4, 半年後

時期は秋。トゥラグの木は葉を黄色く染め上げ、そして冬の厳寒期に入る前の最後の樹液が採れる時期だ。この木が多数植生する里においても多くの幹に竹筒がぶら下げられ、甘い良質な樹液が採取されている。多くの木から溢れ出る樹液により山林はいつも以上に甘い香りが漂い、それにつられた多くの虫達やそれを餌とするネズミのような小動物、更にそれを捕食するフクロウのような大型の動物が集まり、里には豊かな生命が多く息づいていた。そんな中、秋晴れの下で森の中にぽつんと出来た大きな空き地に二つの人影がせわしなく飛び回っていた。影たちは時には離れたり、時には互いにぶつかり合ったりと、まるで空中でじゃれるように舞う二匹の蝶のような動きを見せる。二つの影の内、一回り大きい影が唐突に高速でジグザグを描く独特の動きでもう一方の影に近づく。再度互いが互いの間合いに入る…その直前に大きな影は相手を中心にして直角を描くように二度地面を蹴り、一方の背後を取る。間合いを詰めた際の動きと言い、それらはおおよそ常人が出来るような動きでは無かった。

「もらった!」

声高らかにそう宣言したシャルは相対する影の小さな背に向かって一直線に向かって行く。しかし…

「いっ…!?」

背後から組みかかろうと伸ばした両手は横に小さく跳ねのけた影にあっさり躱されてしまった。だが避けられるのは想定内だ。シャルはそのまま走り抜けようと再度踏み込む。だが

「遅い」

「うわっ!?」

だが地面を蹴ろうとした次の瞬間、その小さな影はシャルの脇腹に潜り込み、素早く彼の脇腹に両手を回す。そしてそれをほどこうとするよりも早くシャルは体を持ち上げられ、そのまま真後ろに向かって勢いよく地面に投げられた。

「ぐっ…!」

「はい。また私の勝ちね」

チェナにそう宣言され、シャルは力なくその場で大の字になる。彼女に投げられたのは久々だ。そのせいか、いつも以上に見上げる空が遠く見えた。

「くっそ…。絶対にいけると思ったのに…」

「馬鹿正直に声を上げる余裕があるなら次の一手を先に考えておきなさい。とはいえ、今のは流石に私も焦ったわ。良い動きだったわよ」

彼女から差し伸べられた手を取り、シャルはのっそりと起き上がる。

「悪いけど、チェナに勝つまでは俺は素直に喜べないよ。また明日、今度こそ決めてやる」

「良い心意気ね。臨むところだわ」

繋いだ手を硬く握り合い、二人は互いににやりと笑う。この半年でシャルは見違える程に成長していた。ぼさぼさで野暮ったかった髪は短く切り揃えられ、全身はこれまでぬくぬく育ってきたことで蓄えられていた無駄な脂肪の殆どがそぎ落とされ、筋肉質で硬くなっていた。その目も二人の「指導」を受け続けていたことで奥にある優しい光を残しつつも鋭く、頼もしい眼光を蓄えている。

「さぁ、帰るわよ。夕飯の手伝いしなくちゃ」

手を放したチェナはそのまま里に帰ろうとくるりと踵を返す。しかしシャルは

「いや、俺は山を登ってくる。さっきチェナから逃げきれなかったのは俺の脚力が足りなかったせいだ。直ぐにでも鍛え直さないと」

と言ってチェナを追い越し山に続くほうの林道に入っていこうとする。

「ちょっと待ちなさい!昨日もそうやって洗濯の番から逃げたじゃない!今日という今日は許さないわよ!」

「今のを決められなかったのに大人しく帰れるわけないだろ!またつけておいてくれ、それじゃ!」

チェナの怒りの声を無視し、シャルは飛ぶように林道の中に消えていった。一人残されたチェナは肩をすくめると

「はぁ。やれやれ、ちょっと教え方間違えたかしらね…。あんな鍛錬バカになるなんて、思ってもみなかったわ」

と半ば自嘲するかのように呟き、彼を追う事無く自分は里に戻って行った。


「はっ…はっ…はっ…」

夕日が林内を美しく照らす中、シャルは山の頂上に向かって走っていた。里が位置する山はその頂上にまで林道が敷かれており、標高はあまり高くはないが多くの道が曲がりくねっているせいで頂上まではそれなりの距離があり、また傾斜の強い箇所も数多く存在している。脚を鍛えるにはうってつけの場所だ。

