5, 西ノ国へ
「シャル。あんた、悪い冗談はよしなさいよ…」
あくる日、目の前に広げられたその上衣を眺めながら、チェナは震える声でシャルを窘めようとする。
「冗談じゃないさ!俺がこれを失くしたのはもう三日前の、しかも東ノ国の草原だ。それに仮に俺が今までこの上衣を隠し持っていたとしても、俺がハルのことを知ったのは昨日のこと。この一晩でこの刺繍を入れることの出来る道具も時間も無い!」
「そんなことわかってるわよ!でも、こんな、こんなこと…!」
チェナの声の震えが一層強くなる。それは明らかに驚きよりも恐怖が勝っていることの証左であった。
「…シャル君。私は決してこれが君の冗談だとは思わない。でも、だからこそだ。こんなこと…。そうだな、私もチェナと同じだ。私達はこれが恐ろしく見えてならないんだ」
そう正直に伝えたユウもまた、自身の声の震えを懸命に抑えようと一つ一つの言葉を噛み締めるかのように紡いでいる。
「君はこの衣が届けられたことで群青の軽業師がかつてのハルで、彼が君を地導に導き、そしてこの衣を君のもとに戻したと信じて止まないだろう。だが、軽業師を見たという人間は皆口をそろえて軽業師は若い男だったと言う。昨日話した通りハルはもう百年近くも前に生まれた人間だ。仮に軽業師がハルだったとしても、少なく見積もっても齢が九十近くになっているハルがそんな若い姿をしているなんて、おかしい話のはずなんだ…」
二人の怯える姿を見て、シャルはこれを二人に見せたことを後悔していた。里の人間であるチャナとユウにとってハルは忌むべき存在のはず。そんな人間の生存を示唆するようなものなど、彼らに相談しようとするのではなく昨日のうちに誰の目にも届かない場所に捨ててしまえばよかった。少し考えれば分かることのはずだ。
「…ごめんなさい。わざわざ二人を怖がらせるようなものを持ってきて…」
その罪悪感に耐え切れずシャルは素直に頭を下げる。
「いや、いいんだ。この刺繍は我々のこれまでの認識を改める為のきっかけなのかもしれない。それならこの衣は忌避の対象ではなくむしろ我々にとって必要なものだ」
「私達の認識…?それに私はハル、ってこの文字…。叔父さん、本当にハルが生きているなら私達の罪はまだ許されていないってこと…?」
これまで見せたことの無い、小さな少女のような、か細い声でチェナがユウに問う。
「それは、分からない。とにかく、この衣は里に持って行き長老達に見せなければならないものだ。シャル君、いずれにしてもこれは君のもの。里に着くまで肌身離さず持っていて欲しい。私達のことを気にする必要は無い。私も昨日君を不必要に追い詰めてしまったからね。これでおあいこだ」
「はい、ありがとうございます…」
シャルは遠慮がちにその青い上衣を引き寄せる。それを何か言いたげにじっと見つめていたチェナだったが、ユウに気にするなと言われた手前もあり、結局は何も言わずにシャルが衣を羽織る様子を見守っていた。
「うん。ちょっと大きい気もするが、中々似合っているじゃないか」
衣を纏ったシャルを見て、ユウは優しく微笑む。その顔には既に取り乱したような色は無く、まだ思うところがある表情を見せるチャナとは対照的だ。
「さぁ、シャル君も大事なものを取り戻したことだし、出立と行こう」
かつての集落を後にした一行はそこからまた二日程かけて過酷な下山を乗り越え、そして草ノ大陸に足を踏み入れた。
「わぁ…」
初めて自分の目で見る草ノ大陸を前にして、シャルはこれまでの疲れをしばし忘れ、その光景に魅入った。東ノ国のそれとはずっと大きいことが体感で分かる程の広大な草原がどこまでも広がり、青く澄んだ空と薄緑色に染まる地平線の二色が視界の殆どを埋める世界。
「綺麗でしょ?」
不意に横に立つチェナがそう語り掛けて来た。
「うん…。今まで岩ばかりの寂しい場所に住んでいたから余計にそう感じるよ」
「気に入って貰えて良かった。この果てしない草原をスイやソラに乗って走る感覚は他では得られない、私にとって特別なものなの。だから、私もこの大地が好き」
「特別かぁ」
シャルは横に佇むソラを見る。長い間ゴツゴツした山の中を歩いて来たせいもあるのだろう。広大な草原を前にしてソラもどこか興奮気味に見え、気ぶるかのように鼻を勢いよく鳴らしている。まるで「早く背に乗ってくれ。直ぐにでも走りたいんだ」とでも言っているかのようだ。
「…悪いけど、ここを皆で走るのはもう少し先だ。直ぐ近くの宿場町でセシムさんの馬を買わなくちゃいけないからね」
そんなソラの首をユウはポンポンと優しく叩く。彼の言葉の意味が分かるのか、再び鼻を鳴らしたソラはどこか不満気に見えた。
「だってさ、ソラ。もう少し待たないとね。俺も久しぶりにソラに乗りたいよ」
