2, 里の答え

宿場町を飛び出した一行はその後、五日程かけて草ノ大陸を北上。緑豊かな「テリ・ハイラの両腕」の中を歩いていた。短い草が殆どを占める草原とは大きく異なる、高い木々の林冠から注ぐ木漏れ日を浴びながら、一行は着実に里に向かって歩みを進めていた。

(地導の隠れ里、一体どんなところなんだろう…)

遂に辿り着こうとする里に対して、シャルは胸のざわつきを抑えられずにいた。無論それは期待ではなく不安からである。以前チェナは地導の使者は里にとって禁忌の存在であると話していた。そんな者と多くの共通点を持つシャルを里の人達は受け入れてくれるのだろうか。もしかしたら迫害か、それに似た仕打ちを受けてしまうのではないだろうか。そんな憶測が一歩、一歩と進むごとにシャルの心を埋めてゆく。

「ユウ!」

不意に頭上で大きな声がした。見上げると、ちょうど通り過ぎようとしていたシャルの背丈の三倍はあろうかという大岩の上に一人の男が立ち、こちらを見下ろしている。その男はユウの名を呼ぶとその大岩を滑るように降りてきてこちらの進行方向に降り立つ。

「もう着いたのか。随分と早いな」

「あぁ、山を越えてきて早々最初の町が襲われてね。あまりうかうかしている訳にもいかず、急ぎで向かったんだ」

「襲撃の情報ならこちらにも届いている。まさかお師匠様の杞憂が現実になるとはな…」

「皆に変わりはないかな?」

「変わりは無いよ、皆ユウの帰りを待ちわびていたところだ…。それに後ろにいる二人はもしかして…」

「そうだ」

「ではあの青年が…」

ユウと話す男に覗き込まれるように見られ、シャルはつい視線を下に向けてしまう。

「長老様も皆彼に会いたがっている。長旅で疲れているところ申し訳ないが、直ぐに集会所に向かってくれないか?」

「無論そうするつもりだ。さぁ行こう」


遂に辿り着いた地導の隠れ里は、その名に似つかわしくない程の、変哲の無いのどかな山村であった。山の斜面に沿うように家が続き、その合間に細い道がいくつも通っている。その道の一本を一行は登り、里で最も高い場所に位置する集会所に向かって行く。すれ違う人々の「おかえりなさい、ユウ」とか、「久しぶりだな、チェナ」という労いの言葉に混じって向けられる好奇の視線を浴び、シャルは視線を上げられずにいた。ただでさえシャルはここではよそ者なのだ、そんな中で堂々と出来る訳も無かった。

やがて到着した集会所は山に捨てられたものよりもずっとこじんまりした造りであったが、暗色の石では無く木で造られていること、そして何よりしっかりと手入れが行き届いているおかげで、山のそれよりもずっと暖かい雰囲気を纏っていた。

「チェナはスイ達を連れて家に帰っていなさい。ここからは私達三人だけでいい」

「…分かったわ」

チェナは一瞬、露骨に自分も一緒に行けないことに対する不満を顔に出したが、馬達の疲れを癒してやりたい気持ちもあったのだろう、そこで食い下がることはなく、ユウの指示に従って来た道を下っていった。

「…チェナが一緒だと長老様に何て余計なこと言うか、分かったものじゃないからね。さぁ、行こう。ついてきてくれ」

木の扉を抜けて集会所の中に入ると、優しい甘い香りがシャルの鼻を抜けた。色々な花の匂いが交じり合ったような、嗅いだことの無い独特な匂いであったが、その香りは張り詰めたシャルの心を不思議と安心させた。更に部屋の床や壁は暖色で織られた色彩豊かな織物で装飾されており、それが日の光に反射し、部屋中に柔らかい空気を作り出していた。