(まだだ、まだ足りない、足りな過ぎる…)

チェナの前で明るく振舞っていたのとは裏腹に、ここ最近のシャルの心は不安と焦りに支配されていた。

(この半年…、確かに俺は成長出来た。村にいたらこんな身体も武術も絶対に手に入らなかっただろう。でも、結局半年経っても俺はセシムさんにも、チェナにも一度も手が届いたことはない。殺し合う気が無い相手でこれなのに、いざ灰の風と対峙して敵うはずが絶対にない。そもそも、奴らは今何をやっているんだ…?あれから殆ど音沙汰が無いけど、いつ丸め込んだ騎馬兵達を連れて転覆を図るか分かったものじゃない…。それに半年前にここに来てから一度も里を出ていないせいでケハノ村が一体どうなったのかすら分からない。母さんや皆は無事なんだろうか、それに村が無ければ多くの行商達が困るはずだ。そうなったら…)

息が限界に近づいて来たシャルは一度足を止め、溢れ出る大量の汗を拭う。

(いや、余計なことは考えるな。今はがむしゃらに身体を強くして、チェナに少しでも追いつかないと…。よし、行くぞ)

息を整えたシャルは再度、頂上に向かって歩みを進め始めようとする。

「おう、シャル君。相変わらず精が出るねぇ」

その時、山での仕事を終えた男衆達が反対方向から降りて来た。

「今日はチェナちゃんに一矢報いることは出来たかい?」

「いえ、恥ずかしながら…」

「はっはっはっ!そんな顔するんじゃないよ!俺達が束になってもチェナちゃんにゃあ敵いっこない。それだけあの娘は強いんだ。だから、そんなに焦る必要はないさ」

「はい、ありがとうございます…」

そう言われてもまだ納得がいっていない様子のシャル。そんな彼に一人が竹の容器を渡して来た。

「ほれ、飲みな」

その中には透明なトゥラグの樹液が満たされていた。

「そんな、悪いですよ!それに、最近は皆さんのお手伝いも出来ていないのに…」

「そんなこと若いもんが気にすんな!お前さんの喉一つ潤すのにけちけちするような俺達じゃねぇよ!」

「そうですか…なら、頂きます!」

男達に促され、シャルは透明な樹液をぐっとあおる。煮詰める前のトゥラグの樹液は甘さこそかなり控えめであるが水分が多いため、水のようにごくごくと飲める。

「ぷはぁ!」

運動して乾いた喉に、仄かな甘みのあるトゥラグの樹液は効果てきめんであった。器の中を全て飲み干したシャルは気持ちの良い吐息を漏らす。

「良い飲みっぷりだ」

「はい、お陰で元気が戻りました」

「おう、暗くなる前に戻って来いよ。じゃないと、またチェナちゃんの雷が落ちるぞ!」

「はい。それじゃ、いってきます!ありがとうございました!!」」

器を返したシャルは軽くその場で飛び跳ねると、また山を駆け登っていった。その背を男達はじっと見つめている。

「なぁおい。あんな子が本当に『地導の使者』だってのかい?俺は信じられねぇよ」

一人が呟くようにそう漏らす。

「あぁ、俺も同感だ。正直に言って、灰の風なんかと戦わないでこのままこの里で元気に暮らしてくれていたら何て思っちまうよ。シャルが『地導の使者』だから、じゃねぇ。チェナもシャルも、これ以上悲しみを上塗りするような道を進んで欲しくなんかないんだ」

「でも、それを止める資格何て俺達にはねぇよ。二人が一緒に決めたことなら、それを支えてやるのが大人としての器ってもんだ。チェナが家族を失った時に俺達はそれが出来なかったから、猶更のことだ」


「おや、またチェナだけかい?」

扉を開けて家に入って来た姿がチェナだけなのを見て、炊事場に立っていたユウがそう問いかける。ユウもまたシャルが初めて出会った時と異なり、今は伸び放題であった髭と髪を奇麗に剃った、清潔な顔をしていた。彼の言う通り、好き好んであのような恰好をしていたわけでは無く、山に一人で過ごしていたせいで身だしなみを整えるという気すら起きなくなっていただけのようだ。