ユウに続き、シャルも優しくソラの首筋を撫でてやる。シャルはこれまでの旅で賢くて人懐っこいソラが大好きになっていた。チェナの言うように終わりの無い目の前の草原をソラの背に乗って駆けることが出来るならきっと心地良いだろう。そう思いながらシャルはソラの手綱を握り皆と共に歩き出した。
やがてシャル達はその日の夕暮れ近くに宿場町に辿り着いた。遠目から見ると草原の中にぽつんと存在する小さな町に見えたが、近づくに連れてかなりの規模の町であることが分かってきた。
「ここは山越えを果たし、これから草原を進む行商達と、これから山越えをしようとする行商達が多く集まり、そして物資を補給する町だ。時間があれば売られている品々をじっくりと見て回りたいところだが、生憎とそんな余裕は私達には無い」
ユウがシャルに、端的にこの宿場町の説明をしてくれる。
「ユウさん。僕、宿場町っていうものを初めて見るんですけど、ああいう天幕が町中に張られているのは西ノ国では普通のことなんですか?」
シャルが指摘したように、町は東ノ国の市の円に見られたような簡単な木造の家屋に混じり、遊牧民達が用いる円形の大きな天幕がそこかしこに張られていた。
「あぁそうだ。遊牧の文化が根本にある西ノ国では例え町と言われる場所であってもああいう天幕が多く用いられているんだ。特に西ノ国出身の行商は元々遊牧民であることが多いからね、物心ついた時から暮らしてきた生活様式のほうが安心するんだろう」
シャルにそう説明してくれたユウは、そこで足を止め今度はセシムに話しかける。
「セシムさん、お手数ですがあなたは馬を一頭購入しておいて下さい。代金はこちらをお使い下さい。こんなはした金ではあまり良い馬は手に入らないとは思いますが…」
ユウはセシムに自分が持っている持ち前の半分程の金を渡した。
「はした金なんてとんでもない、有難く使わせて頂きます」
謙遜しながらセシムはユウからその金を受け取る。彼は自分の正体を隠す為に帝の腕の象徴である黒い鎧の一切を捨てられた里に置いてきた上で、少しくたびれたユウの替えの服に身を包み、最低限の武装として持ってきた刀もユウの馬に乗せられた荷の中に隠していた。それに加え、里を出てからというものセシムはその狼のような鋭く、威圧的な気迫を一切外に出すことなく、自らを武人として悟られること無いように振舞っていた。このような「切り替え」が出来るのも彼が帝の腕たる所以だろう。
「セシムさんが馬を見ている間に私達はこれから今日泊まる宿と、里に着くまでの食糧と物資を確保しておきます。互いに用が済んだらここに集まるとしましょう」
「分かりました。では」
セシムはシャル達に軽く会釈をすると、踵を返し直ぐに目の前の人混みの中に消えていった。
「よし。それじゃあチェナ、シャル君。二人は買い出しを頼むよ。私は宿探しだ」
「分かったわ。行くわよ、シャル」
「りょうかい」
そして三人もそれぞれ別れ、それぞれの仕事にとりかかり始めた。
「ねぇチェナ。あれ、何?」
米やタハや干し肉、薪や薬、チェナの新しい刀。旅路に必要なものを一通り揃え、それらをソラに括り付けている時、シャルは目線の先にある井戸のようなものと、その周りに出来た人だかりを確かめた。小さな天幕の傍に作られたそれは確かに井戸のようだったが、シャルが見つけたそれは水を汲み出すには些か大きすぎる穴を囲うように男の背丈程のやぐらが組まれており、そのやぐらから穴に向かって一本の丸い木柱が差し込まれていた。その木柱はやぐらに据え付けられた絡繰りと連動しているようで、やぐらに登り絡繰りを動かす男達の動きに合わせて左右に回転を繰り返していた。
「あぁ、西ノ国に初めて来たのならあれを見るのも初めてか。多分あんたも見たことあるものだと思うけど、話すより直接見てみたほうが早いわ。行きましょ」
チェナはキオが指すものを一瞥すると、特段驚いたような様子を見せず、荷を載せたスイを連れて井戸のほうに歩いてゆく。シャルも遅れないように急いでソラに荷がしっかり括り付けられていることを確かめるとチェナの後に続いた。
井戸を囲う人だかりに混じった時、井戸からひんやりした冷たい風が流れてくるのを感じた。更に井戸からはその風に混じり、差し込まれた木柱の回転に伴いガリ…ガリ…という何かを削るような音が聞こえてくる。
「よしいいぞ。入ってくれ」
やぐらの上で絡繰りを動かす男達が手を止め、下にいる仲間に井戸の中に入るよう促す。やけに厚着をしたその仲間は井戸に縄梯子を投げ入れると片手に木桶を持ち、その冷たく暗い穴の中に入って行った。そして暫くして井戸から出て来た男が持つ木桶の中にあるものを見たシャルは目を丸くした。