「ようこそ、私達の里へ。長旅ご苦労様でした、さぁ、どうぞ。こちらに腰かけて下さい」

そう優し気な声でシャル達を迎え入れたのは大部屋の最奥に椅子に座る、小さな老婆であった。彼女に促され、シャルとセシムは既に用意されていた椅子にそっと腰を下ろす。

「ユウ。山での務め、そして何より彼らを無事にここまで送り届けてくれたこと、感謝します。真に大義でした。貴方もチェナと共に先に戻り、疲れを癒しなさいな。その手の傷、貴方も随分と苦労をしたようです」

「お気遣いいただきありがとうございます、ルラル長老。では、お言葉に甘えて私もこれにて失礼致します」

二人の背後で小さく礼をすると、ユウは皆に背を向け静かに集会所を出て行った。ユウが扉を閉め終わるのを確かめたルラルは、上品な笑みを浮かべたまま残された二人を見つめる。

「初めまして。私はルラル、この里の長を務めている者です。二人のことはトルクからの便りで聞いています。セシム、女神テリ・ハイラに選ばれし東ノ国の守護者。貴方のご活躍は良くトルクから伺っております。彼は貴方を弟子に迎えられたことを誇りに思っているようですよ」

「それはそれは…。私にとっては勿体ないお言葉です」

「いずれトルクから貴方に向けて便りが来るはずです。それまではしばし帝の腕としての重荷を脱ぎ、どうかこの里で英気を養って下さい。里の皆も快く貴方を歓迎してくれるはずです」

「ありがとうございます」

腰かけたままの姿勢でセシムはルラルに深い礼をする。それを見て満足げに頷いたルラルは遂にシャルのほうを向く。

「そして、シャル。貴方のこともトルクとユウからの便りで存じています。我らの罪を進んで被ってくれた『償いの民』の血を引く者、そして数奇なことにかつての『地導の使者』、ハルと同じ力を持つ者…」

そう言いながらルラルはゆっくりと腰を上げ、しっかりとした足取りでシャルに近づいていった。シャルの目の前まで来たルラルはじっとシャルを見つめる。その瞳の奥には慈愛と清廉を感じる温かな光が宿っており、シャルは彼女に凝視をされても不思議と不快感を覚えることは無かった。

「優しい良い目…。でもそれと同じくらい悲しい光がある…」

そう呟いた後もルラルは暫くの間シャルを見つめていたが、やがて彼から顔を離し再び自分の椅子に腰を下ろす。

「でもまずは貴方の心にある曇りを取り除かなくてはなりませんね。シャル、貴方は此処まで来て、大きな不安を抱えているはずです。即ち、里の暗い歴史を知った上で、自分は本当にここに居ても良いのかと。そうでしょう?」

心の内を見事に言い当てられ、シャルは困惑した。

「え、えっと…」

「いえ、慌てる必要はないのですよ。我々は決して貴方を拒絶などしません。ただ、貴方の存在をトルクからの文で知った時、我々は大きく困惑しました。貴方の出自、貴方が地導に選ばれた事、貴方がチェナと出会った事。全てが我々にとって特異な事であり、そしてそれは同時にハル、『地導の使者』の再来を予見しているかのようでした。だからこそ、私は貴方と直接会い、その人となりを確かめたかった」

その言葉には優しさに混じり、シャルを試すかのような色が混じり始めていた。

「シャル、貴方は灰の風の蛮行により故郷というかけがえのない拠り所を失い、その無念を晴らす為にここまで来た。しかし、ここまでの旅路で貴方はきっと多くを学び、得てきたはずです。それらを顧みて、改めて貴方は何を為すかを望み、その為にここで何を得たいか、貴方自身の口から聞かせては頂けませんか?」

「…はい」

シャルはそこでそっと目をつむり、胸に手を当て、ここまでの経験を振り返った。チェナとの出会い。母との再会と別れ。行商達との出会い。そこで知り合ったヤイノという少年の夢と、ゴウ達の過去。灰の風との衝突とそれによって露わになった、自分の心の脆さ。それを埋めてくれたチェナ。ユウ達との出会い。明かされたハルの歴史。ユウの願い。ここまでの濃密な旅路の中で得てきた全てが彼の心を育て、そしてここにある。