「そうよ。あの馬鹿、お陰でまた炊事を手伝わなくちゃならなくなったじゃない…」

ぶすっとした表情のまま、チェナは玄関にドカッと座り込む。そこで文句を垂れるのならあそこで無理やりにでもシャルを連れて帰れば良かった気もするが…。

「まぁいいじゃないか。それにチェナにとっても、家事を覚える良い機会じゃないかな」

「…今更そんなこといわないでちょうだい」

「でも、そんなんじゃいつまでもお嫁にいけないぞ?シャル君を見てみなさい、洗濯も料理も喜んでやってくれている。きっと村にいた時からああやって家族を手伝っていたんだろう。同じ屋根の下で暮らす者として見るならチェナより彼のほうがよっぽど魅力的だなぁ…」

「余計なお世話よ!!それにシャルは関係ないでしょ!!?」

ぷんすかしながらチェナは大股で炊事場に入っていった。

「それで、何すればいいの?」

「ありがとう。それじゃ、チェナは火を見ていてくれないかな」

「分かったわ」

チェナはかまどの前にしゃがみ込むと近くに立てかけてある火吹き棒を手に取り、中の火に息を吹き込み始める。

「…それで、シャル君はどうかな?」

チェナの横で肉を切りながら、ユウがチェナに問いかける。

「…どういうこと?」

ぶっきらぼうにチェナは返す。

「そのままの意味さ。チェナから見て、彼は強くなっているかい?」

「……」

そこでチェナは火吹きの手を一度止める。

「えぇ。シャルは強くなっているわ、私の想像を遥かに超えてね。今日組み手をしていて私、シャルに後ろから組み伏せられそうになったわ」

「ほう」

「正直に言って、半年でここまで成長するなんて想像もしていなかった。シャルは何かを一から丁寧に教えるより、ある程度自分で考えさせて自分でものにする教え方が合っているんだと思うわ。今のシャルの動きには私がセシムさんとの模擬戦で使った動きの多くが取り入れられている。それは全部シャル自身が見て盗んだものよ。まだ半年っていう短い間だから今はただそれを組み合わせるだけの単純なもので、だから私も簡単にいなせるけど、もっと経験を重ねて応用を利かせられるようになればきっと私なんて容易く超えて行ってしまう…」

「チェナ、火」

ユウに言われ、チェナは慌てて火吹きを再開する。

「なるほどね。確かにそれは凄いな。二人の教えの賜だね」

「私は特に何もしていないんだけどね…。それに、私だってまだセシムさんに一発たりとも攻撃が届いたことは無い。帝の腕相手とはいえ、ここまでの実力差を毎日毎日味合わされるのも堪えるわ…」