「氷…!?」
木桶の中には黒い土が混じった半透明の氷が山のように入っていたのだ。やぐらの上に者達も下に降りて同じ木桶を手に取り、せっせと穴の中に入っては桶一杯の氷を地上に運び出している。
「草ノ大陸の地下にはね、大昔から大量の氷が地下に眠っているの」
横に立つチェナがその氷の正体について説明を始める。
「場所によって氷までの深さは様々なんだけど、特に地上に近い場所にある氷はこうして井戸を作って地下から掘り出すのよ。掘り出された氷は主に移動中の食糧の保存に使われるわ」
「へぇ。行商達がたまに荷に載せている氷はこうやって採られていたのか…」
「何だ、やっぱり知ってたんじゃない」
少し得意げに氷について説明していたチェナがむすっとした態度を見せる。
「まぁ…ね。でも採っているところを見るのはこれが初めてだよ」
「やぁ二人共。買い出しは終わったかい?」
二人が話していると背後からユウが話しかけて来た。どうやら宿は取れたらしい。
「お、あれは採氷井戸だね。あれを見るのは初めてだろう?」
「はい」
「この大地の下に眠る氷は夏の暑い時期には融けだして草ノ大陸の貴重な水源になるんだ。あの氷があるおかげで草ノ大陸はいつも青々とした草が生い茂り、また海ノ大陸と異なり年中問わず安定して水を確保出来る。草ノ大陸に生きる人間にとってあの氷は無くてはならないものなんだよ」
「そうなんですね」
シャルは次々に運び出される氷を改めて見る。掘り出された氷は沈む夕日に照らされて、キラキラと輝いている。
「さぁ、もう行こう。セシムさんももう買い物を済ませたとこだろうし」
「はい」
しかし三人が集合場所に戻ろうと井戸から離れたその時、くたびれた服を着た男が葦毛色の馬に跨りこちらに向かって来た。偶然かは分からぬがセシムも三人を見つけたようだ。しかしセシムの顔は別れた時とは違いどこか険しく、その眉間にはまた皺が刻まれている。
「皆、聞いてくれ」
その表情を崩すことなく、セシムは三人に駆け寄るとひらりと華麗に馬から降りた。優れた武人としての顔を隠し通しているセシムであるが、その身のこなしの節々までは完全に変えることは出来ないようだ。
「先程町の入り口に襲撃を受けた行商団が息も絶え絶えになって駆け込んで来た。彼らは昨日の朝この町を出立し、そして山に入ろうとした時襲われたそうだ。そして彼らが言うには襲撃してきた者の中には普通の盗賊に混じり、黒い鎧を身に着けた大男と鼠色の外套を纏った者がいたそうだ」
「…!それはつまり…」
「あぁ、最悪の状況だ。灰の風だけではない。忌々しいことに私の弟は自らを『帝の腕』だと誰の目にも分かる姿で襲撃をかけた。これでもはや風狩りの再現は不可能だろう。それどころか通商協定の前提すら覆りかねん…」
セシムの言わんとしていることが、今のシャルには分かった。ただでさえ風狩りは異例の出来事。にもかかわらずシユウが帝の腕、つまり東ノ国に属する武人として灰の風と共に行商を襲ったのだ。これが西ノ国の耳に入れば両国の対立は避けられぬだろう。
「…ユウさん。宿を取ってくれたところ大変申し訳ないのですが、直ぐにもここを出立出来ないでしょうか?」
「武人としての勘、というものですか?」
ユウは眉をひそめる。
「そうとしか言えないですが、私にはどうにも嫌な予感がしてならないのです」
「…分かりました。しかし今すぐ出発するというのはだめです。せめて夜までは休みましょう。私や貴方はともかく、馬や若い二人は疲れています。無理はさせられません」
「……」
ユウのその言葉でセシムの皺が一瞬、これまでない程深くなった。しかし
「そうですね。山を越えて来たばかりで随分と酷なことを言ってしまいました。分かりました、夜まで待ちましょう」
と落ち着いた声でそう告げる。セシムから放たれたその気迫に流石のユウも気圧されたのだろう。セシムが夜までは休むということを認めたその瞬間僅かにユウの肩から力が抜けるのが分かった。
「申し訳ないが二人とも、そういうわけだ。宿の主人には私から話を付けておく。夜まで時間が無いがしばし休息を取ろう。ついてきてくれ」
そしてユウは皆を先導し宿までの案内を始めた。
「君にそれは必要ないのではないか?」
夜まで休むだけならということで宿の主人に頼んで一つの部屋に皆で入ることになった四人。その中でシャルは一つしかない布団を有難く使って眠り、ユウは部屋の壁に歌座りの恰好で寄りかかりながら俯き、目を瞑っていた。そして暗い部屋の中、小さい明かりを使いながら買ったばかりの刀を研ぐチェナにセシムが問いかける。
「いえ、地導使いでも武器は必要なんです。例え戦いに身を置く者でも地導を使うのは本当に必要な時だけ。女神様から頂いた力をそう簡単に使ってはいけないんです」