「うん…」

やがてシャルは決心したように胸に手を当てたまま目を開け、胸の内をルラルに語り始める。

「…長老様。僕は灰の風を止めたい。かつて彼らに降りかかった悲劇。それがどれほど惨いものであったとしても、それは彼らが今犯している罪を正しいとする理由にはなりません。何より奴らは僕の故郷と家族を奪った。その無念を晴らさない訳にはいきません。そしてその為に僕はここで地導使いの戦いを学ぶことを望みます」

「貴方一人で、立ち向かうつもりですか?」

「いいえ。僕はここまで来られたのは多くの人々の助けがあったからです。その人達は皆強く、心根の優しく、そして辛い過去を背負い、それを僕に打ち明けてまでも僕の心の支えになってくれた。僕が灰の風に立ち向かいたいと願うのはそんな彼らに少しでも報いたいからでもあります。その意味で、僕は決して一人ではありません」

「火種に宿る力と掟の罰。それを知っても尚、貴方はその意志を貫けると誓えますか?」

「…残念ながら今の僕一人ではそれは誓えません。敵は強大で、今の僕の力では決して手が届かない。それに、もし火種を打ち倒すことが出来たとしても、一人だけなら最悪の結果を招いてしまうかもしれない。でもここまでの旅で僕はそうなる前に正してくれる人に出会えた。だから、彼女と一緒なら、きっと僕は間違えない。それだけは誓えます」

「……」

シャルの答えを受け、ルラルは一呼吸置いた後に再び満足げに、しかし今度は嬉しそうにゆっくりと何度も頷いた。

「良い答えです。シャル、貴方は故郷を追われ、悲しみに心を満たしても尚前を向くことを止めずに良いものを沢山糧にして来ました。そして何より、己の力には限界があることを認め、それを補ってくれる人が貴方の傍にいる。その支えがあれば、きっと貴方は間違えない。私はそう思います」

そこでルラルは再び立ち上がる。

「かつてハルが引き起こした悲劇と里の分裂。しかしその非はハルだけでなく、我々にもあります。かつての我々は尋常ではない力を持つハルを『地導の使者』として崇め、まるで現人神のように扱っていました。それがハルの、国を救うまでの原動力になっていたことは確かですが、そのせいでハルは自分の妻以外に真に心を許せる人間がいなかった。いや、失ってしまったというべきでしょうか。いずれにしても彼は神なのではなく、私達と同じ人であったのです。人であるからこそ彼は東ノ国を救いたいと願い、愛する者を失って嘆き悲しみ、そして理屈に合わない大罪を犯した。しかし我々がそれに気が付いたのは里を離れ、そしてケハノが女神の罰によって焼かれた後でした。…我々はもう二度と同じ過ちを犯す訳にはいきません。シャル、もし『地導の使者』の出現が必然だったとして、それが貴方であったとしても我々は貴方を一人の人間として接することを誓います。どうか貴方も戦いに身を投じる前にこの地で心と体を休めて下さい。一人の地導使いとして、ここが貴方の二つ目の故郷になれば幸いです。…ここまで本当にお疲れ様でした」

最後の労いの言葉で、シャルは今まで背負ってきた重荷がすとんと肩から落ちるような感覚がした。貴方は人間だよ。その言葉こそ、シャルがハルの歴史を知ってから無意識の内に求めていた言葉であったのだ。