「でも、お師匠様の言う通りそれがシャル君だけじゃなくチェナの成長に繋がっているのも事実だろう?」

「そうね。私だけの力じゃシャルも私も半年でここまで来ることは出来なかったわ。でも…」

チェナは再び筒から口を離す。吐息に合わせてパチパチと明るく弾けていた火が火吹きを止めたことで少し大人しくなる。

「…どうしたんだい?」

「ううん、何でもない」

一瞬何か言いたげな顔をしていたチェナだったが、直ぐに火吹き棒を咥え直す。吹き込まれる息は先程よりもどこか強いような気がした。

それから夕飯を作り終えた二人であったが、シャルが帰って来る気配は一向に無かった。辺りは既に陽が沈みかけ、薄暗くなり始めている。

「遅いな、シャル君。まだ山に籠っているのだろうか」

「本っ当に馬鹿ね、あいつ!!私達の迷惑とか考えられないのかしら!?」

「いつもこのくらいの時間には帰って来るのだが、まさかどこかで足を滑らせたとか…」

「山生まれのあいつに限ってそんなことは無いわよ。叔父さんの言う通りまだ山を走り回っているに違いないわ。今日勝てなかったのがよっぽど悔しかったみたいね」

「どちらにせよ夜の山は危険だ。チェナ、悪いがスイとソラと一緒に探しに行ってくれないか」

「お安い御用よ」

チェナは駆け足で少し離れた馬小屋に向かおうとする。しかし

「あぁ、待ってくれ」

とチェナを止めたユウは一度家に戻り、そしてシャルの青い衣を持って出てきた。

「まだ走り回っているのだとしたらここに戻って来る頃には汗が冷えてしまうだろう。これも持って行ってやれ」


馬達と共に暗い林道を走るチェナは頂上に近づくにつれて、焦りが募り始めていた。どれだけ進んでもシャルが行く道の先から現れる気配がしないからだ。

「まさか本当に足を…」

ついよぎったその考えをチェナは急いで頭から振り払う。もし滑落でもして動けないのならことは重大だ。この時期から山は昼夜の寒暖差が激しくなり、夜はかなり冷え込む。もし汗をかいたままで山の中に残り続ければ直ぐに体温を奪われてしまうだろう。そうはいってもこんな暗い中では今からの捜索は困難だ。チェナは一度足を止めてスイから降りると細い林道に屈みこみシャルの足跡を探す。

「…あった!きっとこれだわ」

暗い中で必死に目を凝らしながら見つけた足跡はその大きさと、真新しさから恐らくはシャルのものだろうと思われ、頂上に向かって点々と続いている。

「ここはもう頂上に近い場所。下りの足跡が無いってことは、シャルはきっとこの先にいる。待ってなさい、見つけたら嫌と言うほど…」

その時、直ぐ近くの斜面からバサバサッ!バキバキッ!という何かが枝葉を巻き込みながらこちらに近づいてくる大きな音が響いた。獣かとチェナが顔を上げた瞬間、その視線の先から人影が飛び出し、チェナの目の前に転がり込んで来た。

「…シャル!?」

斜面を下ってきたのは他でも無いシャルであった。いや、下るという表現は正しくないだろう。彼は腕や顔に幾つもの切り傷を付け、全身を汗と血で濡らし、その湿った身体に落ち葉や土を大量につけていた。その様子を見るに、シャルは転がり落ちるように斜面を移動してきたのだろう。林道に転がり込んだシャルはチェナに気付く気配を見せず痛みをこらえつつ鬼のような形相で自分が今しがた転がり落ちてきた山肌を睨む。

「シャル!!」

その声で初めてシャルはチェナの姿を確かめる。だが彼女を見たシャルが一番に放った言葉はチェナの名前でも、ましてや謝罪の言葉でも無く

「避けろ!!」

の一言であった。刹那、チェナは自身の頭上に気配を感じ咄嗟にシャルのいる方向に飛び退く。その瞬間、チェナの頭に向けて振り下ろされんとしていた斧が砂利道に叩きつけられ、カァンッ!という甲高い音を立てる。その音と真上から飛来したそれに驚いたスイとソラが嘶き声を上げて飛び上がる。その勢いでソラの背にあったシャルの衣がふわりと滑り落ちた。

「嘘…」

それは紛れもなく、灰の風であった。忌まわしき灰色の外套に身を包んだそれはゆらりと立ち上がる。

「それじゃシャル、あんたは今までこいつと…」

そう言いかけた時、再度枝葉が大きく揺れる音が響き渡る。その直後、何ともう一人の灰の風が木々の隙間から飛び出し、チェナに襲い掛かった灰の風の隣に降り立つ。

「二人目か」

「あぁ。もしかしたら、当たりかもしれん」

ぼそぼそと互いに短い会話を交わす二人組。背丈は同じくらいだが、その声からして男女であるようだ。その間にチェナはシャルに駆け寄る。

「シャル、一人であいつらと戦っていたの…?」

「いや、違う…」

右腕にできた、一際大きな切り傷を庇いながらシャルは応える。

「逃げてきたんだ…。頂上についた後、暫く休んでから帰ろうと思った矢先にあいつらに襲われた。最初は戦おうと思ったけど、俺の力じゃ防戦一方だった。だから、逃げてきた…」

(それでも灰の風二人を相手にここまで逃げてきたんだから大したものだわ…)

そう思いつつもそれを口には出さず、チェナはシャルと同じように敵を睨む。

「奴らは?」

「墨入れだ、あの二人じゃない。でも、どの道里に降ろす訳にはいかない」

「当然よ。シャル、まだ戦えるわね?」

横に立つシャルをチェナは一瞥する。

「勿論…!」

威勢よく答えたつもりであったが、その声は僅かに震えていた。

「それは良かったわ。でも、無理はしないで。及ばないと感じたら死に物狂いで里まで降りなさい」

「分かった」

「それじゃあ、いくわよ!」

その会話を最後に二人は拳を構え、そしてこちらから攻撃を仕掛けるべく二人の灰の風に駆け出してゆく。ここは暗く、そして木々が生い茂る山の中。つまりは灰の風にとっては絶好の戦場だ。地導使いの戦闘の基礎に則り防戦に回ればかえって不利になる。それを分かった上で二人はこちらから攻めていった。

(うん…?)

