彼をわざわざ使者として寄こしたのはアルグンの力の入れ様を彼らに知らしめる為だ。
「ケルレン帝よ、これが最後の要求です。これが呑めないというのならば我々は直ちに東西両国交易協定の廃棄並びに協定に基づく交易を今後一切行わないことを東ノ国に求めます。火豆やテルーの品が失われることは我々にとっても痛手ですが、それを受け入れなければならない程に、事は重大です」
ミンガンは虎のようなケルレンに対して、一切の物怖じを見せず、淡々と伝える。一方のケルレンは無言でそれを聞いている。
「し、しかし荷は受け取ったのだろう?」
そのケルレンに変わるかのように再びチラクが口を挟む。
「勿論、それは確かに受け取りました。壊滅した商隊の代わりにただの行商達にそれを託すという手には少々驚きましたが、お陰で献上品は火豆からテルーの品に至るまで滞りなく皇帝の手に届けられました。新道の封鎖を含めて、東ノ国の迅速な対応には皇帝も大変感謝しておりますよ」
「ならば…」
「しかし、それ以上に」
そこでミンガンは声の圧力を増し、東ノ国の重臣達と皇帝に一層の威圧をかける。
「東ノ国の最高戦力が、我らの領域に我らの許しも無くその黒い鎧を纏った上で足を踏み入れ、そしてあろうことか罪の無い行商や交易の要衝である宿場町を襲ったことは協定の前提を覆す背信行為です。さらにあなた達は我らが半年前から何回もこの要求を伝えて来たにも関わらずその答えを先延ばしにしてきた。これは西ノ国に対する侵略の意志がある、と捉えられても何らおかしいことではありません。故に私はこれが最後だとお伝えしました」
『…』
重臣達は改めて、遂に決断の時が来たことを悟った。この半年、西ノ国からの要求に対する答えを出し渋ってきたのは勿論西ノ国への侵略の為などではなく、トルクと帝の腕という、国防の要を二つも失うことを恐れていたからだ。
「皇帝よ、分かっておろう?もう手詰まりじゃ」
沈黙を、トルク軍部重臣が破る。
「それに儂はもう既に重臣に値する人間ではない。商隊を壊滅させた上、その汚名返上に与えられた任においても、灰の風が復活したやも知れぬという不確かな情報を得たのみで、その対価にシユウとソウシという歴戦の猛者達を失ったのじゃ。あの時の皆の嘲りも、当然の反応じゃのう」
最後のその言葉に、周りの重臣達の視線があからさまに下がる。
「さらにそれで済めば良かったものを、行方が知れぬはずのシユウが西ノ国で槍を振るったとあれば、もう言い逃れは出来ぬ。あれ程の大男だ、見間違えるはずもないじゃろう」
「あなた自身のご意志は固いようですね、トルク殿」
「そもそもこんな爺が未だに重臣に収まっているというのもおかしな話。そろそろ後進に道を譲るべきじゃ。それに儂を含め残った帝の腕達の命まで取るつもりはないのじゃろう?」
「当然です」
一瞥してきたトルクに対し、ミンガンは彼だけに分かるように小さく首を動かした。
「しかし決めるのはトルク殿ご本人ではない。さぁケルレン帝、どうかご決断を」
「…分かった」
そして遂にケルレンがその口を開く。
「ミンガン殿。先ずはこれまでの我らの無礼をここで謝罪させてもらおう。西ノ国の信頼を損なうような行いの数々、真に申し訳なかった」
そしてケルレンは玉座から腰を上げると、その場でミンガンに対し深く頭を垂れた。
「閣下、何を!?」
「お、お止め下さい!」
周りの重臣達の静止も聞かず、ミンガンはその姿勢を維持する。
「…」
ケルレンに続き、トルクも席を立ちミンガンに少し仰々しく頭を垂れる。
「…!」
そのトルクの態度を見たロト農水重臣が何かを察し、慌てて席を立つとトルクに続く。それを見た他の重臣達も次々とミンガンに謝罪の意志を見せた。
「頭を上げて下さい。貴方達の、東ノ国の意志は伝わりました」
全員が頭を垂れた時、ミンガンは重臣とケルレンにそう告げる。
「感謝する」
ミンガンに短く告げたケルレンは再び玉座に腰を下ろし
「では、改めて東ノ国の答えを伝えよう。東ノ国は西ノ国の求めを受け入れる。トルク軍部重臣は今日を持ってその座を失脚し、そして我ら東ノ国の精鋭たる帝の腕も、シユウの背信の責を取るべく直ちにそれを解体する。ミンガン殿にはこれらが完了するまで東ノ国に滞在することを求めたい」