「なるほど。私が地導を得た時も師は剣の鍛錬を怠るなと私に告げたが、それはそういう意味だったのか」
「あの、セシムさん」
チェナは刀を研ぐ手を止める。
「どうした?」
「お師匠様、つまりトルク翁は都でも息災ですか?お師匠様は軍部重臣になってから滅多に里に帰ることが出来なくなり、その近況も時々送られて来る便りでしか知ることが出来ないので…」
「そんなことか。あぁ、トルク殿は頗るお元気だ。ただ最近は軍部重臣としての役は自分には疲れたと時折ぼやいているがな」
「そうですか、それは良かった」
セシムのその言葉にチェナはほっと胸を撫でおろす。
「それにしても、君もトルク殿を師と呼ぶのだな」
「はい。里に居た頃のトルク翁は武術の先生として過ごしていたので皆お師匠様と呼んでいるんです。里に武術で彼に敵う者はいないので」
「そうか。師は故郷でも師として生きていたのだな。道理でものを教えるのが上手いわけだ。それでは君も?」
「はい。短い間ですが」
「それでは私は君の弟弟子に当たるな」
「ふふ。そうなりますね」
そう言いながら笑みを浮かべるセシムを見て、チェナも思わず微笑み返す。
(この人、凄く気難しい人だと思っていたけど、こんな子供みたいな笑い方するのね…)
そんなことを思いながら再び砥石を握ろうとするチェナ。しかし…
「…すみません、セシムさん。貴方に従うべきでした」
部屋の隅からユウの小さな声が聞こえる。どうやらチェナとセシムが感じた“それ”をユウも感じ取ったようだ。
「謝罪は必要ありません。それよりも早くシャル君を…」
そう言いながらセシムは自分の刀を抜き部屋の外を見据える。それに倣いチャナも研いだばかりの刀を握る。
「シャル君、起きるんだ…。ほら、早く…」
唯一変わらずに寝息を立てているシャルの身体をユウは強く揺する。
「う…んぅ…」
シャルが緊張感の無い声を上げた瞬間
バー――ンッ!!!
外から激しい破裂音が響き渡り、その直後に橙色の光が暗く狭い部屋を明るく照らす。
「!!?」
その音にがばっと飛び起きるシャル。それに合わせるかのようにバサッ、という音を立ててそれは窓から部屋に飛び込んで来た。鼠色の外套に包まれたそいつに踏みつけられそうになったシャルは自分でも驚くほどの反射神経で横に転がり距離を取る。
「灰の風…!」
そうシャルが声を漏らすよりも早くセシムとチャナが両側から刀を振り下ろす。しかしそいつは取り出した短刀と斧を用いてその一撃を受け止める。
「こいつ…!」
両腕が塞がった状態を好機と見たユウが懐から短刀を素早く抜き取り、背後からそいつに突き立てようとする。だがそいつはその場に屈みこむような動作と共に両腕を引っこめてセシムとチェナの刀を外すとその体勢から勢いよく斜め後ろに宙返りしユウの攻撃を躱す。更にそいつはちょうど着地地点に来たユウの後頭部を斜め上から踏みつける。
「な…私を踏み台に…!?」
後頭部を強く押されたユウは前につんのめり、その先にいるセシムとチェナに倒れ込むようにして姿勢を崩してしまう。そしてそいつは二人がユウを受け止めている隙にユウを踏みつけた勢いのまま再度とんぼ返りで窓から飛び出していった。
「私が奴を抑える!!」
ユウの身体をチェナに任せたセシムは端的にそう言い残し、灰の風を追うべく窓から外から飛び出す。それに続いてチェナとユウ、そして遅れてシャルも外に出る。
「ソラまで走れ!!」
ユウにそう言われ、走り出そうとしたその時、目の前に飛び込んで来たその光景に思わず足を止めてしまう。辺りは既に多くの家屋や天幕から火が立ち昇り、火が爆ぜる音に混じり人々の悲鳴と、下品な笑い声や雄叫びがいくつも聞こえる。間違いない、灰の風が傘下の賊たちと共にシャル達のいるこの町を襲ったのだ。その光景は故郷を焼かれた時の様子と酷似していた。
「シャル!!」
チェナの一声がシャルを現実に引き戻す。見るとチェナがソラとユウの馬を連れて二人を迎えに来てくれた。
「シャル、叔父さん、早く!!」
チェナに急かされ、シャルとユウは自分の馬に乗り込む。
「セシムさん…!」
「彼に構うな!!」
火が立ち昇る景色に目を奪われていたせいで気が付かなったが、彼らの背後では逃げ惑う者達に混じり、灰の風と斬り合うセシムの姿が見えた。しかしそのセシムを置いて、三人はまだ火の回っていない町の西側、一行が町に入って来たものとは反対にあるもう一つの入り口に全速力で駆け出していった。
「邪魔だ、帝の腕!」
「鬼畜共め、これ以上の蛮行は許さん!」
タルシュとセシムは周囲に立ち込める熱風に煽られながら激しく斬り合う。
(こいつ、想像以上の手練れだ…!)