「ありがとうございます…!」

心からの感謝を伝える為、シャルもまたルラルに深い礼をする。それをルラルは優しく微笑みながら見守っていた。

「さぁ、二人もユウ達のもとに行きなさいな。もし何か困ったことがあれば何時でも訪ねてきて下さいね」

「はい」

「お気遣い、感謝致します」

二人はルラルに二度目の感謝を伝えた後、集会所を後にした。


集会所を出た二人を、既に自宅に戻っているはずのチェナが出迎えてくれた。

「二人ともお帰りなさい」

自宅で一度着替えてきたのだろう。チェナは今まで着ていた朱色の服ではなく、ゆったりとした地味な灰色の服を纏っていた。

「待っていてくれたの?」

「だってあなた達二人じゃ私達の家の場所分からないでしょ?ついてきて、案内するわ」

チェナに連れられ、シャルとセシムは里の細い道を下る。集会所に向かっていた時は気が付かなかったが、集会所でシャルが嗅いだ、花の匂いのような甘い香りが里全体にも漂っていることが分かった。温かな陽の光が里全体に降り注いでいることも相まって、そこにいるだけで心が満たされるような、本当に心地良い空気に里は包まれていた。

「チェナ姉ちゃん!久しぶり!!」

道を歩いていると、少し先の曲がり角から二人の男の子と女の子がこちらに駆け寄って来た。二人ともチェナが今着ているような地味な布服を身に着けている。

「スプにジムスじゃない!久しぶりね!」

無邪気に駆け寄って来る二人を、チェナは膝立ちになって迎え入れる。

「今回の旅は楽しかった、お姉ちゃん?」

スプと呼ばれた少女は少しおませな感じでチェナに旅の感想を聞く。

「ねーねー。何かお土産無いの~?」

一方のジムスは年相応といった感じで、チェナに土産をねだっていた。

「ごめんね、ジムス。今回の旅は色々大変であなた達へのお土産を買っている時間はなかったの」

「ちぇ~、つまんないの~」

「でも、その代わり今回は二人お客さんを連れてきたわ」

チェナは背後の二人を紹介する。

「あ、あなた達ってもしかして前に長老様が言ってた人!?」

「そうだよ、そうだ!わぁ、お客さんなんて久しぶりだ!ねぇねぇ、名前は何て言うの?」

「私はセシムだ」

「えっと、シャルって言います。よろしくね」

ジムスに問われ、二人はそれぞれ自身の名を教えてやる。

「ねぇねぇ、おじさんってもしかして、兵隊さん?」

「まぁ、そんなところだ。ふむ、一目見ただけで何故そう分かったんだ?」

「だって、何だかおじさんかっこいいもん!かっこいい人って兵隊さんでしょ?」

その言葉を聞き、セシムは少し面食らったような顔をしたが、直ぐにその表情を崩し優しい声でジムスに語り掛ける。

「君、中々見る目があるな。どうだ、私の腕にぶら下がってみないか?」

「いいの!?」

「あぁ」

「やったー!」

そしてジムスは目をキラキラ輝かせながら肩と平行に伸ばしたセシムの腕に飛びつく。

「わあい!おじさんの筋肉すごーい!」

「そうか。だが、まだまだこんなものでは無いぞ?」

そう言ってセシムは腕にジムスをぶら下げたまま、その場でゆっくりと回転し始める。

「あはははは!!」

それが最高に楽しいのだろう。ジムスは大声で笑いながらセシムに文字通り振り回されている。

「はぁ、全くお馬鹿ね…」

その様子を見ていたスプは相変わらずのおしゃまな様子でため息をつくと傍でセシムとジムスを見ているシャルの袖をくいくいと引っ張った。

「どうしたの?」

「これ、あげるわ。ようこそのしるしよ」

そう言ってスプは小さな握りこぶしをシャルに差し出す。その下に手をやると、スプはこぶしを解いてその中にあったものをシャルの手に置いた。

「花?」

シャルの手には可愛らしい小さな白い花が乗せられていた。

「そうよ。奇麗でしょ?トゥラグっていう木の花よ」

「うん、とっても奇麗だ。ありがとう、大切にするね」

「どういたしまして」