しかしシャルが走り出したその時、二人の内、小柄な灰の風の袖に光るものが見えた。線香のようなとても淡い光であったが、その光が見えた直後、シャルの鼻は周囲に漂う甘い香りに混じるほんのわずかな、孵卵臭のような臭いを嗅ぎ分けた。それが分かった途端、シャルの直感が危険信号を出す。

(まさか!)

だがチェナにそれを伝える暇は無い。シャルは数歩先に自分の青い衣が落ちているのに気が付く。先程ソラから滑り落ちたものだ。シャルは手を伸ばしながら衣に近づくとそれを引っ掴み、小柄なほうに向けて放り投げた。衣は空中に勢いよく放り出されると空気の抵抗で直ぐにばさりと広がり、目隠しのように作用する。

「くっ…」

急に投げつけられたそれを受け、灰の風はついチェナに定めていた“それ”の狙いが逸れてしまう。次の瞬間、パァンッ!という破裂音が響き渡り、チェナは自分の頬の直ぐ横を何かが高速で飛来してゆくのを感じた。矢よりはずっと小さく、しかし矢よりもずっと速い何かだ。

「何、今の…」

だがそれを確かめることなど出来なかった。シャルの目隠しを躱したもう一方の灰の風が自分のほうに向かってきたからだ。そいつは袖から素早く短刀を取り出し、チェナに斬りかかろうとする。チェナはそれを弾く為に腕を構える。しかし

(何か、わざとらしいわ…)

そう感じ取ったその時、灰の風は短刀での斬撃を瞬時に止め、反対の手に仕込んだ斧を取り出すとチェナの股座目掛けてそれを振り上げようとする。

「やっぱり…!」

チェナは真後ろに飛び退いてそれを回避する。渾身の一撃を躱された灰の風だったが、振り上げた腕の勢いそのままに斧を袖にしまい、再度短刀による攻撃を仕掛ける。

(こいつら、前に戦った時よりもずっと洗練されている…!)

連撃を次々といなしながらチェナはそれを確信した。チェナを殺そうを繰り出されるその動きは以前チェナや帝の腕達とやり合った者達と比べて明らかに緩慢さがそぎ落とされ、攻撃の正確さに磨きがかけられていた。

(これは、シャルのほうを気にしている余裕なんて無さそうね…。絶対に死ぬんじゃないわよ、シャル…!)

一方のシャルは衣を使って不意打ちを逸らした後、更に衣越しに一撃を加えようと跳びかかる。しかしその直後、衣を裂いて飛び出して来た短刀が喉元目掛けて飛んでくるのを見たシャルは急いで体を後ろに反らしてそれを避ける。そこから間髪入れず、またもや衣越しに今度は鋭い回し蹴りが飛んで来る。反った体勢を活かし、シャルは素早い後転でそれを躱しつつ相手から距離を取る。半年前の彼には決して出来なかった動きだ。

「私の仕込みに気が付くとは、大したものだな!」

衣をばさりと取り払った灰の風がシャルに対して啖呵を切った。

「それはどうも…!」

対するシャルも少しわざとらしくも余裕綽々といった様子で返し、その直後に飛んできた斬撃をいなす。

(見える…けど、油断はするな。この一撃は全て俺を殺す一撃。当たれば、死ぬ)

シャルは灰の風からの連撃をチェナと遜色ない程見事に躱し、弾いていた。この半年、国の中でも指折りの剣士の動きを毎日、目を皿にしてつぶさに観察し、時にはそれと対峙して(そしてその度に叩きのめされて)きたのだ。如何にその斬撃が全て己を殺す為に放たれて来ているとて、それを捌くだけなら今のシャルにとって訳ないことであった。しかし