タルシュと対峙したその時からセシムはそう確信していた。それは短刀による高速の連撃と、時折放たれる斧の一撃という、相反する二つの斬撃を組み合わせる動きは勿論の事、全身から溢れ出る気迫はその若さで纏えるようなものではなかったからだ。
斬撃の最中、セシムは不意を打つようにタルシュの顔面目掛けて肘打ちを放つ。首を逸らしてそれを躱したタルシュだったが、そのせいで被っていた頭巾が外れ、その顔が露わになる。続いてセシムは流れるような動作で袈裟切りを放つ。今度は姿勢を落としてそれを躱したタルシュはその体勢を活かし、勢いよく身体を持ち上げつつ右手の斧と左手の短刀をセシムの顎目掛けて振り上げた。セシムは素早く後ろに飛び退きそれを躱す。しかしタルシュはその動きを予期していたかのように得物を振り上げた勢いのまま空中に飛び上がり、全体重を乗せた戦斧の重撃をセシムの頭目掛けて振り下ろそうとする。しかし
「!?」
「舐めるな、小娘が」
セシムはその一撃を防ぐどころか逆に刀を捨てつつタルシュに向かって踏み込むと空中に浮かぶその足を両腕で掴み、全身を捻りながら有無を言わさずそのまま地面に叩きつけた。
「ぐっ…!」
すんでのところで背に地導を纏い、その衝撃を無効とするタルシュ。しかし間髪入れず、セシムは勢い良く拳を振り下ろす。前半身に地導を纏えばそんな攻撃そのものは防ぐことが出来る。しかし仰向けになった状態で馬鹿正直にそれを受けてしまえば次の手が完全に塞がれてしまう。
(不味い…!)
タルシュは即座に背の地導を解くと同時に高速で転がりそれを紙一重でセシムの一撃を回避すると、背の筋肉のみを使い、まるで水面から飛び上がる魚のような動きで跳ね上がって体勢を取り戻す。そしてセシムとの距離を取ると、そのまま背を向け燃え盛る炎によって作り出された暗い影の中に溶けるように姿を消した。
「…!しまった!」
死角の多い街中、それも夜のとばりが降りたそれなど彼らが最も得意とする状況だ。にも関わらず、敵の姿を見失ってしまった。だが下手に追えばこちらがやられる。セシムは刀を拾うとその場に留まり、全身の神経を尖らせてタルシュの次の一手に備えた。
(どこから来る…)
ドカカッ!ドカカッ!
その時、先程タルシュが消えた暗闇から、先程逃げた筈のユウが、セシムが買った馬を連れてこちらに駆けてくる姿が見えた。
「来るな!!戻れ!!」
しかし炎の燃える音と馬達が地を蹴る音にその声はかき消されているのか、ユウは構わずセシムとの距離を詰める。
(くそっ…!)
選択の余地は無い。セシムは刀を抜いたままユウとすれ違いざまに自分の馬の手綱を掴み、そのまま素早く鐙を蹴り、背に跨る。
敵は何を仕掛けてくる。ほんの僅かな時間とはいえ、背後を晒し完全に意識を馬に向けたのだ、セシムを狙うとしたらその瞬間しか無い。襲い来るのは矢か、以前セシムの意識を奪った毒矢か、それともタルシュ自身か。
「何も、無いだと…?」
しかしセシムの予想は大きく裏切られた。馬に乗っても敵は何かを仕掛けてくる気配は一切無かった。二人はそのまま速度を落とすことなく、まだ火の手が周っていない方向に駆ける。
(罠か…?だが、もう引き返すことは出来ぬ…)
腑に落ちぬまま、セシムは前方を見据え手綱を強く握り直した。
セシムが逃走した直後、並ぶ家屋の屋根の一つから先程までセシムが立っていた道に、一つの影が降り立つ。
「外したか…」
音も無く着地した彼女の手には、件の吹き筒が握られていた。
「不覚だった。帝の腕、精鋭の名は伊達では無かったようだ。まぁ、仕方ない。それよりも頃合いだな。邪魔な賊どもを消してくるとするか…」
敗北感を拭うかのようにタルシュは一人呟く。その時、背後の惨劇に幾つもの蹄の音と金属音、そして男の悲鳴といった新たな音が混じり始めたことに気付く。
「騎馬兵だ!西ノ国の騎馬兵だ…がぁあああ…!」
「逃げろ!逃げろ!」
耳を澄ますと新たに生まれた悲鳴は連れていた賊たちの声のようだ。どうやら、巡視をしていた騎馬兵団が街の異常に気が付き、駆け付けて来たらしい。しかし彼女は焦ることなく吹き筒をしまい、外套の頭巾を深く被り直す。
「どうやら手間が省けたようだな。どれ、礼も兼ねて西ノ国に一つ挨拶をしてきてやろう」
その言葉の後、タルシュは家屋と家屋の隙間に駆け寄ると、両側の壁を交互に蹴り上げながら瞬く間に再び屋根に上り、そのまま屋根伝いに声が響く方向に猿のような身軽さで向かって行く。
「…これは」