スプはふふんと自慢げに両手を腰に当てる。その直後にジムスが満足げにセシムからぴょんと飛び降りた。

「わぁ、見て見て、スプ!真っすぐ歩けないや!」

目を回したジムスはふらふら千鳥足で楽しそうにスプに近づく。

「いつまでも馬鹿なことやってないの!ほら、いくわよ!お姉ちゃん、またお話聞かせてね!」

「バイバーイ!」

スプはそんなジムスの手を引いて、シャル達が来た道を駆け登っていった。

「愉快な子供達だ」

セシムは少し名残惜しそうに二人が登っていった道を眺めている。

「セシムさん。もしかして、お子さんがいらっしゃるのですか?あの手慣れた感じ、まさに息子と遊ぶ父親って様子でしたが…」

「いや、私は独り身だよ。こんな仕事をしていたのでは女房なんて見つけられる訳も無いからな。だが、子供は好きな性分でね。特に彼のような元気な子を前にすると自然と体が動いてしまうんだ」

(この人、何で兵士なんかやっているんだ…)

チェナとシャルはつい心の中でそう思ってしまった。

「…さ、道草食っちゃったわね。行きましょう」


時は夕暮れ時、シャルはチェナの家の前で座りながら、スプから貰った花を眺めていた。

「ちょっとシャルー。いつまで休んでるのよ、いい加減手伝いなさいよー」

口を尖らせながら埃塗れになったチェナが家から出てくる。チェナは用心棒として家を空け、そしてユウも山で目付け役として暮らしていたお陰でもぬけの殻だった彼女達の家はひどく汚れていた。その為チェナとユウは客人二人の為に今までずっと家の掃除をしていたのだ。もっとも、彼女の口ぶりから分かるように、シャルはつい先ほどまでその掃除に付き合わされていた訳だが…。

「どうしたのよ、そんな顔して」

埃を手で払いながらシャルに歩み寄ったチェナは彼の顔を訝し気に見る。

「…俺、本当にここにいてもいいんだなって」

彼がそんなことを呟いたのには訳があった。家の掃除を始めてからというもの、チェナとユウの帰りを歓迎する里の人間達が何人も彼らの家を訪れて来た。だが彼らは老若男女問わず、シャルの顔を見ても誰一人嫌な顔をせず、「初めまして」とか「これからよろしくな」といった具合で気さくに挨拶をしてくれたのだ。ルラルの言葉から察するに彼らは皆、シャルの「事情」を知っているはずだ。ルラルにあのように言われたとはいえ、それでも拒絶の言葉一つぐらいは吐かれることを覚悟していたシャルにとって良い意味で拍子抜けであった。

「正直私も皆がこんなに早くあんたを受け入れたのはびっくりだったわ。でも、だからこそ皆の覚悟を感じる。もう二度と同じ歴史を繰り返さないって覚悟をね」

「そっか…」

「だから、シャルも肩の力を抜いて過ごしてね」

「うん、ありがとう」

そう言われ、シャルは改めてスプから貰った花を優しくそっと掌で転がす。

「あら、それまだ持ってたの?」

「うん。大切にするって言ったからね」

「律儀ね、あんた。スプもきっと喜ぶわ」

やれやれといった様子で、チェナは彼の横に腰かける。

「この花の名前、何だっけ?スプに教えて貰う前にもどこかで聞いたことがあるような気がするんだよな…」

「トゥラグの花よ。ここ、ずっと甘い香りが漂っているでしょ?」

「うん」

「実はね、トゥラグの木の幹からは甘い樹液が採れて、それを煮詰めることで甘くて濃厚な蜜が出来るの。シャルも聞いたことがあるんじゃない、トゥラグの木蜜って」

「あぁ、それだ!たまに行商が運んでいるのを見るんだ。でもとても希少で高価なものだから売ってくれる人に出会ったことは無かったな」

「そうでしょうね。十分に甘い蜜を得ようとすると、手のひらに収まる程の大きさの小瓶を満たすのにも大体トゥラグの木十本分の樹液が必要なの。昔里を捨てた人々がここを新たな里に定めた理由はこの木があったからに他ならないわ。トゥラグの木から採れる樹液で蜜を作り、それを西ノ国の市で売ることでこの里は成り立っている。だからトゥラグの木は私達にとってなくてはならないものなの。…見て」