「…うわっ!?」

不意に女は姿勢を落とすと袖から斧を取り出し、シャルの脛を切り裂くように勢いよく薙いだ。高速の連撃から急に繫げられたそれを、シャルはつい声を上げ大きく飛び上がって躱してしまう。その瞬間、プフッという何かを吹き出すような音と共にきらりと光る複数の細い物体がシャルの顔面目掛けて飛来する。しかし空中にいるシャルはそれを躱すことなど出来ず、腕を用いてそれを防ぐしかなかった。

(馬鹿め、まともに受けやがって…)

女が放ったもの、それは彼女の口内に仕込まれた含み針であり、その針先には件の眠り薬がたっぷりと塗られていた。

腕に大量にその針を受けたシャル。ほんの僅かにでもそれが血に混じれば昏倒してしまう代物だ。シャルはそのまま空中で力尽き地面に吸い込まれるように落ちるはずである。

「…?」

体勢を崩す気配の無いシャルを見て、女は疑念を抱き、立ち尽くしてしまう。そしてその一瞬が命取りであった。シャルは空中で眠りにつくどころか上から女に対し覆いかぶさるように掴みかかり、そのまま地面に押さえつけた。

「な…何故だ…!?」

全身を強打して地面に叩きつけられた女。それでも尚何とか脱出を試みる灰の風であったが、シャルはそれを許すまいと全力で体重をかける。

「必殺の一手だと思って油断したな。だが助かったよ…!」

シャルは勿論ただ腕で攻撃を庇ったのではなく、素早く腕を硬化させ飛んできた針を全て受け止めていた。針は彼の血と泥で汚れた服を貫いただけで、彼の皮膚とその下の血管には一つたりとも届いてはいなかった。シャルは拘束を解かれるよりも早く袖から針を引き抜くとそれを女の首に突き刺し、その意識を奪う。

「お前…!?」

背後で仲間の敗北を悟った男はつい攻撃の手を緩めてしまう。そしてその隙をチェナが見逃すはずが無い。

「ぐっ…」

チェナは一瞬にして灰の風の模様がびっしり入った手首を掴んで捻り上げ男から短刀を取り上げるとそのまま足をかけて男を転ばし、シャルと同じように地面に組み伏せた。

「仲間がやられたからって油断し過ぎよ。思ったよりあまちゃんね、あんた」

「くそっ…!」

決着がついたチェナに背後からシャルが近づいてくる。

「どうやら心配いらなかったみたいね。一人で本当に良くやったわ、シャル」

「あぁ、何とかなったよ。これも皆チェナ達のお陰だ、ありがとう」

礼を言うシャルにチェナはにっこりとほほ笑む。しかしその間も男が微動だに出来ぬよう関節を固める力は一切緩めない。

「さて、後はこいつらを何とかしなきゃいけないけど」

「話はあとでたっぷり聞いてやるとしよう。任せてくれ」

シャルは服の袖に大量に突き刺さった含み針を一本引き抜くと、男の首筋をそれでつんと突き刺す。瞬間男の身体が弛緩し、間もなく深い眠りに落ちた。薬の効果を確認したチェナは男をそっと放す。

「相変わらず恐ろしいわね、その薬」

「あぁ。俺も地導が使えなかったらまた眠らされていたところだった」

敵が完全に再起不能になったことを確かめたシャルは安堵の表情を浮かべた後、残った針を一本一本慎重に抜こうとする。このまま服に残したままで針先がうっかり肌に触れでもしたら、少なくとも半日は夢の中だ。

「ねぇ、シャル」

「何さ?」

「そんなんじゃ、刺さっちゃうわよ?」

「っ、余計なお世話だよ…」

シャルは震える手で必死に細い針を抜こうとしていた。それは、張り詰めていた心が緩んだ反動に他ならなかった。先程まで問題なく動かせていた指先が震えのせいでまともに針を摘まむことも出来ない。