「かしこまりました。では、こちらの書簡に署名と血印を」
「うむ」
遂にそれは受け入れられてしまった。しかしもう後戻りは出来ない。トルクを除いた重臣達はその事実を、皇帝が自身の指先を針で突く様を見ながらその事実を心の中で噛み締めることしか出来なかった。
暗い西街道を、ミンガンは建物の影に隠れるように歩いていた。時刻は既に深夜を回っている。大通りである西街道もこの時間には既に静寂に包まれ人の通りも皆無だが、それでも昼間の騒動を鑑みれば、慎重になり過ぎるということはない。ましてや自分はその騒動を引き起こした張本人なのだ。
「…!あれか」
やがてミンガンは空き家の傍に止められた一つの荷車を見つけるとそれに近づいていった。
荷車には全体にぼろ布が被せられ中身が何なのか一切分からなくなっている。更にその上には同じようなぼろ布を全身に纏った御者と思しき人間がじっと座っている。荷車に辿り着いたミンガンはその者に向かって
「おい」
と話しかける。すると御者はおもむろに纏っていたぼろ布を外しその正体を露わにした。
「トルク殿!?」
その人物は他でも無い、今日まさに軍部重臣の座を下ろされたトルクであった。その顔は仄かに紅潮し、手には酒瓶が握られている。
「おう、遅かったのう。ミンガン殿も一杯どうじゃ?いやー、やはり口にするは味気ない水などではなく酒に限るな。特にこの濁り酒はたまらん。これまでの仕事で溜まった膿を洗い流してくれるかのようじゃ」
調子良くトルクは手にした酒瓶をちゃぽんちゃぽんと鳴らす。
「…驚きました。てっきり既に立たれているものかと。それにその酒、昼間の騒動の中どのようにして手に入れたのです?」
「それは明かせぬなぁ。ただようやく重臣から解放されたのじゃ、出立の前に一人の酒好きとしてこの国の夜風当たっておきたくてのう」
「それは良いことです。しかし本当の仕事はこれから。酒もどうか山を越えるまでにしておいて下さいよ?」
「当然じゃ」
トルクは最後に酒瓶をぐっと大きくあおり最後の一滴を飲み干すと、酔いが回っているはずにも関わらずふらつくことなくひょいと荷車から降り立つ。
「して、そちらの状況はどうじゃ?」
「真に由々しき事態です。既に西方の地区の多くは中央からの便りに対して一切の応答がありません」
「…取り込まれたか」
「恐らくは」
「ふむ」
トルクは顎髭を撫でながら背後の荷車を見つめる。
「ミンガン殿よ。この半日で出来る限りの武具は調達した。火薬も気が付かれぬ限りで国庫からくすねてきている。しかしそれでも敵を迎え撃つには十全なものとは決して言えぬ。如何に帝の腕が選りすぐりの兵であるとしても、結局戦は数がものをいうものじゃ」
「それでも構いません。東ノ国の精鋭に加え、かつての風狩りの英雄。その援軍というだけでも士気は十分に高まります。戦地に赴く兵士達に政は大きな問題ではありませんから」
「政か」
そう言いながらトルクはその視線をミンガンに戻す。
「改めて、ここまでたどり着くのに半年もかかったことを詫びよう。誠に申し訳なかった。出来ればもっと早くに西ノ国を訪れたかったのだが…」
「お止め下さい。私も皇帝の側近故、貴方の抱く煩わしさというのは痛い程分かります。それに、今までの差し控えは貴方と、ケルレン帝のご意志ではないでしょう?」
「…彼らも決して無能という訳ではないのだがな。現状を保つ為の能力は特筆に値するが、それが災いして変則的な事態への対応はどうしても後手に回ってしまう」
「それが政を担う者達の弱さでもあり、面白さでもあるのですよ」
「面白さ、のう。…やはり儂に重臣は向いていなかったようじゃ!はっは…」
酔いが回っていたせいもあり、トルクはつい声を出して笑いそうになったが、直ぐに自分のいる状況を顧み、口から一瞬飛び出して来た自嘲を帯びた笑い声を引っこめる。
「では行きましょう。手綱は私が握りますのでトルク殿はどうかお休み下さい」
「有難い。夜道に酔っぱらった中馬を駆れなどと言われたらどうしようかと思っていたところだわい」