そこでチェナは懐から取り出した、人の親指程の大きさの木の実に黒い糸が括り付けられたものを見せてくれた。

「これ何?」

「これはトゥラグの木の実よ。これを乾燥させたものに糸を結んだものを里ではお守りとしていて、子供が生まれた時に親がこのお守りを作って子にあげるのが、ここを新たな里としてからの習わしなの。でも今の私にとってこれはお守り以上に家族を思い出させてくれる大切な宝物…」

家族の話を始めたチェナに、シャルは慌てて視線を落とす。彼女の内面を知ってしまった今、下手に家族の話をすれば彼女の弱い部分を刺激してしまうかもしれない。シャルはそれを恐れた。

「おーーい、二人とも。掃除は一度切り上げて食事にしよう。中に入ってきてくれ」

背後からユウの声が響く。

「はーい。行きましょ、シャル」

「あぁ」

そこで会話を切り上げるきっかけを作ってくれたユウに心の中で感謝しつつ、シャルはチェナと共に家の中に戻っていった。


夕食を取り皆が寝静まった夜、ユウは一人でルラルの待つ集会所に向かっていた。その手にこっそりとシャルから拝借した件の青い上衣を持って。集会所の前に辿り着いたユウはそっとその木の扉を叩く。そこから直ぐに、ルラルのくぐもった声が響く。

「お入りなさい」

長老の許しを得た後、ユウはそっと部屋の中に入る。ルラルは窓辺に設置された小さな机に向かい、月明かりを頼りに何かをしたためていた。

「夜分遅くに申し訳ありません」

「良いのですよ。それに今宵はとても奇麗な月夜です。こんな夜には静かな部屋で誰かと語らいたくなるというもの」

「はい、その通りですね」

「して、要件は何ですか?その手にあるものは、旅人達がよく身に着ける上衣のようですが…」

目をぱちくりさせながら、ルラルは彼の手にかかったそれを見る。

「これはシャルがここに来る前、世話になった行商から貰ったものなのだそうです」

「あら、そうなのね。その青い衣、きっと彼には良くお似合いのことでしょう」

「はい。しかしこの衣には我々の今までを覆す、驚くべきものが刻まれているのです。これを…」

ユウは件の刺繍が刻まれた部分をルラルに見えるように両手で広げた。それを一瞥した途端、ルラルの細い目が驚愕のあまり大きく見開かれる。

「これは…!」

「山に入る前、シャル達は灰の風の襲撃を受けました。その最中で彼はこの衣を失くしてしまったそうなのですが、私が彼をかつての里に招き、そしてハルのことを話した日の夜、彼が湯に浸かっている時に風と共に突如としてこの衣が彼のもとに戻ってきた。この言葉はその時に刻まれていたものです。私が里に文を送ったのは彼がこの衣を手にした夜の為、これについては記すことが出来ませんでした」

「…」

「この衣だけはどうしても他の誰の目に留まることなく真っ先に貴女にお見せしたかった故、こうして夜遅くに訪ねた次第です。…長老様、貴女はこれを、どうお思いになりますか?」

ルラルは無言でユウの手からそれを受け取ると、改めてその文字を凝視する。その表情からは彼女が常に纏う柔和な気が薄れ、小柄な彼女には似つかわしくない強かな気迫が感じられた。

「貴方も知っての通り、かつての長老を手にかけたハルがその後どのような道を歩んだのか、それを知る者は誰一人としていません。その意味では彼がまだ生きていることは勿論ですが、彼が死んだとも証明出来る者もまた、この世にいないのです」