「強がる必要ないわ。シャルは良くやった」

「…」

「手を止めなさい、私が抜いてあげるわ」

「ごめん…」

そしてチェナはシャルに近づき、代わりに針を外し始める。

「どう、初めて殺し合いをした気分は?」

チェナは優しくシャルに語り掛ける。

「…正直、怖かった」

「怖かった?」

「あぁ。無我夢中になっていたから、自然と身体は動いてくれたけど、それでも怖かった。それに…」

「それに?」

「身体が動いたって言っても俺が出来たのはただ攻撃を避けたってことだけだ。あいつに勝てたのは地導があったからで、俺がこれまで学んできたものが役立った訳じゃない…」

「何を勘違いしているの?」

シャルの言葉をチェナは手を止め、強い口調で遮る。

「え?だって…」

「良い?今シャルが乗り越えたものは本当の『殺し合い』なのよ?取った手段がどうあれ、死んだほうが敗者であることは絶対覆らないし、その敗者にならない為には自分が持つ力を全て出し切ってでも相手を退けなければならない。勿論地導だってその一つ。相手に無い力を使って勝ったことは自分の力じゃない、何て思い上がりも甚だしいわ」

「チェナ…」

「それにあんたは身体を硬化させて針を防いで、それを見て動きを止めた敵を抑えたんでしょ?それは防御により相手の意表を突き、その隙に制圧する地導の基本的な戦い方に他ならないわ。シャルはそれをしっかり身に着けている、この白星はその証明でもあるわ。だから、あの灰の風に勝ったのは全てシャルの実力よ。分かった?」

その言葉にシャルはぱっと表情を明るくする。

「…うん、分かったよ。ありがとう、チェナ」

「分かったのなら、それで良し!」

再びチェナはシャルに微笑む。

「それよりも…ねぇ、さっきシャルが衣を使ってあいつの視界を奪ってくれていなかったら、私、どうなっていたの?」

「…見れば分かるさ」

シャルはチェナと共に先程までシャルと戦っていた女に近づき、そして彼女の左袖をまくる。

「これは…」

女の二の腕の下には金属で出来た細い筒が括り付けられており、その下部には火縄と思わしき縄が巻き付けられていた。

「小さな穿鎧火槍、ってところかな。勿論こんなものじゃ鎧を貫くことは出来ないだろうけど…」

「この距離なら私の額に風穴を開けるには十分過ぎるわ…。シャル、どうしてこんなものがあるって分かったの?」

シャルは少し得意げに自分の鼻を指さす。

「こいつらに向かって行った時、こいつの袖から小さな光と、ほんの少しだけ硫黄の臭いがしたんだ。こんな場所でそんな臭いを嗅ぐなんて火薬の類しか無いと思って。そうしたら、案の定だった」

「なるほどね。何十年もケハノに住んでいるせいでトゥラグの匂いがある中でも硫黄の臭いは嗅ぎ分けられたって訳か。…何だか犬みたいね、あんた」

「その犬のお陰で命救われたんだぞ?」

したり顔でチェナを見るシャル。

「はいはい。でも、本当にありがとうね」

シャルに礼を述べた後、チェナはそのすぐ傍に転がっていたシャルの上衣を拾い上げる。

「この衣、随分とボロボロになっちゃったわね…」

「うん。地面を引きずられたり、刀で裂かれたり、俺と一緒にいるとこいつには随分と苦労をかけちゃうみたいだ。でも、正直そっちのほうがいいんじゃないかな?」

「どうしてよ?」

「だって、ほら…」

はっきりと言及したがらないシャルだったが、それは明らかに衣に刻まれた例の文字のことをさしていた。

「はぁ。まだ気にしているの?」

「そりゃ、そうさ。あの時ユウさんもチェナもかなり動揺していたじゃないか。だから…」

「良い、シャル?私達はもうとっくのとうにあんたのことを受け入れたし、この衣のことも気にしてなんていない。だからシャルがそんなに気に病む必要なんてないの。分かった?」

「本当?」

「本当よ。だったらその証拠にこの衣、私が奇麗に繕ってあげるわ」

ふふんといった顔でチェナは汚れた上衣を畳み始める。

「え…」

それを聞いたシャルの顔が途端に青ざめる。

「何よ、その顔。これでも最近は裁縫とか料理とか、家の事色々覚えているのよ?」

「だからこそだよ。チェナに任せたらその衣、今よりも酷いことになるんじゃないかって…。ゴウさんに貰った大事なものだしさ、それ」

「…寝ている間にその減らず口も縫い合わすわよ?」

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