屋根の上からタルシュはその光景を見下ろす。つい先程まで我が物顔で人々を殺め、その身ぐるみを剝いでいた賊達はその多くが既に骸となって道のあちこちに転がされていた。その中には丁度賊達を葬ったであろう四人の西ノ国の兵士達が道の中央で一塊になりながら何かを話している。炎の立ち昇る音で会話の内容までは聞き取れないが、大方、何故突如としてこのような大規模な襲撃が起こったのかについて話しているのだろう。タルシュはそろりと短刀を抜くと、自分から最も近い位置に立つ兵に狙いを定め、屋根から飛び降りる。
「とにかく今は被害を―」
タルシュに目を付けられた兵はその言葉を最期に空中から襲来してきた彼女に地面に叩きつけられる。その衝撃で首の骨をへし折られた兵はそのまま帰らぬ人となった。
「な、何だ!?」
その動揺が命取りとなる。殺された兵のすぐ隣にいた兵は剣を抜くことすら許されず、タルシュが繰り出した斧の一撃により額を真っ二つに叩き割られ、そのまま仰向けに倒れた。
「貴様!!」
だが二人の犠牲は残った兵達に反撃を与えるだけの時間を稼いだ。二人は剣を振り上げ怒りの形相を伴いながらタルシュに突進してゆく。しかしタルシュは一人目の攻撃を容易く躱すとすれ違い様にその兵の脇を切り裂く。
「ぐっ…!」
その痛みに兵は顔を歪め、足を止めてしまう。タルシュはその隙にもう一人の兵の斬撃を深紅の刺青で彩られた二の腕で受け止める。
「なっ…!?」
刹那、その兵はそのまま喉を短刀に貫かれる。そしてタルシュは倒れ込む兵から器用に剣を奪い取ると、それを再度タルシュに斬りかかろうとしていた最後の兵に投げつける。空を裂いた剣は彼の顔面に正確無比に飛来し、兵の両眼を潰した。
「がぁああああ!!」
その激痛と一瞬にして視覚を奪われた恐怖から兵は瞬く間に戦意を喪失する。タルシュはそんな兵を容赦なく鷲掴みにすると目の前の燃え盛る家屋に勢いよく押し込んだ。兵の全身が炎に包まれた瞬間、限界を迎えたその家は凄まじい破壊音を伴って倒壊する。
「先ずは四人」
得物に付着したタルシュは血を払う。
「さぁ、今の音でどれだけ釣れるか…」
刹那、彼女目掛けて複数の矢が放たれる。タルシュはそれをまるで羽虫でも払うかのように、地導を纏った両手で全て弾き返す。
「……」
タルシュが視線を移したその先、丁度矢が飛来してきたその先には彼女の狙い通り、倒壊を聞きつけた数十人の兵達が既に次の矢をつがえ、構えている。
「上等だ」
それを見たタルシュは邪悪な笑みが浮かべると何と短刀すらしまい、両手を広げながらゆっくりとそれに歩み寄り始めた。
「な、何だ!?」
「は、灰の風…!」
矢を向けられても怯むどころかつかつかと静かに歩き出したその様に兵士達は強い恐怖を覚える。
「舐め腐りおって…!放て!」
再び数十の矢が彼女の全身に襲い掛かる。しかしそれらはその細い体を貫くことなくカツンッという軽い音と共に全て弾かれた。
「……!!」
驚愕の声を上げる者は誰一人居なかった。二度目の弾幕も容易く退けたタルシュはその足を止める事無く尚も距離を詰め続ける。
「退けっ!!奴は私が斬る!」
その時、一人の若い兵が馬に飛び乗ると前衛の弓兵達をなぎ倒すが如くの勢いでタルシュに突進していった。それを見た複数の壮年の兵達が必死の形相でそれを止めようとしたが、功を焦ったか、はたまた恐怖故かもはやタルシュを倒すことしか眼中に無いその兵はその制止を振り払い彼女目掛けて馬上から槍を突き立てる。
一飛沫の鮮血が炎に照らされた。猫のように着地したタルシュは赤く染まった斧を見せつけるように兵達に掲げる。それと同時に背後では首を切り飛ばされた兵が力なく馬から転がり落ちた。
「うわあぁぁ!!」
「斬れ、斬るんだ!!」
それを見せつけられた兵達は遂に限界を迎え、半ば錯乱状態で各々武器を抜き一斉にタルシュに斬りかかって行く―
町を脱出してから数十分後、ユウとセシムは先に脱出していたシャルとチェナに追いついた。
「叔父さん、それに、セシムさんも…!」
二人の姿を見たチェナは安堵の言葉を漏らし、シャルは溜めていた息を一気に吐き出す。
「何とか助かったな…」
流石のセシムも肝を冷やしたのか、額に溢れ出ている汗を拭う。
「早速こんなことに付き合わせてすまないな」
そしてセシムは自分の乗る馬を労ってやる。ユウの言う通り、彼の渡した金ではあまり良い馬は買えなかったのだろう。セシムの乗る葦毛の馬は年寄りで、若いソラやスイよりも荒い、ゼイゼイとした息遣いをしている。