「ふふっ。ご冗談も山を越えるまでに控えて頂けると幸いです」
「努めよう」
その言葉を最後に揺れ始めた荷車の上でトルクは豪快ないびきを立て始めた。
「…と、いう訳じゃ。すまぬのう、ルラル。少々ごたついて報せを送る暇も無かったのでな」
「では、本当に重臣を下りたのですね。全く、貴方という人は…」
「おいおい、勘違いせんでくれ。こればかっかりは儂一人ではどうにもならなかったんじゃ」
突如として里に帰還したトルクはその事情を皆に話した。西ノ国は再び復活した灰の風を討つべく東ノ国の協力を得る為に、表向きはシユウの裏切りの責を東ノ国に取らせる形でトルクの立場と帝の腕を失くした上で、裏では前もって内通していたミンガンと共にトルクと帝の腕達を西ノ国に入れる、という手法を取ったのだ。結果として東ノ国が一方的に負い目を背負いこむことになったが。
「おう、セシムよ。久しいのう」
皆の中にセシムの姿を見つけたトルクは朗らかな調子で弟子に歩み寄る。
「息災そうで何よりです、師匠」
「うん?どうしたんじゃ、浮かない顔しおって」
「いえ、ただ…」
「帝の腕のことなら、心配せんでもいいわい」
その憂いを見事に言い当てられたセシムは思わずトルクの細い目を見つめる。
「灰の風を排した後はミンガン殿が取り計らってくれる手筈になっておる。『一方的にその座を奪われたにも関わらず、トルク殿と帝の腕達は自らの意志で西ノ国への助力を願い出、その辣腕を存分に振るった。その武勲を讃えるべく以前我らがその責を取るべく東ノ国に課した要求は今後一切破棄するものとする』といった具合にな」
「しかし…」
「安心せい。ミンガン殿は腹の底が見えぬ男ではあるが、このような局面で裏切るような人間ではない。まぁ、帝の腕はともかく儂は別に重臣になぞ戻りたくはないがの」
「またそのようなことを…!」
「ふっふっふっ」
トルクとセシムがそんな会話をしていると、今度はチェナがシャルの手を引っ張りながら二人に近づいていった。
「お師匠様、お久しぶりです」
「チェナか。お主も息災そうで何よりじゃ。あの時の手紙、改めて感謝するぞ。しかし、わざわざトゥラグのお守りを付ける必要はなかったのう?」
「はい、そのことについては以前叔父からも叱りを受けました…」
「そうであろう。あれはお主にとってかけがえのないもの、これからは決して軽率に手放すでないぞ」
「はい。肝に銘じます」
「うむ。それと、お主が連れている青年はもしや…」
「はい。お伝えした、シャルです」
「……」
シャルの姿を認めたトルクは細い目を更に細め、彼の前に立つ。
「改めて名乗らせて頂こう。儂の名はトルク。つい数日前まで東ノ国の軍部重臣を務めていた者だ」
「初めまして。シャルと申します」
(この人、強い…)
里に来てから半年というものチェナに加え、セシムという強者達がいつも傍にいたシャルは“そういう者達”が醸し出す圧のようなものを直感的に感じ取れるようになっていた。それはトルクに対しても同様で、外見こそ仙人のような雰囲気の中にも親しみを感じられるような温和な老人だが、その内に隠された、研ぎ澄まされ洗練された圧は本能的に緊張感を覚えてしまう程のものだった。
「チェナとセシムに鍛えられているようじゃの。良い目じゃ」
「ありがとうございます。勿体ない程の御言葉です」
しかしそんな緊張をもってしても、シャルは粗相の無いようトルクの目を真っすぐ見て受け答えをする。
「君の背後にいる者達を倒したのも君かの?」
「…え?」
唐突な問いに、シャルは思わず視線を背後に移す。
「いやなに、君だけえらく汚れているのでな。ただ、そう思っただけじゃ」
「…そうです。でも僕一人ではなくもう一人はチェナです」
「そうか」
そしてトルクはそのまま彼を過ぎて背後の灰の風達に歩いていこうとする。しかしそのすれ違い様、トルクはシャルの肩に手を置くと彼にこう告げた。
「この短い間によく鍛え上げた、若き戦士よ。共に戦う者として頼りにしているぞ」
その言葉は確かにシャルの鼓動を大きくさせた。
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