「これを受け取ったシャルは、『群青の軽業師』がハルなのではないかと考えているようです」

「群青の軽業師…。行商達がまことしやかに噂する者、ですね?」

ルラルは視線を衣からユウに戻す。

「彼を泉に誘ったのもその軽業師であった。であればシャルがそう考えるのも無理は無い話です」

「…しかし、軽業師を見た者は皆、軽業師は若い男だったと口にしています。我々よりも遥か昔を生きた彼がそのような姿をしているとは考えにくいことだ、と私は思うのですが…」

「…ふぅん」

ルラルは一息吐いた後、ユウの手に衣を戻す。

「女神テリ・ハイラは万物を作りし神。その神秘の一部を分け与えて貰っている我々ですら、その力の全てを把握している訳ではありません。ですがかつて地導の使者と呼ばれ、その身に凄まじいまでの地導を纏った彼であれば、我々の知り得ぬところで『その先の力』に目覚めていても何らおかしいことではありません。即ち、この世の理を遥かに超えた超常の力、『地導異技』に…」

「地導異技…。しかしそれは…」

ユウの言葉にルラルはこくんと相槌を入れる。

「貴方の思っている通り、この力については不明確なことが多すぎます。太古から脈々と続く我々の歴史においても異技を持つ者についての言及は皆無に等しく、知り得る限りでそれを手にしたのはトルクただ一人ですからね。ですが一つの可能性として、あり得ない話では無いとは思いませんか?地導異技ならあるいは、この世に生まれ落ちた以上決して逃れることの出来ない結末、『死』すら超越出来てしまうのではないか、と。何より当時の長老が地導の使者と崇められていた彼を『あの場所』に導いていないとは考えられないのです」

月明かりが薄暗い部屋を冷たく照らす。その様子はそこにいる二人が抱く恐ろしい“予感“を表しているかのようであった。

「…もしハルが生きているのならば、我々の罪は未だに赦されていないのでしょうか?」

ユウはそう告げた後で、無意識にチェナと同じ問を投げてしまったことに気付く。

「それは誰にも分かりません。しかしケハノを焼いた噴火以降ハイラの山は静寂を保ち続け、再びその怒りを表す兆候はありません。…シャルという特異が現れた以上それが続くと決めつけることは誰にも出来ませんがね」

ルラルは最後に両腕を腰の後ろに回し、いやに毅然とした態度でユウにこう告げた。

「ユウ、大事なものを見せて頂いてありがとう。ですがこれはここまでの旅路でシャルを守り、温めてきた大事なものです。しっかりと彼に返してあげて下さいね。それと帰ったらこれをチェナに渡してあげて下さい。トルクから彼女に向けた文です」

「はい」

ユウは彼女が取り出した、小さい巻物を受け取る。その巻物はチェナがシャルに見せた、トゥラグの木の実のお守りで丸められていた。

「このお守りは…」

「どうやらチェナがトルクに宛てた文を渡すときに、里からのものだと分かるように仕込んだもののようです。恐らくは『彼女』自身のもののようですが、あまり感心は出来ませんね」

「…申し訳ありません。良く言い聞かせておきます」

はぁ、と大きくため息をつき、ユウはルラルに謝罪する。

「そして…今後ともどうかシャルを見守ってあげて下さい。トルクの頼りにあった『青年』。彼の言葉にはその若さには重すぎる程の悲しみとそれを覆さんとする強さがありました。しかしその強さは、目の前の巨大な困難に立ち向かおうとする強さは…ある種ハルと同じものがあります。それが歪み、そして同じ罪を重ねることになっては決してなりません。これは我々が出した答え。それを貫き通すことが同郷の者達に罪を被らせ、故郷を捨てても尚地導と共に歩むことを決めた我々の、女神に対するせめてもの誠意です。それをどうか心に刻んでおいて下さい」

「勿論です」

「それでは、お休みなさい」

一礼をした後、ユウは衣を持って静かに集会所を後にする。一人になったルラルはその場に立ち尽くし、ただ窓から月を眺めていた。

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