「…申し訳ありません。すべて私の過ちです。あの時素直に貴方の助言に従っていれば…」
遅れて三人に追いついて来たユウが肩で息をしながら皆に謝罪する。
「どうかお気になさらないで下さい。あの時の貴方の判断は間違ってなどいません。私の勘などという根拠のないものよりも体力の回復を優先するのは至極真っ当なこと。それに、貴方は二度も私の命を救ってくださった」
「しかし、そうだとしても灰の風を前にしてただ逃げるという判断をしたのは恥ずべきことだ…あのまま戦っていれば…」
「そんなこと無いわ。あいつらは奇襲の達人。暗くて死角の多い夜の町中じゃまともに戦おうとしたところで返り討ちに合うだけよ。だから叔父さんは間違えてなんかいない…叔父さん、どうしたの?」
余りにも荒い息を漏らし続けるユウに、チェナは心配そうに声をかける。既に足を止めている上に自分の足で走った訳でも無いのに、ユウはまるで長距離を全力で走った後のような短く荒い息を吐き続ける。
「叔父さん…?」
「うぅ…」
そしてユウは苦しそうなうめき声を一つ上げると突然意識を失い、馬の背から勢いよく転げ落ちた。
「叔父さん!!!」
チェナの悲痛な声が辺りに響き渡る。そしてセシムとシャルがそうするよりも早くチェナはスイの背から飛び降り、急いでユウの傍に駆け寄る。
「嫌ぁ!!嘘、嘘よ叔父さん、そんな、そんなっ…!!」
「一体どうした…!?」
「…!?嘘だ…」
チェナの悲鳴の理由に、シャルはセシムよりも早く気が付いた。力なくだらりと垂れるユウの手を震えながら握るチェナの手には多量の血がべっとりとついていた。勿論それはチェナのものではなく、ユウの血だ。
「…どきなさい」
遅れてそれに気付いたセシムがチェナにユウから離れるように促す。しかしチェナはユウの手を握ったまま
「嫌!!叔父さん、叔父さん死なないで…!叔父さんまで死んだら、私…」
と聞く耳を持たない。セシムはチェナの肩を掴み無理矢理ユウから引き剥がす。
「何すんのよ!!止めて、叔父さんに何もしないで!!」
半分涙声になりながら、チェナは半狂乱気味にセシムに喰ってかかろうとする。そんなチェナとは対照的にセシムは冷静にユウの首筋に指を当てて脈を確かめた後、ゆっくりと彼の胸に耳を当てた。
「…大丈夫だ。君の叔父さんは死んでなどいない」
「…へ?」
セシムに殴り掛かろうとしてシャルに羽交い絞めにされていたチェナはその声に素っ頓狂な声を漏らす。セシムはユウの傍に膝を着いたまま、チェナが握っていた手とは反対の手を見る。
「見ろ。この血はここから溢れたものだ」
セシムの言う通りに、二人は暗がりの中ユウの手を見る。セシムが指したユウの手の甲には刃物で深く突き刺したような大きな裂傷が浮かんでいた。確かに出血は酷いが傷口はきれいで、その傷の位置もとても死に至るようなものではない。
「で、でも叔父さんは何でそんなところを…?」
「ふむ…」
セシムはそう呟くと慎重にユウの首筋に手を回す。そしてそこで何かを見つけたのか、僅かに何かを抜くような動作をした後、セシムはそれを二人に見せた。
「やはりな。これが原因だろう」
「これは…」
セシムが見せたもの、それはいつかシャルとセシムに打ち込まれた吹き矢であった。
「この矢は私も受けたことがある。先端には灰の風の技術で作られたのだろう強力な眠り薬が塗られていて、これが少しでも体に入れば直ぐに深い眠りに陥ってしまう。恐らくユウさんはこれが打ち込まれたことを悟った瞬間に短刀で己の手を切り裂きその激痛でもって睡魔に抗っていたのだろう。…大した人だ」
ユウが倒れた理由と怪我の訳を知り、シャルは息を飲んだ。きっとユウはこの吹き矢のことをセシムから聞いていたのだろう。そうでなければ咄嗟にこのような対処が出来る訳がない。いや、仮に思いついたとしても常人なら自分で自分の手を裂くという手段を躊躇いなく取れないだろう。
「叔父さん…。良かった…」
ユウの無事を知ったチェナは全身の力が抜けたようにぺたんとその場に崩れる。
「でも、何故ユウさんにこれが?灰の風と戦っていたのはセシムさんでしょう?」
シャルの問いに、セシムはその経緯を交えて答える。
「彼が私を救いに来た時、敵は私との戦闘を中断し私の闇討ちを狙っていた。しかしユウさんが来たことで手段を変えたのだろう。彼を眠らせ、それを“枷”とすることで、確実に私を始末しようとね。もし敵の思惑通りユウさんが眠らされていたとしたら、確実にユウさんも私もこの場にいなかっただろう」
それを聞き、改めて敵の、手段を択ばない冷酷さを思い知ったシャルは全身に鳥肌が立つ。
「ユウさんに打ち込まれたものが私の時と同じなら彼は暫く目を覚まさないはずだ。チェナ君なら里までの道を知っているだろうがこれ以上若い者達に無理をさせる訳にはいかない。夜までここで休むとしよう。シャル君、悪いが火を起こしてくれるか?」
「はい」
シャルは言われた通りにユウの馬に乗せられた薪を下ろそうとする。
「でも…」
「無理に眠れなくてもいい。目だけでも瞑っておけば体は休まる。夜の物見は私が務めるから君も休みなさい」
「はい…」
先程取り乱したことに負い目を感じているところもあるのだろう。チェナは借りてきた猫のように大人しくシャルの手伝いを始めた。
「貴様ら、一体何故…!?」
「……」
兵士に無言で剣を突きつけながら、タルシュは冷たい視線を向ける。彼らの周りには逃げ遅れ蹂躙された宿場町の住人と行商達、そしてゼラと共に町を襲撃した盗賊達と、駆け付けた西ノ国の兵の骸がそこら中に転がっていた。
「や、止めろ…!助け…ぐふっ…!」
命乞いも虚しく、最後の兵はタルシュに喉を突かれ絶命した。タルシュは男が死んだことを確かめると男の喉に刺したままにして刀を手放す。
「拍子抜けだな、西ノ国よ。支配に溺れ、血と戦の味を忘れたか?」
そんなタルシュに一人の人物が馬に乗り、炎の中から亡霊のように現れ、近づいてきた。その気配をいち早く察知したタルシュは素早く短刀を構えたが、その姿を見て直ぐにそれを下ろす。
「ご苦労だったな」
「来ていたのか」
「あぁ。手柄は俺が代わりに貰っておいた、悪いな」
「…流石だな」
西ノ国の軍馬から降りたゼラは小脇に抱えていたものをタルシュの足元に置く。それは彼女が殺し尽くした者達と同じ、騎馬兵の首であった。身に着けている兜には騎馬隊の長の証である青い飾りがついている。
「それで、何か目ぼしいものはあったか?」
「…あぁ。奴らがいた」
その答えにゼラは首を見つめていた視線をタルシュに移す。
「逃したのか…?」
「あの帝の腕の邪魔が入ってな」
「そうか、あの場で腕の一つでも折ってやれば良かったな」
「そちらはどうだ?使えそうな奴はいたか?」
タルシュからの問いに、ゼラはゆっくりと首を縦に振る。
「あぁ。これからじっくり育ててやれば皆良い『墨入れ』となってくれるはずだ」
「そちらは中々の収穫だったようだな。全く、『影』であるお前が居るというのに、肝心の火種がこれでは先代に申し訳が立たぬ」
自分の至らなさを恥じるかのように、タルシュは小さな溜め息を吐く。
「そう気に病むな。互いに本来の目的は果たしただろう。ここは東西両国の玄関口、それをこうまで破壊すれば灰の風復活の確かな証になる。それにあの帝の腕の働きもある、これでもう風狩りは再現出来ぬ」
「風狩り…か。あのトルクという男もこれで我々に手出しは出来ないだろうな」
「それは分からぬ。だが西ノ国を堕とした暁には、必ずあの男の首をこの手で撥ねてやる」
トルクの名を聞き、その時ゼラの瞳に憎しみという感情の炎が強く灯る。
「さて、ここでの仕事はもう終わったが、どうする。直ぐにでも立つか?」
「いや、私は少々疲れた。少しここで休むことにする」
そしてタルシュは死体が多く転がるその場に躊躇いなく胡坐をかき、背中を丸めて休息を取り始めた。
「では俺はここらを暫し散歩してくる。お前一人の仕事の成果をじっくり堪能するとしよう」
「…好きにしてくれ」
腰を下ろしたタルシュに背を向けたゼラは宣言通り、今しがたタルシュが暴虐の限りを尽くした哀れな町を散策し始めた。
暫く町を歩いていたゼラはとあるものを発見した。それはシャルが目に留めた、氷を採る為の井戸であった。もっとも井戸の中の氷を削る為のやぐらと木柱は既に崩れ、ところどころに火が燃え移っている。ゼラはそんな井戸の淵に静かに立った。
「井戸、か…」
彼がそれを氷を採る為のものだと知っていたかは分からないが、それが井戸だと分かった途端、彼の黄色の瞳に灯っていた憎しみの炎が一段と強くなった。
「俺達の命の源を潰しておいて、自分達はこんなものを掘るか…。タルシュよ、お前が何と言おうと俺は緑目を決して許しはしない。許すことなど出来るものか」
忌々しそうに井戸を一瞥した後、ゼラは踵を返しその場を後にした。
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